僕の好きな人

たいら

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 三十まで童貞だと魔法使いになれるというけれど、じゃあ四十才まで童貞だと何になれるんだろう。
 天使だったらいいな。天使ならみんなに愛されるから。




久我山くがやまくん?」
 突然名前を呼ばれ、振り返ると高比良たかひらさんが立っていた。
「久しぶりだね。三年ぶりくらい?」
「…………」
 何を間違ったが、新卒で大手保険会社に入社してしまったせいで、人生で最も辛い三年間を味わっていたころの上司だ。激務に耐えていたころの唯一の光だった高比良さんの登場は、本当に劇的すぎて上手く返事が返せなかった。
 高比良さんは冬空の下になぜか咲いてしまった桜みたいな見た目をしている。
 骨格から違うのだと思わされる美しい体型に、まさに誰もが思い描く王子様の顔が乗っている。
 ……まさかこんなところで再会してしまうとは。
 しかも一人でラーメン屋から出てきたのを見られてしまうとは。休日に一人で食事してる寂しい奴だと思われたんじゃないだろうか。
「お、お久しぶりです。高比良さんの結婚式以来ですね」
 ……やっと返事ができたのに、嫌なことを思い出してしまった。
「そうだね。あれからもう三年が経つんだね」
 そう俺がトイレで号泣したあの結婚式から三年も経ったんだ。
「どう? これからお茶でも」
「…………」
 高比良さんにいかにも自然な流れで誘われてしまい、戸惑った。
 こんなところで高比良さんに会うとは思っていなかったから、部屋着の上にダウンを着ただけの格好だし、家用のダサい眼鏡だし、髪に寝癖がついていないかも心配だった。
 しかし高比良さんは俺の心配をよそに歩き出してしまっている。
 緊張のあまり挙動不審さを隠しきれずに高比良さんの後ろを付いていくと、高比良さんが入ったのはラーメン屋の三軒隣にあるテイクアウト専門のコーヒーショップだった。
 俺の分までコーヒーを買ってくれ恐縮していると、高比良さんは店先に並べられたテーブル席の一つに座った。恐れ多いと思いながらも、恐る恐るその隣の椅子に座った。
 ……あの憧れの高比良さんと休日にお茶するなんて、明日死ぬんじゃないだろうか?
 緊張で手の中でカタカタと揺れるコーヒーカップをテーブルの下に隠した。
 今の今まで気が付かなかったが、今日は晴天だった。雲一つない空の下で、葉をすべて落とした木の枝が微かに揺れている、とても穏やかな日だ。
 隣で高比良さんも空を見上げていた。鼻先が尖っている高比良さんが空を見上げていると、どことなく儚げに見える。
 しかも今日の高比良さんの格好はグレーのコートに黒のマフラーをしていて、休日だからか無造作な髪が風になびく姿は映画のワンシーンのようだ。
 スーツ姿でキビキビ働く高比良さんしか見たことがなかったから、突然のラフな高比良さんは目の保養だった。
「…………」
 ぎこちなく眼球だけを動かして高比良さんのことを見ていたが、そんな俺に気づかずに高比良さんは長い足を投げ出して座り、気が抜けてしまったみたいにボーッと空を見上げている。
 それは心配になるほど長い時間だったが、高比良さんがようやく口を開いた。
「……久しぶりなんだよね、この辺来たの」
「え? そうなんですか?」
「独身時代に来てたのを思い出してまた来てみたんだ」
 そう言ったあと、高比良さんが何かを思い出したように俺を見た。
「あ、離婚したんだ」
「え?」
 離婚?
「結婚式来てくれたのにごめんね」
「……あ、いえ」
 ……高比良さんが離婚した? 高比良さんが離婚した? 高比良さんが離婚した?
「…………」
 震える手で飲んだコーヒーは、甘くて苦くて飲み込みにくかった。
「久我山くんはまだ独身?」
「はい」
「結婚の予定は?」
「全くありません」
「そっか」
 ようやく笑った高比良さんは、すぐに真顔になり、また空を見つめた。
 ……いったい高比良さんに何があったんだ。
 儚げで透明感が増しているのは離婚のせいなのか?
 どんなに忙しくても余裕の笑みをなくさない人だったのに、こんな高比良さんは初めてだ。
「お、お子さんは?」
「いないよ」
「…………」
 どうしてほっとするんだ。俺には関係ないことなのに。不謹慎だろ。
 高比良さんと一緒にしばらく空を眺めていたが、枝が揺れる以外の変化しかなかった。冬の空気は冷たいが風は少なく、車通りも少なかった。
「仕事は順調?」
「え? あ、はい」
 そう言ったけど訂正した。
「あ、ぼちぼちです」
 それでも保険会社を辞めたことは全く後悔していなかった。本当はもっと早く辞めるべきだったと後悔しているくらいだ。生命保険なんて絶対に入らないと決めているくらいには。
「久我山くんは僕の憧れだよ」
「え?」
 横を見ると高比良さんは今は歩道を挟んで向こうにある公園の方を見ていた。
「僕には会社を辞める勇気なんてないから」
「…………」
「だから今休職してるんだ」
「…………」
 ……いったい高比良さんに何があったんだ。
 俺が憧れなんて高比良さんが言うべきセリフじゃないのに。……てっきり今ごろ幸せになっていると思っていたのに。
 寒い空の下で寂しげに公園を見つめる高比良さんの姿に胸が痛くなった。








『高比良さん?』
 電話の向こうで木島きじまが首を傾げているのがわかった。
「ほら、イケメンの」
『お前が好きだった高比良さんだろ?』
「そう」
『久しぶりだと思ったらまた高比良さんかよ』
 木島の声を聞くのは約一年ぶりだった。
 元ラグビー部の木島は体格も良くて体力もあるし、率直な性格は上司からも好かれていた。俺が唯一今でも連絡が取れる元同僚だ。
『あの人離婚して今休職してるぞ』
「なんで休職?」
『さぁな。精神的なものらしいけどな。社内でも噂されてるよ。浮気されて離婚だとか』
「…………」
『高比良さんがどうかしたのか?』
「今日偶然会ったんだ」
『高比良さんと? へぇ、元気そうだった?』
「元気そうではなかった」
『そりゃそうだろうな。結婚してからだいぶノルマに苦しんでたからな。離婚でさらに追い討ちかけられたんだろ。まぁ、今まであの容姿のおかげで楽して契約取ってただけだからな』
「…………」
 そんなことないのに。そりゃあの見た目だから女性の契約者が多かったのは事実だけど。それ以上にちゃんと仕事ができる人なのに。
『チャンスだな』
「え?」
『弱ってる高比良さんに付け込むんだろ?』
「違うよ。高比良さんは俺に興味ないんだから」
『お前に興味ある人間なんているのか?』
 ……相変わらずハッキリ言う奴だ。たしかに俺は取り立てて特徴のある人間ではない地味でポンコツ眼鏡だけど。
『あの人が立ち直ったらもう二度とお前にチャンスはないぞ』
「だからいいんだって」
 あと二年で魔法使いになる覚悟はできてるんだから。


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