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1巻
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1
好きな人がいた。
彼の優しい話し方が好きだった。
ただ、見つめていることしかできなかった人。
けれど、見つめているうちに、その人の変化に気が付いた。
とても話しやすくなって、笑顔も多くなった。
彼も、恋をしているのだと思った。だって自分がそうだったから。
こういう時の女の勘って、外れたためしがない。
そしてその勘は、やっぱり当たっていた。
可愛い人と、一緒に歩いているその人を見た。滅多に見られない満面の笑みを浮かべる彼は、この上なく素敵だった。あの笑顔を見せるのは、きっと彼女の前だけなのだろう。
私だって、あなたの前では素敵に笑える、綺麗になれる――
そう思ったって、彼の好きな人にはなれない。私では、彼と腕を組んで歩けるような関係にはなれないのだと、すぐにわかった。
どんなに好きでも、恋には諦めも必要なのだろう。
でもいつか。きっと私にも、素敵な人が――
絶対に。
☆ ☆ ☆
「愛は理想が高すぎるんだよ」
荘厳な雰囲気のチャペルの中、大学からの友人である青木美晴に断言される。
結婚式に出ると結婚したいなって思う、と言っただけなのに。まさか、こんなことを言われるとは思わなかった。
「そんなことない」
「あるよ。愛のお兄さんたち見てれば、わかるし」
そう言われて、愛はぐっと言葉に詰まる。
篠原愛、二十四歳になったばかり。四人兄弟の末っ子で、兄が三人いる。
「あのお兄さんたちくらいの相手じゃないと、愛はあんなドレス、着れないわ」
あんなドレス、というのは、ウェディングドレスのこと。
女としては、やっぱり憧れる。見るたびにうらやましくて、いいなぁ、と思う。
久しぶりに友人の結婚式に呼ばれた。二十四歳での結婚はわりと早い方だと思うけれど、なんと友人の結婚式はこれで四度目だ。つまり、すでに四人の友人が結婚しているということ。
つい先日も、一番上の兄が結婚式を挙げたばかり。
今思い出しても素敵な式で、花嫁のウェディングドレスも綺麗だった。
「美晴、確かにうちの兄さんたちは素敵だけど、それと私の理想が高いのは違うよ?」
「よく言う! あんたの好み、一番上の、壱哉さんでしょ? それこそ無理。あんた一生、結婚できない」
一番上の兄は壱哉という。三十五歳の彼は、現在、外資系の会社で支社長をしている。背が高くてスタイルも抜群、おまけに頭もいい。そして先日、愛が憧れている素敵な女性と結婚した。
「好みじゃなくて、理想、だってば」
「どっちでも同じ。だから、無理って言ってんの」
愛は唇を尖らせる。いくら友達でも酷い言いぐさではないか。
心の中で文句を言いながら、新郎と新婦を見た。
とても幸せそうな友人の旦那様は、少し小太りだけど優しそうだ。旦那様と微笑み合う友人が、失恋したばかりの愛にはうらやましかった。
そうこうする間に式が終わり、披露宴会場に移動する。
美味しい料理を食べて、花嫁に祝いの言葉を述べた後は、久しぶりに会う友達と近況を語り合う。
そして午後三時には披露宴が終わった。二次会はないため、その場で解散となる。
今月は財布がややピンチだったから、壱哉の妻の比奈に結婚式用のドレスを借りた。スリムな彼女の服が入るか心配だったが、なんとか着れたので一安心。クリーニングをして返さなければ、と思いながら美晴と連れ立って会場の外へ向かう。
「じゃあ私、先に帰るね。彼が迎えに来てるはずだから。愛も早く、送り迎えしてくれる彼氏作ったら? 私の友達の中で……っていうか、さっきの披露宴会場の中でも、愛が一番、綺麗で可愛いんだから」
「……ありがと、美晴」
手を振る美晴に手を振り返して、愛はため息をつく。
ふと視線を移すと大きな鏡が目に入る。目の前を行ったり来たりする人々の間から、自分の姿を見つめた。
比奈から借りたのは、優しいピンク色のアメリカンスリーブ型のドレスだった。腰にリボンのあるデザインで、膝下まであるミモレ丈だ。
数着見せてもらったが、一目見て可愛いと思い、速攻で決めた。
愛が一番綺麗で可愛い、と美晴は言ってくれたが、改めて鏡で自身の姿を見ると、そこまでには思えない。
それに、美晴は褒めてくれたけれど、これまで異性に告白されたこともないし、お付き合いもしたことがない。おまけに失恋したばかり。
美晴の言う通り、確かにちょっとだけ好みがうるさいかもしれないが、そういう機会は皆無だったのだ。
「だって、壱兄も、浩兄も、健兄もそれぞれカッコイイんだもん。身近な男の人があれだったら、理想が高くなるのもしょうがないじゃん」
一番上の兄の壱哉は本当にカッコイイ。穏やかで優しくて、笑顔が素敵。
二番目の兄、浩二は物静かで安心する人。もちろん顔もいい。浩二は、愛が高校生の頃に亡くなった父の跡を継いで、菓子職人になった。愛の実家は和菓子屋で秋月堂という。浩二は綺麗で繊細な美味しい和菓子を作っているのだ。
だから愛は常々、菓子において兄が作る和菓子に勝るものはないと思っている。その兄は、今は奥さんと一緒に店を守ってくれている。
そして、三番目の兄は、健三。明るくて優しくて、天真爛漫という言葉が似合う人だ。前向きで頭もいい健三に、愛はよく勉強を見てもらっていた。今は一流企業の営業部に勤め、可愛い奥さんもいる。
そんな素敵な、ちょっと年の離れた兄たちに囲まれて育てば、理想が高くなるのも当たり前だ……と、愛は思う。
『あとは、愛だけね』
壱兄の結婚が決まった時、母はそう笑って愛の頭を撫でた。
でもお母さん、と心の中で呟く。
認めたくはないけど、まだ当分はブラコンが治らないと思います、と。
後れ毛をわざと作ってアレンジした髪に触れ、愛はもう一度ため息をつく。
いつか私にも、好きだったあの人や、兄たちのように特別な誰かが現れるのだろうか……
そんなことを考えながら、一歩足を踏み出した時だった。
「すみません、失礼ですが……」
背後から呼び止められて振り返ると、綺麗な目をした男の人が愛をじっと見ている。
緑っぽい茶色のガラス玉のような瞳。
どう見ても、ハーフっぽく見える顔立ち。それこそタレントやモデルといってもおかしくないほど、綺麗で整った容姿をしている。かといって女性らしいわけではなく、男性らしい力強い雰囲気。
髪の色はやや明るく、フォーマルスーツを着た姿は王子様のようだった。
「ああ、やっぱり。篠原支社長の妹さん、ですよね?」
篠原支社長、というのは兄の壱哉のこと。ということは、兄の仕事相手かもしれないと思った。
「はい、そうです……えっと? 兄のお仕事の……?」
「支社長の結婚式の二次会で、一度お会いしているのですが……店の名前はDuventといいます。覚えてますか?」
「……あ! あの素敵なお店の!」
壱哉の結婚式の二次会は、会社の人が選んだという雰囲気の良い店で開かれた。綺麗で食事も美味しかったのを覚えている。個人的にもまた行きたい、と思ったほどだ。
この人は、確かそこのオーナーだったはず、と思い出し、愛は軽く会釈する。
でも名前は覚えていなかった。それを察してか、彼は笑みを浮かべて名乗った。
「奥宮楓です。以前お会いした時も綺麗な方だと思いましたが……今日はまた一段とお綺麗なので、声をかけるのを躊躇いました」
外国人だ、と愛は内心緩く笑ってしまった。
こうして先に容姿を褒める言い方が、外国の人そのものだ。
心の中で緩く笑うのと同じように、愛は目の前の彼に対し愛想笑いを浮かべる。自分の周りに、綺麗だから声をかけるのを躊躇った、とか口に出す人はいない。
「篠原さんも、結婚式に?」
「はい、友達の。もう終わりましたけど」
「そうですか。僕も今、終わったところです」
にこりと笑った顔は本当に王子様。ハーフって本当にいいよなぁ、とついじっと見つめてしまった。
でも、兄の仕事相手でもないようだし、と愛はこの場を離れたいと思った。
こういう、コミュニケーションを積極的に取ってくる人は、なんだか苦手なのだ。
「これからお帰りですか?」
「はい」
「送りましょうか?」
王子スマイルだった。愛は彼を見て固まる。
ほぼ初対面なのにそれはないだろう、と愛はやんわり断った。
「……いえ、駅もすぐそこなので」
なんとか笑みを浮かべて言うと、彼も同じように笑って言った。
「送ります」
「……あの、あ、はい」
意外と強引。
はっきり言うその言い方に、なんだか送ってもらった方がいい気がして、了承してしまった。
強引そうには見えなかったから、愛は意外に思って相手を見る。
というか、ほとんど初対面なのに、と少しだけ警戒心を抱く。
そんな愛に、笑みを浮かべた王子様はこっちです、と言った。
連れて行かれた駐車場には、白いメルセデス。兄の壱哉が乗っている車と一緒の形だった。さすがに持っている車も高級だと思った。
助手席のドアを開け、どうぞ、と中に促される。
覚えのある座り心地の良さにほっと息を吐くと、運転席に乗り込んできた奥宮が何かを差し出してきた。
「篠原支社長に、これを渡してくれますか?」
見ると、小さな白い封筒がいびつな形に盛り上がっている。
受け取って中身を確認すると、ボタンが一つ入っていた。
「これ、兄のボタンですか?」
「ええ。二次会で落としたらしいと、以前連絡をもらっていたので。大切なもののようで、気になっていたのですが……最近、店で見つかったので」
「それで、送るって?」
「ええ、そうです。僕では、篠原支社長に会う機会がなかなかなくて。すみません、ダシに使いました」
申し訳なさそうに微笑む奥宮を見て、なんだ、と思いながら封筒にボタンをしまった。
「それに、可愛い人が一人でいるのは、昼間でも危ないですから」
その、とってつけたような台詞に、愛は小さく息を吐き肩の力を抜いた。
にっこりと笑った愛は、奥宮を見て口を開く。
「さすがに昼間は大丈夫ですよ。送っていただくのは、駅までで結構です」
「わかりました。では、駅までお送りします。すみません、強引に車へ乗せて」
そう言いながら、奥宮はゆっくりと車を出した。
強引だった自覚はあるらしい。でも物腰が丁寧だから、なぜか嫌な気分にはならなかった。
そんなことを思いつつ、愛は口を開いた。
「あの、二次会のお店、とても良かったです。ご飯も美味しくて。確か、他にも同じようなお店を持ってらっしゃるんですよね?」
二次会で挨拶した際に、そんなことを聞いたような気がする。
「ええ。他にレストランが一つと、バーが二つですね」
「若いのにすごいですね。二次会のお店も、上品で落ち着いた雰囲気だったし……他のお店も、よさそう。でもバーって、会員制とかあるんですか?」
「バーは会員制ではないですよ。ただ、一見さんはお断りですが」
ああ、そうか。二次会をしたDuventという店も、どこか大人な雰囲気で、決してカジュアルな感じじゃなかった。ちょっとかしこまって行かなければならないような、そんな店。
「奥宮さんのお店には行ってみたいけど、私にはまだちょっと早い気がします。すごくオシャレで、素敵なお店でしたから」
「Duventと、バーのカイリはそうですけど、IlNeigeはカジュアルな店なので、よろしければ来てください」
ちょうど信号で車が停まった時、奥宮が内ポケットから名刺入れを取り出す。中から二枚の名刺を取り出し、愛へ渡したところで信号が変わった。
「カイリって、海の里って書くんですね」
「海の傍で育ったので。バーの方はその名刺を見せれば入れますので、ぜひ」
もう一枚はIlNeigeの名刺。
「ネージュ、ってどういう意味ですか?」
「フランス語で雪です」
そうですか、と言いながら愛が頷くと、車は駅のロータリーに入った。
「お使いだてしてすみませんが、篠原支社長に必ず渡してくださいね」
にこりと笑ったハーフの王子様顔。
日本人の愛には馴染みのない綺麗な顔立ち。眩しい感じがして、思わずパチパチと瞬きをしてから、はい、と頷く。
「では、気を付けて帰ってください」
自分で車のドアを開けて降りる。ドアを閉めて運転席の奥宮に頭を下げると、すぐに車は走って行った。
その後ろ姿を見送って、愛は深いため息をつく。
「なんだか、スマートな人だった……」
見た目通りの王子様みたいな人。
あんな人は、きっと女性関係にも不自由しないんだろうな、と思いつつ預かった封筒を見る。
「まあ、私には関係ないけど」
愛は引き出物の入った紙袋を持ち直し、その中へ封筒とビーズだらけの小さなバッグを入れる。
そして、駅の改札へ向かって歩き出した。
壱哉にボタンを渡すには、直接会社に行くしかないな、と考えてまたため息をつくのだった。
☆ ☆ ☆
友人の結婚式の翌日、愛は奥宮から預かったボタンを渡すため、仕事の帰りに壱哉の勤める会社へ寄った。まだ日の出ているうちに、寄ることができて良かったと思う。
壱哉が勤める会社は、日本アースリーという、大きな外資系企業の日本支社だ。
インフォメーションに座っている女性に、妹ということを伝えて、壱哉に会いたい旨を伝えると、十分ほど待ってもらえれば時間が取れると言われた。
そうして待つこと十五分。遠目にもイイ男である兄の壱哉が一階のロビーに姿を現した。愛を見つけて、にこりと笑う姿は本当に素敵だ。
「待たせたね、愛」
「ううん、大丈夫。こっちこそごめんね、忙しいのに。仕事でしばらく会えなくなりそうだから、先に渡しておこうと思って」
愛はバッグから小さな白い封筒を取り出して、壱哉に渡す。
首を傾げて中身のボタンを取り出した兄は、すぐに笑みを浮かべた。どこかホッとしたような表情だった。だが、すぐに怪訝そうな顔を向ける。
「どうして愛がこれを?」
「昨日、友達の結婚式の会場で、壱兄が二次会をしたお店のオーナーさんに会ったの……奥宮さん? とにかく、その人から、壱兄に渡してほしいって言われて」
「そう……偶然?」
もう一度首を傾げる兄に、愛は頷いた。
「うん、奥宮さんも友達の結婚式だって言ってた。ちょうど同じくらいに終わったみたいで、ロビーで声をかけられたの。それ、大事なものなんでしょ?」
そうだな、と頷いてボタンを白い封筒に戻す。
「郵送でもよかったんじゃないかと思うけど……まぁいいか」
気を取り直すように髪の毛を掻き上げ、兄が微笑む。いつも優しい笑顔で、カッコイイ。自慢の兄である壱哉を見ると、愛は理想が高すぎ、と言われたことを思い出してしまった。
しかし、それはしょうがない。愛の兄たちは皆、素敵なのだから。
「ありがとう、届けてもらって助かったよ。奥宮さんには、改めて礼を言っておかないと。仕事、今度はどこへ行くんだ? 仕事とはいえ、いろんなところへ行けてうらやましい」
「そんなことないよ。明後日から北海道に視察旅行。ツアーの下見だから、ご飯たくさん食べなきゃいけないの」
愛は大学卒業後、エールトラベラーズという旅行代理店に入社した。そこで、事務関係の仕事をしているが、たまに営業や、先輩と視察旅行に出かけたりもする。
「ご飯たくさん、か……愛はそんなにたくさん食べられないから、大変だな」
「そうなの……できるだけお腹空かせて頑張らないと……」
愛が小さくため息をつきながらそう言うと、壱哉は微笑んで愛の頭を撫でた。
「気を付けて行っておいで。ボタン、本当にありがとう」
「うん。じゃあ、もう行くね」
玄関まで送ってくれた兄に手を振る。そうして前方を見ると、視線の先に好きだった人がいた。
愛に気付いて会釈をしてきた彼は、すぐ後ろにいる兄に声をかける。
氷川青瑶。
日本アースリーの営業部門の部長で、真面目で穏やかな、大人の男性。
好きだった、と過去形なのは、今でも好きなのだが、どうしても諦めなければならなかったからだ。さすがに、もうすぐ結婚すると知ってしまった以上、思いを絶つしかない。
失恋した身としては、彼を目の前にするとまだ少し辛い。愛は目を伏せて兄の会社を出ると、大きく息を吐いた。
最近、日が暮れるのが早くて、もう暗くなってきている。足を速めながらふと目についたのは、ジュエリーショップ。あの日、氷川が彼女と入っていった場所だった。
愛が二人を見たのは、意を決して氷川に告白をしようと、仕事帰りに日本アースリー社の近くまで来た時。今のように、少しずつ辺りが暗くなってきている時間だった。
目の前を、可愛い人と仲良く歩いている氷川に気付いた愛は、二人が並んでジュエリーショップに入っていくのを、ただ見ていた。
後日、壱哉にそれとなく女性連れの氷川を見かけたことを話すと、もうすぐ結婚するという答えが返ってきて、その日はとても打ちのめされた気分になった。
告白のために奮い立たせた勇気も、好きになった思いも、全部無にしなければならなかった。
「あー、もう、困るなぁ」
二人が入っていったジュエリーショップの前で、愛はしきりに瞬きをする。あの日の光景を思い出して、少しばかり涙腺が緩くなった。
愛には氷川ほど好きになった人は、今まで現れたことがなかった。初めて本気で恋をしたけれど、叶えることはできなかった。
大きく息を吐くと、息が熱い。鼻の奥がツンとする。
愛の好きな人は、今、最高に幸せだ。好きな人と出会って、結婚するのだから。
もし愛がその間に入ろうとするならば、二人が別れるのを待つか、玉砕覚悟で思いを伝えるか……
どちらにしても不毛だし、そんなことを考えてしまう自分を馬鹿みたいだと思った。
辛くても、諦めるしかない。
絶対に振り向かないとわかっている人を思い続けず、次の恋を探すしかないだろう。しかし、もともと恋愛に対して臆病なので、すぐには無理そうだった。
「まだ……次には行けそうにないなぁ」
ふう、と息を吐いて前を見ると、ぽろりと涙が零れた。慌てて下を見て、指先で涙を拭う。そしてもう一度ジュエリーショップに目を移す。すると、その前を通る見知った顔を見つけた。
奥宮だった。
こんな偶然ってあるんだな、と思った。どんなドラマ展開だ、と思えるほど。
頼まれたボタンを壱哉に渡したと、せっかくだから伝えておこうと声を出した。
「奥宮さん!」
名前を呼んで軽く手を挙げると、相手がこちらを見た。その隣には、めちゃくちゃ美人な、これまたハーフに見える女性。並んだ姿が、とても絵になる。
ああ、やっぱり女性には不自由してないんだ、と思いながら、同時にしまった、と反省する。きっと彼のデートを邪魔してしまった。
けれど奥宮は、愛の思いとは裏腹に王子様スマイルを浮かべて、こちらにやって来てしまった。
それを見て、本当にしまった、と思う。隣の彼女はなんだか眉を寄せているように見えた。
だから彼が何か言う前に、愛は頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「はい?」
「いや、あの、すみません。とんだお邪魔を……」
頭を下げた拍子に、目の縁に溜まっていたらしい涙が頬を伝った。
あ、と思って手で拭う前に、ふわりと頬に当てられたのは彼のハンカチ。
柔らかい布の感触が優しくて、愛はキュッと唇を引き締めた。
「大丈夫です、目にゴミが入っただけなので」
「……そうですか? それにしては……目が、赤いですが」
泣いた後の目は、赤くなる。ゴミが入っただけというのは、嘘だとわかってしまったのだろう。
「綺麗な方が泣いていると、どうしていいか、わからなくなります」
柔らかくて外国人みたいな、口説くような台詞だな、と愛は思った。普通日本人は、綺麗な方が、なんて言わないだろう。
どんな顔をしているのかと見上げると、困ったように笑う彼がいて、愛はぽかんと瞬きをした。
その困ったような笑顔で、彼が本当に心配しているのがわかった。愛を見ている綺麗な目から、なんだか目が離せなくなる。
「こっちにも涙が……。どうされたんですか?」
反対の目からも零れそうになった涙を、すかさずハンカチで押さえてくれる。
さすが王子様だ、と思った。
ハンカチの使い方が優しい。そう思った時、涙腺が緩むのがなんとなくわかった。
だけど、さっきまで一緒にいたあの人はいいのかな? と愛は彼女のことが気になった。
でも、それを言えなかった。なぜだか、涙が溢れてきてしまったから。
彼の優しい行為に、次々に涙が溢れ、結局本気で泣いてしまったのだった。
2
最悪、なんて失態。知人とも言えない、今日で三回会っただけの人の前で泣くなんて。
しかも相手は、綺麗な彼女と一緒にいたのに。
でもよくわからないのは、彼が、付き合っているだろう彼女の目前で、他の女の涙を拭っているということ。
少し離れた場所にいる彼女は、黙ってこちらを窺っている。
「あの、本当にもう、大丈夫なので。それに、彼女を待たせては悪いので」
手を前に出して、彼の行為を制する。
「呼び止めて、すみませんでした。彼女、放っておいたらだめです、奥宮さん」
「彼女……? ああ、そうでした。ちょっと待っていてくださいね、篠原さん」
「え?」
「ああ、ハンカチ、どうぞ」
愛は手を取られ、彼のハンカチを手渡される。
好きな人がいた。
彼の優しい話し方が好きだった。
ただ、見つめていることしかできなかった人。
けれど、見つめているうちに、その人の変化に気が付いた。
とても話しやすくなって、笑顔も多くなった。
彼も、恋をしているのだと思った。だって自分がそうだったから。
こういう時の女の勘って、外れたためしがない。
そしてその勘は、やっぱり当たっていた。
可愛い人と、一緒に歩いているその人を見た。滅多に見られない満面の笑みを浮かべる彼は、この上なく素敵だった。あの笑顔を見せるのは、きっと彼女の前だけなのだろう。
私だって、あなたの前では素敵に笑える、綺麗になれる――
そう思ったって、彼の好きな人にはなれない。私では、彼と腕を組んで歩けるような関係にはなれないのだと、すぐにわかった。
どんなに好きでも、恋には諦めも必要なのだろう。
でもいつか。きっと私にも、素敵な人が――
絶対に。
☆ ☆ ☆
「愛は理想が高すぎるんだよ」
荘厳な雰囲気のチャペルの中、大学からの友人である青木美晴に断言される。
結婚式に出ると結婚したいなって思う、と言っただけなのに。まさか、こんなことを言われるとは思わなかった。
「そんなことない」
「あるよ。愛のお兄さんたち見てれば、わかるし」
そう言われて、愛はぐっと言葉に詰まる。
篠原愛、二十四歳になったばかり。四人兄弟の末っ子で、兄が三人いる。
「あのお兄さんたちくらいの相手じゃないと、愛はあんなドレス、着れないわ」
あんなドレス、というのは、ウェディングドレスのこと。
女としては、やっぱり憧れる。見るたびにうらやましくて、いいなぁ、と思う。
久しぶりに友人の結婚式に呼ばれた。二十四歳での結婚はわりと早い方だと思うけれど、なんと友人の結婚式はこれで四度目だ。つまり、すでに四人の友人が結婚しているということ。
つい先日も、一番上の兄が結婚式を挙げたばかり。
今思い出しても素敵な式で、花嫁のウェディングドレスも綺麗だった。
「美晴、確かにうちの兄さんたちは素敵だけど、それと私の理想が高いのは違うよ?」
「よく言う! あんたの好み、一番上の、壱哉さんでしょ? それこそ無理。あんた一生、結婚できない」
一番上の兄は壱哉という。三十五歳の彼は、現在、外資系の会社で支社長をしている。背が高くてスタイルも抜群、おまけに頭もいい。そして先日、愛が憧れている素敵な女性と結婚した。
「好みじゃなくて、理想、だってば」
「どっちでも同じ。だから、無理って言ってんの」
愛は唇を尖らせる。いくら友達でも酷い言いぐさではないか。
心の中で文句を言いながら、新郎と新婦を見た。
とても幸せそうな友人の旦那様は、少し小太りだけど優しそうだ。旦那様と微笑み合う友人が、失恋したばかりの愛にはうらやましかった。
そうこうする間に式が終わり、披露宴会場に移動する。
美味しい料理を食べて、花嫁に祝いの言葉を述べた後は、久しぶりに会う友達と近況を語り合う。
そして午後三時には披露宴が終わった。二次会はないため、その場で解散となる。
今月は財布がややピンチだったから、壱哉の妻の比奈に結婚式用のドレスを借りた。スリムな彼女の服が入るか心配だったが、なんとか着れたので一安心。クリーニングをして返さなければ、と思いながら美晴と連れ立って会場の外へ向かう。
「じゃあ私、先に帰るね。彼が迎えに来てるはずだから。愛も早く、送り迎えしてくれる彼氏作ったら? 私の友達の中で……っていうか、さっきの披露宴会場の中でも、愛が一番、綺麗で可愛いんだから」
「……ありがと、美晴」
手を振る美晴に手を振り返して、愛はため息をつく。
ふと視線を移すと大きな鏡が目に入る。目の前を行ったり来たりする人々の間から、自分の姿を見つめた。
比奈から借りたのは、優しいピンク色のアメリカンスリーブ型のドレスだった。腰にリボンのあるデザインで、膝下まであるミモレ丈だ。
数着見せてもらったが、一目見て可愛いと思い、速攻で決めた。
愛が一番綺麗で可愛い、と美晴は言ってくれたが、改めて鏡で自身の姿を見ると、そこまでには思えない。
それに、美晴は褒めてくれたけれど、これまで異性に告白されたこともないし、お付き合いもしたことがない。おまけに失恋したばかり。
美晴の言う通り、確かにちょっとだけ好みがうるさいかもしれないが、そういう機会は皆無だったのだ。
「だって、壱兄も、浩兄も、健兄もそれぞれカッコイイんだもん。身近な男の人があれだったら、理想が高くなるのもしょうがないじゃん」
一番上の兄の壱哉は本当にカッコイイ。穏やかで優しくて、笑顔が素敵。
二番目の兄、浩二は物静かで安心する人。もちろん顔もいい。浩二は、愛が高校生の頃に亡くなった父の跡を継いで、菓子職人になった。愛の実家は和菓子屋で秋月堂という。浩二は綺麗で繊細な美味しい和菓子を作っているのだ。
だから愛は常々、菓子において兄が作る和菓子に勝るものはないと思っている。その兄は、今は奥さんと一緒に店を守ってくれている。
そして、三番目の兄は、健三。明るくて優しくて、天真爛漫という言葉が似合う人だ。前向きで頭もいい健三に、愛はよく勉強を見てもらっていた。今は一流企業の営業部に勤め、可愛い奥さんもいる。
そんな素敵な、ちょっと年の離れた兄たちに囲まれて育てば、理想が高くなるのも当たり前だ……と、愛は思う。
『あとは、愛だけね』
壱兄の結婚が決まった時、母はそう笑って愛の頭を撫でた。
でもお母さん、と心の中で呟く。
認めたくはないけど、まだ当分はブラコンが治らないと思います、と。
後れ毛をわざと作ってアレンジした髪に触れ、愛はもう一度ため息をつく。
いつか私にも、好きだったあの人や、兄たちのように特別な誰かが現れるのだろうか……
そんなことを考えながら、一歩足を踏み出した時だった。
「すみません、失礼ですが……」
背後から呼び止められて振り返ると、綺麗な目をした男の人が愛をじっと見ている。
緑っぽい茶色のガラス玉のような瞳。
どう見ても、ハーフっぽく見える顔立ち。それこそタレントやモデルといってもおかしくないほど、綺麗で整った容姿をしている。かといって女性らしいわけではなく、男性らしい力強い雰囲気。
髪の色はやや明るく、フォーマルスーツを着た姿は王子様のようだった。
「ああ、やっぱり。篠原支社長の妹さん、ですよね?」
篠原支社長、というのは兄の壱哉のこと。ということは、兄の仕事相手かもしれないと思った。
「はい、そうです……えっと? 兄のお仕事の……?」
「支社長の結婚式の二次会で、一度お会いしているのですが……店の名前はDuventといいます。覚えてますか?」
「……あ! あの素敵なお店の!」
壱哉の結婚式の二次会は、会社の人が選んだという雰囲気の良い店で開かれた。綺麗で食事も美味しかったのを覚えている。個人的にもまた行きたい、と思ったほどだ。
この人は、確かそこのオーナーだったはず、と思い出し、愛は軽く会釈する。
でも名前は覚えていなかった。それを察してか、彼は笑みを浮かべて名乗った。
「奥宮楓です。以前お会いした時も綺麗な方だと思いましたが……今日はまた一段とお綺麗なので、声をかけるのを躊躇いました」
外国人だ、と愛は内心緩く笑ってしまった。
こうして先に容姿を褒める言い方が、外国の人そのものだ。
心の中で緩く笑うのと同じように、愛は目の前の彼に対し愛想笑いを浮かべる。自分の周りに、綺麗だから声をかけるのを躊躇った、とか口に出す人はいない。
「篠原さんも、結婚式に?」
「はい、友達の。もう終わりましたけど」
「そうですか。僕も今、終わったところです」
にこりと笑った顔は本当に王子様。ハーフって本当にいいよなぁ、とついじっと見つめてしまった。
でも、兄の仕事相手でもないようだし、と愛はこの場を離れたいと思った。
こういう、コミュニケーションを積極的に取ってくる人は、なんだか苦手なのだ。
「これからお帰りですか?」
「はい」
「送りましょうか?」
王子スマイルだった。愛は彼を見て固まる。
ほぼ初対面なのにそれはないだろう、と愛はやんわり断った。
「……いえ、駅もすぐそこなので」
なんとか笑みを浮かべて言うと、彼も同じように笑って言った。
「送ります」
「……あの、あ、はい」
意外と強引。
はっきり言うその言い方に、なんだか送ってもらった方がいい気がして、了承してしまった。
強引そうには見えなかったから、愛は意外に思って相手を見る。
というか、ほとんど初対面なのに、と少しだけ警戒心を抱く。
そんな愛に、笑みを浮かべた王子様はこっちです、と言った。
連れて行かれた駐車場には、白いメルセデス。兄の壱哉が乗っている車と一緒の形だった。さすがに持っている車も高級だと思った。
助手席のドアを開け、どうぞ、と中に促される。
覚えのある座り心地の良さにほっと息を吐くと、運転席に乗り込んできた奥宮が何かを差し出してきた。
「篠原支社長に、これを渡してくれますか?」
見ると、小さな白い封筒がいびつな形に盛り上がっている。
受け取って中身を確認すると、ボタンが一つ入っていた。
「これ、兄のボタンですか?」
「ええ。二次会で落としたらしいと、以前連絡をもらっていたので。大切なもののようで、気になっていたのですが……最近、店で見つかったので」
「それで、送るって?」
「ええ、そうです。僕では、篠原支社長に会う機会がなかなかなくて。すみません、ダシに使いました」
申し訳なさそうに微笑む奥宮を見て、なんだ、と思いながら封筒にボタンをしまった。
「それに、可愛い人が一人でいるのは、昼間でも危ないですから」
その、とってつけたような台詞に、愛は小さく息を吐き肩の力を抜いた。
にっこりと笑った愛は、奥宮を見て口を開く。
「さすがに昼間は大丈夫ですよ。送っていただくのは、駅までで結構です」
「わかりました。では、駅までお送りします。すみません、強引に車へ乗せて」
そう言いながら、奥宮はゆっくりと車を出した。
強引だった自覚はあるらしい。でも物腰が丁寧だから、なぜか嫌な気分にはならなかった。
そんなことを思いつつ、愛は口を開いた。
「あの、二次会のお店、とても良かったです。ご飯も美味しくて。確か、他にも同じようなお店を持ってらっしゃるんですよね?」
二次会で挨拶した際に、そんなことを聞いたような気がする。
「ええ。他にレストランが一つと、バーが二つですね」
「若いのにすごいですね。二次会のお店も、上品で落ち着いた雰囲気だったし……他のお店も、よさそう。でもバーって、会員制とかあるんですか?」
「バーは会員制ではないですよ。ただ、一見さんはお断りですが」
ああ、そうか。二次会をしたDuventという店も、どこか大人な雰囲気で、決してカジュアルな感じじゃなかった。ちょっとかしこまって行かなければならないような、そんな店。
「奥宮さんのお店には行ってみたいけど、私にはまだちょっと早い気がします。すごくオシャレで、素敵なお店でしたから」
「Duventと、バーのカイリはそうですけど、IlNeigeはカジュアルな店なので、よろしければ来てください」
ちょうど信号で車が停まった時、奥宮が内ポケットから名刺入れを取り出す。中から二枚の名刺を取り出し、愛へ渡したところで信号が変わった。
「カイリって、海の里って書くんですね」
「海の傍で育ったので。バーの方はその名刺を見せれば入れますので、ぜひ」
もう一枚はIlNeigeの名刺。
「ネージュ、ってどういう意味ですか?」
「フランス語で雪です」
そうですか、と言いながら愛が頷くと、車は駅のロータリーに入った。
「お使いだてしてすみませんが、篠原支社長に必ず渡してくださいね」
にこりと笑ったハーフの王子様顔。
日本人の愛には馴染みのない綺麗な顔立ち。眩しい感じがして、思わずパチパチと瞬きをしてから、はい、と頷く。
「では、気を付けて帰ってください」
自分で車のドアを開けて降りる。ドアを閉めて運転席の奥宮に頭を下げると、すぐに車は走って行った。
その後ろ姿を見送って、愛は深いため息をつく。
「なんだか、スマートな人だった……」
見た目通りの王子様みたいな人。
あんな人は、きっと女性関係にも不自由しないんだろうな、と思いつつ預かった封筒を見る。
「まあ、私には関係ないけど」
愛は引き出物の入った紙袋を持ち直し、その中へ封筒とビーズだらけの小さなバッグを入れる。
そして、駅の改札へ向かって歩き出した。
壱哉にボタンを渡すには、直接会社に行くしかないな、と考えてまたため息をつくのだった。
☆ ☆ ☆
友人の結婚式の翌日、愛は奥宮から預かったボタンを渡すため、仕事の帰りに壱哉の勤める会社へ寄った。まだ日の出ているうちに、寄ることができて良かったと思う。
壱哉が勤める会社は、日本アースリーという、大きな外資系企業の日本支社だ。
インフォメーションに座っている女性に、妹ということを伝えて、壱哉に会いたい旨を伝えると、十分ほど待ってもらえれば時間が取れると言われた。
そうして待つこと十五分。遠目にもイイ男である兄の壱哉が一階のロビーに姿を現した。愛を見つけて、にこりと笑う姿は本当に素敵だ。
「待たせたね、愛」
「ううん、大丈夫。こっちこそごめんね、忙しいのに。仕事でしばらく会えなくなりそうだから、先に渡しておこうと思って」
愛はバッグから小さな白い封筒を取り出して、壱哉に渡す。
首を傾げて中身のボタンを取り出した兄は、すぐに笑みを浮かべた。どこかホッとしたような表情だった。だが、すぐに怪訝そうな顔を向ける。
「どうして愛がこれを?」
「昨日、友達の結婚式の会場で、壱兄が二次会をしたお店のオーナーさんに会ったの……奥宮さん? とにかく、その人から、壱兄に渡してほしいって言われて」
「そう……偶然?」
もう一度首を傾げる兄に、愛は頷いた。
「うん、奥宮さんも友達の結婚式だって言ってた。ちょうど同じくらいに終わったみたいで、ロビーで声をかけられたの。それ、大事なものなんでしょ?」
そうだな、と頷いてボタンを白い封筒に戻す。
「郵送でもよかったんじゃないかと思うけど……まぁいいか」
気を取り直すように髪の毛を掻き上げ、兄が微笑む。いつも優しい笑顔で、カッコイイ。自慢の兄である壱哉を見ると、愛は理想が高すぎ、と言われたことを思い出してしまった。
しかし、それはしょうがない。愛の兄たちは皆、素敵なのだから。
「ありがとう、届けてもらって助かったよ。奥宮さんには、改めて礼を言っておかないと。仕事、今度はどこへ行くんだ? 仕事とはいえ、いろんなところへ行けてうらやましい」
「そんなことないよ。明後日から北海道に視察旅行。ツアーの下見だから、ご飯たくさん食べなきゃいけないの」
愛は大学卒業後、エールトラベラーズという旅行代理店に入社した。そこで、事務関係の仕事をしているが、たまに営業や、先輩と視察旅行に出かけたりもする。
「ご飯たくさん、か……愛はそんなにたくさん食べられないから、大変だな」
「そうなの……できるだけお腹空かせて頑張らないと……」
愛が小さくため息をつきながらそう言うと、壱哉は微笑んで愛の頭を撫でた。
「気を付けて行っておいで。ボタン、本当にありがとう」
「うん。じゃあ、もう行くね」
玄関まで送ってくれた兄に手を振る。そうして前方を見ると、視線の先に好きだった人がいた。
愛に気付いて会釈をしてきた彼は、すぐ後ろにいる兄に声をかける。
氷川青瑶。
日本アースリーの営業部門の部長で、真面目で穏やかな、大人の男性。
好きだった、と過去形なのは、今でも好きなのだが、どうしても諦めなければならなかったからだ。さすがに、もうすぐ結婚すると知ってしまった以上、思いを絶つしかない。
失恋した身としては、彼を目の前にするとまだ少し辛い。愛は目を伏せて兄の会社を出ると、大きく息を吐いた。
最近、日が暮れるのが早くて、もう暗くなってきている。足を速めながらふと目についたのは、ジュエリーショップ。あの日、氷川が彼女と入っていった場所だった。
愛が二人を見たのは、意を決して氷川に告白をしようと、仕事帰りに日本アースリー社の近くまで来た時。今のように、少しずつ辺りが暗くなってきている時間だった。
目の前を、可愛い人と仲良く歩いている氷川に気付いた愛は、二人が並んでジュエリーショップに入っていくのを、ただ見ていた。
後日、壱哉にそれとなく女性連れの氷川を見かけたことを話すと、もうすぐ結婚するという答えが返ってきて、その日はとても打ちのめされた気分になった。
告白のために奮い立たせた勇気も、好きになった思いも、全部無にしなければならなかった。
「あー、もう、困るなぁ」
二人が入っていったジュエリーショップの前で、愛はしきりに瞬きをする。あの日の光景を思い出して、少しばかり涙腺が緩くなった。
愛には氷川ほど好きになった人は、今まで現れたことがなかった。初めて本気で恋をしたけれど、叶えることはできなかった。
大きく息を吐くと、息が熱い。鼻の奥がツンとする。
愛の好きな人は、今、最高に幸せだ。好きな人と出会って、結婚するのだから。
もし愛がその間に入ろうとするならば、二人が別れるのを待つか、玉砕覚悟で思いを伝えるか……
どちらにしても不毛だし、そんなことを考えてしまう自分を馬鹿みたいだと思った。
辛くても、諦めるしかない。
絶対に振り向かないとわかっている人を思い続けず、次の恋を探すしかないだろう。しかし、もともと恋愛に対して臆病なので、すぐには無理そうだった。
「まだ……次には行けそうにないなぁ」
ふう、と息を吐いて前を見ると、ぽろりと涙が零れた。慌てて下を見て、指先で涙を拭う。そしてもう一度ジュエリーショップに目を移す。すると、その前を通る見知った顔を見つけた。
奥宮だった。
こんな偶然ってあるんだな、と思った。どんなドラマ展開だ、と思えるほど。
頼まれたボタンを壱哉に渡したと、せっかくだから伝えておこうと声を出した。
「奥宮さん!」
名前を呼んで軽く手を挙げると、相手がこちらを見た。その隣には、めちゃくちゃ美人な、これまたハーフに見える女性。並んだ姿が、とても絵になる。
ああ、やっぱり女性には不自由してないんだ、と思いながら、同時にしまった、と反省する。きっと彼のデートを邪魔してしまった。
けれど奥宮は、愛の思いとは裏腹に王子様スマイルを浮かべて、こちらにやって来てしまった。
それを見て、本当にしまった、と思う。隣の彼女はなんだか眉を寄せているように見えた。
だから彼が何か言う前に、愛は頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「はい?」
「いや、あの、すみません。とんだお邪魔を……」
頭を下げた拍子に、目の縁に溜まっていたらしい涙が頬を伝った。
あ、と思って手で拭う前に、ふわりと頬に当てられたのは彼のハンカチ。
柔らかい布の感触が優しくて、愛はキュッと唇を引き締めた。
「大丈夫です、目にゴミが入っただけなので」
「……そうですか? それにしては……目が、赤いですが」
泣いた後の目は、赤くなる。ゴミが入っただけというのは、嘘だとわかってしまったのだろう。
「綺麗な方が泣いていると、どうしていいか、わからなくなります」
柔らかくて外国人みたいな、口説くような台詞だな、と愛は思った。普通日本人は、綺麗な方が、なんて言わないだろう。
どんな顔をしているのかと見上げると、困ったように笑う彼がいて、愛はぽかんと瞬きをした。
その困ったような笑顔で、彼が本当に心配しているのがわかった。愛を見ている綺麗な目から、なんだか目が離せなくなる。
「こっちにも涙が……。どうされたんですか?」
反対の目からも零れそうになった涙を、すかさずハンカチで押さえてくれる。
さすが王子様だ、と思った。
ハンカチの使い方が優しい。そう思った時、涙腺が緩むのがなんとなくわかった。
だけど、さっきまで一緒にいたあの人はいいのかな? と愛は彼女のことが気になった。
でも、それを言えなかった。なぜだか、涙が溢れてきてしまったから。
彼の優しい行為に、次々に涙が溢れ、結局本気で泣いてしまったのだった。
2
最悪、なんて失態。知人とも言えない、今日で三回会っただけの人の前で泣くなんて。
しかも相手は、綺麗な彼女と一緒にいたのに。
でもよくわからないのは、彼が、付き合っているだろう彼女の目前で、他の女の涙を拭っているということ。
少し離れた場所にいる彼女は、黙ってこちらを窺っている。
「あの、本当にもう、大丈夫なので。それに、彼女を待たせては悪いので」
手を前に出して、彼の行為を制する。
「呼び止めて、すみませんでした。彼女、放っておいたらだめです、奥宮さん」
「彼女……? ああ、そうでした。ちょっと待っていてくださいね、篠原さん」
「え?」
「ああ、ハンカチ、どうぞ」
愛は手を取られ、彼のハンカチを手渡される。
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