ヤバい奴に好かれてます。

たいら

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 別れるって言ったって最初からまともな付き合い方なんてしてないし、あいつに一方的に好かれてただけで、俺は強引に付き合わされてただけだし。
 俺にだって別れを切り出す権利があったっていいだろ。
 ……俺に人権があるのなら。
「……いてっ、……いたたた……」
 目が覚めて、起き上がろうとすると起き上がれなかった。全身が痛すぎてとても動けず、金縛りにあったように首から下が硬直してしまっている。
「起きたの?」
 突然の思いがけない声にびっくりして横を見ると、母さんが立っていて、声にならない悲鳴が出た。
 ……嘘だろ⁉ どこだここは‼
 俺の見開いた視界の中で、母さんは堂々と仁王立ちしている。
「さっさとご飯食べなさい。病院行くから」
「…………」
「あんた昨日夜中に帰ってきて最悪だったんだから。吐くわ倒れるわ足がゾウみたいに腫れてるわ」
「…………」
 左の足首には、湿布のひんやりとした感触の下に、じんじんとした痛みがあった。
「久保田さんに電話したら病院に連れてってくれって言われたわ」
「…………」
 すぐに思い出した。
 俺はあのあと、ひたすら歩いて、あんなに帰りづらかった実家に帰ってきてしまったんだった。
「久保田さんと何かあったの?」
「…………」
「まさか、今さら久保田さんと別れるとか言わないわよね?」
「…………」
 突然の振動が床から伝わり、硬直した体がびくりとした。
「嘘でしょっ⁉ あたしこの前久保田さんに冷蔵庫買ってもらっちゃったじゃない‼」
「買ってもらうなよっ‼」
 反射的に怒鳴り返してしまったが、すぐに頭の中を自分の声が跳ね返って暴れ、必死でこめかみを押さえた。
「…………っ!」
「なんでよっ! 全然帰って来ない連絡もよこさない息子よりずっと久保田さんの方が優しくて息子みたいよ!」
 母さんの声もまた頭の中を駆け回った。
「…………」
 ……母さんは久保田の酷さを知らないんだ。あいつは、あいつは悪魔みたいな奴なのに。
「ほらっ、いい年して親に迷惑かけていつまでグズグズしてんのよ⁉ さっさと着替えてご飯食べなさい! 病院に行くわよっ!」
 母さんはもう一度そう怒鳴ると部屋を出ていった。
 ……くそっ、あのババァ、どんだけ久保田から賄賂を受け取りやがったんだ。
 俺はなんとか体をひっくり返し、うつ伏せになった。
 何も食べたくない。二日酔いで、その上歩き続けたせいで筋肉痛で、足どころか全身がひどく痛い。
「…………」
 久しぶりの実家の空気は、懐かしいけど他人の家のように感じる。あんなに帰りづらいと思っていた実家に、あっさり帰ってきてしまうなんて。
 全部久保田のせいだ。
 ふと何かを思い出しかけ、壁にかけた時計を見ると朝の十一時を過ぎていた。
「あっ!」
 ……ヤバいっ!
 俺は床に放り出してあったスマホを腕を伸ばして手に取り、慌てて木村さんに電話をした。
『えっ、足怪我したの? 大丈夫っ⁉』
「……遅くなってすみません。今日は休みます」
『いいよいいよ。なんだったら治るまで休んでいいからね。こっちは心配いらないから』
「……はい。すみません」
 ……やっぱり木村さんは優しい人だ。
 すぐに木村さんの仏のような笑顔が頭に浮かんだ。もう俺に優しくしてくれるのは木村さんしかいないかもしれない。親は完全に丸め込まれてしまっている。
 電話を切ってなんとか起き上がり、母さんの付き添いを断って、一人でタクシーで近所の病院に向かった。
 診断結果はただの捻挫だった。しかし一週間のギブス生活となった。歩くことはできるけど、とても歩き回る仕事はできそうにない。一週間仕事は休むことになりそうだった。
 でも仕事を休むのは辛いけど、久保田の姿をしばらく見ないですむのは少しほっとした。
「あっ!」
 帰りはバスにしようとバス停のベンチで座っていたところで、今日村上と会う約束していたことを思い出した。
 足の怪我の上に体中を筋肉痛のような痛みに襲われ、二日酔いの頭痛も残っている。きっとこんな状態で会ったら村上に心配をかけるだろうと思い、断りの連絡をすることした。
「ごめん。約束来週にしてもらってもいいかな?」
『いいですよ』
 村上からはすぐにあっさりとした返事が返ってきた。ついでにスマホを確認しても久保田からは何の連絡も来ていなかった。
「…………」
 別れたいと言ったのは俺だけど、久保田から何の反応もないのは絶対におかしい。
 あいつが簡単に俺を諦めるとは思えない。散々、散々、あいつにそう教え込まれてきたんだから。
 ……でも、諦めてくれるならそれでいいか。
 だって俺から別れたいと言ったんだから。連絡を待つなんておかしい。
 久保田の家には帰れないし、居心地の悪い実家にいなきゃいけないし、足のせいで出歩くこともできず、退屈だった。
 久しぶりの母さんの料理は全然美味しくないし、何を食べても味覚が変わってしまったように不味かった。
 全部あいつのせいだ。
 あんな奴に惚れられてしまったから俺の人生はめちゃくちゃになったんだ。
「ああっ、電子レンジが壊れたっ!」
 あいつの束縛なんてうんざりしていたのに。最後に別れてから一度も連絡が来ないことが気になってしょうがなかった。まるで夢の中の久保田の念仏みたいに、どうしてこんなに離れているのに、こんなにも保田のことばかり考えてしまうんだろう?
 あんなに好きだって言ったくせに連絡を一度もしないなんて。
 本気で別れる気か?
 俺の全部を奪っておいて。
 いや、やっぱりそんなわけない。あいつが俺から離れられるわけがない。どうしてもその自信を消すことができなかった。だって今まであいつに散々、散々、そう教え込まれてきたんだから。
 やっぱり絶対におかしいんだ。
「こんな時久保田さんだったらすぐに新しいのを買って持って来てくれるのにっ‼」
 ……どうして、何も言ってこないんだ?






 結局、一週間経ってギブスがはずれても、久保田からの連絡はなかった。
 まだ完全に治ってはいないけれど、久しぶりに実家からバイトに向かった。
 メンテナンス部のドアを開けると、ジョンソンが朝ごはんのアメリカンドッグを食べていた。
「のさか、おはよう」
「おはよう」
「もうあしなおった?」
「うん。だいぶ」
「よかった。のさかがこのままこなくなったらどうしようかとおもってた」
「え? どうして?」
 俺は鞄を置き、ジョンソンの前に座った。
「じつはここのばいとやめることになったから」
「え?」
「おやとだいがくにおこられた。やっぱりまじめにべんきょうしなきゃいけないみたい」
「そっか」
 不法就労者をやめることにしたらしい。そりゃそうだ。
「だからそのまえに、のさかにひみつをおしえてあげようとおもった」
「秘密?」
「うん」
 ジョンソンは口にケチャップとマスタードを付けたまま、じっとテーブルを見つめた。
「おれ、のさかにうそをついた」
「え?」
「ほんとうはくぼたのことずっとまえからしってた」
「…………」
「おれくぼたにおーでぃしょんであったことあった」
「おーでぃしょん?」
「ごじまでいっておれだけうかった」
「……ちょっと何言ってるか分かんないんだけど」
「くぼたがそのおーでぃしょんのしんさいんだった。でもおーでぃしょんのことはだれにもいうなっていわれた」
「…………」
 俺は思わずこめかみを押さえた。
「……何のおーでぃしょん?」
「ここのおしごと」
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