壊れた人々

ユーレカ書房

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弟殺し

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 『マリオネット』を最初に読んだときの僕の心境は、とても一言では説明できない。これまで読んだ加賀美先生の作品の中で、一番現実と近いものだったからだ。僕や、僕が起こした一連の事件が、ほとんどそのままモチーフになっていると言ってもいい。作中に出てくる小説のタイトルは、『標本男』と『検査薬』はもちろん『キッチンドランカー』も加賀美先生が実際に書かれたものだし、主人公の女性が加藤という男から受け取ったファンレターは、『キッチンドランカー』が〈鏡の部屋〉にアップロードされたときに僕が送ったメールとほぼ同じものだったんだ。

 これは、どう考えたものか? 僕はひとしきり頭を悩ませた。現実の作品や、僕が起こした事件を取り上げているくらいだから、加賀美先生が僕宛にメッセージを送っていると考えるのが妥当だろう。それこそ名指しされて話しかけられているくらいのレベルだ。事実はどこで、アレンジはどこか? 僕はこれまでの状況や、僕自身が調べた事実と照らし合わせながら推測を進めていった。

 『マリオネット』の主人公には、弟がいる。『標本男』の主人公の女性にも弟がいる描写があったし、加賀美先生……みずえさんにも、悟という二歳違いの弟がいるんだ。だから、これは事実。

 『マリオネット』では、過去に性犯罪の被害に遭ったのは主人公の弟の恋人ということになっているが、現実に被害に遭ったのはみずえさん本人で間違いない。恋人の浮気に関してはかつて失恋した男が浮気していたという設定で書かれていたが、現実には『検査薬』のような関係が近かった。復讐の原因になった出来事についてはアレンジが加えられていると考えていいだろう。『マリオネット』で重点が置かれているのは過去に何があったかを正確に記録することではないのだろう、とこの時点で僕は思った。

 最初に読んだときから、どこか差し迫ったような印象のある作品だと感じていたんだ。実在する作品名を絡めてきたということは、僕に確実に訴えたいことが何かあるか、アレンジしている余裕もなかったか、あるいはその両方なんじゃないだろうか? 物語の最後に、主人公はみずからの内側に生まれた快楽の狂気に気がつき、恐れおののいている。このまま弟に従って書き続けるくらいなら、〈見えざる実行者〉に自身を葬り去ってほしいとまで言っている。もしかしたら、これこそが加賀美先生の伝えたかったことなのだろうか? 加賀美作品は、みずえさんが弟の悟に書かされているものなのだろうか? それが事実だとしたら、僕はみずえさんを救うどころか、悟にいいように転がされて彼女を追い詰めているということになる。

 死ぬことに救いを見出すような心境は、どんなに辛いだろう。僕は初めて、加賀美先生のシナリオに背くことに決めた。いくら彼女の願いでも、彼女自身を傷つけることは僕にはできない。逆に彼女が望まなくても、僕はすでに彼女の弟に対してかなりの憎しみを感じていた。『マリオネット』の主人公と弟のやり取りが事実に近いものだとすれば、蓮見悟は僕のことを〈思い込みと勘違いが激しい、人の話を聞かないタイプ〉と思っているということだからな。実に名誉なことじゃないか?

 僕は、蓮見家の前で決定的な瞬間を待っていた。『マリオネット』には〈方法〉は書かれていなかったから、すべて自分で準備した――難しい問題ではなかった。これまでの傾向から見て、細かい設定にアレンジが加わっていることはあっても、加賀美先生の作品の登場人物たちの性格は実物に限りなく忠実に描写されていた。

 だから、蓮見悟も〈元〉と似た、姉想いの――多少歪んではいたが――弟であることに間違いはないはずだった。

 「蓮見みずえさんの弟さんですか? 」

 成果が上がったのは、夕方になってからだった。蓮見家から出てきた若い男には、みずえさんと似た面影があった。僕が呼び止めると、悟は立ち止まった。全体に痩せ型の、色の白い青年だった。

 僕は慎重に言った。

 「実は、お姉さんの事件のことで……ここではなんですから、少しお時間をいただきたいのですが」
 「僕にですか? 両親ではなく? 」
 「みずえさんが、弟さんになら話しても構わないとおっしゃったので」

 悟は不審そうな顔をしたが、僕から姉や自分の名前が正確に出てきたことで納得したような様子を見せた。何の苦労もなかった。僕はそのまま悟を伴ってその場から移動し、人目を避けるようにして、近くの河川敷に向かった。交通量の多い大きな橋が頭上にかかっていて、夜には悪ガキの溜まり場にでもなるのだろう。カラースプレーの下品な落書きとゴミで汚れたその場所はすでに夜が来たかのように薄暗かった。日が落ちかけた時間帯では治安がよくないことが知れ渡っていて、地元の人間もいない。行き交う車の音が反響して、ちょっとやそっとの物音では誰かに気づかれる心配はなかった。

 悟は辺りを不安げに見回していた。いくら人目を避ける必要があったからとはいえ、なぜこんな場所に連れ出されたのかと妙に思ったのだろう。だが、僕は説明するつもりはなかったし、彼には説明を受けるだけの時間は残されていなかった。

 一瞬だった。悟が僕から目線を逸らした一瞬の隙に、僕は彼を背後から殴り倒した。藤内と違って鍛えているようには見えなかったし細身とはいえ、彼も男だ。抵抗されたら厄介だから、僕も必死だった。撲殺を狙ったわけじゃないから、隙が大きくなればそれでいい。河原に落ちていた手頃な石を拾って、頭を殴ったんだ。

 悟は呻き声を上げてその場に倒れた。僕は彼に馬乗りになり、ネクタイで首を絞めた。発見の恐れは高くないとはいえ、長引かせることはできない。力を込めると、悟はろくに抵抗もしないまま口の端から泡を吹いて死んだ。最後まで目を見開いて、口を動かして何か言おうとしていたが、喉が締まっているせいでまともな音にはなっていなかった。僕はそのまま、悟の死体とともに河川敷に留まり、完全に日が落ちるのを待ってから、彼を川へ投げ込んだ。

 ひどく疲れていた。だがこれで、加賀美先生が死を望むような生き方をする必要はなくなるはずだ。僕は悟を手にかけたことに僕自身の都合が含まれていることを自覚していた。みずえさんにしてみれば、良心の呵責に苦しめられるきっかけになっているとはいえ実の弟だ。『マリオネット』の書きようからしたら、みずえさんが本当に殺してほしがっていたのは彼女本人だと読み取れる。悟の死を、みずえさんは決して喜んだりはしないだろう(彼女はそんな女性ではないと僕は信じている)。

 だから、僕はこのことに関しては〈鏡の部屋〉には書き込まなかった。自分の作品のせいで弟が死んだとなったら、みずえさんは恐らく自分を責めるだろう。僕が彼女を愛しているのだということよりも、弟が殺されたということに恐怖する気持ちの方が大きいに決まっている。僕は悟を殺し、少し冷静になって初めてそのことに気がついた。彼が死ぬ前は、みずえさんが弟に恐ろしい脅迫をされている可能性だとか、悟が僕をいいように使っているという事実だとかがないまぜになって、視野がまったく狭くなってしまっていたんだ。たとえば、彼女が読者である僕にもう罪を重ねないでほしいと言っている、という解釈だってできたはずだった。

 僕の中に、初めて苦い感覚が残った。だけど、現実はもう取り返しのつかない段階まで来てしまっていた。

 取り返しがつかない。そう、本当に取り返しのつかない勘違いだった。僕が蓮見悟を殺したのは、先週だ。遺体は僕が彼を手にかけてから間もなく発見され、今世間を騒がせている通りの、一大ニュースになった。

 加賀美聡子が亡くなった――この一報を夕方のニュースで見て、僕がどんなに驚いたか分かるか?

 「加賀美聡子の名で活動していた、作家の蓮見悟さんが亡くなっているのが発見されました」

 そこに映っていたのは、ほんの数日前に僕が河川敷で手にかけた青年だった。

 〈加賀美聡子〉は、男性だったんだ。

 「蓮見みずえさんの弟さんですか? 」

 ではなく、

 「加賀美聡子先生の弟さんですか? 」

 と尋ねていたら、何か変わっていただろうか? 僕は何度も、こうして君に手紙を書いている今も、自問した。だが答えはいつもノーだ。

 彼は、自分を殺そうとしている僕に対して一切抵抗しなかった。突然だったからだとか、頭を殴られて朦朧としていたとかそういうことを差し引いても、あまりにもあっさりと僕の手にかかった。〈思い込みと勘違いが激しい、人の話を聞かないタイプ〉。これは、その通りだったわけだ。加賀美先生は――つまり蓮見悟は、僕がこんな性格で、しかも〈加賀美聡子〉の正体を誤解していると分かった上で『マリオネット』を書いたに違いないんだ。彼は、僕が彼を殺すことを期待していたんじゃないだろうか。

 こうなると、すべての事情が変わってくる。『標本男』は加賀美先生本人というより、姉の事件をモデルにして書いたもの。『検査薬』は女性が友人に恋人を寝取られたという話だったが、実際に関係するのは恐らく男性ふたりと女性ひとり――加賀美先生と佐川美咲、佐川の浮気相手の男――なんだろう。『検査薬』の主人公の女性はネット上に漫画を投稿して有名になった女性、言うなれば市井の作家だ。これ以上は推測の域を出ないが、加賀美先生と佐川美咲との間に〈楓〉と〈紗季〉のようなやり取りがあったのではないだろうか? 加賀美先生は世間に性別を偽っていた……というか、女性の名前で作品を発表していたから、創作活動のかたわら会社員として働いていた〈楓〉がそうであったように、言いふらされては差支えのある秘密を持っていたということになる。だがそういった〈秘密〉を知ることは、佐川のような浮ついた女にとって目の前にエサをぶら下げられたようなものだ。自分しか知らない大きな秘密をいつまでも誠実に守っておけるだけの人間性を佐川が持っていたら彼女は死なずに済んだかもしれないが、残念ながらそうはならなかった、ということだろう。

 そして『マリオネット』は、やはり加賀美先生が僕に自分自身を殺させるために書いたものなのだと思う。僕はそのことを疑わないし、後悔はしていない。敬愛する加賀美先生(女性ではなかったと分かった今になっても、僕は加賀美先生に対する幻想を捨てきれずにいるようだ)の役に立てたのだと、心から信じている。僕の頭がおかしくなったのかもしれないが、なんにせよもう起きてしまったことを取り消すことはできない。

 世間的に見れば間違ったことだったというのは自覚している。君からしたら、僕は単なる人殺しだ。それどころか、猟奇的な性癖の持ち主と思われても仕方のないことをした、くらいには思っている。その点では、僕はまだまともにものを考えることができているんだ。

 だが、法では裁かれなかった〈真の加害者〉が誰かの手によって始末されたとして、始末した側だけが責を負うべきなんだろうか? 自業自得、因果応報――そんな言葉があるように、自分が蒔いた悪徳の種は自分自身で刈り取らねばならないと僕は思う。人間の手で人間に罰を下すことは、傲慢だろうか? それは神にしか分からないことだ。

 松木君、まだこの手紙を読んでくれているだろうか? ここまで読んだあと、この話を信じるか信じないか、誰かに話すか、発信するか、その他どういう扱いをするかは、君の自由にしてもらって構わない。殺しの証拠はあらかた処分してしまったが、最初に殺した藤内の死体はまだそのままだと思うから、大変なありさまになっているとは思うが十分な証になると思う。

 いや、もうひとつ、これから証拠ができるんだった。

 これを君宛てに送り終えたら、僕は部屋を引き払って山へ入るつもりだ。本当なら加賀美先生のファンとして川へ入りたいところだが、彼の死因は絞殺による窒息だからね。自分で再現するなら山の方がいいだろう。

 T山の、登山道から外れたどこかにするつもりだ。足元に遺書と警察手帳を置いておく。国道に車を乗り捨てていくから、必要なら探してほしい。

ここまで付き合ってくれて、感謝するよ。それじゃ、さようなら。
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