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〈幸運〉な縁談
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男親も女親も最初から乗り気でいる縁談なんてろくなものではないとサナは思っていた。といっても、コラジ家くらいの家柄の娘に許されているのが自由とはほど遠い選択で、〈お受けします〉か〈お断りします〉のどちらかというのは大して珍しい話ではなかったし、サナにとって最悪の相手が提示されたというわけでもないのだが。
別に嫌なわけじゃないわとサナは呟き、そのとおりに日記に書きこんだ。続きをどう書こうか迷っているうちに、ペン先に青いインクが丸く染みを作る。慌てて吸い取り紙を当てながら、赤いインクでなくてよかった、と考えてみる。
でも、赤いインク染みだったら悲しみに晒された血まみれの心を表現できたかしら。
「いいえ、やっぱりだめ。〈水底に沈んでいく〉っていう方が近いもの。青の方がいいわ」
ひとりの部屋では、心置きなくひとり言を呟ける。机の脇には少女の人形が置かれており、青い目に踊るランプの光のせいでまるで生きているような存在感を帯びてはいるが、仮に彼女が何か言えたとしてもサナに同情してくれたとは思えなかった。
サナの元へやってきてすでに十数年が経過しているというのに、わずかな経年劣化が認められる以外は新品同然の保存状態のよさ――要するに、手元に来た瞬間から今までサナはこの人形をあまり構ってこなかったのであり、〈お客さまにいただいたから〉という愛想も何もない理由でずっと同じ場所に飾っているだけなのだ。似たような理由で増えた小物や装飾品が、この部屋には他にもたくさん置いてあった。
だが、もうすぐそのすべてとお別れだ。必要なものの大半はすでに嫁ぎ先に届けられているから、今この部屋にあるものはほとんどがサナにとって不要なものなのだ。わざわざ嫁ぎ先にまで持って行きたいものなど何ひとつなかった。
サナは人形の青い瞳を覗きこんだ。もしかしたら、もらって初めてこれほど真剣に向き合ったかもしれない。人形からしたら、これ以上ないくらい屈辱だろう。好きでもないのに体裁上飾っているだけだなんて。
だから、サナに不幸を呼び込んだのかもしれない。呪いの人形の話はたくさん知っているのだから、もっと大事にしておけばよかった。
悪い人ではなさそうだし、とサナは続きを書いた。わたしは、彼の書く詩は好きだ。そこそこ年上だし、顔もよく知らないけれど、使用人を大切にする人だという評判だ。変わった人とは聞く。だけど、詩人らしく普通の人とは違う感性を持っているという意味かもしれないし。歴史のある家柄で、生活に困ることもなさそうだし。本当にありがたい話だわ。
馬鹿らしくなってサナは日記を閉じた。誰にも見せないものにまで嘘を持ち込むのは嫌だった。
無口で、愛想なしで、変人で、顔も知らない年上の詩人――これが、サナが三日後に結婚する約束の、エルド・フォーリに関して知っていることのすべてだった。
※
コラジ家は、もとは貴族の家柄でも何でもなかった。先々代の当主の妻エイネ・コラジが詩才で名を知られるようになり、詩卿として認められたことで貴族と肩を並べるようになった。ほんの百三十年前のことだ。
エイネの孫、つまりサナの実の母であるアンナは、エイネによく似た人だった。野の花を思わせる素朴でのどかな作風の詩が高く評価され、祖母と同じく詩卿となった。アンナの活躍によって〈コラジ家は女性詩人の家系〉という定評も生まれつつあったが、彼女は健康に恵まれず、サナが十歳になった年にこの世を去った。
サナは何十年後かに自分がコラジ家の当主になった暁には、曾祖母や母のような詩卿となるか、それに匹敵する知性を備えていなくてはなるまいと考えていた。父には残念ながら詩才らしいものはなかったので、サナは独学で先達の作品を味わい、見よう見まねで詩作を学んだ。
詩卿のエイネやアンナの血を引く唯一の子として、自分の代で家を没落させるわけにはいかない。半年前に父が再婚して兄ができるまで、サナは自分こそがコラジ家の跡取りなのだと信じて疑っていなかった。
義兄のレオナルドはサナより三歳年上で、大学では法律を中心に学んだという経歴を持っていた。家族になってしまえば彼が長子として扱われ、家督を継ぐという流れになるのは自然だ。もともとのコラジ家の血筋ではなくなるが、サナは別に構わなかった――家督を継がなくとも、本を読み、詩を作ることはできる。詩卿をはじめとした〈三卿〉は当主でなくてもなることができるし、当主の妹としてレオナルドを助けていけばいいだけの話だ。それならば、コラジの娘としての使命は十分に果たすことができる。いつも厳しい顔をした少し怖い義兄だったが、まさかもともと家を継ぐ予定だったサナを邪魔者扱いして追い出したりはすまいと、サナはコラジ家での自分の将来をそれなりに思い描いていたのだ。
それも、三か月前までの将来だったが。
「サナに縁談が来た」
ある日の夕食の席でのことだった。使用人に給仕されたジャガイモのスープをひと口含んだコラジ卿が、毒でも飲んだのかのようなたどたどしさで言った。義母のマリアンナは向かいの席からサナを見つめて困ったようにほほえんだ。レオナルドは何も言わなかったがちらりとサナを見て、彼女が首を横に振ると、コラジ夫妻を交互に凝視した。それで、義兄は自分と同じくこの話をたった今聞いたのだということがサナに知れた。
「どういうことですか」
驚いて口も利けないサナの代わりに、レオナルドが聞いてくれた。彼の声は低く強張っていた。普段から無口で落ち着いている義兄がどんな感情を持ってそう問いただしているのかはサナには分からなかった。
「相手は誰ですか、父上」
「エルド・フォーリ卿だよ」
コラジ卿はレオナルドの詰問調にというよりはサナの無表情に緊張している様子で言った。
「〈薄ら陽の詩人〉だ。詩卿として、彼の名を知らぬものはいない」
「あのフォーリ家よ」
すごいでしょう、とマリアンナが言った。
「アンナは、フォーリ卿の伯母さまとお友達だったでしょう? わたしもこの間お会いしたのだけど……そこからお話が出たのよ」
レオナルドはスープさじを持ち直した。
「コラジでは、その……家格が釣り合わないと思いますが、先方はなんと? 」
「サナさえよければこちらは一向に構わない、とその伯母さまがおっしゃったのよ」
「フォーリ卿は、サナよりずいぶん年上の方だったと思いましたが――」
「レオナルド」
上品に口元を拭いながら、マリアンナがにっこりしてみせた。レオナルドは黙ってスープと向き合うしかなくなってしまった。眉間の皺を緩めはしないが、彼は母親にだけは歯向かう力がないのだった。
「サナ、あなたが決めていいのよ。嫌ならもちろんお断りしますからね」
マリアンナは美しくふっくらとした面長の顔をサナに振り向けた。当然だが、サナとはまったく似ていない。義理の親子という難しくなりがちな関係のわりに自分たちは十分うまくやっているとサナは思っていたが、彼女がコラジ家の一員になってからというもの、何度ひそかに考えたかしれない。
もしそこに座っているのがマリアンナではなく、サナと同じ丸い頬の、大きな目をしたアンナだったら、と。
コラジ卿は自分の言うべきことは終わったとでもいうように、皮の硬いパンをちぎって口に詰め込んだ。忙しく口を動かす間は目の前のブドウの鉢に焦点を合わせて、娘の方を見ることはなかった。
情けないお父さま!
思い出すだにやりきれなく、サナはまた日記を開いた。あんなふうに、まともにサナの顔を見られなくなるほどのことならば言わなければいいのに。あれではサナに勘づかれては困る事情があると言っているようなものだ――たとえば、サナを自然な形でコラジ家から出したい、とか。
レオナルドが来たことで、サナは家督の相続権を剥奪された形になる。そこへ、あの縁談だ。今までそんな話は影も形もなかったのに、この頃合いで突然縁談などが湧き出てきた理由を推理するにつけ、傷つけられる痛みのようなものは感じなかったが、箱に閉じ込められて海へ投げ入れられ、ゆっくりと沈んでいくような暗い気持ちをサナは味わった。
サナを脇へ追いやったことが後ろめたくて、新しいコラジ家の平安のためにサナを厄介払いしたがっているのではないか。フォーリ家の城の奥深くにサナを閉じ込めてしまいたいのではないか。そうでなければ、なぜあんなふうにサナの顔から目を逸らしたのだろう。
マリアンナは機嫌がよかった。祝いごとに浮足立っているのか、筋金入りの名家と縁続きになる喜びからか、その表情は頬紅を差さなくても喜色によって美しく彩られていた。実際のマリアンナはサナに〈嫌なら断ってもよい〉と言って気遣ってくれてはいたのだが、サナの印象に残ったのは彼女の嬉しそうな表情ばかりだった。
マリアンナは華やかで都会的な雰囲気をまとった女性だったが、その表情にふと憂いのようなものが混じることがあるのをサナは知っていた。父とマリアンナがどのようにして結婚するまでに至ったかは定かではなかったが、レオナルドがいるということは彼女も再婚――少なくとも、レオナルドの父親とは離れなければならない事情があったのだろうし、いつも浮かべている艶やかなほほえみで本心を覆い隠さねばならないような苦労もあったのではないかとサナは思っていた。もとは舞台女優だったと聞いている。心にもない笑顔を浮かべることだって難しいことではないだろう。
だからマリアンナと初めて対面したときに、
「わたしには息子しかいなかったから、娘ができて本当に嬉しいわ」
と彼女がほほえんだときの笑顔が本物だったかどうかも、たった半年では分からなかった――すぐにサナをよそへやるからという条件でマリアンナとレオナルドはコラジ家へ来たのではないのか。マリアンナが嬉しそうなのは、血のつながらない娘がいなくなるからではないのか……といった考えは、打ち消そうにもなかなかうまくいかなかった。想像が悪い方へ膨らんでいることは分かっていた。だが、他に自分を納得させられるだけの説明が見つからなかった。家族に対する後味の悪さだけが、胸の奥に溶け残った。
あの夕食のあと、三日と空けずに結婚を承諾する返事をしたサナをレオナルドは彼らしくない何か言いたそうな顔で見ていたようだったが、確かではない。サナは義兄の視線を背で受け止めただけで、それからほとんど部屋にこもっていたので、ただでさえ分かりにくい義兄の表情の正確な意味などまったく分からなかった。
レオナルドの方も敢えて部屋を訪ねてくることはなく、ひと月前には、以前から予定されていた留学へ出かけてしまった。これで、嫁ぎ先での暮らしが落ち着くまでは義兄と顔を合わせることもない。サナにとってはありがたいことだった。なにしろ、フォーリ卿についてサナが聞いていること――無口で、不愛想で、何を考えているかよく分からない人――は、そっくりそのままサナが義兄に抱いている印象だったからだ。サナが想像する夫の顔にはレオナルドの面影がつきまとい、整っているだけに笑顔のなさが余計に凄みを引き立てるような仏頂面を思い浮かべるにつけ、なんだかやけっぱちに結婚を承諾してしまった自分の判断を悔いるはめになるのだった。
すべては自業自得だった。もっとよく考えてから返事をしてもよかったはずなのに。断ることだって、できたはずなのに。
サナはレオナルドのことを恐れていた。見かけが厳格なだけで、怒鳴られたことも、無理を言われたことも、手を上げられたこともない。だがその〈厳格そう〉な顔つきは、思いがけなく大きな障害だった。
レオナルドは本が好きなのだとマリアンナが教えてくれたので、仲良くなれるかもしれないという希望を胸に近寄ったのが初対面だった。お兄さまはどんな本がお好きなの、と話しかけたサナの方を向いて、レオナルドは眉間の皺を一瞬深くしたのだった。
「……最近は、勉強していることと関係のある本ばかり読んでいる。法律や政治、経済、歴史とか――あまり愉快ではないが、興味があれば君にも貸してあげよう」
そのときのサナにはそれ以上の勇気がなく、そうなの、ありがとう、と引き下がるしかなかった。個人的な読書内容に首を突っ込むことを嫌がられたのかもしれないし、本のことを聞いてくるなんて生意気だと思われたのかもしれない。仮にそうでなかったとしても、最初に与えられた険相はその意味を理解できないまま、サナの中にすっかり根を張ってしまったのだった。
それでも、一応兄妹として言葉を交わすくらいのことはするし、レオナルドはサナを無視することはなかったので、時間をかければいくらかマシな関係を築くこともできたはずだった。それも今や、叶わぬ願いのひとつになろうとしていたが。
悪い話ではないのだ、とサナは日記に続けた。似たようなことをここ最近毎日書き記しながら、今日もまた書いてしまった。腑に落ちていないのだろう、と思う。
悪い話ではない。それどころか、家柄を考えれば奇跡のような幸運だ。フォーリ家に嫁入りすれば王妃もかくやの暮らしぶりが保証され、周囲からは羨まれ妬まれしながら、何の苦労もなく一生を終えることになるだろう。コラジ家の家格も大いに上がるに違いなかった。
それに、フォーリ卿のことだってまったく何も知らないわけではない。サナは彼の作った詩が好きだったのだ。詩作学習の一環として多くの詩人の作品に触れたが、彼の詩はサナの琴線に何度も触れた。
〈薄ら陽の詩人〉と称されるエルド・フォーリの繊細で優美な詩には、柔らかな季節の移ろいや人間の細やかな心情が美しく表現されている。全体に寂しげな詩が多く、懊悩を流し込まれるようだといって敬遠するものもいると聞くが、一筋縄ではいかない心の在り方をうまく捉えた表現に救いを見出すものもまた多いとか。人の心を救えるほどの詩を書く人だ。悩み多い人ではあるかもしれないが、悪い人ではないのだろう――とサナは信じたかった。
そもそも、フォーリ卿の方ではサナをどう思っているのだろう? サナの母や曾祖母のことは知っていたとしても、サナのことまで知っているのだろうか? マリアンナは、フォーリ卿の伯母に当たる人との間で話が出たと言っていた――フォーリ卿の伯母、トゥッカヴェルデ夫人とは、サナも知り合いだ。彼女が乗り気だというなら、やはりそれほど悪い話だとは思えない。どうにも当人同士の気持ちが見えにくい縁談だというだけで。
もうすでに日取りまで決まってしまったので、今さらやめますというわけにもいかない。自由な恋愛を経て結婚にこぎつける夫婦の方が珍しいのだから、単なる幸運以上の条件を提示されている今回の話は受けて正解だったのだ。
結婚を承諾したのは、サナの中にある意地で覆った寂しさだ。フォーリ卿と結婚することで得られる財産上の幸福を大して望んでいなかったにもかかわらず、ふたつ返事のような形で了承した理由はそれしかない。せめて〈気の迷いだった〉というようなことを口にして身の上を嘆くようなことはすまい、とサナは心に誓った。
それがサナなりの自尊心だったし、フォーリ卿と結婚しなければどうせ次の縁談が舞い込んでくるだけなのだ。コラジ家は彼女の居場所ではなくなりつつあるのだから。
サナはそんなことをぐるぐると考えながら、挙式の日までの時間を鬱々と過ごした。
※
コラジ家からフォーリ家までは、馬車で丸二日の道のりだ。途中の宿での一泊を挟みつつ、次第に田舎らしいのどかな景色を車窓に映しながら、四頭立ての馬車は音高く進んだ。コラジ卿とマリアンナとサナの他には何も乗せない身軽な旅だった。
二日間の旅の間、三人とも言葉少なだった。コラジ卿は近頃ただでさえ無口なサナに父親らしく何か祝辞を述べようと試みては失敗していた。マリアンナは純粋に窓の外の景色を眺めて楽しんでいて、彼女の軽やかな鼻歌だけが車内の雰囲気をわずかに和らげていた。サナは父のまなざしにも義母の鼻歌にも気づかず、薄青い空にべったりと浮いた、紫色の雲を遠く見上げていた。雨雲だ。ときおり、暗い色の中に金や銀の雷らしいものがはじける。あれは天の矢じりに違いないとサナは思った。許されざる不実の上に、天が与える罰の矢だ。だとすれば、そのうちに彼女の頭に撃ち落とされるかもしれない。
フォーリ家には午後三時頃の到着が予定されていた。ところが、フォーリ家の手前にある森に差し掛かったところで一行は雨に降られ、視界不良とぬかるんだ道のために進行は遅れざるを得なかった。ようやく森を抜ける頃になっても雨はまったく止まず、それどころかどんどん強くなって、車窓を滝のように流れた。
「見えましたよう! 」
風でほとんど聞こえない御者の声が聞こえたとき、車内からもフォーリ家の城が見えていた。海へ向かって突き出した崖の上に佇む城は、雨にけぶっているせいで黒っぽい巨大な影になっていた。明かりの入った窓が、魔物の目のように光っている――サナは頭を振って不吉な想像を振り払った。
馬車が近づいていくと背の高い正面の扉が内側から開いて、中から執事らしい装いの紳士が現れた。手に傘を持っている。彼の背後では、フォーリ家の使用人たちが手に手に金だらいや手拭いを持ってずらりと控えていた。
「お足元が悪い中、ようこそおいでくださいました」
コラジ家の一同が馬車から玄関の中へ駆け込むのを待って、紳士は一礼した。彼自身も、サナたちに傘を差しかけていたせいで整えた口髭の先から水を滴らせていた。
「このようなお見苦しい姿でのお出迎えをお許しください。主人一同、今日この佳き日を心待ちにしておりました」
「まさかこんな天気に当たるとは」
コラジ卿は近くにいた女中から手拭いを受け取り、金だらいのお湯に浸したそれで顔を拭いて、ようやく生き返ったというような声を出した。執事頭は申し訳なさそうに眉を下げた。
「この辺りの地域では、季節柄激しい通り雨が降りやすくなっております。あと一時間もすればやんでしまうでしょうが、道中さぞご不便でしたでしょう」
「あら、こんなに丁寧にお迎えいただいたんですもの。なんてことないわ」
マリアンナはまず愛用のハンカチを使おうとしたが、濡れていて役に立たないと分かると差し出された手拭いで品よく髪を押さえた。こちらでお召し替えをと促されたコラジ夫妻は、また後で、という言葉をサナに残してそのままどこかへ案内されていった。
「お嬢さま、お寒くありません? 」
女中頭らしい女性がサナの髪を手拭いで優しく押さえてくれた。サナは体にべったりと巻きつく薄手のショールを外した――どうやら、自分の夫になるらしい人はこの場にはいないようだと見当をつけながら。
「わたしは大丈夫です。……でも、あの、エルンスト――うちの御者が来たら、温かいものを出してくださる? 彼だけずっと外にいたから……」
女中頭はこれを聞いてふっくらとした頬をほころばせた。
「あら、まあまあ、もちろんですとも! お任せくださいましね。……ドナ、お願いできるかしら」
「はい、かしこまりました! 」
小柄な女中が元気よく応え、サナに向かっておさげの頭をぴょこんと下げてから慌ただしくその場を去った。別の女中が近づいてきて、そわそわした様子でサナに言った。
「あの、おく――いえ、お嬢さま。よろしければ、こちらの肩掛けをお使いくださいまし。お支度までの間にお風邪を召されては大変ですから」
「まあ、ありがとう。それじゃ、こっちはお願いできるかしら」
サナは濡れたショールを彼女に渡し、代わりに温かい肩掛けを受け取った。サナとしては行き届いた使用人との特に何ということもないやり取りだったが、サナに肩掛けを渡した当人はなぜか真っ赤になって、お役に立てて光栄です、とかなんとかもごもご呟きながら下がった。その目にうっすら涙さえ浮かんでいるので、サナは驚いた。女中頭は執事頭と顔を見合わせてほほえみあった。
「その子はアデリアと申しまして、ドナと一緒に新しく女中になったばかりなんですの。とても緊張しているようなので、お嬢さまにお優しくしていただいて嬉しかったのでしょう」
アデリアはこくこくと忙しく頷いて女中頭の言葉を肯定した。サナはアデリアが渡してくれた肩掛けを羽織った。彼女はフォーリ家に初めて足を踏み入れたが、フォーリ家の使用人たちも初めてサナと対面するのだ。この先長く一緒に暮らす相手と顔を合わせる――立場は違うが、彼らと自分とは似たような状況にあるのだとサナは気がついた。
サナはアデリアにほほえんでみた。気が休まらないのは自分だけではないのだと思えば、息が楽になったような気がした。そうだ。わたしは緊張していたのだ。
「わたしもとても緊張しているの。肩掛けをありがとう。なんだかほっとしたわ」
「長旅でお疲れでもあるのでしょう。無理もございません」
執事頭が几帳面に言い、使い込まれた懐中時計を開いた。それから女中頭に言った。
「お式までにはまだ時間がありますので、一度温かいお茶をお持ちいたしましょう。まずはゆっくりとおくつろぎいただき、それからお支度を。マルタさん、よろしくお願いします」
「ええ、手配してありますよ。……それではお嬢さま、こちらですわ」
女中頭のマルタはふっくらとした手でサナを促した。
玄関ホールの左にある扉を入ると、その先には長い廊下が続いていた。右側の窓の外は中庭だろうか、散歩道のある森が広がっているのが見える。城はこの中庭をぐるりと囲うように建てられているらしかった。
どこからか、大勢が歓談しているような声が遠く聞こえてくる。参列者がもう集まっているようだ。
「わたしたちが最後だったのかしら? 」
サナが呟くと、マルタが頷いた。
「ええ、でもみなさまこの雨ですから、もともと伺っていた時刻からは遅れていらしたんですの。王都の方面は特にひどい雨でしたし、こうして無事お迎えできて何よりでしたわ。……さあ、お嬢さま。こちらのお部屋です」
マルタはある部屋の扉を開け、サナを中へ促した。暖炉には温かい火が燃えている。中には花嫁の着つけを手伝う名誉を授けられた若い女中が待っていて、サナが入るなりいそいそとお辞儀した。
「ようこそ、サナお嬢さま。長椅子にどうぞ」
「任せても大丈夫ね、二コラ。まだ時間があるから、まずゆっくり休んでいただいて。ジュリオさんがお茶を持ってきてくれるから。それからお支度をお願いね」
マルタは上から下まで点検するような目つきで二コラを見て釘を刺した。二コラは道具箱から櫛や香油の瓶を次々に取り出し、鏡台に並べながら返事をした。
「平気よ、母さん。任せといて」
「お仕事中は母さんと呼んではだめと言ったでしょう! お嬢さまに失礼ですよ」
「はいはい、お任せください」
マルタは怖い顔をしたが、サナが笑ったのでそれ以上娘を叱らずに部屋を出た。ニコラはサナに一瞬だけぱちんとウィンクしてみせた。
「すごい雨でしたでしょう。お寒くありません? 」
「いつも話すように、お話してみてくれない? 」
サナが頼むと、ニコラは緑色の目をまんまるく見開いた。
「えっ……えーっと、それで構いませんこと? じゃないや、それでいいの? 」
「緊張しているときに、気楽に話せる相手がいるのはありがたいことだもの。あなたならマルタさんに叱られても大丈夫そうだし……もし叱られても、あなたのせいじゃないわ。できる範囲でいいから、わたしのことをお友達だと思って話してみてくれないかしら」
「ああ、確かに。その方がお互いやりやすいかもね。あたしたちとしても、お嬢さまには――サナには、この城のことを好きになってもらいたいからさ。あたしたちだって、好きな人の下で働いた方がいいに決まってるし。そういうのって、立場は関係ないからね」
ニコラは最初の動揺が去ってしまうと、けろりと気を取り直して明るく笑った。
「それじゃ、あたしのことはニッカと呼んでほしいな。みんなそう呼ぶからさ。パイ焼きのニッカ、マルタの娘ニッカ、料理番の妻ニッカ。……そう、あたし女中じゃないんだよ、本当は」
ニコラはマルタたちが着ていたのと同じ型の、窮屈な紺のお仕着せを見下ろした。リボンやレースがあしらわれた上質な女中用のドレスは、確かに彼女にはあまり似合っていなかった。
「器用だからって、支度だけお手伝いするようにって呼ばれたんだ。サナみたいな人が相手でよかった。もっと〈お嬢さま〉みたいな人だったら……」
このときドアが三度叩かれ、対応したニコラが銀の盆を受け取って戻ってきた。カップがいくつかと、お茶請けを乗せた皿、銀製のポットが一緒に乗せられている。ニコラはポットの蓋を取り、中を覗いた。
「薬草茶だ。中庭で取れたやつ」
「あのお庭、薬草が採れるの」
「うん。これ、飲むと落ち着くよ」
ニコラはカップを取ってサナにお茶を入れてくれた。紅茶などとはまったく違うが、とてもいい香りがした。ニコラはちゃっかり自分の分も入れ、サナの隣に腰かけた。そして、ちょっと首を傾げた。
「このお茶が出てくるなんて珍しいな。これね、材料が採れる時期が決まってるから貴重なんだけど、高級なものじゃないからさ。お客さん用のお茶にはしないんだけど……サナはお客さんじゃなくて奥さまになる人だからかな」
「わたしが緊張してるって言ったから、特別に出してくれたんじゃないかしら」
サナはアデリアとのやり取りをかいつまんでニコラに説明した。ニコラは納得したように頷いた。
「それで、サナの肩掛けはちゃんと乾いてるんだね。うちの城のやつだったんだ」
「そうなの。アデリアが渡してくれたのよ」
「アデリア、かわいそうだったんだよ」
ニコラはサナにお茶請けの焼き菓子をすすめながら言った。
「サナたちが着くより早く、招待客の人たちをお迎えしたんだけどさ。アデリアは入ったばかりだから、お客さんに手拭いとか肩掛けを渡す係なんだけど――あの子に八つ当たりしたお嬢さまがいたらしいんだよね。それも、ひとりじゃなかったらしくて」
「八つ当たり? どうして? 」
「外が雨だったっていうのもあるだろうし、長旅で疲れてたっていうのもあるだろうし。アデリアもまだ慣れてないから、ちょっとモタモタしてたらしくて……サナと仲良しだと悪いから、今日はたまたま疲れてて機嫌が悪かったんだってことにしとくね。でアデリアは、奥さまもあんな人だったらどうしよう、ってここで泣いてたわけ」
「まあ、そうだったの……」
だからアデリアはサナが普通に言葉をかけただけで泣いたのだ、とサナは悟った。だが、そうなるとその高慢な〈お嬢さま〉は、サナかフォーリ卿の身内の者ということになるが……。
サナには、〈お嬢さま〉の親戚がふたりいる。ひとりは、モンテココに住んでいるイライザ。もうひとりは、フィーコ・ディ・マーレに住んでいるアリーチェだ。ふたりともサナの父であるコラジ卿の姪で、サナとはほとんど歳が変わらないにもかかわらず、親戚とは到底思えないくらい似たところがなかった。イライザはとにかく気が強く、自分の主張を曲げたことがない。アリーチェは可愛らしく、自分でもその美点をよく分かっていて、とろけるような笑顔で自分を売り込むのがやたらと上手な娘だった。
不思議なことに、それこそ水と油のように見えるイライザとアリーチェの仲は悪くなく、親戚の集まりで三人寄ってはじかれるのはサナと決まっていた。性格がとことん合わないのだから当然だったのかもしれないが、とにかく話題が合わなかったのだ――サナが提供する話題はふたりには退屈らしかったし、それはサナにとっても同じことだった。そして、ふたりはサナに比べて自分の家柄や身分を鼻にかけているようなところがあり、サナから見ればわがままだと感じられるような振舞いをすることもよくあった。
あのふたりなら、雨に濡れたことで使用人に八つ当たりしたとしても不思議はない。だが、サナは
「たまたま疲れてたってことにしとくね」
と言ってくれたニコラの気遣いがありがたかった。さほど仲がいいわけではないにせよ、ふたりともサナの結婚式のために旅してきてくれたことに変わりはないのだから。
ニコラはサナが薬草茶でゆっくりと体を温めている間にサナが身に着ける飾りやドレスを準備した。今晩のサナのドレスは、母のアンナが結婚したときの花嫁衣装だ。淡い萌黄色が美しいドレス――いつかこれに袖を通すのだ、とかつて思っていた頃、その〈いつか〉がこうなっていようとは、過去のサナは夢にも思っていなかった。
「さて、そろそろお支度していこうかな。先に髪を結っちゃうから、そのままじっと座っててくれればいいよ」
ニコラが言い、サナの髪を手に乗せて唸った。
「きれいな髪だねえ! 黒い絹糸みたい」
「まあ、本当? 」
「ほんとほんと。旦那さまも黒髪だけど、あの人は見るからにくせっ毛だからさ」
ニコラは話しながらも手を止めず、編んだり止めたり結んだりしてあっという間にサナの髪を結いあげた。実に見事な手さばきだったのだが、サナはふいに出てきた〈旦那さま〉につい気を取られて二コラの作業をほとんど見ていなかった。
「――ねえ、ニッカ。フォーリ卿って、どんな方なの? 」
「どんな方……そうだなあ」
ニコラは仕上げの髪飾りをいくつかあてがってみている最中だったが、よほど難しい質問だったのかちょっと手を止めた。
「うーん……少なくとも、悪い人じゃないけど……」
「怖い方? 」
即答いたしかねるといったニコラの様子に思わず気が急いて、サナは質問の仕方を変えた。ニコラは、今度はすぐに首を横に振った。
「怖い人じゃないよ、ちっとも。うん、その心配はいらない。優しい人だよ。誰に対しても丁寧だし――そういう意味じゃ、サナと似てるかもね」
「わたしと? 」
「そう。なんでサナが奥さまに選ばれたか、ちょっと分かった気がする。あんたと歳はちょっと離れてるけど、助平ったらしい脂下がりとは違うし、いばりくさった高慢ちきでもない。……ただ、敢えて言うならちょっと……〈感じやすい〉っていうのかな。なんて言うの、そういう性格? 」
ニコラが化粧をしてくれているので、口紅が唇を離れるのを待ってサナは言った。
「〈繊細〉かしら? 」
「そうそう、それ。そんな感じ。ちょっとしたことでも長い間考えごとして、永遠に悩んでるような人なんだよね。だからあたしたちも細かいところにまで気を遣ってもらってるってところはあるけど……見てると、ちょっと心配になることはある」
ニコラはサナを立たせてドレスを着せ、飾りをつけて仕上げた。このとき、支度が終わるのを見計らったかのように戸がノックされた。マルタが花嫁を迎えに来たのだ。最後にひとつ、早口でサナは聞いた。
「あなたはフォーリ卿のこと、好き? 」
「うん」
ニコラも早口で答えた。
「不思議な人だけど、人に嫌われるような人じゃないしね」
「お支度はいかがです? 」
許しを得て顔を覗かせたマルタは、ニコラの〈作品〉を見て乙女のような華やいだ声を上げた。サナもずっと見ていたようで実はちっとも見ていなかった鏡に改めて対面して、思いがけない出来にびっくりした。口紅を引いた顔に、萌黄色のドレス。見慣れない姿ではあったが、自分とは思えないほど美しかった。これはわざわざ支度係に呼ばれるわけだ。
「上手ねえ」
サナは感嘆し、心からの称賛を贈った。
「お嬢さまは、もとから可愛らしくていらっしゃるから」
ニコラはまんざらでもなさそうに言った。その口元に秘密を分かち合うもの同士のやり取りに特有のにやりとした表情があったことには、秘密の相方であるサナしか気づかなかった。
「本当にすばらしいわ。なんてお美しい! ニコラ、あなたも着替えていらっしゃい。マッシモを手伝ってね――ラルフがぐずってるから」
「えっ、本当? サナお嬢さま、これで失礼いたします。また後ほど」
ニコラは走り方を装うのをすっかり忘れて出て行ってしまった。マルタはサナが裾を踏まずに済むように、実に上品な仕草でドレスのひだを寄せた。
「さあ、大広間へまいりましょう。お式がはじまるまでに、一度みなさまにご挨拶を」
フォーリ家の大広間はコラジ家の客間を三つ繋げたくらいに広々としていたが、招待客の多さはサナにそれを気づかせないほどだった。
コラジ家、フォーリ家双方の主だった親類縁者たちだ。大広間の中は彼らの談笑で温まっており、華やかな祝福の気配に満ちていた。
フォーリ家の執事頭は実に優秀で、給仕されるものは提供時間や温度まで完全に管理されており、あと一時間もすればぽつぽつと現れるであろう酒毒の犠牲者は今のところひとりもいなかった。
サナはマルタに手を引かれて大広間に足を踏み入れた。招待客たちはサナが入ってきたのに気がつくと一瞬ぴたりと沈黙し、誰かの
「おめでとう」
を皮切りに、大きな祝福の拍手が起こった。物腰の柔らかな初老の婦人が静かに近づいてきて、サナに親しく手を差し出した。今回の縁談を発案したトゥッカヴェルデ夫人だ。サナはもともとこの人のことが好きだったので、彼女のほほえみを見て心から嬉しく思った。
トゥッカヴェルデ夫人はにこやかに言った。
「ごきげんよう、サナ。しばらく見ないうちに、見違えるほどきれいになって。……そのドレス。アンナを思い出すわ」
「お母さま、おきれいだった? 」
「ええ、もちろん。まるで妖精がそこにいるみたいに可憐でね――でも、それはあなたにも言えることよ」
すでに名を知る人も初めて会う人も、みんながサナに話しかけ、この日のありようをどんなことでも褒めちぎった――今夜は本当に、月がきれいね。テルロ叔父さん、今日は痛風がだいぶいいとか。
コラジ夫妻は遠巻きに娘を見守っていた。コラジ卿は涙ぐみ、まるで睨むような顔つきになっているのをマリアンナに笑われている。サナは会場の雰囲気につられるように気持ちが明るくなるのを感じた。これだけの人が、今日この日を祝福してくれている。ここからどう頑張っても、悪い方になど転がっていきそうにない!
サナは気楽になり、小さなことにも声を立てて笑った。特に愉快だったのは、イライザとアリーチェだ。彼女たちは型こそ違ったがふたりともが桃色の派手なドレスを用意してきてしまい、おまけにサナのドレスの色合いをちょうど引き立てる格好となり、傍から見ても実に間抜けなありさまだったのだ。
せっかく来てくれたのにと思わないでもなかったが、普段よりずっと気安く、サナは笑った。初めてこのふたりのいとこと打ち解けられるような気すらした。
「そんなに笑わなくてもいいでしょ」
とイライザが言った。どちらかというと地味な顔立ちの彼女には、残念ながら桃色はまったく似合っていなかった。アリーチェの方は甘やかな顔立ちのおかげでよく似合っていが、いつもの笑顔はどこへやら、すっかりへそを曲げてぶすくれてしまった今の彼女は、お世辞にも魅力的とは言えなかった。
「ごめんなさいね」
サナは謝ったが、いとこたちなりの冗談かもしれないとこのときは思っていたので、本気ではなかった。冗談でなければ、花嫁よりも目立ちかねないドレスをふたりが本気で選んできたということになってしまうではないか……。
「だって、いつもおしゃれなあなたたちがドレスのことで喧嘩になるなんて思わないじゃない……」
「あら、わたしたちそんなことより……」
アリーチェが何か言いかけたのを、イライザが小突いてやめさせた。サナも特に聞き返さなかった。アリーチェは、もともと口が軽い。余計なことを喋りかけて誰かに止められることは昔からしょっちゅうあったし、サナは今、つい数時間前まであんなに気が塞いでいたのが嘘のように朗らかな気分だったのだ――。
「……お嬢さま」
影のようにさりげなく、執事頭のジュリオがそばへやってきた。サナは彼の登場を喜んだが、ジュリオの顔つきはなぜかひどく暗かった。サナは笑顔を少し引っ込めた。
「……どうなさったの? 」
「大変申し訳ございません。しかし旦那さまが、その……急にお熱を」
「お加減は? ずいぶんお悪いの? 」
サナは夫になるべき人の容態を案じたが、お部屋はどこなの、と続けようとした声はアリーチェに遮られた。
「それじゃあ、お式は!? もしかして中止かしら! 」
一瞬のことだったが、このときイライザとアリーチェの顔を見たサナは、彼女たちに身内らしい愛情を感じていた自分をどうかしていたんじゃないかと思った。同時に、この縁談に関して初めて、自分の境遇を嘆きたくなった。
式は予定通りに行われた。しかし新郎のエルド・フォーリは、とうとう一度もサナの前に現われなかったのだ。
別に嫌なわけじゃないわとサナは呟き、そのとおりに日記に書きこんだ。続きをどう書こうか迷っているうちに、ペン先に青いインクが丸く染みを作る。慌てて吸い取り紙を当てながら、赤いインクでなくてよかった、と考えてみる。
でも、赤いインク染みだったら悲しみに晒された血まみれの心を表現できたかしら。
「いいえ、やっぱりだめ。〈水底に沈んでいく〉っていう方が近いもの。青の方がいいわ」
ひとりの部屋では、心置きなくひとり言を呟ける。机の脇には少女の人形が置かれており、青い目に踊るランプの光のせいでまるで生きているような存在感を帯びてはいるが、仮に彼女が何か言えたとしてもサナに同情してくれたとは思えなかった。
サナの元へやってきてすでに十数年が経過しているというのに、わずかな経年劣化が認められる以外は新品同然の保存状態のよさ――要するに、手元に来た瞬間から今までサナはこの人形をあまり構ってこなかったのであり、〈お客さまにいただいたから〉という愛想も何もない理由でずっと同じ場所に飾っているだけなのだ。似たような理由で増えた小物や装飾品が、この部屋には他にもたくさん置いてあった。
だが、もうすぐそのすべてとお別れだ。必要なものの大半はすでに嫁ぎ先に届けられているから、今この部屋にあるものはほとんどがサナにとって不要なものなのだ。わざわざ嫁ぎ先にまで持って行きたいものなど何ひとつなかった。
サナは人形の青い瞳を覗きこんだ。もしかしたら、もらって初めてこれほど真剣に向き合ったかもしれない。人形からしたら、これ以上ないくらい屈辱だろう。好きでもないのに体裁上飾っているだけだなんて。
だから、サナに不幸を呼び込んだのかもしれない。呪いの人形の話はたくさん知っているのだから、もっと大事にしておけばよかった。
悪い人ではなさそうだし、とサナは続きを書いた。わたしは、彼の書く詩は好きだ。そこそこ年上だし、顔もよく知らないけれど、使用人を大切にする人だという評判だ。変わった人とは聞く。だけど、詩人らしく普通の人とは違う感性を持っているという意味かもしれないし。歴史のある家柄で、生活に困ることもなさそうだし。本当にありがたい話だわ。
馬鹿らしくなってサナは日記を閉じた。誰にも見せないものにまで嘘を持ち込むのは嫌だった。
無口で、愛想なしで、変人で、顔も知らない年上の詩人――これが、サナが三日後に結婚する約束の、エルド・フォーリに関して知っていることのすべてだった。
※
コラジ家は、もとは貴族の家柄でも何でもなかった。先々代の当主の妻エイネ・コラジが詩才で名を知られるようになり、詩卿として認められたことで貴族と肩を並べるようになった。ほんの百三十年前のことだ。
エイネの孫、つまりサナの実の母であるアンナは、エイネによく似た人だった。野の花を思わせる素朴でのどかな作風の詩が高く評価され、祖母と同じく詩卿となった。アンナの活躍によって〈コラジ家は女性詩人の家系〉という定評も生まれつつあったが、彼女は健康に恵まれず、サナが十歳になった年にこの世を去った。
サナは何十年後かに自分がコラジ家の当主になった暁には、曾祖母や母のような詩卿となるか、それに匹敵する知性を備えていなくてはなるまいと考えていた。父には残念ながら詩才らしいものはなかったので、サナは独学で先達の作品を味わい、見よう見まねで詩作を学んだ。
詩卿のエイネやアンナの血を引く唯一の子として、自分の代で家を没落させるわけにはいかない。半年前に父が再婚して兄ができるまで、サナは自分こそがコラジ家の跡取りなのだと信じて疑っていなかった。
義兄のレオナルドはサナより三歳年上で、大学では法律を中心に学んだという経歴を持っていた。家族になってしまえば彼が長子として扱われ、家督を継ぐという流れになるのは自然だ。もともとのコラジ家の血筋ではなくなるが、サナは別に構わなかった――家督を継がなくとも、本を読み、詩を作ることはできる。詩卿をはじめとした〈三卿〉は当主でなくてもなることができるし、当主の妹としてレオナルドを助けていけばいいだけの話だ。それならば、コラジの娘としての使命は十分に果たすことができる。いつも厳しい顔をした少し怖い義兄だったが、まさかもともと家を継ぐ予定だったサナを邪魔者扱いして追い出したりはすまいと、サナはコラジ家での自分の将来をそれなりに思い描いていたのだ。
それも、三か月前までの将来だったが。
「サナに縁談が来た」
ある日の夕食の席でのことだった。使用人に給仕されたジャガイモのスープをひと口含んだコラジ卿が、毒でも飲んだのかのようなたどたどしさで言った。義母のマリアンナは向かいの席からサナを見つめて困ったようにほほえんだ。レオナルドは何も言わなかったがちらりとサナを見て、彼女が首を横に振ると、コラジ夫妻を交互に凝視した。それで、義兄は自分と同じくこの話をたった今聞いたのだということがサナに知れた。
「どういうことですか」
驚いて口も利けないサナの代わりに、レオナルドが聞いてくれた。彼の声は低く強張っていた。普段から無口で落ち着いている義兄がどんな感情を持ってそう問いただしているのかはサナには分からなかった。
「相手は誰ですか、父上」
「エルド・フォーリ卿だよ」
コラジ卿はレオナルドの詰問調にというよりはサナの無表情に緊張している様子で言った。
「〈薄ら陽の詩人〉だ。詩卿として、彼の名を知らぬものはいない」
「あのフォーリ家よ」
すごいでしょう、とマリアンナが言った。
「アンナは、フォーリ卿の伯母さまとお友達だったでしょう? わたしもこの間お会いしたのだけど……そこからお話が出たのよ」
レオナルドはスープさじを持ち直した。
「コラジでは、その……家格が釣り合わないと思いますが、先方はなんと? 」
「サナさえよければこちらは一向に構わない、とその伯母さまがおっしゃったのよ」
「フォーリ卿は、サナよりずいぶん年上の方だったと思いましたが――」
「レオナルド」
上品に口元を拭いながら、マリアンナがにっこりしてみせた。レオナルドは黙ってスープと向き合うしかなくなってしまった。眉間の皺を緩めはしないが、彼は母親にだけは歯向かう力がないのだった。
「サナ、あなたが決めていいのよ。嫌ならもちろんお断りしますからね」
マリアンナは美しくふっくらとした面長の顔をサナに振り向けた。当然だが、サナとはまったく似ていない。義理の親子という難しくなりがちな関係のわりに自分たちは十分うまくやっているとサナは思っていたが、彼女がコラジ家の一員になってからというもの、何度ひそかに考えたかしれない。
もしそこに座っているのがマリアンナではなく、サナと同じ丸い頬の、大きな目をしたアンナだったら、と。
コラジ卿は自分の言うべきことは終わったとでもいうように、皮の硬いパンをちぎって口に詰め込んだ。忙しく口を動かす間は目の前のブドウの鉢に焦点を合わせて、娘の方を見ることはなかった。
情けないお父さま!
思い出すだにやりきれなく、サナはまた日記を開いた。あんなふうに、まともにサナの顔を見られなくなるほどのことならば言わなければいいのに。あれではサナに勘づかれては困る事情があると言っているようなものだ――たとえば、サナを自然な形でコラジ家から出したい、とか。
レオナルドが来たことで、サナは家督の相続権を剥奪された形になる。そこへ、あの縁談だ。今までそんな話は影も形もなかったのに、この頃合いで突然縁談などが湧き出てきた理由を推理するにつけ、傷つけられる痛みのようなものは感じなかったが、箱に閉じ込められて海へ投げ入れられ、ゆっくりと沈んでいくような暗い気持ちをサナは味わった。
サナを脇へ追いやったことが後ろめたくて、新しいコラジ家の平安のためにサナを厄介払いしたがっているのではないか。フォーリ家の城の奥深くにサナを閉じ込めてしまいたいのではないか。そうでなければ、なぜあんなふうにサナの顔から目を逸らしたのだろう。
マリアンナは機嫌がよかった。祝いごとに浮足立っているのか、筋金入りの名家と縁続きになる喜びからか、その表情は頬紅を差さなくても喜色によって美しく彩られていた。実際のマリアンナはサナに〈嫌なら断ってもよい〉と言って気遣ってくれてはいたのだが、サナの印象に残ったのは彼女の嬉しそうな表情ばかりだった。
マリアンナは華やかで都会的な雰囲気をまとった女性だったが、その表情にふと憂いのようなものが混じることがあるのをサナは知っていた。父とマリアンナがどのようにして結婚するまでに至ったかは定かではなかったが、レオナルドがいるということは彼女も再婚――少なくとも、レオナルドの父親とは離れなければならない事情があったのだろうし、いつも浮かべている艶やかなほほえみで本心を覆い隠さねばならないような苦労もあったのではないかとサナは思っていた。もとは舞台女優だったと聞いている。心にもない笑顔を浮かべることだって難しいことではないだろう。
だからマリアンナと初めて対面したときに、
「わたしには息子しかいなかったから、娘ができて本当に嬉しいわ」
と彼女がほほえんだときの笑顔が本物だったかどうかも、たった半年では分からなかった――すぐにサナをよそへやるからという条件でマリアンナとレオナルドはコラジ家へ来たのではないのか。マリアンナが嬉しそうなのは、血のつながらない娘がいなくなるからではないのか……といった考えは、打ち消そうにもなかなかうまくいかなかった。想像が悪い方へ膨らんでいることは分かっていた。だが、他に自分を納得させられるだけの説明が見つからなかった。家族に対する後味の悪さだけが、胸の奥に溶け残った。
あの夕食のあと、三日と空けずに結婚を承諾する返事をしたサナをレオナルドは彼らしくない何か言いたそうな顔で見ていたようだったが、確かではない。サナは義兄の視線を背で受け止めただけで、それからほとんど部屋にこもっていたので、ただでさえ分かりにくい義兄の表情の正確な意味などまったく分からなかった。
レオナルドの方も敢えて部屋を訪ねてくることはなく、ひと月前には、以前から予定されていた留学へ出かけてしまった。これで、嫁ぎ先での暮らしが落ち着くまでは義兄と顔を合わせることもない。サナにとってはありがたいことだった。なにしろ、フォーリ卿についてサナが聞いていること――無口で、不愛想で、何を考えているかよく分からない人――は、そっくりそのままサナが義兄に抱いている印象だったからだ。サナが想像する夫の顔にはレオナルドの面影がつきまとい、整っているだけに笑顔のなさが余計に凄みを引き立てるような仏頂面を思い浮かべるにつけ、なんだかやけっぱちに結婚を承諾してしまった自分の判断を悔いるはめになるのだった。
すべては自業自得だった。もっとよく考えてから返事をしてもよかったはずなのに。断ることだって、できたはずなのに。
サナはレオナルドのことを恐れていた。見かけが厳格なだけで、怒鳴られたことも、無理を言われたことも、手を上げられたこともない。だがその〈厳格そう〉な顔つきは、思いがけなく大きな障害だった。
レオナルドは本が好きなのだとマリアンナが教えてくれたので、仲良くなれるかもしれないという希望を胸に近寄ったのが初対面だった。お兄さまはどんな本がお好きなの、と話しかけたサナの方を向いて、レオナルドは眉間の皺を一瞬深くしたのだった。
「……最近は、勉強していることと関係のある本ばかり読んでいる。法律や政治、経済、歴史とか――あまり愉快ではないが、興味があれば君にも貸してあげよう」
そのときのサナにはそれ以上の勇気がなく、そうなの、ありがとう、と引き下がるしかなかった。個人的な読書内容に首を突っ込むことを嫌がられたのかもしれないし、本のことを聞いてくるなんて生意気だと思われたのかもしれない。仮にそうでなかったとしても、最初に与えられた険相はその意味を理解できないまま、サナの中にすっかり根を張ってしまったのだった。
それでも、一応兄妹として言葉を交わすくらいのことはするし、レオナルドはサナを無視することはなかったので、時間をかければいくらかマシな関係を築くこともできたはずだった。それも今や、叶わぬ願いのひとつになろうとしていたが。
悪い話ではないのだ、とサナは日記に続けた。似たようなことをここ最近毎日書き記しながら、今日もまた書いてしまった。腑に落ちていないのだろう、と思う。
悪い話ではない。それどころか、家柄を考えれば奇跡のような幸運だ。フォーリ家に嫁入りすれば王妃もかくやの暮らしぶりが保証され、周囲からは羨まれ妬まれしながら、何の苦労もなく一生を終えることになるだろう。コラジ家の家格も大いに上がるに違いなかった。
それに、フォーリ卿のことだってまったく何も知らないわけではない。サナは彼の作った詩が好きだったのだ。詩作学習の一環として多くの詩人の作品に触れたが、彼の詩はサナの琴線に何度も触れた。
〈薄ら陽の詩人〉と称されるエルド・フォーリの繊細で優美な詩には、柔らかな季節の移ろいや人間の細やかな心情が美しく表現されている。全体に寂しげな詩が多く、懊悩を流し込まれるようだといって敬遠するものもいると聞くが、一筋縄ではいかない心の在り方をうまく捉えた表現に救いを見出すものもまた多いとか。人の心を救えるほどの詩を書く人だ。悩み多い人ではあるかもしれないが、悪い人ではないのだろう――とサナは信じたかった。
そもそも、フォーリ卿の方ではサナをどう思っているのだろう? サナの母や曾祖母のことは知っていたとしても、サナのことまで知っているのだろうか? マリアンナは、フォーリ卿の伯母に当たる人との間で話が出たと言っていた――フォーリ卿の伯母、トゥッカヴェルデ夫人とは、サナも知り合いだ。彼女が乗り気だというなら、やはりそれほど悪い話だとは思えない。どうにも当人同士の気持ちが見えにくい縁談だというだけで。
もうすでに日取りまで決まってしまったので、今さらやめますというわけにもいかない。自由な恋愛を経て結婚にこぎつける夫婦の方が珍しいのだから、単なる幸運以上の条件を提示されている今回の話は受けて正解だったのだ。
結婚を承諾したのは、サナの中にある意地で覆った寂しさだ。フォーリ卿と結婚することで得られる財産上の幸福を大して望んでいなかったにもかかわらず、ふたつ返事のような形で了承した理由はそれしかない。せめて〈気の迷いだった〉というようなことを口にして身の上を嘆くようなことはすまい、とサナは心に誓った。
それがサナなりの自尊心だったし、フォーリ卿と結婚しなければどうせ次の縁談が舞い込んでくるだけなのだ。コラジ家は彼女の居場所ではなくなりつつあるのだから。
サナはそんなことをぐるぐると考えながら、挙式の日までの時間を鬱々と過ごした。
※
コラジ家からフォーリ家までは、馬車で丸二日の道のりだ。途中の宿での一泊を挟みつつ、次第に田舎らしいのどかな景色を車窓に映しながら、四頭立ての馬車は音高く進んだ。コラジ卿とマリアンナとサナの他には何も乗せない身軽な旅だった。
二日間の旅の間、三人とも言葉少なだった。コラジ卿は近頃ただでさえ無口なサナに父親らしく何か祝辞を述べようと試みては失敗していた。マリアンナは純粋に窓の外の景色を眺めて楽しんでいて、彼女の軽やかな鼻歌だけが車内の雰囲気をわずかに和らげていた。サナは父のまなざしにも義母の鼻歌にも気づかず、薄青い空にべったりと浮いた、紫色の雲を遠く見上げていた。雨雲だ。ときおり、暗い色の中に金や銀の雷らしいものがはじける。あれは天の矢じりに違いないとサナは思った。許されざる不実の上に、天が与える罰の矢だ。だとすれば、そのうちに彼女の頭に撃ち落とされるかもしれない。
フォーリ家には午後三時頃の到着が予定されていた。ところが、フォーリ家の手前にある森に差し掛かったところで一行は雨に降られ、視界不良とぬかるんだ道のために進行は遅れざるを得なかった。ようやく森を抜ける頃になっても雨はまったく止まず、それどころかどんどん強くなって、車窓を滝のように流れた。
「見えましたよう! 」
風でほとんど聞こえない御者の声が聞こえたとき、車内からもフォーリ家の城が見えていた。海へ向かって突き出した崖の上に佇む城は、雨にけぶっているせいで黒っぽい巨大な影になっていた。明かりの入った窓が、魔物の目のように光っている――サナは頭を振って不吉な想像を振り払った。
馬車が近づいていくと背の高い正面の扉が内側から開いて、中から執事らしい装いの紳士が現れた。手に傘を持っている。彼の背後では、フォーリ家の使用人たちが手に手に金だらいや手拭いを持ってずらりと控えていた。
「お足元が悪い中、ようこそおいでくださいました」
コラジ家の一同が馬車から玄関の中へ駆け込むのを待って、紳士は一礼した。彼自身も、サナたちに傘を差しかけていたせいで整えた口髭の先から水を滴らせていた。
「このようなお見苦しい姿でのお出迎えをお許しください。主人一同、今日この佳き日を心待ちにしておりました」
「まさかこんな天気に当たるとは」
コラジ卿は近くにいた女中から手拭いを受け取り、金だらいのお湯に浸したそれで顔を拭いて、ようやく生き返ったというような声を出した。執事頭は申し訳なさそうに眉を下げた。
「この辺りの地域では、季節柄激しい通り雨が降りやすくなっております。あと一時間もすればやんでしまうでしょうが、道中さぞご不便でしたでしょう」
「あら、こんなに丁寧にお迎えいただいたんですもの。なんてことないわ」
マリアンナはまず愛用のハンカチを使おうとしたが、濡れていて役に立たないと分かると差し出された手拭いで品よく髪を押さえた。こちらでお召し替えをと促されたコラジ夫妻は、また後で、という言葉をサナに残してそのままどこかへ案内されていった。
「お嬢さま、お寒くありません? 」
女中頭らしい女性がサナの髪を手拭いで優しく押さえてくれた。サナは体にべったりと巻きつく薄手のショールを外した――どうやら、自分の夫になるらしい人はこの場にはいないようだと見当をつけながら。
「わたしは大丈夫です。……でも、あの、エルンスト――うちの御者が来たら、温かいものを出してくださる? 彼だけずっと外にいたから……」
女中頭はこれを聞いてふっくらとした頬をほころばせた。
「あら、まあまあ、もちろんですとも! お任せくださいましね。……ドナ、お願いできるかしら」
「はい、かしこまりました! 」
小柄な女中が元気よく応え、サナに向かっておさげの頭をぴょこんと下げてから慌ただしくその場を去った。別の女中が近づいてきて、そわそわした様子でサナに言った。
「あの、おく――いえ、お嬢さま。よろしければ、こちらの肩掛けをお使いくださいまし。お支度までの間にお風邪を召されては大変ですから」
「まあ、ありがとう。それじゃ、こっちはお願いできるかしら」
サナは濡れたショールを彼女に渡し、代わりに温かい肩掛けを受け取った。サナとしては行き届いた使用人との特に何ということもないやり取りだったが、サナに肩掛けを渡した当人はなぜか真っ赤になって、お役に立てて光栄です、とかなんとかもごもご呟きながら下がった。その目にうっすら涙さえ浮かんでいるので、サナは驚いた。女中頭は執事頭と顔を見合わせてほほえみあった。
「その子はアデリアと申しまして、ドナと一緒に新しく女中になったばかりなんですの。とても緊張しているようなので、お嬢さまにお優しくしていただいて嬉しかったのでしょう」
アデリアはこくこくと忙しく頷いて女中頭の言葉を肯定した。サナはアデリアが渡してくれた肩掛けを羽織った。彼女はフォーリ家に初めて足を踏み入れたが、フォーリ家の使用人たちも初めてサナと対面するのだ。この先長く一緒に暮らす相手と顔を合わせる――立場は違うが、彼らと自分とは似たような状況にあるのだとサナは気がついた。
サナはアデリアにほほえんでみた。気が休まらないのは自分だけではないのだと思えば、息が楽になったような気がした。そうだ。わたしは緊張していたのだ。
「わたしもとても緊張しているの。肩掛けをありがとう。なんだかほっとしたわ」
「長旅でお疲れでもあるのでしょう。無理もございません」
執事頭が几帳面に言い、使い込まれた懐中時計を開いた。それから女中頭に言った。
「お式までにはまだ時間がありますので、一度温かいお茶をお持ちいたしましょう。まずはゆっくりとおくつろぎいただき、それからお支度を。マルタさん、よろしくお願いします」
「ええ、手配してありますよ。……それではお嬢さま、こちらですわ」
女中頭のマルタはふっくらとした手でサナを促した。
玄関ホールの左にある扉を入ると、その先には長い廊下が続いていた。右側の窓の外は中庭だろうか、散歩道のある森が広がっているのが見える。城はこの中庭をぐるりと囲うように建てられているらしかった。
どこからか、大勢が歓談しているような声が遠く聞こえてくる。参列者がもう集まっているようだ。
「わたしたちが最後だったのかしら? 」
サナが呟くと、マルタが頷いた。
「ええ、でもみなさまこの雨ですから、もともと伺っていた時刻からは遅れていらしたんですの。王都の方面は特にひどい雨でしたし、こうして無事お迎えできて何よりでしたわ。……さあ、お嬢さま。こちらのお部屋です」
マルタはある部屋の扉を開け、サナを中へ促した。暖炉には温かい火が燃えている。中には花嫁の着つけを手伝う名誉を授けられた若い女中が待っていて、サナが入るなりいそいそとお辞儀した。
「ようこそ、サナお嬢さま。長椅子にどうぞ」
「任せても大丈夫ね、二コラ。まだ時間があるから、まずゆっくり休んでいただいて。ジュリオさんがお茶を持ってきてくれるから。それからお支度をお願いね」
マルタは上から下まで点検するような目つきで二コラを見て釘を刺した。二コラは道具箱から櫛や香油の瓶を次々に取り出し、鏡台に並べながら返事をした。
「平気よ、母さん。任せといて」
「お仕事中は母さんと呼んではだめと言ったでしょう! お嬢さまに失礼ですよ」
「はいはい、お任せください」
マルタは怖い顔をしたが、サナが笑ったのでそれ以上娘を叱らずに部屋を出た。ニコラはサナに一瞬だけぱちんとウィンクしてみせた。
「すごい雨でしたでしょう。お寒くありません? 」
「いつも話すように、お話してみてくれない? 」
サナが頼むと、ニコラは緑色の目をまんまるく見開いた。
「えっ……えーっと、それで構いませんこと? じゃないや、それでいいの? 」
「緊張しているときに、気楽に話せる相手がいるのはありがたいことだもの。あなたならマルタさんに叱られても大丈夫そうだし……もし叱られても、あなたのせいじゃないわ。できる範囲でいいから、わたしのことをお友達だと思って話してみてくれないかしら」
「ああ、確かに。その方がお互いやりやすいかもね。あたしたちとしても、お嬢さまには――サナには、この城のことを好きになってもらいたいからさ。あたしたちだって、好きな人の下で働いた方がいいに決まってるし。そういうのって、立場は関係ないからね」
ニコラは最初の動揺が去ってしまうと、けろりと気を取り直して明るく笑った。
「それじゃ、あたしのことはニッカと呼んでほしいな。みんなそう呼ぶからさ。パイ焼きのニッカ、マルタの娘ニッカ、料理番の妻ニッカ。……そう、あたし女中じゃないんだよ、本当は」
ニコラはマルタたちが着ていたのと同じ型の、窮屈な紺のお仕着せを見下ろした。リボンやレースがあしらわれた上質な女中用のドレスは、確かに彼女にはあまり似合っていなかった。
「器用だからって、支度だけお手伝いするようにって呼ばれたんだ。サナみたいな人が相手でよかった。もっと〈お嬢さま〉みたいな人だったら……」
このときドアが三度叩かれ、対応したニコラが銀の盆を受け取って戻ってきた。カップがいくつかと、お茶請けを乗せた皿、銀製のポットが一緒に乗せられている。ニコラはポットの蓋を取り、中を覗いた。
「薬草茶だ。中庭で取れたやつ」
「あのお庭、薬草が採れるの」
「うん。これ、飲むと落ち着くよ」
ニコラはカップを取ってサナにお茶を入れてくれた。紅茶などとはまったく違うが、とてもいい香りがした。ニコラはちゃっかり自分の分も入れ、サナの隣に腰かけた。そして、ちょっと首を傾げた。
「このお茶が出てくるなんて珍しいな。これね、材料が採れる時期が決まってるから貴重なんだけど、高級なものじゃないからさ。お客さん用のお茶にはしないんだけど……サナはお客さんじゃなくて奥さまになる人だからかな」
「わたしが緊張してるって言ったから、特別に出してくれたんじゃないかしら」
サナはアデリアとのやり取りをかいつまんでニコラに説明した。ニコラは納得したように頷いた。
「それで、サナの肩掛けはちゃんと乾いてるんだね。うちの城のやつだったんだ」
「そうなの。アデリアが渡してくれたのよ」
「アデリア、かわいそうだったんだよ」
ニコラはサナにお茶請けの焼き菓子をすすめながら言った。
「サナたちが着くより早く、招待客の人たちをお迎えしたんだけどさ。アデリアは入ったばかりだから、お客さんに手拭いとか肩掛けを渡す係なんだけど――あの子に八つ当たりしたお嬢さまがいたらしいんだよね。それも、ひとりじゃなかったらしくて」
「八つ当たり? どうして? 」
「外が雨だったっていうのもあるだろうし、長旅で疲れてたっていうのもあるだろうし。アデリアもまだ慣れてないから、ちょっとモタモタしてたらしくて……サナと仲良しだと悪いから、今日はたまたま疲れてて機嫌が悪かったんだってことにしとくね。でアデリアは、奥さまもあんな人だったらどうしよう、ってここで泣いてたわけ」
「まあ、そうだったの……」
だからアデリアはサナが普通に言葉をかけただけで泣いたのだ、とサナは悟った。だが、そうなるとその高慢な〈お嬢さま〉は、サナかフォーリ卿の身内の者ということになるが……。
サナには、〈お嬢さま〉の親戚がふたりいる。ひとりは、モンテココに住んでいるイライザ。もうひとりは、フィーコ・ディ・マーレに住んでいるアリーチェだ。ふたりともサナの父であるコラジ卿の姪で、サナとはほとんど歳が変わらないにもかかわらず、親戚とは到底思えないくらい似たところがなかった。イライザはとにかく気が強く、自分の主張を曲げたことがない。アリーチェは可愛らしく、自分でもその美点をよく分かっていて、とろけるような笑顔で自分を売り込むのがやたらと上手な娘だった。
不思議なことに、それこそ水と油のように見えるイライザとアリーチェの仲は悪くなく、親戚の集まりで三人寄ってはじかれるのはサナと決まっていた。性格がとことん合わないのだから当然だったのかもしれないが、とにかく話題が合わなかったのだ――サナが提供する話題はふたりには退屈らしかったし、それはサナにとっても同じことだった。そして、ふたりはサナに比べて自分の家柄や身分を鼻にかけているようなところがあり、サナから見ればわがままだと感じられるような振舞いをすることもよくあった。
あのふたりなら、雨に濡れたことで使用人に八つ当たりしたとしても不思議はない。だが、サナは
「たまたま疲れてたってことにしとくね」
と言ってくれたニコラの気遣いがありがたかった。さほど仲がいいわけではないにせよ、ふたりともサナの結婚式のために旅してきてくれたことに変わりはないのだから。
ニコラはサナが薬草茶でゆっくりと体を温めている間にサナが身に着ける飾りやドレスを準備した。今晩のサナのドレスは、母のアンナが結婚したときの花嫁衣装だ。淡い萌黄色が美しいドレス――いつかこれに袖を通すのだ、とかつて思っていた頃、その〈いつか〉がこうなっていようとは、過去のサナは夢にも思っていなかった。
「さて、そろそろお支度していこうかな。先に髪を結っちゃうから、そのままじっと座っててくれればいいよ」
ニコラが言い、サナの髪を手に乗せて唸った。
「きれいな髪だねえ! 黒い絹糸みたい」
「まあ、本当? 」
「ほんとほんと。旦那さまも黒髪だけど、あの人は見るからにくせっ毛だからさ」
ニコラは話しながらも手を止めず、編んだり止めたり結んだりしてあっという間にサナの髪を結いあげた。実に見事な手さばきだったのだが、サナはふいに出てきた〈旦那さま〉につい気を取られて二コラの作業をほとんど見ていなかった。
「――ねえ、ニッカ。フォーリ卿って、どんな方なの? 」
「どんな方……そうだなあ」
ニコラは仕上げの髪飾りをいくつかあてがってみている最中だったが、よほど難しい質問だったのかちょっと手を止めた。
「うーん……少なくとも、悪い人じゃないけど……」
「怖い方? 」
即答いたしかねるといったニコラの様子に思わず気が急いて、サナは質問の仕方を変えた。ニコラは、今度はすぐに首を横に振った。
「怖い人じゃないよ、ちっとも。うん、その心配はいらない。優しい人だよ。誰に対しても丁寧だし――そういう意味じゃ、サナと似てるかもね」
「わたしと? 」
「そう。なんでサナが奥さまに選ばれたか、ちょっと分かった気がする。あんたと歳はちょっと離れてるけど、助平ったらしい脂下がりとは違うし、いばりくさった高慢ちきでもない。……ただ、敢えて言うならちょっと……〈感じやすい〉っていうのかな。なんて言うの、そういう性格? 」
ニコラが化粧をしてくれているので、口紅が唇を離れるのを待ってサナは言った。
「〈繊細〉かしら? 」
「そうそう、それ。そんな感じ。ちょっとしたことでも長い間考えごとして、永遠に悩んでるような人なんだよね。だからあたしたちも細かいところにまで気を遣ってもらってるってところはあるけど……見てると、ちょっと心配になることはある」
ニコラはサナを立たせてドレスを着せ、飾りをつけて仕上げた。このとき、支度が終わるのを見計らったかのように戸がノックされた。マルタが花嫁を迎えに来たのだ。最後にひとつ、早口でサナは聞いた。
「あなたはフォーリ卿のこと、好き? 」
「うん」
ニコラも早口で答えた。
「不思議な人だけど、人に嫌われるような人じゃないしね」
「お支度はいかがです? 」
許しを得て顔を覗かせたマルタは、ニコラの〈作品〉を見て乙女のような華やいだ声を上げた。サナもずっと見ていたようで実はちっとも見ていなかった鏡に改めて対面して、思いがけない出来にびっくりした。口紅を引いた顔に、萌黄色のドレス。見慣れない姿ではあったが、自分とは思えないほど美しかった。これはわざわざ支度係に呼ばれるわけだ。
「上手ねえ」
サナは感嘆し、心からの称賛を贈った。
「お嬢さまは、もとから可愛らしくていらっしゃるから」
ニコラはまんざらでもなさそうに言った。その口元に秘密を分かち合うもの同士のやり取りに特有のにやりとした表情があったことには、秘密の相方であるサナしか気づかなかった。
「本当にすばらしいわ。なんてお美しい! ニコラ、あなたも着替えていらっしゃい。マッシモを手伝ってね――ラルフがぐずってるから」
「えっ、本当? サナお嬢さま、これで失礼いたします。また後ほど」
ニコラは走り方を装うのをすっかり忘れて出て行ってしまった。マルタはサナが裾を踏まずに済むように、実に上品な仕草でドレスのひだを寄せた。
「さあ、大広間へまいりましょう。お式がはじまるまでに、一度みなさまにご挨拶を」
フォーリ家の大広間はコラジ家の客間を三つ繋げたくらいに広々としていたが、招待客の多さはサナにそれを気づかせないほどだった。
コラジ家、フォーリ家双方の主だった親類縁者たちだ。大広間の中は彼らの談笑で温まっており、華やかな祝福の気配に満ちていた。
フォーリ家の執事頭は実に優秀で、給仕されるものは提供時間や温度まで完全に管理されており、あと一時間もすればぽつぽつと現れるであろう酒毒の犠牲者は今のところひとりもいなかった。
サナはマルタに手を引かれて大広間に足を踏み入れた。招待客たちはサナが入ってきたのに気がつくと一瞬ぴたりと沈黙し、誰かの
「おめでとう」
を皮切りに、大きな祝福の拍手が起こった。物腰の柔らかな初老の婦人が静かに近づいてきて、サナに親しく手を差し出した。今回の縁談を発案したトゥッカヴェルデ夫人だ。サナはもともとこの人のことが好きだったので、彼女のほほえみを見て心から嬉しく思った。
トゥッカヴェルデ夫人はにこやかに言った。
「ごきげんよう、サナ。しばらく見ないうちに、見違えるほどきれいになって。……そのドレス。アンナを思い出すわ」
「お母さま、おきれいだった? 」
「ええ、もちろん。まるで妖精がそこにいるみたいに可憐でね――でも、それはあなたにも言えることよ」
すでに名を知る人も初めて会う人も、みんながサナに話しかけ、この日のありようをどんなことでも褒めちぎった――今夜は本当に、月がきれいね。テルロ叔父さん、今日は痛風がだいぶいいとか。
コラジ夫妻は遠巻きに娘を見守っていた。コラジ卿は涙ぐみ、まるで睨むような顔つきになっているのをマリアンナに笑われている。サナは会場の雰囲気につられるように気持ちが明るくなるのを感じた。これだけの人が、今日この日を祝福してくれている。ここからどう頑張っても、悪い方になど転がっていきそうにない!
サナは気楽になり、小さなことにも声を立てて笑った。特に愉快だったのは、イライザとアリーチェだ。彼女たちは型こそ違ったがふたりともが桃色の派手なドレスを用意してきてしまい、おまけにサナのドレスの色合いをちょうど引き立てる格好となり、傍から見ても実に間抜けなありさまだったのだ。
せっかく来てくれたのにと思わないでもなかったが、普段よりずっと気安く、サナは笑った。初めてこのふたりのいとこと打ち解けられるような気すらした。
「そんなに笑わなくてもいいでしょ」
とイライザが言った。どちらかというと地味な顔立ちの彼女には、残念ながら桃色はまったく似合っていなかった。アリーチェの方は甘やかな顔立ちのおかげでよく似合っていが、いつもの笑顔はどこへやら、すっかりへそを曲げてぶすくれてしまった今の彼女は、お世辞にも魅力的とは言えなかった。
「ごめんなさいね」
サナは謝ったが、いとこたちなりの冗談かもしれないとこのときは思っていたので、本気ではなかった。冗談でなければ、花嫁よりも目立ちかねないドレスをふたりが本気で選んできたということになってしまうではないか……。
「だって、いつもおしゃれなあなたたちがドレスのことで喧嘩になるなんて思わないじゃない……」
「あら、わたしたちそんなことより……」
アリーチェが何か言いかけたのを、イライザが小突いてやめさせた。サナも特に聞き返さなかった。アリーチェは、もともと口が軽い。余計なことを喋りかけて誰かに止められることは昔からしょっちゅうあったし、サナは今、つい数時間前まであんなに気が塞いでいたのが嘘のように朗らかな気分だったのだ――。
「……お嬢さま」
影のようにさりげなく、執事頭のジュリオがそばへやってきた。サナは彼の登場を喜んだが、ジュリオの顔つきはなぜかひどく暗かった。サナは笑顔を少し引っ込めた。
「……どうなさったの? 」
「大変申し訳ございません。しかし旦那さまが、その……急にお熱を」
「お加減は? ずいぶんお悪いの? 」
サナは夫になるべき人の容態を案じたが、お部屋はどこなの、と続けようとした声はアリーチェに遮られた。
「それじゃあ、お式は!? もしかして中止かしら! 」
一瞬のことだったが、このときイライザとアリーチェの顔を見たサナは、彼女たちに身内らしい愛情を感じていた自分をどうかしていたんじゃないかと思った。同時に、この縁談に関して初めて、自分の境遇を嘆きたくなった。
式は予定通りに行われた。しかし新郎のエルド・フォーリは、とうとう一度もサナの前に現われなかったのだ。
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