ヤバい奴に好かれてます。

たいら

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 しかし村上に辞めないと約束してしまったのだから、久保田がたまに見せる下心を避けつつ、会社にも居続ける方法を探さなくてはならない。
 それともいっそのこと、このまま久保田と付き合ってしまうか。そうすればこのまま給料が少なくて貯金もできないけど、ストレスはないこの仕事を続けられる。正しくはないのは分かっているが、今の俺には久保田を振って今のような職場を見つける勇気がなかった。
 それに、久保田だってきっと、最後の最後までは俺のそばにいてはくれないだろう。好きなのは今だけで、いずれは離れていくだろう。
 そのときに俺はどうすればいいのか。
 人生を考え始めたら怖くなってまた苦しくなってしまった。病院でも診断された不安障害というやつだ。やっと夜にしっかりと眠れる日々が戻ってきたのに、考え出したらまた眠れなくなっていた。罵倒や仕事のストレスはなくなったけど、今度は自分の足元の不安定さのせいだ。
 どう転がっても俺の人生はうまくいかない気がする。そんな不安がまたぶり返していた。
「野坂さん、お昼一緒にどうですか?」
「……え?」
 顔を上げると、背がひょろりと高い村上が立っていた。隣には背が低い猫目の森田もいる。二人ともいつの間に外回りから戻って来ていたのだろう。というか、いつの間に昼になっていたんだ?
 穏やかそうな顔をしている村上に対して、森田は相変わらず目つきが鋭い。
「近くに美味いうどん屋さんがあるんですよ。行きません?」
 ……う、うどん。……食べたい。
 しかし俺は首を振った。
「すみません。もう買ってきてしまったので」
「あ、そうですか。じゃあまた今度」
「はい」
 村上は色白な顔に穏やかな笑みを浮かべて、森田は瞳孔を細めた猫を思わせる目つきのまま外へ出て行った。二人の背中を見送ると、体がガタガタと震えだした。
 ……お、お腹が、痛い。
 原因は分からない。最近自炊頑張ってたけど。朝食べた卵か? 牛乳か? パン? どれも値引きされた物を買っていたけど、賞味期限が過ぎていたかは覚えていない。
 机に汗が落ちた。あと五時間ほどで仕事は終わる。それまで痛かったら病院へ行こう。痛い出費だが仕方がない。我慢だ我慢! ……いや、やっぱり病院行きたくないよ。やっぱりお金減るの嫌だよ!
 頼む。治ってくれ!
 しかし祈りも虚しく、三時を過ぎても冷や汗は止まらず、痛みもおさまらなかった。
 駄目だ、もう耐えられない。……救急車呼ばなきゃ。さっき村上たちに呼んでもらえば良かったんだ。なんで俺はいつもいつも判断が遅いんだ!
 突然大波が来る痛みに耐えながら、震える手で机の上の電話に手を伸ばした。しかしそこで、机に置いていたスマホが震えていることに気がついた。画面を見ると、誰かからのメッセージだった。
 誰だよ。こんな時に……。そう思いながら名前を見ると、前に付き合っていた男、リョータからだった。
『元気?』
 ……は?
 ……なんで、今?
 もう連絡なんて来ないと思っていたのに、なんで今⁉
 俺今、超腹痛いんだけど! 返事をしてる余裕なんてないよ!
 なんで今なんだよ!
 震える手のせいで滑り、スマホが床に落ちた。拾おうと手を伸ばして、今度は自分が椅子から滑り落ち、思い切り尻を打ち、そのまま頭も打った。
「…………っ!」
 一瞬視界が白くなり、あまりの痛みに悶絶した。
 そのまま寝転がり、床を涙と冷や汗で濡らした。もうスマホにも、机の上の電話にも手を伸ばすことはできない。なんでこんな時に限って誰も戻ってこないんだよ! 怒りが込みが上げるが、お腹と頭の痛みも増した。
 ……俺はこのまま死ぬのか?
 目の端から床に涙がこぼれ落ちていく。きっとリョータからメッセージがきたのは、最後の奇跡だったんだ。誰もいないオフィスの中で、俺は床に寝転がりながら、意識が遠退くのを感じていた。






 目を開けると、眉をひそめる久保田の顔があった。その奥に知らない天井がある。
「…………」
「野坂さん?」
 起きているのに寝ているみたいにボーッとしていた。なんだこれ? おかしいな。俺たちいつの間にそんな仲になったんだ? いや、そんな訳ない。俺はまだ久保田にそこまでは許していないはずだ。
「野坂さん、大丈夫ですか? 会社で頭を打って倒れていたんですよ?」
「…………」
 ……思い出した。そうだ、頭を打った。でもその後は思い出せなかった。
「今は痛み止めの点滴を打っているので痛みはないかもしれません。頭の方の検査をしましたが、問題ありませんでした。あなたが救急車の中でお腹が痛いと言ったので、そちらの検査もしましたが、胃潰瘍だそうです。ストレスかもしれませんが、胃の中にピロリ菌がいるかもしれないので検査のために三日間の入院になります」
「…………」
 救急車に乗ったことなど全く覚えていない。
「申し訳ありません。あなたの健康を守ると言っておきながらこんなことになってしまって。もっと注意を払っておくべきでした」
「…………」
 ピロリ? お腹の中にピロリを飼っているのか? 犬も飼ったことないのに? 
 そんなことを考えながらも、まだ大事なことを忘れている気がして、でも思い出せなかった。
「ご実家には連絡しますか?」
「…………」
 ……親にはよけいな心配をかけたくない。転職したことさえ知らないんだ。久保田に向かって首を横に振った。振ったことで違和感を感じ、頭に触れてみると包帯が巻かれていた。
「会社に戻って来たらあなたが倒れていて驚きました。どうしてそうなる前に救急車を呼ばなかったんです? 医者が言うにはもっと酷いことになっていた可能性もあったらしいですよ?」
「…………」
 ……呼ぼうとした。呼ぼうとしたよ。でも呼べなかったんだ。決断が遅かったせいで。いつも我慢したせいで間違った方向へ行く。またそれが起きてしまったんだ。
 ……ということは、久保田が救急車を呼んでくれたのか。……くそ、こんな奴が命の恩人になってしまった。
「野坂さん、大丈夫ですか?」
「…………」
「今何を考えています?」
 久保田がまた天井を見上げる俺の顔を覗き込んだ。眼鏡に憔悴した自分の顔が映る。
「……しごとは」
 三日間も入院するなんて。
「ああ」
 久保田が顔を覗き込んだまま頷いた。
「有給がまだ残っていますよね? それを使いましょう。所長には言っておきますから大丈夫です」
「…………」
 そうだ。まだ有給が残ってた。俺は頭の中の神さまに合掌して感謝した。
「野坂さん、家の鍵を貸してもらえますか? 入院中の着替えを持ってきます」
「…………」
 久保田が横のテーブルに置かれている鞄を指差す。俺が頷くと、久保田は鞄から鍵を取り出した。
「それと入院費のことは気にしないで下さいね。僕が払います」
「え? いや、ちょっと待って、……それは」
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
 久保田は無表情でさらりと言った。
「……自分で払うから」
 力の入らない声できっぱりと言ったつもりだった。借金してでも払う。しかし久保田は聞こえていないのか、俺に背中を向けた。
 やめてくれ。
 これ以上俺に優しくしないでくれ。
 ……あとが怖い。
「あ、それと」
 久保田がドアの前まで行き、振り返った。
 そこで気がついた。ドアとベッドの間に何もないことに。え? ここ個室? やだ、しかもトイレ付きじゃない? うそ、ここいくらすんの。やっぱり払えないよ。
「前の恋人に連絡を取りました。すみません、勝手に野坂さんのスマホを見てしまいました」
「は?」
 ……え? 俺のスマホ? ロックかかってたよね?
「明日、お見舞いに来るそうですよ」
「…………」
 呆然とする俺を尻目に、一瞬の眼鏡の反射光を俺の目に焼き付け、久保田は病室から出て行った。
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