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「まだ眠れない?」
「はい」
真っ白に整えられた診察室で、胸に愛知と書かれたネームプレートを付けた長老のような見た目の医者が、パソコン画面を見ている。
家から一番近い心療内科。いつ来ても客より看護師の人数の方が多かった。
「悩みがあるの?」
「何も」
医者はパソコン画面から目をそらさない。
「あんまり悩まない方が良いよ。毎日が寝る前に楽しいことを考えてみて。寝付きが良くなるから」
「…………」
「睡眠薬出しとくからなくなったら来てね」
医者はそう言うと、一度も俺の顔を見ずに処方箋をくれた。
眠れないのは問題じゃない。ただ毎日終わりのない不安を感じるのが辛かった。
しかし自らハマったこの泥沼から抜け出す気もなかった。
「おにーちゃん!」
呼ばれて振り返ると、頭の上におはぎのように髪を丸めた妹が調理場から現れた。
「はい。これ。北海道さんに持っていってあげてね」
「うん」
弁当の入ったビニール袋が昼食の隣に置かれた。
弁当の中身はいつも同じだ。気に入ったら同じ物ばかり食べる人間がいるけれど、三年も食べ続けているのは長過ぎる気がした。
食べ終えた皿を調理場で片付け、弁当とヘルメットを持ち、店先に止めた「しまねニコニコ弁当」と荷台に書かれたバイクに跨った。
小さな商店街の端にある二十年前に夫婦で始めた小さな弁当屋は、今では二人の子供である俺と妹が二人で引き継いでいた。
昼の一番忙しい時間が終わると、わずかな休憩時間にいつも行く場所があった。目的地は商店街から五百メートルほど離れた、薄汚れた白壁の二階建ての建物。
隣のビルの間にバイクを止め、階段を上ろうとすると、一階の山口接骨院のドアが開いた。
中から茶色く染めた髪をライオンのように逆立て、ジブラ柄の巨大なサングラスに派手な豹柄のシャツを着た、北海道さんいわく、アニマルババァが現れた。
「あなたよくいらっしゃるけど北海道さんのお知り合いよね?」
「はい」
「どういう関係?」
「大学の後輩です」
「今日は北海道さんいらっしゃるのかしら?」
アニマルババァはいつもサングラスから眉毛を飛び出させながら話す。
「たぶん」
「じゃあ伝えてくださる? 毎日毎日夜中のトイレのドアの開け閉めがうるさいって! おかげで目が覚めて迷惑なのよ! これ以上あたしの眠りを妨げたら出て行って貰うわよ!」
アニマルババァは今日も眉毛を鋭くサングラスから飛び出させた。
「はい。伝えておきます」
俺がそう答えると、アニマルババァは接骨院のドアを開け、思い切りピシャリと閉めていなくなった。
「…………」
階段を上り、『北海道探偵事務所』と書かれたドアを開けると、中は静まり返っていた。
人の足が乗ったテーブルに弁当の入ったビニール袋を置き、まずは窓を開けた。
ここの主である北海道さんは、いつものようにソファに沈み込み、テーブルに足を投げ出し、よく眠っている。
ちゃんと息をしているか確かめたあと、落ちていた空き缶とペットボトルを拾い、壁に立て掛けていたほうきで床を掃いた。主が掃除することはないこの探偵事務所は、掃いても掃いても雲のような綿埃がどこかしらから出てくる。
机と書棚とテレビが一つずつ、そして小さなキッチンに小さな冷蔵庫に仏壇にトイレ。それだけでこの古くて小さな建物の二階にある事務所は、崩壊しそうなほどひしめきあっていた。
奥にすりガラスの窓が付いたドアがあるが、そこも物置になっている。
とても商売が上手くいっているとは思えない。だがそこに本人だけが気がついていない。
「……島根くん? また来たの?」
キッチンに空き缶を集結させたところでようやく和製シャーロック・ホームズが目を覚ました。
「昼休みですから」
壁にかかる時計は二時を越えたところをさしていた。
「あっ、そう」
よれよれと北海道さんは沈み込んでいたソファから体を起こした。
伸びた髪が顔の半分を隠してしまっている。
細い顎には珍しくまばらに生えた無精髭が見える。ムダ毛の少ない肌がよれたシャツの隙間からもズボンの裾の隙間からも見えている。全身でルーズと無防備を体現しているみたいだ。
「そうだ、新しい依頼が入ったよ」
北海道さんは髪をかき上げ、目をこすりながら言った。
「どんな依頼ですか?」
「不動産屋から。幽霊が出るって噂のアパートをしばらく見張ってくれって。本当に幽霊が出るか調べたいらしい」
「それは霊媒師がやる仕事ではないですか?」
「でも面白そうだろ? 夜な夜な歌い出したりする幽霊なんだって」
「…………」
目覚めた北海道さんの黒目が、好奇心を表すようにクリクリと動き出した。
この人は知り合ったころから何も変わらず、年を取らない。人の心配や不安や嫌味が全く通じない。この事務所の窮状は火を見るよりも明らかなのに、いつも笑っている。
「最近退屈してたんだ。ちょうど良かったよ」
北海道さんはそう言うと、まるで縁側の猫のように両手を上げて大きなあくびをした。
「俺は何をすれば?」
「何もしなくていいよ。今回は幽霊とご対面するだけだし。君の手は一切煩わせないから」
北海道さんはそう言うと、袋から弁当を出し、嬉しそうに出来立ての弁当を食べ始めた。
「はい」
真っ白に整えられた診察室で、胸に愛知と書かれたネームプレートを付けた長老のような見た目の医者が、パソコン画面を見ている。
家から一番近い心療内科。いつ来ても客より看護師の人数の方が多かった。
「悩みがあるの?」
「何も」
医者はパソコン画面から目をそらさない。
「あんまり悩まない方が良いよ。毎日が寝る前に楽しいことを考えてみて。寝付きが良くなるから」
「…………」
「睡眠薬出しとくからなくなったら来てね」
医者はそう言うと、一度も俺の顔を見ずに処方箋をくれた。
眠れないのは問題じゃない。ただ毎日終わりのない不安を感じるのが辛かった。
しかし自らハマったこの泥沼から抜け出す気もなかった。
「おにーちゃん!」
呼ばれて振り返ると、頭の上におはぎのように髪を丸めた妹が調理場から現れた。
「はい。これ。北海道さんに持っていってあげてね」
「うん」
弁当の入ったビニール袋が昼食の隣に置かれた。
弁当の中身はいつも同じだ。気に入ったら同じ物ばかり食べる人間がいるけれど、三年も食べ続けているのは長過ぎる気がした。
食べ終えた皿を調理場で片付け、弁当とヘルメットを持ち、店先に止めた「しまねニコニコ弁当」と荷台に書かれたバイクに跨った。
小さな商店街の端にある二十年前に夫婦で始めた小さな弁当屋は、今では二人の子供である俺と妹が二人で引き継いでいた。
昼の一番忙しい時間が終わると、わずかな休憩時間にいつも行く場所があった。目的地は商店街から五百メートルほど離れた、薄汚れた白壁の二階建ての建物。
隣のビルの間にバイクを止め、階段を上ろうとすると、一階の山口接骨院のドアが開いた。
中から茶色く染めた髪をライオンのように逆立て、ジブラ柄の巨大なサングラスに派手な豹柄のシャツを着た、北海道さんいわく、アニマルババァが現れた。
「あなたよくいらっしゃるけど北海道さんのお知り合いよね?」
「はい」
「どういう関係?」
「大学の後輩です」
「今日は北海道さんいらっしゃるのかしら?」
アニマルババァはいつもサングラスから眉毛を飛び出させながら話す。
「たぶん」
「じゃあ伝えてくださる? 毎日毎日夜中のトイレのドアの開け閉めがうるさいって! おかげで目が覚めて迷惑なのよ! これ以上あたしの眠りを妨げたら出て行って貰うわよ!」
アニマルババァは今日も眉毛を鋭くサングラスから飛び出させた。
「はい。伝えておきます」
俺がそう答えると、アニマルババァは接骨院のドアを開け、思い切りピシャリと閉めていなくなった。
「…………」
階段を上り、『北海道探偵事務所』と書かれたドアを開けると、中は静まり返っていた。
人の足が乗ったテーブルに弁当の入ったビニール袋を置き、まずは窓を開けた。
ここの主である北海道さんは、いつものようにソファに沈み込み、テーブルに足を投げ出し、よく眠っている。
ちゃんと息をしているか確かめたあと、落ちていた空き缶とペットボトルを拾い、壁に立て掛けていたほうきで床を掃いた。主が掃除することはないこの探偵事務所は、掃いても掃いても雲のような綿埃がどこかしらから出てくる。
机と書棚とテレビが一つずつ、そして小さなキッチンに小さな冷蔵庫に仏壇にトイレ。それだけでこの古くて小さな建物の二階にある事務所は、崩壊しそうなほどひしめきあっていた。
奥にすりガラスの窓が付いたドアがあるが、そこも物置になっている。
とても商売が上手くいっているとは思えない。だがそこに本人だけが気がついていない。
「……島根くん? また来たの?」
キッチンに空き缶を集結させたところでようやく和製シャーロック・ホームズが目を覚ました。
「昼休みですから」
壁にかかる時計は二時を越えたところをさしていた。
「あっ、そう」
よれよれと北海道さんは沈み込んでいたソファから体を起こした。
伸びた髪が顔の半分を隠してしまっている。
細い顎には珍しくまばらに生えた無精髭が見える。ムダ毛の少ない肌がよれたシャツの隙間からもズボンの裾の隙間からも見えている。全身でルーズと無防備を体現しているみたいだ。
「そうだ、新しい依頼が入ったよ」
北海道さんは髪をかき上げ、目をこすりながら言った。
「どんな依頼ですか?」
「不動産屋から。幽霊が出るって噂のアパートをしばらく見張ってくれって。本当に幽霊が出るか調べたいらしい」
「それは霊媒師がやる仕事ではないですか?」
「でも面白そうだろ? 夜な夜な歌い出したりする幽霊なんだって」
「…………」
目覚めた北海道さんの黒目が、好奇心を表すようにクリクリと動き出した。
この人は知り合ったころから何も変わらず、年を取らない。人の心配や不安や嫌味が全く通じない。この事務所の窮状は火を見るよりも明らかなのに、いつも笑っている。
「最近退屈してたんだ。ちょうど良かったよ」
北海道さんはそう言うと、まるで縁側の猫のように両手を上げて大きなあくびをした。
「俺は何をすれば?」
「何もしなくていいよ。今回は幽霊とご対面するだけだし。君の手は一切煩わせないから」
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