20 / 33
2巻
2-3
しおりを挟む
藤野利衣子――利佐の姉で、楓の初めての相手で、かつて不倫していた人。
大学時代、初めて藤野屋で利佐に紹介してもらった時は、特になんとも思わなかった。けれど、二度三度と会い、会話をするうちに意気投合し、気持ちが盛り上がっていった。
利佐の姉ということもあり、利佐に隠れて逢瀬を重ねる状況が、まだ若かった楓の気持ちをより盛り上げたのかもしれない。
藤野屋の土間で、場所も考えずに利衣子を抱き寄せてキスをして、その日のうちに一線を越えた。
けれど、ラブホテルで利衣子と済ませた後、彼女は楓の目の前で左手の薬指にマリッジリングを嵌めて見せた。
『ごめんなさい楓君、結婚してるの、私』
それまで、楓と会う時はずっと外していたマリッジリング。
寝た後に指輪を身に着けた彼女に対して、その時は騙されたという怒りよりも、相手を許す気持ちの方が勝った。好きだったから。
それから三ヶ月、利衣子とは不倫関係を続けた。だが、今は後悔しかない。
藤野屋に行くのは一年に一回だけと決め、これまで泊まることはなかったのは、利衣子との不毛な恋を思い出すから。
しかし、今の楓の隣には愛がいる。そして、利衣子への気持ちが愛に対する気持ちと違うことがよくわかった。
昔の恋を反芻しても、ただただ愛への気持ちが募るだけ。
愛との恋が本当に幸福だと、より深いものだと再確認する。
心のどこかに、ずっと引っかかっていた利衣子との強すぎる思い出を、愛との幸せな思い出で塗り替えるために、藤野屋に泊まったのかも、と思う。
おかげで、今の恋がかけがえのないたった一つのものだと、本気で向き合うことができた。
「どうされました?」
なんで彼女がこの番号に電話をしてくるのかと、迷惑な気持ちを隠さない声を出す。
『随分、他人行儀ね。それが普通だけど……昨日は、綺麗な彼女とウチに泊まったんでしょう?』
「……用件はなんでしょう? これはビジネス用の携帯なので、私用の電話は困ります」
『わかっているけれど、頼みたいことがあったの』
「利衣子さんからの頼み事は、一切、聞きません」
利衣子と別れる時、酷く辛かった。
――夫の転勤について行くの。お腹に彼の子がいて、ちゃんと向き合うことができたわ。やっぱり、夫を愛している。本当にごめんなさい。
最後の日、彼女は楓にそう言った。でも、今はそれでよかったと思う。
年を重ねるにつれ、かつての自分を省みることができるようになった。結局のところ、利衣子という人は、自分勝手な人なのだ。
それが薄々わかっていながら、夫のいる彼女と何度も会って、セックスをしていた。
今となっては、過去の自分は、いったい何をしていたのだろうと思う。当時の楓は若く、大人の女性の女らしい言葉や仕草に勝てなかった。
そんな自分の弱さを思い出すたび、今でも頭にくることがある。
自分のことしか考えないような人の事情は、もう自分には関係ない。
二度と、彼女の頼み事など聞きたくはなかった。
『待って。頼みたいことは、藤野屋のことなの……』
「藤野屋?」
藤野屋の名前に、つい聞き返してしまうと、昔と変わらない、どこか儚げな声が言葉を続けた。
『融資をしてほしいの。楓君、大きな会社の社長だって聞いたわ。……利佐は、若女将として弱みを見せまいと肩肘を張ってるけど、実際は藤野屋の内情は火の車で……お願い』
とうの昔に別れて縁を切っている相手に、こうやって電話をかけてくる強かさは変わらない。言い方を変えれば、ズルい人だ。
「本当に融資が必要なら、利佐が自分で申し込んでくるべきです。利佐が何も言わない以上、僕からは何もしません」
『……冷たくなっちゃったわね』
「お言葉ですが、僕は変わっていません。失礼します」
相手の返事を待たずに電話を切った。
リビングのテーブルにスマホを放り投げると、テーブルの上でスマホがひっくり返る。
「どうやって僕の番号を……ああ、宿泊台帳か……」
個人情報の管理はどうなってるんだ、と思いながら、乱暴に髪の毛を掻き上げる。
愛が柔らかくて気持ちいい、と言って触れていたことを思い出し、足早に寝室へ行く。
まだ寝ている愛に、今の話を聞かれなくてよかったと、ホッとする。
シャワーを浴びさせて、約束の前に愛をマンションまで送って……
それらを考えると、そろそろ起こした方がいいかもしれない。眠る彼女の傍へ行き、可愛い寝顔に触れてから、その首筋に顔を埋める。
「愛、起きて」
楓が耳元で言うと、微かに身じろぎした。
さらりと髪が頬を滑り落ちるのが魅力的だった。
「起きて、愛」
頬と首筋に触れて、唇にキスをする。うっすらと目を開けた愛が瞬きをして、楓、と呼んだ。
可愛くて愛しい人。
「シャワー浴びようか? 一緒に行く?」
寝ぼけているのか、何も纏わず起き上がった愛の、綺麗な胸に触りたくなる。
ようやく裸だと気付いた彼女が、赤い顔で布団を引き寄せた。そんな初々しい彼女に、無性に惹かれている。
こうしてずっと、二人で幸せな時間を過ごしていきたい。
そう思った。
3
「しばらく見ないうちに、なんだか色っぽくなった気がするよ? 愛」
「え? なんのこと?」
友達の美晴が訪ねてきて、急遽泊まっていくことになった。
二人ともシャワーを浴びて、のんびりとしていたところでそう言われたので、ちょっとだけうろたえる。
今日は一月二日。初めて実家以外で正月を過ごしている。
昨日と今日の夕方までは、初めてできた彼といた。和風料亭の旅館になっている離れに泊まり、その後、彼の家で過ごした。
年末からあまり会っていなかった美晴は、愛の微妙な変化を感じ取ったのだろうか。
「なんのこと、じゃないよ。愛、あのイケメン彼氏としたんじゃないの? なんか前に会った時と雰囲気が違うし……」
意味深に笑いながらそう言われて、すぐに否定はできなかった。
「雰囲気って何よ、もう……」
曖昧に返事をしただけで肯定はしなかったが、愛の表情や声のトーンでわかったらしい。美晴は、そうか、という顔をして口を開く。
「脱バージンか。痛かったんじゃない? あの人の大きそうだしね」
卑猥なことを口にしながら、ふふっ、と笑う。そうやって、エッチな話に持っていかれると困る。だが美晴は、性関係に対してわりとオープンなのだ。
「……美晴、私その手の話題苦手なのに」
「でも、したんでしょ?」
迫るように愛に身体を近づけ、真剣な顔をする。
「……ま、はい、しましたけれども」
なんで雰囲気くらいでわかるのかな、と思いながら、愛は赤い顔をしてほんの少し横を向いた。
「痛かった?」
間髪を容れずに聞いてくる彼女に、多少ムッとしながら愛は答えた。
「軽く痛かったって言えないほど、痛かったけど!」
あまり突っ込んで聞かれると嫌なのはわかっているくせに、と愛は唇を尖らせる。
「ごめん、ごめん……愛がこの手の話嫌いなの知ってるよ? でも、私は聞きたいし、こういう話をするのが好きなの。そっか、そうよね……お初は痛いよね」
ニヤニヤ笑いながら美晴はそう言った。
こういうガールズトークは本当に苦手だ。しかし、美晴としては、友達だから聞きたいし話せるという気持ちもあるのだろう。
「いいなぁ、ああいうイケメンが初めてで……で、アレ大きかったかな?」
結局はそこに行きつくらしい。
「見たんでしょう、彼のアレ」
「見、たけど、楓のしか見たことないし」
比べようにも比べられない。愛は楓としか経験がないし、ソレのサイズについて聞かれてもわからない。
大きかったか、と聞かれても……と、楓のモノを思い出す。
そこでハッと我に返り、頭の中からそれを追い出した。
「へー、彼、カエデって言うんだ? しかもいつの間にか呼び捨て? この間まで奥宮さんだったのに」
確かに彼女の言う通り、呼び方が変わった。
改めて指摘されると、なんとなく照れてしまう。
奥宮という苗字呼びから楓、と名前呼びになった。彼がそうしてほしいと望んだのもあるが、もうすでに愛の中でも彼を名前で呼ぶことが普通となりつつある。
「美晴、からかわないでよ!」
頬を膨らませると美晴は、だって、と笑う。
「愛、本当に女になってるんだもん。雰囲気が全然違うよ? この前まで、色気なんかなかったのに、今はあるんだからね」
色気と言われて、顔が熱くなる。
顔が赤くなった愛を見て、また美晴がニヤニヤ笑いを浮かべるのを無視した。
「……そう?」
顔を俯けながらそう言うと、美晴は愛の顔を指先で上げさせる。
「うん。だから、彼としたんだな、って思ったんだけど。ま、初めてだから、きつかったでしょうけどね。サイズも大きそうだし」
またそっちの方向へ持っていく、と心の中でげんなりした。
比べようがないけれど、確かに楓のモノは大きかったと思う。あんな大きなモノ入んない、って思ったくらいには。
それに、きつかったというよりも痛かった。
けれど、二回目からは少しピリッとしたくらいで、そこまで痛みはなかった。愛の身体が彼を覚えてしまったからか、裸で抱き合うことへの抵抗が薄れたのかもしれない。
昨日の夜も抱き合って、今日も抱き合った。彼の約束の時間ギリギリまで。
さすがに疲れて、愛はマンションへ送ってもらう車の中で眠ってしまった。でもそれは心地よいだるさで、車内だというのに充実した睡眠だった。
マンションの部屋に入ると、すぐにベッドに横になり、さっきまで眠っていた。今も身体中に倦怠感と、まだ楓が愛の中にいるような感覚が残っている。
楓から求められ、それに応える。愛は、短期間でここまで自分が変わってしまったことに、驚いていた。
この前まではキスもセックスも、何も知らなかったのに。
今では自分からキスを求め、楓の身体を抱きしめる。行為の間、何度も彼の名を呼んだのを覚えていた。
「痛かったし、確かにきつかったけど……それよりも、彼といると私、なんだか今までの自分じゃなくなるみたいで」
ポツリとそう呟く愛に、美晴はフッと笑った。
「変わってもいいじゃん、彼とのエッチ、嫌いじゃなさそうだし。何回もするといいよ。そのうち、彼の弱いとこ見つけてそこを攻めてやったりして」
彼女はそう言って、ふふっ、と楽しそうに笑った。
美晴は前からエッチなことに関しては楽観的。それに、今の彼と上手くいってるから、気持ちに余裕があるのかもしれない。
たぶん、もうすぐ結婚するだろう美晴を見ていると、愛も、これくらい素直に気持ちを表現できたらな、と思う。
「明日はね、彼の親しい人たちを集めて、ロックメイプルの本店でニューイヤーパーティーをするんだって」
話題を変えようと思い、愛は明日のことを話す。
楓は会社の創立メンバーと親しい友人だけを集めて、パーティーを開くらしい。愛もおいで、と言われたので、思い切って行くことにした。
「ロックメイプル本店かぁ、私も行ってみたいなぁ……カジュアルな感じなのかな?」
うらやましいといった顔をしている美晴は、自分も来たそうだった。
「一緒に行っていいか、楓に聞いてみようか?」
「ほんと⁉ いいの?」
身を乗り出して嬉しそうにする彼女に頷く。
「メールしてみる。美晴、会社いつまで休み?」
「明日まで。でも遅くならないように帰ればいいし。愛は五日まで休みなんでしょ?」
けれど、先輩の中には正月も休まずに、添乗員として働いている社員もいる。
愛が勤めているのは、エールトラベラーズという旅行代理店だ。そのうち愛も、添乗員として正月は休まず働く日がくるかもしれない。
だが、しばらくは事務仕事や先輩の補佐が中心だろう。
「うん。私はまだ仕事を一人で任せてもらえないから。でも、先輩は……添乗員としてお正月は外国で、って人も多いよ。その人たちは、後でちゃんと休んでるけど」
そう言いながら楓にメールをする。
楓は常時、仕事用とプライベート用のスマホを持っている。愛は楓の、プライベート用の連絡先だけ教えてもらっていた。
頻繁にかかってくるのはやはり仕事用らしいが、どちらに電話がかかってきているのか、わからない時があるという。
楓らしくて、愛はそのエピソードを聞いた時、微笑ましく思った。
SNSで友達を一緒に連れて行っていいか聞いてみると、しばらくして楓から返事が届く。
「来ていいよ、だって」
「やった! お酒飲めるー! 楽しみ!」
「会費は二千円だって。いい?」
「全然! 二千円なんて安いし!」
本当に楽しみ、という笑顔を浮かべる彼女を見て、愛もニューイヤーパーティーが楽しみになった。
もう明日のことだが、今日だったらいいのに、と思うのは愛が変わった証拠だ。
今日別れたばかりの楓に、もう、会いたいと思う。
明日がとても楽しみだった。
楓に会える時間が、愛にとってはかけがえのないものへと、変化していくのを感じた。
☆ ☆ ☆
――ニューイヤーパーティー当日。
ロックメイプル本店のドアを開けると、すでにパーティーは始まっていた。
軽く流れている音楽と、雑談の声。
少し遅くなったのは、昼間、彼氏と会っていた美晴が、待ち合わせに遅れたからだった。
「なんかみんなオシャレね」
美晴は周りを見てそう言った。パーティーに来ている人たちの中には、ハーフっぽい外見の人も多くいる。
愛と美晴は、カジュアルな服装でいいと言われたので、ほんの少しオシャレをしてきた。
しかし、自分たちの恰好が浮いて感じるほど、みんなオシャレで素敵だったのだ。
「ちょっと場違いな感じがする」
そう言って緩く笑った美晴に、そうだね、と愛も同意する。
「みんな、綺麗な恰好してるね。芸能人みたい」
「そうだねー……」
今更、服を替えようがないので、愛は小さくため息をついて肩を落とす。
ところで楓は、と探すと立ったまま談笑していた。その姿は赤いネクタイに黒のベスト、黒のロングエプロン。
カウンターの中にいるロックメイプルのスタッフ二人も同じ恰好だった。
愛に気付いた楓は手を振って、こちらに近づいてくる。そうして、手でカウンターを示した。
「いらっしゃい」
カウンターに移動しながら、彼に美晴を紹介するために口を開きかける。しかし楓が先に美晴に声をかけた。
「あなたが愛の友達? お名前を教えてください」
いつもの王子様スマイルは、美晴の心も溶かしたらしく、いい笑顔。
それを見て、王子様スマイルを安売りしないでほしい、とモヤモヤした。楓の魅力的な笑顔は、愛だけに向けてほしいと思ってしまう。
「愛の友達の青木美晴です。今日はよろしくお願いします。……ここ、すごく雰囲気がいいですね……それに、なんかカッコイイです、みんなオシャレだし」
美晴は会釈をしつつ、店の感想を素直に口にする。
相変わらずコミュニケーション能力が高いなぁ、と感心した。
「ありがとうございます。僕は今日スタッフだから、あまりお相手はできないけど、どうぞ楽しんでいってください」
そう言って一度カウンターに入って、愛と美晴におしぼりを手渡す。
「楓が、スタッフなの?」
確かにスタッフの恰好をしているが、それはまったく聞いていなかった。
「そう、僕が毎年もてなす係。たまには社員をもてなさないと」
飲み物は、と聞いてきたのは岸本だった。以前、愛にグラタンを作ってくれた人だ。
「お久しぶりです……岸本さん、でしたよね?」
「はい、覚えていてくださって光栄です……お二人とも、お飲み物はアルコール入りでよろしいですか?」
岸本の問いに、美晴がすぐに、もちろん、と答えた。
「私は軽めのアルコール入りで……愛も同じ感じでいいよね?」
「うん」
かしこまりました、と言った岸本がグラスを手に取り用意し始めた。
「愛ちゃんの飲み物は俺が作ろうか? 楓」
そう言ったのは、確か芦屋という名前の、壮年のカッコイイ男の人。
「すみません、頼みます。あっちのうるさい子たちの相手をしないと、今後の仕事に支障をきたすので」
一緒にいるのに楓と話せないのかと、内心がっかりしてしまった。
でも、ずっとそうではないだろうから、と気を取り直す。
よろしくお願いします、と芦屋に言った後、彼が愛に視線を移し、綺麗な目がにこりと笑う。
「ごめんね、愛。少し相手したら、戻ってくるから」
カウンターから手を伸ばして、愛の頭を撫でる。そうしてカウンターを出て行った彼を、つい目で追ってしまった。
綺麗な女性たちがこちらを見て、それから楓を見ている。愛は慌てて視線を逸らして、何がいい? と聞いた低い声に顔を上げた。
「愛ちゃんとその友達、何がいい? 軽めのアルコール入りだったら、なんでもいいかな?」
「あれ? 私、名前言いました?」
芦屋に名乗った記憶がなかったので尋ねると、彼は笑顔で答えた。
「楓から聞いた。君は愛ちゃんだろ? こっちは?」
視線を移して美晴の方を見たので、あ、と思ったけれど美晴は自分で声を出した。
「美晴です」
「美晴ちゃんか……何がいい?」
「私はジンフィズ、愛はチョコレートのモーツァルト……好きだったよね? チョコミルク」
「あれ、モーツァルトって言うの?」
うん、と言った美晴を見て、愛はそれでお願いしますと言った。
「モーツァルトは度数が高いから、少しずつ飲むようにな。あれは味にだまされるから」
そう言いながら、芦屋が手早くカクテルを作ってくれる。あまりにも手際が良くて、驚いた。
楓もお酒を作る手際や、おつまみを出すタイミングが絶妙だったけど、この人はなんだか本当に手慣れている感じがする。
「すごい、プロって感じ」
愛が言うと、芦屋は笑って愛の前にカクテルを置いた。
「こんな簡単なカクテルで褒められるのは、どうも照れくさいけど。これでも楓の師匠だから、あいつより手際よくできるぞ」
芦屋がシェイカーを振り、氷と金属が触れる音が聞こえる。楓のシェイカーの振り方はスマートだったけど、芦屋のはもっと力強い感じがした。
出来上がったジンフィズが美晴の前に置かれた。それと同時に、岸本がパスタやグラタン、ガーリックトーストをカウンターに並べていく。
「なんか、二人だけの世界になるね」
乾杯をした後、美晴がそう言った。そもそも、向こうは向こうで出来上がっている。向こうというのは楓が相手をしている女の子たち、そして男の人たち。
それぞれのテーブルで盛り上がっている。その中には、楓の秘書であり友人でもある柘植と、その婚約者のコラリーもいた。
柘植とコラリーのテーブルには、どう見てもハーフっぽい綺麗な顔立ちの人たちがいた。
楓がフランスと日本のハーフだから、外国人の知り合いや友達がいてもおかしくはない。
「あいつらのところには、適当に酒と料理を置いてあるから。君らの相手は、俺と岸本ってことで、いいかな?」
芦屋の笑った顔は魅力的だ。いい年の重ね方をしている彼を見て、愛は微笑む。
「もちろんです。芦屋さんも、岸本さんもカッコイイし」
愛の言葉に、嬉しいね、と芦屋は言った。
「どうもありがとう。岸本、カッコイイってよ?」
「や……照れますね……」
そう言って頭を掻く岸本は、同年代の男の人という感じだった。
二人と楽しく話しながらも、やはり気になるのは、後ろの席にいる楓と、彼と親しく話している人たちで。
時々後ろを振り向いて目にする楓は、女の子たちと楽しそうに話している。
顔を近づけて笑ったり、髪の毛を触らせたり。
そんなものを見せられたら、愛だってあまりいい気はしない。楓は愛の彼氏なのだから、他の女の人に触らせないでほしいと思った。
ここにいる人たちは、楓にとって大切な仕事仲間で、友人たちなのだろう。彼らに比べたら、愛と楓の付き合いなどまだ始まったばかりにすぎない。
それでも、小さな嫉妬が胸の中に芽生えるのはしょうがない。なんで楓は、他の女の人にあんなに身体を触らせるんだろうかと思ってしまう。
愛の表情で嫉妬しているのを察したのか、芦屋がフォローするように声をかけてきた。
「楓は誰にでも優しいからな。あいつの母親からも、女には優しくしろって言われてきてるし」
ハッとしてカウンターに目を向けると、芦屋は優しく笑っていた。
自分はいったいどんな顔で、楓のことを見つめていたのか。きっと、あまりいい表情ではなかったに違いない。
「芦屋さんは、楓のお母さんを知ってるんですか?」
気を取り直して愛が芦屋に質問すると、彼はすぐに答えてくれた。
「知ってるさ。ブリジットさんのおかげもあって、楓は成功しているからな。……俺は、あいつの伯父がオーナーをしていたこのバーに、雇われで勤めてた。オーナーが夜逃げするまで、借金のことなんかまったく知らなかった。……楓が債務処理の手続きをしてくれたおかげで、この店はどうにかなくならずに済んだんだ。楓には感謝しているよ」
そうなんですね、と愛が相槌を打つ。すると、美晴がカウンターから身を乗り出して、その先の話を尋ねた。
借金の話は、以前楓から聞いていた愛も、興味がある。
「奥宮さんのお母さんって、そんなに経営能力とかあったんですか?」
美晴の言葉に、まぁね、と言った芦屋は煙草に火をつけた。
煙が愛たちにかからないよう、横を向いて吐くと、笑顔で頷く。
大学時代、初めて藤野屋で利佐に紹介してもらった時は、特になんとも思わなかった。けれど、二度三度と会い、会話をするうちに意気投合し、気持ちが盛り上がっていった。
利佐の姉ということもあり、利佐に隠れて逢瀬を重ねる状況が、まだ若かった楓の気持ちをより盛り上げたのかもしれない。
藤野屋の土間で、場所も考えずに利衣子を抱き寄せてキスをして、その日のうちに一線を越えた。
けれど、ラブホテルで利衣子と済ませた後、彼女は楓の目の前で左手の薬指にマリッジリングを嵌めて見せた。
『ごめんなさい楓君、結婚してるの、私』
それまで、楓と会う時はずっと外していたマリッジリング。
寝た後に指輪を身に着けた彼女に対して、その時は騙されたという怒りよりも、相手を許す気持ちの方が勝った。好きだったから。
それから三ヶ月、利衣子とは不倫関係を続けた。だが、今は後悔しかない。
藤野屋に行くのは一年に一回だけと決め、これまで泊まることはなかったのは、利衣子との不毛な恋を思い出すから。
しかし、今の楓の隣には愛がいる。そして、利衣子への気持ちが愛に対する気持ちと違うことがよくわかった。
昔の恋を反芻しても、ただただ愛への気持ちが募るだけ。
愛との恋が本当に幸福だと、より深いものだと再確認する。
心のどこかに、ずっと引っかかっていた利衣子との強すぎる思い出を、愛との幸せな思い出で塗り替えるために、藤野屋に泊まったのかも、と思う。
おかげで、今の恋がかけがえのないたった一つのものだと、本気で向き合うことができた。
「どうされました?」
なんで彼女がこの番号に電話をしてくるのかと、迷惑な気持ちを隠さない声を出す。
『随分、他人行儀ね。それが普通だけど……昨日は、綺麗な彼女とウチに泊まったんでしょう?』
「……用件はなんでしょう? これはビジネス用の携帯なので、私用の電話は困ります」
『わかっているけれど、頼みたいことがあったの』
「利衣子さんからの頼み事は、一切、聞きません」
利衣子と別れる時、酷く辛かった。
――夫の転勤について行くの。お腹に彼の子がいて、ちゃんと向き合うことができたわ。やっぱり、夫を愛している。本当にごめんなさい。
最後の日、彼女は楓にそう言った。でも、今はそれでよかったと思う。
年を重ねるにつれ、かつての自分を省みることができるようになった。結局のところ、利衣子という人は、自分勝手な人なのだ。
それが薄々わかっていながら、夫のいる彼女と何度も会って、セックスをしていた。
今となっては、過去の自分は、いったい何をしていたのだろうと思う。当時の楓は若く、大人の女性の女らしい言葉や仕草に勝てなかった。
そんな自分の弱さを思い出すたび、今でも頭にくることがある。
自分のことしか考えないような人の事情は、もう自分には関係ない。
二度と、彼女の頼み事など聞きたくはなかった。
『待って。頼みたいことは、藤野屋のことなの……』
「藤野屋?」
藤野屋の名前に、つい聞き返してしまうと、昔と変わらない、どこか儚げな声が言葉を続けた。
『融資をしてほしいの。楓君、大きな会社の社長だって聞いたわ。……利佐は、若女将として弱みを見せまいと肩肘を張ってるけど、実際は藤野屋の内情は火の車で……お願い』
とうの昔に別れて縁を切っている相手に、こうやって電話をかけてくる強かさは変わらない。言い方を変えれば、ズルい人だ。
「本当に融資が必要なら、利佐が自分で申し込んでくるべきです。利佐が何も言わない以上、僕からは何もしません」
『……冷たくなっちゃったわね』
「お言葉ですが、僕は変わっていません。失礼します」
相手の返事を待たずに電話を切った。
リビングのテーブルにスマホを放り投げると、テーブルの上でスマホがひっくり返る。
「どうやって僕の番号を……ああ、宿泊台帳か……」
個人情報の管理はどうなってるんだ、と思いながら、乱暴に髪の毛を掻き上げる。
愛が柔らかくて気持ちいい、と言って触れていたことを思い出し、足早に寝室へ行く。
まだ寝ている愛に、今の話を聞かれなくてよかったと、ホッとする。
シャワーを浴びさせて、約束の前に愛をマンションまで送って……
それらを考えると、そろそろ起こした方がいいかもしれない。眠る彼女の傍へ行き、可愛い寝顔に触れてから、その首筋に顔を埋める。
「愛、起きて」
楓が耳元で言うと、微かに身じろぎした。
さらりと髪が頬を滑り落ちるのが魅力的だった。
「起きて、愛」
頬と首筋に触れて、唇にキスをする。うっすらと目を開けた愛が瞬きをして、楓、と呼んだ。
可愛くて愛しい人。
「シャワー浴びようか? 一緒に行く?」
寝ぼけているのか、何も纏わず起き上がった愛の、綺麗な胸に触りたくなる。
ようやく裸だと気付いた彼女が、赤い顔で布団を引き寄せた。そんな初々しい彼女に、無性に惹かれている。
こうしてずっと、二人で幸せな時間を過ごしていきたい。
そう思った。
3
「しばらく見ないうちに、なんだか色っぽくなった気がするよ? 愛」
「え? なんのこと?」
友達の美晴が訪ねてきて、急遽泊まっていくことになった。
二人ともシャワーを浴びて、のんびりとしていたところでそう言われたので、ちょっとだけうろたえる。
今日は一月二日。初めて実家以外で正月を過ごしている。
昨日と今日の夕方までは、初めてできた彼といた。和風料亭の旅館になっている離れに泊まり、その後、彼の家で過ごした。
年末からあまり会っていなかった美晴は、愛の微妙な変化を感じ取ったのだろうか。
「なんのこと、じゃないよ。愛、あのイケメン彼氏としたんじゃないの? なんか前に会った時と雰囲気が違うし……」
意味深に笑いながらそう言われて、すぐに否定はできなかった。
「雰囲気って何よ、もう……」
曖昧に返事をしただけで肯定はしなかったが、愛の表情や声のトーンでわかったらしい。美晴は、そうか、という顔をして口を開く。
「脱バージンか。痛かったんじゃない? あの人の大きそうだしね」
卑猥なことを口にしながら、ふふっ、と笑う。そうやって、エッチな話に持っていかれると困る。だが美晴は、性関係に対してわりとオープンなのだ。
「……美晴、私その手の話題苦手なのに」
「でも、したんでしょ?」
迫るように愛に身体を近づけ、真剣な顔をする。
「……ま、はい、しましたけれども」
なんで雰囲気くらいでわかるのかな、と思いながら、愛は赤い顔をしてほんの少し横を向いた。
「痛かった?」
間髪を容れずに聞いてくる彼女に、多少ムッとしながら愛は答えた。
「軽く痛かったって言えないほど、痛かったけど!」
あまり突っ込んで聞かれると嫌なのはわかっているくせに、と愛は唇を尖らせる。
「ごめん、ごめん……愛がこの手の話嫌いなの知ってるよ? でも、私は聞きたいし、こういう話をするのが好きなの。そっか、そうよね……お初は痛いよね」
ニヤニヤ笑いながら美晴はそう言った。
こういうガールズトークは本当に苦手だ。しかし、美晴としては、友達だから聞きたいし話せるという気持ちもあるのだろう。
「いいなぁ、ああいうイケメンが初めてで……で、アレ大きかったかな?」
結局はそこに行きつくらしい。
「見たんでしょう、彼のアレ」
「見、たけど、楓のしか見たことないし」
比べようにも比べられない。愛は楓としか経験がないし、ソレのサイズについて聞かれてもわからない。
大きかったか、と聞かれても……と、楓のモノを思い出す。
そこでハッと我に返り、頭の中からそれを追い出した。
「へー、彼、カエデって言うんだ? しかもいつの間にか呼び捨て? この間まで奥宮さんだったのに」
確かに彼女の言う通り、呼び方が変わった。
改めて指摘されると、なんとなく照れてしまう。
奥宮という苗字呼びから楓、と名前呼びになった。彼がそうしてほしいと望んだのもあるが、もうすでに愛の中でも彼を名前で呼ぶことが普通となりつつある。
「美晴、からかわないでよ!」
頬を膨らませると美晴は、だって、と笑う。
「愛、本当に女になってるんだもん。雰囲気が全然違うよ? この前まで、色気なんかなかったのに、今はあるんだからね」
色気と言われて、顔が熱くなる。
顔が赤くなった愛を見て、また美晴がニヤニヤ笑いを浮かべるのを無視した。
「……そう?」
顔を俯けながらそう言うと、美晴は愛の顔を指先で上げさせる。
「うん。だから、彼としたんだな、って思ったんだけど。ま、初めてだから、きつかったでしょうけどね。サイズも大きそうだし」
またそっちの方向へ持っていく、と心の中でげんなりした。
比べようがないけれど、確かに楓のモノは大きかったと思う。あんな大きなモノ入んない、って思ったくらいには。
それに、きつかったというよりも痛かった。
けれど、二回目からは少しピリッとしたくらいで、そこまで痛みはなかった。愛の身体が彼を覚えてしまったからか、裸で抱き合うことへの抵抗が薄れたのかもしれない。
昨日の夜も抱き合って、今日も抱き合った。彼の約束の時間ギリギリまで。
さすがに疲れて、愛はマンションへ送ってもらう車の中で眠ってしまった。でもそれは心地よいだるさで、車内だというのに充実した睡眠だった。
マンションの部屋に入ると、すぐにベッドに横になり、さっきまで眠っていた。今も身体中に倦怠感と、まだ楓が愛の中にいるような感覚が残っている。
楓から求められ、それに応える。愛は、短期間でここまで自分が変わってしまったことに、驚いていた。
この前まではキスもセックスも、何も知らなかったのに。
今では自分からキスを求め、楓の身体を抱きしめる。行為の間、何度も彼の名を呼んだのを覚えていた。
「痛かったし、確かにきつかったけど……それよりも、彼といると私、なんだか今までの自分じゃなくなるみたいで」
ポツリとそう呟く愛に、美晴はフッと笑った。
「変わってもいいじゃん、彼とのエッチ、嫌いじゃなさそうだし。何回もするといいよ。そのうち、彼の弱いとこ見つけてそこを攻めてやったりして」
彼女はそう言って、ふふっ、と楽しそうに笑った。
美晴は前からエッチなことに関しては楽観的。それに、今の彼と上手くいってるから、気持ちに余裕があるのかもしれない。
たぶん、もうすぐ結婚するだろう美晴を見ていると、愛も、これくらい素直に気持ちを表現できたらな、と思う。
「明日はね、彼の親しい人たちを集めて、ロックメイプルの本店でニューイヤーパーティーをするんだって」
話題を変えようと思い、愛は明日のことを話す。
楓は会社の創立メンバーと親しい友人だけを集めて、パーティーを開くらしい。愛もおいで、と言われたので、思い切って行くことにした。
「ロックメイプル本店かぁ、私も行ってみたいなぁ……カジュアルな感じなのかな?」
うらやましいといった顔をしている美晴は、自分も来たそうだった。
「一緒に行っていいか、楓に聞いてみようか?」
「ほんと⁉ いいの?」
身を乗り出して嬉しそうにする彼女に頷く。
「メールしてみる。美晴、会社いつまで休み?」
「明日まで。でも遅くならないように帰ればいいし。愛は五日まで休みなんでしょ?」
けれど、先輩の中には正月も休まずに、添乗員として働いている社員もいる。
愛が勤めているのは、エールトラベラーズという旅行代理店だ。そのうち愛も、添乗員として正月は休まず働く日がくるかもしれない。
だが、しばらくは事務仕事や先輩の補佐が中心だろう。
「うん。私はまだ仕事を一人で任せてもらえないから。でも、先輩は……添乗員としてお正月は外国で、って人も多いよ。その人たちは、後でちゃんと休んでるけど」
そう言いながら楓にメールをする。
楓は常時、仕事用とプライベート用のスマホを持っている。愛は楓の、プライベート用の連絡先だけ教えてもらっていた。
頻繁にかかってくるのはやはり仕事用らしいが、どちらに電話がかかってきているのか、わからない時があるという。
楓らしくて、愛はそのエピソードを聞いた時、微笑ましく思った。
SNSで友達を一緒に連れて行っていいか聞いてみると、しばらくして楓から返事が届く。
「来ていいよ、だって」
「やった! お酒飲めるー! 楽しみ!」
「会費は二千円だって。いい?」
「全然! 二千円なんて安いし!」
本当に楽しみ、という笑顔を浮かべる彼女を見て、愛もニューイヤーパーティーが楽しみになった。
もう明日のことだが、今日だったらいいのに、と思うのは愛が変わった証拠だ。
今日別れたばかりの楓に、もう、会いたいと思う。
明日がとても楽しみだった。
楓に会える時間が、愛にとってはかけがえのないものへと、変化していくのを感じた。
☆ ☆ ☆
――ニューイヤーパーティー当日。
ロックメイプル本店のドアを開けると、すでにパーティーは始まっていた。
軽く流れている音楽と、雑談の声。
少し遅くなったのは、昼間、彼氏と会っていた美晴が、待ち合わせに遅れたからだった。
「なんかみんなオシャレね」
美晴は周りを見てそう言った。パーティーに来ている人たちの中には、ハーフっぽい外見の人も多くいる。
愛と美晴は、カジュアルな服装でいいと言われたので、ほんの少しオシャレをしてきた。
しかし、自分たちの恰好が浮いて感じるほど、みんなオシャレで素敵だったのだ。
「ちょっと場違いな感じがする」
そう言って緩く笑った美晴に、そうだね、と愛も同意する。
「みんな、綺麗な恰好してるね。芸能人みたい」
「そうだねー……」
今更、服を替えようがないので、愛は小さくため息をついて肩を落とす。
ところで楓は、と探すと立ったまま談笑していた。その姿は赤いネクタイに黒のベスト、黒のロングエプロン。
カウンターの中にいるロックメイプルのスタッフ二人も同じ恰好だった。
愛に気付いた楓は手を振って、こちらに近づいてくる。そうして、手でカウンターを示した。
「いらっしゃい」
カウンターに移動しながら、彼に美晴を紹介するために口を開きかける。しかし楓が先に美晴に声をかけた。
「あなたが愛の友達? お名前を教えてください」
いつもの王子様スマイルは、美晴の心も溶かしたらしく、いい笑顔。
それを見て、王子様スマイルを安売りしないでほしい、とモヤモヤした。楓の魅力的な笑顔は、愛だけに向けてほしいと思ってしまう。
「愛の友達の青木美晴です。今日はよろしくお願いします。……ここ、すごく雰囲気がいいですね……それに、なんかカッコイイです、みんなオシャレだし」
美晴は会釈をしつつ、店の感想を素直に口にする。
相変わらずコミュニケーション能力が高いなぁ、と感心した。
「ありがとうございます。僕は今日スタッフだから、あまりお相手はできないけど、どうぞ楽しんでいってください」
そう言って一度カウンターに入って、愛と美晴におしぼりを手渡す。
「楓が、スタッフなの?」
確かにスタッフの恰好をしているが、それはまったく聞いていなかった。
「そう、僕が毎年もてなす係。たまには社員をもてなさないと」
飲み物は、と聞いてきたのは岸本だった。以前、愛にグラタンを作ってくれた人だ。
「お久しぶりです……岸本さん、でしたよね?」
「はい、覚えていてくださって光栄です……お二人とも、お飲み物はアルコール入りでよろしいですか?」
岸本の問いに、美晴がすぐに、もちろん、と答えた。
「私は軽めのアルコール入りで……愛も同じ感じでいいよね?」
「うん」
かしこまりました、と言った岸本がグラスを手に取り用意し始めた。
「愛ちゃんの飲み物は俺が作ろうか? 楓」
そう言ったのは、確か芦屋という名前の、壮年のカッコイイ男の人。
「すみません、頼みます。あっちのうるさい子たちの相手をしないと、今後の仕事に支障をきたすので」
一緒にいるのに楓と話せないのかと、内心がっかりしてしまった。
でも、ずっとそうではないだろうから、と気を取り直す。
よろしくお願いします、と芦屋に言った後、彼が愛に視線を移し、綺麗な目がにこりと笑う。
「ごめんね、愛。少し相手したら、戻ってくるから」
カウンターから手を伸ばして、愛の頭を撫でる。そうしてカウンターを出て行った彼を、つい目で追ってしまった。
綺麗な女性たちがこちらを見て、それから楓を見ている。愛は慌てて視線を逸らして、何がいい? と聞いた低い声に顔を上げた。
「愛ちゃんとその友達、何がいい? 軽めのアルコール入りだったら、なんでもいいかな?」
「あれ? 私、名前言いました?」
芦屋に名乗った記憶がなかったので尋ねると、彼は笑顔で答えた。
「楓から聞いた。君は愛ちゃんだろ? こっちは?」
視線を移して美晴の方を見たので、あ、と思ったけれど美晴は自分で声を出した。
「美晴です」
「美晴ちゃんか……何がいい?」
「私はジンフィズ、愛はチョコレートのモーツァルト……好きだったよね? チョコミルク」
「あれ、モーツァルトって言うの?」
うん、と言った美晴を見て、愛はそれでお願いしますと言った。
「モーツァルトは度数が高いから、少しずつ飲むようにな。あれは味にだまされるから」
そう言いながら、芦屋が手早くカクテルを作ってくれる。あまりにも手際が良くて、驚いた。
楓もお酒を作る手際や、おつまみを出すタイミングが絶妙だったけど、この人はなんだか本当に手慣れている感じがする。
「すごい、プロって感じ」
愛が言うと、芦屋は笑って愛の前にカクテルを置いた。
「こんな簡単なカクテルで褒められるのは、どうも照れくさいけど。これでも楓の師匠だから、あいつより手際よくできるぞ」
芦屋がシェイカーを振り、氷と金属が触れる音が聞こえる。楓のシェイカーの振り方はスマートだったけど、芦屋のはもっと力強い感じがした。
出来上がったジンフィズが美晴の前に置かれた。それと同時に、岸本がパスタやグラタン、ガーリックトーストをカウンターに並べていく。
「なんか、二人だけの世界になるね」
乾杯をした後、美晴がそう言った。そもそも、向こうは向こうで出来上がっている。向こうというのは楓が相手をしている女の子たち、そして男の人たち。
それぞれのテーブルで盛り上がっている。その中には、楓の秘書であり友人でもある柘植と、その婚約者のコラリーもいた。
柘植とコラリーのテーブルには、どう見てもハーフっぽい綺麗な顔立ちの人たちがいた。
楓がフランスと日本のハーフだから、外国人の知り合いや友達がいてもおかしくはない。
「あいつらのところには、適当に酒と料理を置いてあるから。君らの相手は、俺と岸本ってことで、いいかな?」
芦屋の笑った顔は魅力的だ。いい年の重ね方をしている彼を見て、愛は微笑む。
「もちろんです。芦屋さんも、岸本さんもカッコイイし」
愛の言葉に、嬉しいね、と芦屋は言った。
「どうもありがとう。岸本、カッコイイってよ?」
「や……照れますね……」
そう言って頭を掻く岸本は、同年代の男の人という感じだった。
二人と楽しく話しながらも、やはり気になるのは、後ろの席にいる楓と、彼と親しく話している人たちで。
時々後ろを振り向いて目にする楓は、女の子たちと楽しそうに話している。
顔を近づけて笑ったり、髪の毛を触らせたり。
そんなものを見せられたら、愛だってあまりいい気はしない。楓は愛の彼氏なのだから、他の女の人に触らせないでほしいと思った。
ここにいる人たちは、楓にとって大切な仕事仲間で、友人たちなのだろう。彼らに比べたら、愛と楓の付き合いなどまだ始まったばかりにすぎない。
それでも、小さな嫉妬が胸の中に芽生えるのはしょうがない。なんで楓は、他の女の人にあんなに身体を触らせるんだろうかと思ってしまう。
愛の表情で嫉妬しているのを察したのか、芦屋がフォローするように声をかけてきた。
「楓は誰にでも優しいからな。あいつの母親からも、女には優しくしろって言われてきてるし」
ハッとしてカウンターに目を向けると、芦屋は優しく笑っていた。
自分はいったいどんな顔で、楓のことを見つめていたのか。きっと、あまりいい表情ではなかったに違いない。
「芦屋さんは、楓のお母さんを知ってるんですか?」
気を取り直して愛が芦屋に質問すると、彼はすぐに答えてくれた。
「知ってるさ。ブリジットさんのおかげもあって、楓は成功しているからな。……俺は、あいつの伯父がオーナーをしていたこのバーに、雇われで勤めてた。オーナーが夜逃げするまで、借金のことなんかまったく知らなかった。……楓が債務処理の手続きをしてくれたおかげで、この店はどうにかなくならずに済んだんだ。楓には感謝しているよ」
そうなんですね、と愛が相槌を打つ。すると、美晴がカウンターから身を乗り出して、その先の話を尋ねた。
借金の話は、以前楓から聞いていた愛も、興味がある。
「奥宮さんのお母さんって、そんなに経営能力とかあったんですか?」
美晴の言葉に、まぁね、と言った芦屋は煙草に火をつけた。
煙が愛たちにかからないよう、横を向いて吐くと、笑顔で頷く。
10
お気に入りに追加
186
あなたにおすすめの小説

お飾りな妻は何を思う
湖月もか
恋愛
リーリアには二歳歳上の婚約者がいる。
彼は突然父が連れてきた少年で、幼い頃から美しい人だったが歳を重ねるにつれてより美しさが際立つ顔つきに。
次第に婚約者へ惹かれていくリーリア。しかし彼にとっては世間体のための結婚だった。
そんなお飾り妻リーリアとその夫の話。


どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。

過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。