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1巻
1-3
しおりを挟む「顧問になってまだ一年半ですが、ああした問題を見過ごしていては、企業の信頼も損なわれてしまいますからね。それに、坂峰製作所の高い技術は、正当に評価されるべきですから」
彼のその言葉に、大輔が満面の笑みを浮かべて頭を下げた。
二人のやりとりを聞きながら、彼は侑依の大切な会社を守ってくれた人なんだと、認識を改める。
そして、彼が信用するに足る相手なのだとわかった。
このドキドキも何もかも、信じて大丈夫なのだと、侑依は大輔と話す冬季を見つめる。
その時、彼と目が合った。
今まで以上に、心臓が跳ね上がる。
「そういえば、どうしてウチの米田と一緒に……?」
大輔が侑依と冬季を交互に見て首を傾げた。
「ええ。実は先ほど、少し話をさせていただいて。可愛い事務員さんですね」
「そうでしょう。それでいて、優秀なんですよ。契約のことも、彼女が最初に気付いてくれましてね」
大輔が侑依を褒めてくれるのは嬉しい。でも、彼の前だと思うとなんだか凄く恥ずかしかった。
「よかったらですが、これからウチの法務を西塔さんにお願いできませんか。……法律のことなど何も知らない町工場ですから、ぜひ西塔さんのような方に力を貸していただきたい」
冬季は侑依をちらりと見た後、大輔の言葉に頷いた。
「そう言っていただいて、こちらこそ光栄です。小さな事務所ではありますが、上司と相談し、前向きに検討させていただきます、坂峰社長」
冬季が坂峰製作所の担当になる。それを聞いた侑依は、今後も彼と会えるかもしれないという期待に胸を膨らませた。
よろしくお願いします、と握手を交わす冬季と大輔。そんな彼を、侑依はじっと見つめた。
そして彼も侑依を見つめる。一瞬、互いの視線が交わったと思ったら、彼はすっと会釈をして自分のテーブルへ戻っていった。
いやーよかった、と言う大輔の言葉をぼんやり聞きながら、視線は彼を追ってしまう。すると、横にいる優大の視線に気付いた。
「何、優大?」
「なぁ、あの弁護士先生と見つめ合ってたけど……、もしかして口説かれたのか?」
「……別に」
咄嗟に否定したけれど、優大は腕を組み目を細めて侑依を見てくる。
「やたらとイイ男だし、弁護士。慎重にいけよ? お前の目、マジでハートだったからさ」
「そ、そんなことないよ!」
目がハートと言われて焦る。
そんなことないと言いながらも、じわじわと顔が熱くなってきて、侑依は近くにあったシャンパンを一気に飲んだ。心臓の高鳴りと相まって、急に酩酊感が強くなる。
ふと、彼のテーブルに目をやると、侑依を見ていたらしい冬季に苦笑された。
彼の唇が、のみすぎ、と動く。
その瞬間、早くこのパーティーが終わらないかと思った。
もう侑依の頭の中は彼のことでいっぱいになっていて、込み上げる気持ちを止められなくなっている。こんなことは初めてで、自分はいったいどうしてしまったのかと思った。
今まで抱いたことのない感情に戸惑いつつ、ソワソワと落ち着かない時間を過ごす。
パーティーが終わるまでの時間をやけに長く感じた。そして、終わった後、侑依は真っ先に冬季のもとへと走った。
彼とこのままで終わりたくないと思ったから。
「あの、西塔さん……」
少しの恥じらいを感じながら、思い切ってクラッチバッグからスマホを取り出した。
しかし、自分から連絡先を聞くのはどうなのだろうと思ってしまい、その先の言葉が出なくなってしまう。
スマホを持ったまま固まる侑依に、冬季がふっと微笑んだ。
「そういえば、連絡先を聞いてなかった。今度、一緒に食事でもどうですか? 侑依さん」
「……はい!」
互いに微笑み合い、連絡先を交換し合った。
そうして初めてのご飯デートをした後は、自然にまた次のデートの約束をした。
自分でもびっくりするくらい急速に惹かれていった。こんなにも自分の心が、まっしぐらに恋へ落ちていくなんて思いもしなかった。
この人とずっと一緒にいたい、この人しかいないと考えるようになるのはすぐのことだった。
デートが嬉しくて、一緒の食事も楽しい。会うほどに彼のことが大好きになる。時にはちょっとした喧嘩もしたけれど、それも含めて彼との関係を深めていった。
出会って半年後にはプロポーズ、そして入籍と、結構なスピードだったと思う。
それでも侑依は本当に冬季を愛していたから、とにかく幸せで何も不安はなかった。
だからまさか、結婚して半年で離婚するなんて、この時は思ってもみなかったのだ。
3
――冬季と夜を過ごした一週間後。
侑依はいろいろなことを反省し、きちんと気持ちを切り替えなければと決意する。でも、それがなかなかに難しかった。
だから週末、侑依は気分転換も兼ねて、仲のいい友達をランチに誘った。
美味しい食事と楽しい会話で気持ちは浮上したものの、全てを知る友人につい愚痴を零してしまう。
「またやってしまった……」
久しぶりに会った大学時代からの親友の山下明菜は、食後のコーヒーを飲みながら大きなため息をついた。
「それって、西塔さんのこと?」
こくりと頷く侑依にさらにため息をついて、明菜はコーヒーカップを置いた。
「そう。急にランチに誘ってくるから、何かあるだろうな、と思ってたけど……それを言いたかったのね。また会ったの?」
「うん」
「それで、エッチなことまでしたわけ?」
「……だらしないよね、私」
侑依はテーブルに肘をつき両手を合わせる。そこに額を押し当てると、頭をペンッと叩かれた。
「まぁ、否定はしないわね」
明菜にはっきり言われて、侑依は苦い笑みを浮かべる。
「離婚して親からは見放され、向こうの親にも嫌われて、安アパートで一人暮らし。そこまでしておいて、元旦那とはまったく切れていないなんてね」
言いながら、私はバカだ、と何度も心の中で自分を責める。
あの時の侑依には、離婚する以外の選択肢がなかった。自分なりに精一杯考えて出した結論だったけれど、彼に求められるまま関係を続けてしまっている現状に、どうしようもない焦燥が募る。
「私が悪いのはわかってる」
「当たり前。付き合っているのを別れたんじゃなくて、離婚だからね」
明菜の言う通りだ。
彼女は侑依が冬季と別れた理由を知っている。それに侑依が一方的に別れを切り出し、離婚してもらったことも知っている。
自分のわがままで、冬季を始めたくさんの人たちを傷付けたのだから、侑依はもっときちんとしなくてはいけない。どんなに冬季が望んでくれたとしても、彼を大切に思う人たちにとっては、侑依のしたことは決して許せることではないのだから。
現に離婚後、冬季の母親から直接電話がかかってきた。
『出会って半年で結婚。しかも、お式も挙げないなんてどうかと思ってましたよ。それが半年で離婚だなんて……。もうこれ以上、うちの息子に迷惑をかけないでちょうだい。今後は、何があっても絶対に会わないでくださいね』
もともと、彼の両親からはあまり良く思われていなかった侑依である。義母の怒りはもっともだと思った。だから侑依は、電話口で、「はい」と返事をした。
彼とは、絶対に会わないつもりだった。けれど、まったく会わないというのは状況的に難しく、侑依にはどうしようもなかったのだ。
なぜなら彼は、侑依の職場に一月に一回、顧問弁護士として訪ねてくる。どれだけ冬季との接触を避けようとしても、仕事である以上まったく会わないということはできなかった。
「明菜の言う通り、離婚したんだからエッチはダメだよね」
わかっているのに……。嫌いで別れたんじゃなく、むしろ好きすぎて別れたから、求められると断り切れないのだ。
自分の中にある矛盾した気持ちを持て余し、侑依は項垂れる。
ため息をついた明菜は、おもむろにデザートのケーキにフォークを刺して、一口食べた。
「大好きな人と結婚したのに、その人と離婚するって相当だと思うけど。早まったんじゃないの?」
「ううん……冬季さんの隣にいるには、もっと強くないとダメだった。私は弱くて、彼を誘惑してくるキレイな人や可愛い人たちから上手く目を逸らすことができなかった。悪いことばかり考えてしまうし、嫉妬で胸が苦しくなる。彼が靡いたりしないってわかっていても、笑って堂々としていられるほど、強くなかった」
彼と結婚していた期間は半年間。本当に幸せで夢のような日々だった。と同時に、冬季のことを知れば知るほど、彼の隣にいることに自信が持てなくなっていった。
結婚している間、彼と一緒に出席した食事会や記念パーティーは、ささやかなものから豪勢なものまでいろいろだった。どの集まりでも、彼は綺麗な女性に話しかけられ、アプローチされていた。侑依が隣にいようと彼が指輪をしていようと、関係なく。
そうした女性たちは大抵、侑依の方を見て自信ありげに、または、どこか意地悪そうに笑うのだ。
まるで自分の方が冬季に似合っていると、見せつけるみたいに……
彼と参加した最初のパーティーの際、侑依は思わず、『キレイな人にモテモテだった』と少し不満を口にしてしまった。その時、冬季は侑依の手を取って言ったのだ。
『妻のいる僕に、ベタベタして欲しくないと言っておいた』
そのストレートすぎる言葉に目を丸くする侑依を見て、彼はフッと笑った。
『結婚して妻を同伴して来ている僕に、こうやって近づくのはあまりいいこととは思えませんので、離れてください、と言っておいた。つまり、はしたない女はお断りだと伝えたら、近づいてこなくなった』
そんな彼を頼もしく、愛おしく思ったものだけれど、結局は一緒だった。
彼の周囲には、常に女性が集まってきた。彼が浮気などしないと信じていても、はたして本当にそうなのだろうか、と疑心暗鬼に囚われてしまう。
冬季を信じているのに、もやもやとした変な渦が心の中から消えてくれない。
彼が仕事で遅くなるのはいつものことだけれど、ベッドに入ってくるまで安心して眠れなくなってしまった。
大好きな人をこんなにも疑ってしまう自分は、彼に相応しくないのではないか……
そんな思いが侑依の中に芽生え始めたのは、いつの頃からだろう。
このままでは、嫉妬や不安からいらないことを言って、冬季を傷付けてしまうかもしれない。侑依は子供みたいな独占欲で、彼を縛ってしまいそうな自分が怖くなった。
優しくて、正直で、抜群の容姿をしながら少し不器用なところのある素敵な人。仕事に誠実で、世間からきちんと信頼と評価を得ている、侑依の夫。
彼は微塵も揺らいでいないのに、侑依の心だけがどんどん揺らいでいってしまう。
いつか冬季は、そんな侑依に呆れ、愛想を尽かしてしまうのではないか。
彼の心が侑依から離れていってしまうのではないか。
気付くと侑依は、そうした恐怖と不安に押し潰されそうになっていた。
そこから逃れるために、バカなことをした。
今の状況は全て侑依の弱さが招いたこと――
「西塔さんみたいなイイ男が離婚したってわかったら、誰も放っておかないよ?」
目の前の明菜が、じっと侑依を見てくる。
「そうだね。冬季さん、左手の薬指にまだ指輪してるけど、私と離婚したって周囲はもう知ってるみたい」
『指輪を外さないのは、奥さんにまだ未練があるから。一途な西塔さんが可哀そう、私が支えて奥さんを忘れさせてあげたい、って、ここぞとばかりにアプローチしてきてるわよ。もし、本当に終わりにしたいなら、彼とはもう会わない方がいいかもしれないわ。西塔さんのファンには、プライドの高いお嬢様が多いし、何を言われるかわからないわよ』
以前、冬季の同僚である比嘉法律事務所のパラリーガル、大崎千鶴に言われた言葉だ。離婚後、たまたま彼女が坂峰製作所に法務関係の書類を持ってきてくれた時に、直接そう言われた。
自分で選んだ結果だが、彼女の言葉は鋭く侑依の胸を抉った。けれど、なんとか笑って対応した。
『……もう離婚したし。あの人に好きな人ができても、私には関係ないから』
もし本当にそうなったら、きっと悲しくてすぐには立ち直れないかもしれないけど。
『西塔さん、侑依さんとお付き合いを始めてから、印象が柔らかくなったの。だから、きっといいパートナーに巡り合えたんだな、って思ってたのよ。西塔さんのどこがいけなかったの? 会社でそういう話になった時、西塔さん、僕が悪かっただけ、って、少し表情を暗くして苦笑するの』
千鶴の言葉に、侑依は何も答えることができなかった。ただ俯いて押し黙る。
冬季は何も悪くないのに、そんなことを言わせてしまった自分に、自己嫌悪の嵐だった。
明菜は、今日何度目かのため息をつき、侑依を見る。
「まったく会わないってことはできないの? 侑依が避けるとか? 彼、侑依の新しい家知らないんでしょう?」
「引っ越し先、教えてないしね。……でも、どんなに避けても、仕事で一月に一回は必ず会うことになるから。冬季さんは坂峰製作所の法務関係一切を任されてるし」
侑依の言葉に明菜は肩を竦め、デザートの最後の一口を食べた。
そのまま彼女はコーヒーを飲んで、再び口を開く。
「仕事ならしょうがないけど、でもそれって一月に一回なんでしょう? だったら、どうにでもなるんじゃない? それに、侑依だったら転職だってできるでしょう。別に坂峰製作所にこだわらなくても……収入だって……」
「そうかもしれない。でも、私は坂峰製作所が好きなの。あの会社に惚れ込んで、無理やり入れてもらったんだから、そんな理由で辞めたりしない」
きっぱりと言うと、明菜は顔を伏せて小さく息を吐く。
彼女がそう言うのもしょうがないこと。明菜は、就職する時も凄く反対していたから。
一流企業の内定を蹴った時、両親、そして明菜を始めとする友人や知人、大学の教授さえ侑依に思い留まるよう説得してきた。でも、頑として自分の意見を曲げなかったから今がある。
「一度決めたことは、きちんとやり遂げたい。それに、今の仕事に誇りを持ってるの。ただでさえ私は、結婚をダメにして冬季さんと添い遂げることができなかったんだよ。これ以上、周りの人たちを裏切りたくない」
冬季と結婚した時、この人の傍に一生いるんだと思った。いつか彼の子供を産み育て、子供が自立したら、二人でゆっくり旅行に行く未来を想像していた。
それを自分でダメにして、周囲の人たちの気持ちも裏切ってしまった侑依は、今はとにかくできることをしっかりやるしかない。
「侑依が西塔さんを紹介してくれた時、イケメンの割に女を見る目があるなって感心してたの。そんな男を捕まえた侑依も、さすがって思った。でも、彼のせいで侑依が苦しんでいるのは、正直、見ていられなかった」
でも、と明菜はため息をつき、じっと侑依を見つめた。
「侑依がどれだけ西塔さんのことを好きか知ってる。どんなに言い訳したって、今も変わらず好きなんでしょ? だから、求められたら断れないんじゃないの?」
図星を指された侑依は、キュッと唇を噛んだ。
「……違うよ」
そう言って侑依は明菜から目を逸らす。彼女は呆れた顔をして、コーヒーを飲み干した。音を立ててカップを置いた明菜は、身を乗り出して侑依を指さす。
「好きだから、引きずられるんでしょ? 元夫婦とはいえ、お互いフリーの大人だし、極論を言えば、そういうのもアリだとは思う。でも、侑依は真面目だから、けじめをつけたいんだよね? だったら、対応を考えなきゃ」
まったくもって、明菜の言う通りだった。
侑依は離婚したからには、けじめをつけたいと思いつつ、未だにつけられずにいる。
離婚した直後、侑依は冬季と連絡を絶っていた。
それもあってなのか、坂峰製作所に一ヶ月に一度は訪れていた彼が、離婚をした月は電話連絡だけで姿を現さなかった。
スケジュール的に、どうしても行くことができないと連絡があったけれど、侑依のせいだと感じた。
別れたのだから、会えなくなるのは当たり前だろう。けれど、そうなると心のどこかで彼に会いたい気持ちが強くなっていく。侑依はその気持ちを、抑え付けるのに必死だった。
そんな侑依の心をわかっていたとでも言うように、離婚からちょうど一ヶ月経った頃、冬季が坂峰製作所に現れた。侑依の帰宅時間を見計らって来たとしか思えないタイミングだった。
侑依は溢れ出す気持ちを強く抑え込み、無言で彼の横を通り過ぎようとした。けれど、すれ違いざま腕を掴まれる。
『家に君の忘れ物がある。今から取りに来ないか?』
掴まれた腕から伝わる彼の温もりに、これまで必死に抑え付けていた心の箍が外れてしまったのがわかった。
忘れ物を取りに行くだけと言い訳して、彼の車に乗った。そして、懐かしい部屋で忘れ物を受け取った侑依は、彼に抱きしめられ背中を撫でられた。
『君の背中が見たい。君が欲しい』
冬季は明確に侑依を欲し、押し付けられた下半身はすでに熱くなっていた。
はっきりと欲望を湛えた目を向けられ、苦しそうに侑依、と呼ぶ彼の低く掠れた声に、簡単に落ちてしまった。
拒絶することなどできなかった。
離婚して一ヶ月、彼の電話もメールも無視し続けた。自分の気持ちから目を逸らし、ずっと抑え込んできた心は、彼に名を呼ばれただけで簡単に開いてしまった。
冬季との一ヶ月ぶりのセックスは、我を忘れるほど気持ちがよくて、侑依はすぐにグズグズになり、これ以上ないくらい感じてしまった。
「ねぇ、なんで顔、赤くしてるの?」
明菜の声にハッとする。
「えっ?」
熱く濃厚だった夜を思い出し、知らず顔を赤くしていたらしい。でも、それはしょうがないことだ。あの日のことは、今も侑依の脳裏に深く焼き付いているから。
「そんなんで、大丈夫なの?」
さらに呆れた顔をする明菜に、侑依は椅子に座り直して頷く。
「大丈夫」
その言葉に、どこか心配そうな顔をする親友を見つめた。
好きな人との行為に心は満たされたけれど、あの日以来、強い後悔と背徳感が侑依の心を苛み続けている。
「仕事で会うのは仕方ないとしても、プライベートでは極力話さないようにする。どんなに求められても、もうエッチはしない」
自分に言い聞かせるように言葉にすると、明菜は首を傾げる。
「……本当にいいの? それで」
「うん……自分で選んだ結果だし」
「侑依……」
表情を曇らせる明菜に微笑んで、侑依ははっきりと言った。
「私たち、もう離婚したんだから」
再び自分に言い聞かせながらも、頭に浮かぶのは冬季のこと。
早く頭の中から追い出したいのに、彼は一向に出て行ってくれなかった。
けれど、どんなに後悔しても、現実は変わらない。
全部、大切な人を手放してしまった自分のせいなのだから。
* * *
明菜とランチを楽しんだ五日後、冬季が仕事で坂峰製作所にやってきた。
「坂峰社長、こちらが台湾の工場との契約内容です。そして、こちらが中長期的な財務の見直し案になります。といっても、坂峰製作所は黒字経営を続けていますので、このまま堅実路線を進めるのがいいと思います」
「ああ、ありがとうね、西塔さん……まぁ、黒字といってもギリギリだからね。銀行からの融資の件もあるし……今のご時世、なかなか厳しいよ」
はは、と小さく笑いながら社長の大輔が書類を確認していく。眼鏡をかけて、じっくり読むのが大輔らしい。
その様子を見ていた侑依は、冬季と目が合った。にこりと笑う彼に、事務的な笑みを浮かべてパソコンに目を戻す。
彼の言う通り、坂峰製作所はありがたいことに黒字経営をしている。だが、年々町工場が無くなっていく昨今。たとえ今は大丈夫だとしても、やはり今後についての心配は尽きない。
「こちらの会社で作っているものは、信用があります。なので、その信用を売りにすることを考えました。当然、品質を落とさないことが条件となりますが……」
冬季が大輔に話す内容を聞いているだけでも、さすがだなと思うことばかりだった。
本来、財務については会計士や監査法人などが担当するイメージがある。弁護士である彼の仕事の範疇を超えている気がするのだが、本当にいいのだろうかと思ってしまう。
「こちらでしたら、状況に合わせて調整がききますし、銀行にも通りやすいと思います。とはいえ、これはあくまで一案になりますので、判断は社長にお任せいたします」
「いやあ、本当に助かります。ここまでしてもらって、足を向けて寝られませんよ。西塔さんが、こんなに凄い弁護士先生だって知らないで仕事を頼んじゃったのに、こうして毎回、真摯に対応してくださって感謝してます。……これも、侑依ちゃんがいてくれるおかげかな?」
ほんの少し茶化すような大輔の言葉に対し、侑依はキーボードを打つ手を止めて顔を上げた。
「社長、それは違いますよ。西塔さんは、誰にだって同じことをするはずですから」
冬季は侑依の言葉に苦笑して、頷いた。
「そうですね。米田さんの言う通りです。ただ、財務について相談を受ける機会はほとんどないので、こちらも勉強させてもらってます」
そう言って頭を下げる冬季に、居住まいを正した大輔が頭を下げた。
「……西塔さんには、本当に感謝しています。あなたの尽力に応えられるように、ウチもますます頑張らないといけないなぁ」
顔を上げた大輔に向かって、冬季は笑顔で首を振る。
「比嘉弁護士事務所も、小さな事務所です。私どもも、クライアントの期待を裏切らないことを心がけて仕事をしています。こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」
そうして深く頭を下げた冬季は、依頼を受けた時から態度が変わらない。
クライアントと真摯に向き合い、謙虚な姿勢で、確実な仕事をする。しかも、期待を裏切らないという言葉の通り、彼はしっかりと結果を出し相手の信頼を勝ち得ていた。それは、どんな相手に対しても同様である。
「それでは、次の約束がありますので、そろそろ失礼させていただきます」
彼はチラッと会社の時計を見て立ち上がった。
相変わらず、忙しい日々を送っているのだろう。
長くいたように感じたが、実際はまだ三十分程度しか経っていなかった。いつもは飲んでいくお茶にも、口を付けていない。
「侑依ちゃん、西塔さんをお見送りして」
大輔は満面の笑みを浮かべてそう言った。どうやら社長は、おせっかいを焼こうとしているらしい。侑依は冬季と視線を合わせず、席から立ち上がる。
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