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1巻
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星南の頬を人差し指で軽く突きながら言った。
「もう一度聞くけど、好みの女の子が一般人じゃいけない?」
「……いいえ、そんなことは、ない、です」
「よかった。こう見えて俺、結構真面目な男だよ」
不真面目なんて思っていないから、星南は首を縦に振った。
「本当に、片思いってストーキングと同じだ。気になって目で追って、想像して。……俺が何度、君に会うためにあの看板の前まで行ったと思う?」
怜思は星南の頬を指で突いたあと、そこを手の甲で撫でた。
初めて男の人からそんな風に触れられて、心臓がありえないくらいドキドキしている。
「これでも決死の覚悟で、君に声をかけたんだよ」
そう言って小さく息を吐いた怜思は、なんだか息が苦しそうに見えた。
「息苦しい、ですか?」
星南の言葉に、彼は可笑しそうに笑って首を横に振った。
「違うよ。星南ちゃん、手を借りるよ?」
彼に右手を取られた瞬間、心臓が破裂しそうに高鳴る。テンパった頭で、もう絶対にこの手は洗わない! なんて考えていたら、手を彼の左胸に押し当てられた。
手のひらから直に伝わる少し速い振動に、星南は息を呑む。
「ドキドキしているのがわかる? これくらい、俺は君と一緒にいて、ハイテンションになってる」
顔に一気に血が集まって、唇が震えた。
「君のことは、まだ名前と連絡先しか知らないけど、誰よりも愛せる自信があるよ」
人気美形実力派、世界的俳優の音成怜思が、会ったばかりの星南のような女に、「愛せる」と言った!?
こんなこと、夢でない限り絶対に起こらないことだ。
そんな現実に直面し、星南は本当にどうしようと思うのだった。
3
――――音成怜思のキャリアは二十歳の頃、空港でスカウトされたところから始まった。
怜思は大学のあったイギリスから帰国し、久しぶりの日本の空気を吸い込んだ。この人口密度の高さは好きではないが、自分はやはり日本人なのだと実感する。この国の空気が心地いいと思うからだ。
怜思は、受け取った荷物についているタグを外してゴミ箱に放り込んだ。そのまま空港の出口へ向かって、速足で歩く。バスが出るまであと五分しかない。
「待ちなさい! ちょっと、待って」
どこからかそんな大声が聞こえてきたが、怜思は腕時計の時間を見ながら足を速める。
そこでまた、待ちなさい、と背後から声が聞こえた。それが、自分に言われている言葉とはちっとも思わなかった。
だから、いきなり後ろからセーターの裾を強く引っ張られた時、イラッとした。
「捕まえた、イイ男……あなた、名前は?」
「セーターが伸びるので、手を離してくれますか?」
相手は、見る限り結構年上だ。オバサンと言っても過言ではない年齢の人が、息を切らして怜思のセーターを掴んでいる。
緩くカールを巻いたロングヘアー。化粧は濃いが、顔立ちはそこそこ整っている。上を向いた濃い睫毛も、天然のようでフサフサと揺れている。服装は、若干若作り。似合っているが、怜思の好みではなかった。
「ああ、ごめんなさい。で? あなた名前は?」
セーターから手を離してくれたのはありがたいが、見ず知らずの相手に名乗る義務はない、と怜思は判断した。
「知らない人に名前を教えちゃいけませんっていうのが、家訓なので」
そう言って踵を返したら、今度は腕を掴まれる。女にしてはやけに強い力で、怜思は眉間に皺を寄せて振り返った。どうやら面倒なのに絡まれてしまったようだ。
「離してください」
「いやよ! 名刺渡すからちょっと待って! ほら、私は佐久間美穂子! こう見えても、芸能事務所の社長なのよ、ほら!」
彼女に無理やり手渡された名刺には、確かに社長と書いてあった。しかし、社長を自称する人間なんてどこにでもいる。
怜思はそういう手合いを相手にできるような法律の勉強を散々イギリスでしてきたので、彼女に名刺を突っ返した。
「佐久間芸能プロダクション? そのまんまで、明らかに胡散臭い。すみませんが、興味ありませんので」
それじゃ、と再び踵を返そうとすると、さらに強い力で腕を掴まれた。
「だーっ! ダメ! 行かないで! お願いします! お願いっ! あなたみたいなイイ男、きっともう二度と巡り会えない! ウチは真っ当な芸能プロダクションで、胡散臭くなんてないわ! 最近売れっ子の相川祐樹って知ってる? あれウチの所属の子よ」
「知りません。俺、ずっとイギリスにいたので」
きっぱりと答えた。怜思は父の仕事の都合で、十六歳から二十歳の今までイギリスで過ごした。この四年間の芸能界事情など知るはずがない。
「すみません、バスの時間があるので急いでいるんです。離してくれますか」
腕時計を見ると、あと一分でバスが出発してしまう。もう、諦めるしかないだろうと内心舌打ちしたくなる。
「いや、無理! ここで離したら私が後悔する! 本当の本当に、胡散臭くないの! ねぇ、あなたいくつ? ずっとイギリスにいたってことは、帰国子女?」
まるでお構いなしに質問を繰り返す彼女に、怜思の眉間の皺は深くなる一方だ。
佐久間芸能プロダクション社長の佐久間美穂子は、怜思の手を取り再び名刺を渡してくる。
「見知らぬ人に、年齢を教えるほど馬鹿じゃありません」
「だから本当に、ウチは真っ当な会社なの! まだ小さい会社だけど、私自身モデル出身だから所属の子は大切にしてるのよ」
言われてみれば確かに目の前のオバサンは、綺麗な顔をしている。身に着けているものや持っているスーツケースは有名なブランドのものだし、パンプスも服も控えめだがセンスがよかった。
しかし、だからと言って怜思の情報を教える理由にはならない。
「俺、次のバスには乗りたいので、失礼したいんですけど……オバサン」
もう一度名刺を突っ返す。彼女はオバサンと言われたことがショックだったようで、目を見開き言葉を失っている。ここまで言ったのだから、いい加減諦めるだろう。
芸能プロダクションなんて冗談じゃないと心から思う。
実のところ、怜思の家は芸能一家と言っても過言ではなかった。
父は有名なバイオリニストで、テレビに出ることも多い。今回、日本のテレビ局の仕事があると言って、怜思より早く日本に帰ってきていた。
すでに亡くなった母も有名なピアニストで、おそらく今でも名前を知っている人はいるだろう。
さらに妹は、十八歳ながらすでにピアニストとして頭角を現し、最近有名な国際コンクールで一位になったばかりだ。
怜思も一応、三歳から十八歳まで楽器をやっていたが、あまり音楽的な才能はなかったらしい。それなりにピアノやバイオリンを弾くことはできるけど、それだけだ。
さほど真剣に打ち込みたいと思ったこともないし、有名な音楽家の息子だからって、音楽家を目指す必要はないと思っている。
どちらかというと勉強の方が好きだし、大学を卒業した今は日本で弁護士を目指そうと思っていた。だから、芸能界にはまるで興味がない。むしろ、父母や妹を見てきたから、大変な世界だと思っていた。
だが、オバサン――美穂子は一向に怜思の腕を離してくれない。
「よく考えて。あなたこれだけイイ男だったら、即有名人よ? イギリスでもモテモテだったんじゃないの? あなた、たぶん身長百八十五センチは軽く超えてるでしょ? 雰囲気も日本人らしくないし、どこか外国の血が入っているわね?」
怜思は微かに目を見開く。思いのほか、人のことをよく見ていると思った。
言わないと気付かれないが、怜思の両親はどちらもクォーターというやつだ。母方の曾祖父はイギリス人で、父方の曾祖母はフランス人だった。だがクォーター同士の子どもの外見は、ほぼ日本人と変わらないのに。
「なんでわかったの?」
「そりゃあ、それだけ顔が整っていて美しければね。それに、全体的に大きな目の形もそうだし、腰の高さとその体格、身長のことを考えたらおのずとそう思ったわけ」
もしかしたら、この人の言っていることは本当なのかもしれないと思った。でも、芸能には心の底から興味がないし、自分にはそういう才能がないのを十分理解していた。
「とりあえず、私の話を聞いてくれるまで離さないから! 何なら私が家まで送ってあげるわ」
「かなり迷惑ですけど。だいたい、家についてきて何するんですか? あんまりしつこいと、警察呼びますけど?」
「呼ぶといいわ。それで私の身元がはっきりするなら願ったり叶ったりよ。そうしたら、あなたのご両親に会って挨拶をして、私の話を聞いてもらうわ!」
美穂子はこれっぽっちも引き下がらない。
「父はオーストリア在住。母は去年事故で他界しました。ちなみに家に来ても、家政婦しかいませんけれど」
怜思は嘘をついた。確かに父はオーストリアに拠点を移し、妹もそこにいるが、今は二人とも日本に帰ってきている。きっと、久しぶりに会った怜思に激烈ハグをかますことだろう。
「来たところであなたの話は聞いてもらえません。なので、手を離してくださいませんか?」
この人と関わったら大変だ、というのが怜思の結論だ。
「嫌よ、絶対に嫌! お願い、お願いします。私に話をさせてください!」
そして彼女は、ようやく怜思から手を離したと思ったら、床に膝をついた。
「お願い!」
いきなり目の前で土下座をされて、今度は怜思の方が焦った。急いで、膝をついて頭を下げている彼女の手を引っ張る。
「ちょっと、恥ずかしいからやめてください」
「話を聞いてくれるまで、ずっとこうしてるから!」
本当にクソ面倒くさいと思いながら、怜思は眼鏡を押し上げた。何を言ったところで、この人は絶対に引いてくれないだろう。
はぁー、と大きなため息が出た。こんな人と関わりたくないが、とりあえず今は仕方がない。
「……わかりましたよ」
がばっと顔を上げた美穂子の表情がパアッと明るくなった。その顔は確かに綺麗だったが、正直、迷惑以外の何物でもない。
「話を聞くだけですよ?」
「もちろんよ! あなた、名前は?」
「音成怜思」
「いくつ?」
立ち上がりつつ、さっそくとばかりに次々と質問が飛んでくる。
「二十歳です」
「大学生なのね。学校はイギリス?」
「卒業しました」
「え?」
美穂子が驚くのも当然だろう。二十歳なら普通にまだ大学へ通っている年齢だ。
「俺、スキップして今年大学を卒業したんです。さっき嘘をつきましたけど、父は今、日本にいます。あなたも知っているんじゃないですか? バイオリニストの音成怜志」
美穂子は目を見開いて、口をぽかんと開けた。その間抜けな表情に怜思の溜飲がちょっとだけ下がった。彼女はすぐに我に返り、大きく頷いた。
「だったら話が早いわ。ぜひとも今日中に、お父様に会わせていただけないかしら。あなた、他にやりたいことがあるかもしれないけど、やっぱり芸能人になるべきよ。私は今、百年に一度の金の卵を発見した気分だわ!」
美穂子の顔色が変わったことに、怜思はすぐに気が付いた。
ああ、親の七光りを利用しようとするやつか。軽蔑も露わに、舌打ちをした。
「悪いけど、俺は音楽家には向いていない。父の名前を使うくらいなら、ここでさよならしてください」
「はあ? 私はあなた自身の魅力を売りにしたいと言っているのよ! モデルから俳優なんてどうかしら? 親の名前なんかなくても、あなたは絶対に光るわ。私が保証する」
この時、怜思は何を思ったのか、なんだかよくわからない自信を漲らせるオバサンを信じた。
彼女は気前よくタクシーで怜思の家に向かった。そして、迎えに現れた父に笑顔で挨拶する。父の方が美穂子を知っていたのに驚いた。
――――そうして十二年。
怜思は三十二歳となり、当初の予定とはまったく違った方向に、彼の人生は動いていたのだった。
* * *
芸能人として活動を始めた怜思は、あっという間にスターの道を駆け上がっていった。それこそ、美穂子が予想した以上の華々しいキャリアを積み上げている。
CMランキングでは常に上位をキープしており、テレビで見かけない日はない。ファッション誌の表紙を飾ることも多く、特集が載った雑誌は完売することもあった。事務所の判断で連続ドラマに出演することはないが、スペシャルドラマや映画は軒並み好評。
現在はCM契約数が十三本、専属モデルをしているブランドは二社。スペシャルドラマの番宣でテレビ出演が五本予定されている。その他、雑誌の表紙撮影が三本と、ラジオ出演。怜思が出演したとあるアーティストのミュージックビデオの反響がものすごく、CDがかなり売れたと聞いている。さらに、最近出演した二本の海外映画がどちらもヒットして、世界的俳優という肩書きまでつくようになった。
それをありがたいと思う反面、プライベートはないに等しいくらい仕事に忙殺されている。
とにかく毎日があっという間にスケジュールで埋まる。もちろんオフもあるが、友達と会う暇もなかなか取れない。
ドラマの撮影を終え、今日はもう帰るだけだ。怜思はため息をつきながら車窓から外を見る。ひときわ目立つ看板が目に入った。最近撮ったブランドモデルの看板で、恰好をつけた自分がこちらを見ている。紛れもなく自分なのだが、自分ではないように感じた。
「向井さん、俺が芸能界引退するって言ったら、美穂子さん怒ると思う?」
ぽつりと、運転席のマネージャーに声をかけた。
「ええっ!?」
向井尚子という怜思のマネージャーは、素っ頓狂な声を上げて後部座席の怜思を振り返った。
「運転中。前見て」
「あ、はい……ごめん」
向井は慌てて前を向く。バックミラーに映る彼女の顔はかなり焦っているようだ。
「冗談でしょ? 怜思」
「半分冗談、半分は本気、かな」
「なんで急にそんなこと言い出すわけ? 今日の取材、嫌だった?」
ドラマ撮影の前に入っていた取材内容を思い出す。この間出演したミュージックビデオについて始まり、日々の過ごし方を聞かれた。そこからさらに恋愛観に発展して、内心ため息をつきながら笑顔で当たり障りのないことを答えた。
付き合っている人はいる。でも、会えばただ身体を重ねるだけで、たぶん恋愛とは言えないだろう。
本当は心で感じるような恋がしたい。心が震えるほど相手を好きだと感じたい。
でも今は、恋愛も仕事の延長線みたいなものでしかない。
怜思は黙って窓に肘をつき、ぼんやりと外を見る。スモーク加工されたガラスは、外から中が見えないようになっている。同時に、車中から見る街の色は本来の色がわからないのだ。
直接色を捉えられないのは、自分がこの道を選んだから。
街中を自由に歩いたのは一体どれくらい前だろう。都心だけあって、夜でも窓の外にはたくさんの人がいる。その中に、怜思の知り合いはおそらく一人もいないだろう。
だが、怜思を知らない人は、ほとんどいない。
ファッションビルの壁面に大きなスクリーン。そこに、自分の出ているCMが流れる。
今売れているカメラのCMで、砂漠と緑豊かな密林で行われた撮影には一週間も費やした。しばらく飛行機には乗りたくないと思うくらいの移動距離に、辟易したのを覚えている。
それでもこうしてCMの出来上がりを見ると、この仕事をやって良かったと思う。
ただ時々、自分はいつまでこの仕事を続けるのかと考えてしまうことがあるのだ。
自由に街中を歩くこともできず、友達は芸能人がほとんど。好きな店で酒を飲むこともできないし、好きな子ができても気軽にデートに誘うこともできない。
この十二年の間、付き合った人は全員芸能人。美人で大人で割り切った相手だから、キスもセックスも楽しかったけれど、結局はそれだけだ。たまに綺麗な身体を揺さぶりながら、自分は一体何をやっているのだろうと思ってしまう。
こういう不健全な付き合いしかしてこなかったから、真実の愛なんてものに憧れを抱くようになるのだろう。
「ふと思っただけ。たださ、さっきの取材で、音成さんにとっての恋愛とは何ですか? って聞かれて、あったらいいけど、なくても死なないものって答えた。けど……考えたら、まともな恋愛なんて、芸能界に入ってからしてないな、と」
「……怜思、どうしちゃったの?」
モデルとしてデビューした頃は考えたこともなかったが、自分や周囲の予想に反してトップスピードで売れ始めてしまった。大した覚悟もないまま、いつしか怜思のプライベートは怜思の自由ではなくなった。
「今の相手は? 彼女とは結構長く続いているじゃない?」
今の相手、というのは現在恋人のような関係を保っている女性のことだ。最近、彼女とは冷めてきているから、怜思が一言別れると言えばすぐにこの関係も終わるだろう。
「とりあえず引退の話は置いといて、彼女のマンションの近くで降ろせばいい?」
「ああ。行ったところで、ただセックスするだけだけどね」
それすらも面倒くさく感じて、つい投げやりに答えてしまう。
「……怜思。いい加減、本気の恋を見つけなさいよ」
「はっ、こんな嘘ばっかりの場所で、どうやって?」
思わず苦笑すると、向井はそれ以上何も言わなかった。
車が信号で止まると、ビルのスクリーンに自分の出ているCMが流れるのが目に入った。カメラを持った自分の顔が大画面に映し出される。
こんなものばかり流すから、自分は健全でいられなくなるんだ、とぼんやり思った。
芸能人として生きていて仕事がたくさんある。それこそオファーを断るほどに。それはすごくありがたいことだ。仕事は楽しいし、やりがいもある。もっと新境地を開きたいと思うことも多い。
でも、時々、どうでもよくなる時があった。
音成怜思という存在に背を向けたくなるような、冷たい気持ちが湧き上がってくる。
ふと視線を移すと、大きなビルの壁面を占領する自分が目に入る。先ほどとは別のファッションブランドの看板だ。確かに目を引くが、このブランドはあまり好きではなかったことを思い出す。
初めて見る看板の出来をじっと確認していると、一人の女性がその前に立ち止まった。何気なく見ていたら、女性はそっと看板の怜思の頬に手を添える。
「手、小さいな」
小さくつぶやく。すると彼女は、そのまま冷たい怜思の頬にキスをした。
「へぇ……彼女も俺のファンか」
ありがたいことに、ファンは大勢いる。でも、なぜかわからないけど、彼女が看板にキスをする姿がやけに新鮮に映った。
ビルのスクリーンに、また自分のCMが流れ始める。ついため息をつくと、看板にキスをしていた彼女が振り返ってビルのスクリーンを見上げた。
「……あ」
「ん? どうしたの、怜思?」
思わず漏れた声に、運転席の向井が声をかけてくる。
「いや、何でもないよ」
マネージャーに答えながら、怜思の視線は彼女から離れない。
肩のラインで切りそろえた髪と、優しい顔立ち。特別美人ではないが、ぱっちりとした目が可愛い子だった。スクリーンを見上げて柔らかく微笑む彼女を見た時、怜思の心臓がドクンと大きな音を立てた。
なぜか目が離せない。彼女を見つめたまま何度も瞬きをしてしまう。
CMが終わると、彼女は一度目を閉じて幸せそうな顔をした。
その表情に、心臓が射抜かれる。
彼女は、どこにでもいる普通の子だろうと思う。流行りの服を着て、ただ怜思を見ていた。往来で看板にキスをするなんて大胆なことをやるようなタイプには見えなかった。
だからこそ、ものすごい引力を感じる。頭の中で鐘が鳴り響いているような気がした。
「怜思、スマホ鳴ってるよ? その音、毎回思うけどけたたましい鐘の音みたいよね」
「あ……」
頭の中で鳴り響いた鐘の音はスマホの着信音だったのか。
当たり前だ……頭の中で鐘が鳴るなんて、現実ではあり得ない。
彼女は満足したように歩き出す。そして怜思が乗っている車も動き出した。
スマホの着信音はそのままに、怜思は彼女を目で追う。すぐに人混みに紛れてしまった彼女を、車を降りて捕まえに行きたかった。
でもそんなことをしたら、あっという間に大変な騒ぎになるのは目に見えている。
「やっぱり、芸能人は嫌だな」
「えっ!?」
つい本音が口から出てしまう。
自分が芸能人じゃなかったら、きっと彼女を追いかけることができた。
まるで子供みたいに、この出会いに興奮している。
彼女のことなど何も知らないのに、話しすらしていないのに。
頭の中が、彼女のことで埋め尽くされていた。
車が目的地のマンション近くで停まった時、恋人と別れようとはっきり決意する。
不健全な付き合いはもう必要ないと思っている自分に驚いた。
「里佳子さん。悪いけど、もうあなたとセックスできない。だから、別れてくれるかな?」
マンションの玄関先でいきなりそう告げた怜思の頬を、彼女は思いっきりビンタした。
何かいろいろ言われたが、全部無視して彼女の部屋を出る。
途中持っていた帽子を被って、一般人に擬態した。
「ははは、なんだコレ、自分が信じられない!」
あり得ないくらい心が興奮している。何だか走り出したい気分だった。
それから怜思は、毎回あの看板の前を通るように向井に指示し、彼女との二度目の出会いを待つのだった。
* * *
何度か看板の前で彼女を見かけた。しかし、いつもタイミング悪く車を降りることができない。とりあえず、あまり好きじゃないけど、看板のブランドと契約の更新をした。イメージモデルを更新するのは久しぶりのことで、社長の美穂子が驚いていた。
「もう一度聞くけど、好みの女の子が一般人じゃいけない?」
「……いいえ、そんなことは、ない、です」
「よかった。こう見えて俺、結構真面目な男だよ」
不真面目なんて思っていないから、星南は首を縦に振った。
「本当に、片思いってストーキングと同じだ。気になって目で追って、想像して。……俺が何度、君に会うためにあの看板の前まで行ったと思う?」
怜思は星南の頬を指で突いたあと、そこを手の甲で撫でた。
初めて男の人からそんな風に触れられて、心臓がありえないくらいドキドキしている。
「これでも決死の覚悟で、君に声をかけたんだよ」
そう言って小さく息を吐いた怜思は、なんだか息が苦しそうに見えた。
「息苦しい、ですか?」
星南の言葉に、彼は可笑しそうに笑って首を横に振った。
「違うよ。星南ちゃん、手を借りるよ?」
彼に右手を取られた瞬間、心臓が破裂しそうに高鳴る。テンパった頭で、もう絶対にこの手は洗わない! なんて考えていたら、手を彼の左胸に押し当てられた。
手のひらから直に伝わる少し速い振動に、星南は息を呑む。
「ドキドキしているのがわかる? これくらい、俺は君と一緒にいて、ハイテンションになってる」
顔に一気に血が集まって、唇が震えた。
「君のことは、まだ名前と連絡先しか知らないけど、誰よりも愛せる自信があるよ」
人気美形実力派、世界的俳優の音成怜思が、会ったばかりの星南のような女に、「愛せる」と言った!?
こんなこと、夢でない限り絶対に起こらないことだ。
そんな現実に直面し、星南は本当にどうしようと思うのだった。
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――――音成怜思のキャリアは二十歳の頃、空港でスカウトされたところから始まった。
怜思は大学のあったイギリスから帰国し、久しぶりの日本の空気を吸い込んだ。この人口密度の高さは好きではないが、自分はやはり日本人なのだと実感する。この国の空気が心地いいと思うからだ。
怜思は、受け取った荷物についているタグを外してゴミ箱に放り込んだ。そのまま空港の出口へ向かって、速足で歩く。バスが出るまであと五分しかない。
「待ちなさい! ちょっと、待って」
どこからかそんな大声が聞こえてきたが、怜思は腕時計の時間を見ながら足を速める。
そこでまた、待ちなさい、と背後から声が聞こえた。それが、自分に言われている言葉とはちっとも思わなかった。
だから、いきなり後ろからセーターの裾を強く引っ張られた時、イラッとした。
「捕まえた、イイ男……あなた、名前は?」
「セーターが伸びるので、手を離してくれますか?」
相手は、見る限り結構年上だ。オバサンと言っても過言ではない年齢の人が、息を切らして怜思のセーターを掴んでいる。
緩くカールを巻いたロングヘアー。化粧は濃いが、顔立ちはそこそこ整っている。上を向いた濃い睫毛も、天然のようでフサフサと揺れている。服装は、若干若作り。似合っているが、怜思の好みではなかった。
「ああ、ごめんなさい。で? あなた名前は?」
セーターから手を離してくれたのはありがたいが、見ず知らずの相手に名乗る義務はない、と怜思は判断した。
「知らない人に名前を教えちゃいけませんっていうのが、家訓なので」
そう言って踵を返したら、今度は腕を掴まれる。女にしてはやけに強い力で、怜思は眉間に皺を寄せて振り返った。どうやら面倒なのに絡まれてしまったようだ。
「離してください」
「いやよ! 名刺渡すからちょっと待って! ほら、私は佐久間美穂子! こう見えても、芸能事務所の社長なのよ、ほら!」
彼女に無理やり手渡された名刺には、確かに社長と書いてあった。しかし、社長を自称する人間なんてどこにでもいる。
怜思はそういう手合いを相手にできるような法律の勉強を散々イギリスでしてきたので、彼女に名刺を突っ返した。
「佐久間芸能プロダクション? そのまんまで、明らかに胡散臭い。すみませんが、興味ありませんので」
それじゃ、と再び踵を返そうとすると、さらに強い力で腕を掴まれた。
「だーっ! ダメ! 行かないで! お願いします! お願いっ! あなたみたいなイイ男、きっともう二度と巡り会えない! ウチは真っ当な芸能プロダクションで、胡散臭くなんてないわ! 最近売れっ子の相川祐樹って知ってる? あれウチの所属の子よ」
「知りません。俺、ずっとイギリスにいたので」
きっぱりと答えた。怜思は父の仕事の都合で、十六歳から二十歳の今までイギリスで過ごした。この四年間の芸能界事情など知るはずがない。
「すみません、バスの時間があるので急いでいるんです。離してくれますか」
腕時計を見ると、あと一分でバスが出発してしまう。もう、諦めるしかないだろうと内心舌打ちしたくなる。
「いや、無理! ここで離したら私が後悔する! 本当の本当に、胡散臭くないの! ねぇ、あなたいくつ? ずっとイギリスにいたってことは、帰国子女?」
まるでお構いなしに質問を繰り返す彼女に、怜思の眉間の皺は深くなる一方だ。
佐久間芸能プロダクション社長の佐久間美穂子は、怜思の手を取り再び名刺を渡してくる。
「見知らぬ人に、年齢を教えるほど馬鹿じゃありません」
「だから本当に、ウチは真っ当な会社なの! まだ小さい会社だけど、私自身モデル出身だから所属の子は大切にしてるのよ」
言われてみれば確かに目の前のオバサンは、綺麗な顔をしている。身に着けているものや持っているスーツケースは有名なブランドのものだし、パンプスも服も控えめだがセンスがよかった。
しかし、だからと言って怜思の情報を教える理由にはならない。
「俺、次のバスには乗りたいので、失礼したいんですけど……オバサン」
もう一度名刺を突っ返す。彼女はオバサンと言われたことがショックだったようで、目を見開き言葉を失っている。ここまで言ったのだから、いい加減諦めるだろう。
芸能プロダクションなんて冗談じゃないと心から思う。
実のところ、怜思の家は芸能一家と言っても過言ではなかった。
父は有名なバイオリニストで、テレビに出ることも多い。今回、日本のテレビ局の仕事があると言って、怜思より早く日本に帰ってきていた。
すでに亡くなった母も有名なピアニストで、おそらく今でも名前を知っている人はいるだろう。
さらに妹は、十八歳ながらすでにピアニストとして頭角を現し、最近有名な国際コンクールで一位になったばかりだ。
怜思も一応、三歳から十八歳まで楽器をやっていたが、あまり音楽的な才能はなかったらしい。それなりにピアノやバイオリンを弾くことはできるけど、それだけだ。
さほど真剣に打ち込みたいと思ったこともないし、有名な音楽家の息子だからって、音楽家を目指す必要はないと思っている。
どちらかというと勉強の方が好きだし、大学を卒業した今は日本で弁護士を目指そうと思っていた。だから、芸能界にはまるで興味がない。むしろ、父母や妹を見てきたから、大変な世界だと思っていた。
だが、オバサン――美穂子は一向に怜思の腕を離してくれない。
「よく考えて。あなたこれだけイイ男だったら、即有名人よ? イギリスでもモテモテだったんじゃないの? あなた、たぶん身長百八十五センチは軽く超えてるでしょ? 雰囲気も日本人らしくないし、どこか外国の血が入っているわね?」
怜思は微かに目を見開く。思いのほか、人のことをよく見ていると思った。
言わないと気付かれないが、怜思の両親はどちらもクォーターというやつだ。母方の曾祖父はイギリス人で、父方の曾祖母はフランス人だった。だがクォーター同士の子どもの外見は、ほぼ日本人と変わらないのに。
「なんでわかったの?」
「そりゃあ、それだけ顔が整っていて美しければね。それに、全体的に大きな目の形もそうだし、腰の高さとその体格、身長のことを考えたらおのずとそう思ったわけ」
もしかしたら、この人の言っていることは本当なのかもしれないと思った。でも、芸能には心の底から興味がないし、自分にはそういう才能がないのを十分理解していた。
「とりあえず、私の話を聞いてくれるまで離さないから! 何なら私が家まで送ってあげるわ」
「かなり迷惑ですけど。だいたい、家についてきて何するんですか? あんまりしつこいと、警察呼びますけど?」
「呼ぶといいわ。それで私の身元がはっきりするなら願ったり叶ったりよ。そうしたら、あなたのご両親に会って挨拶をして、私の話を聞いてもらうわ!」
美穂子はこれっぽっちも引き下がらない。
「父はオーストリア在住。母は去年事故で他界しました。ちなみに家に来ても、家政婦しかいませんけれど」
怜思は嘘をついた。確かに父はオーストリアに拠点を移し、妹もそこにいるが、今は二人とも日本に帰ってきている。きっと、久しぶりに会った怜思に激烈ハグをかますことだろう。
「来たところであなたの話は聞いてもらえません。なので、手を離してくださいませんか?」
この人と関わったら大変だ、というのが怜思の結論だ。
「嫌よ、絶対に嫌! お願い、お願いします。私に話をさせてください!」
そして彼女は、ようやく怜思から手を離したと思ったら、床に膝をついた。
「お願い!」
いきなり目の前で土下座をされて、今度は怜思の方が焦った。急いで、膝をついて頭を下げている彼女の手を引っ張る。
「ちょっと、恥ずかしいからやめてください」
「話を聞いてくれるまで、ずっとこうしてるから!」
本当にクソ面倒くさいと思いながら、怜思は眼鏡を押し上げた。何を言ったところで、この人は絶対に引いてくれないだろう。
はぁー、と大きなため息が出た。こんな人と関わりたくないが、とりあえず今は仕方がない。
「……わかりましたよ」
がばっと顔を上げた美穂子の表情がパアッと明るくなった。その顔は確かに綺麗だったが、正直、迷惑以外の何物でもない。
「話を聞くだけですよ?」
「もちろんよ! あなた、名前は?」
「音成怜思」
「いくつ?」
立ち上がりつつ、さっそくとばかりに次々と質問が飛んでくる。
「二十歳です」
「大学生なのね。学校はイギリス?」
「卒業しました」
「え?」
美穂子が驚くのも当然だろう。二十歳なら普通にまだ大学へ通っている年齢だ。
「俺、スキップして今年大学を卒業したんです。さっき嘘をつきましたけど、父は今、日本にいます。あなたも知っているんじゃないですか? バイオリニストの音成怜志」
美穂子は目を見開いて、口をぽかんと開けた。その間抜けな表情に怜思の溜飲がちょっとだけ下がった。彼女はすぐに我に返り、大きく頷いた。
「だったら話が早いわ。ぜひとも今日中に、お父様に会わせていただけないかしら。あなた、他にやりたいことがあるかもしれないけど、やっぱり芸能人になるべきよ。私は今、百年に一度の金の卵を発見した気分だわ!」
美穂子の顔色が変わったことに、怜思はすぐに気が付いた。
ああ、親の七光りを利用しようとするやつか。軽蔑も露わに、舌打ちをした。
「悪いけど、俺は音楽家には向いていない。父の名前を使うくらいなら、ここでさよならしてください」
「はあ? 私はあなた自身の魅力を売りにしたいと言っているのよ! モデルから俳優なんてどうかしら? 親の名前なんかなくても、あなたは絶対に光るわ。私が保証する」
この時、怜思は何を思ったのか、なんだかよくわからない自信を漲らせるオバサンを信じた。
彼女は気前よくタクシーで怜思の家に向かった。そして、迎えに現れた父に笑顔で挨拶する。父の方が美穂子を知っていたのに驚いた。
――――そうして十二年。
怜思は三十二歳となり、当初の予定とはまったく違った方向に、彼の人生は動いていたのだった。
* * *
芸能人として活動を始めた怜思は、あっという間にスターの道を駆け上がっていった。それこそ、美穂子が予想した以上の華々しいキャリアを積み上げている。
CMランキングでは常に上位をキープしており、テレビで見かけない日はない。ファッション誌の表紙を飾ることも多く、特集が載った雑誌は完売することもあった。事務所の判断で連続ドラマに出演することはないが、スペシャルドラマや映画は軒並み好評。
現在はCM契約数が十三本、専属モデルをしているブランドは二社。スペシャルドラマの番宣でテレビ出演が五本予定されている。その他、雑誌の表紙撮影が三本と、ラジオ出演。怜思が出演したとあるアーティストのミュージックビデオの反響がものすごく、CDがかなり売れたと聞いている。さらに、最近出演した二本の海外映画がどちらもヒットして、世界的俳優という肩書きまでつくようになった。
それをありがたいと思う反面、プライベートはないに等しいくらい仕事に忙殺されている。
とにかく毎日があっという間にスケジュールで埋まる。もちろんオフもあるが、友達と会う暇もなかなか取れない。
ドラマの撮影を終え、今日はもう帰るだけだ。怜思はため息をつきながら車窓から外を見る。ひときわ目立つ看板が目に入った。最近撮ったブランドモデルの看板で、恰好をつけた自分がこちらを見ている。紛れもなく自分なのだが、自分ではないように感じた。
「向井さん、俺が芸能界引退するって言ったら、美穂子さん怒ると思う?」
ぽつりと、運転席のマネージャーに声をかけた。
「ええっ!?」
向井尚子という怜思のマネージャーは、素っ頓狂な声を上げて後部座席の怜思を振り返った。
「運転中。前見て」
「あ、はい……ごめん」
向井は慌てて前を向く。バックミラーに映る彼女の顔はかなり焦っているようだ。
「冗談でしょ? 怜思」
「半分冗談、半分は本気、かな」
「なんで急にそんなこと言い出すわけ? 今日の取材、嫌だった?」
ドラマ撮影の前に入っていた取材内容を思い出す。この間出演したミュージックビデオについて始まり、日々の過ごし方を聞かれた。そこからさらに恋愛観に発展して、内心ため息をつきながら笑顔で当たり障りのないことを答えた。
付き合っている人はいる。でも、会えばただ身体を重ねるだけで、たぶん恋愛とは言えないだろう。
本当は心で感じるような恋がしたい。心が震えるほど相手を好きだと感じたい。
でも今は、恋愛も仕事の延長線みたいなものでしかない。
怜思は黙って窓に肘をつき、ぼんやりと外を見る。スモーク加工されたガラスは、外から中が見えないようになっている。同時に、車中から見る街の色は本来の色がわからないのだ。
直接色を捉えられないのは、自分がこの道を選んだから。
街中を自由に歩いたのは一体どれくらい前だろう。都心だけあって、夜でも窓の外にはたくさんの人がいる。その中に、怜思の知り合いはおそらく一人もいないだろう。
だが、怜思を知らない人は、ほとんどいない。
ファッションビルの壁面に大きなスクリーン。そこに、自分の出ているCMが流れる。
今売れているカメラのCMで、砂漠と緑豊かな密林で行われた撮影には一週間も費やした。しばらく飛行機には乗りたくないと思うくらいの移動距離に、辟易したのを覚えている。
それでもこうしてCMの出来上がりを見ると、この仕事をやって良かったと思う。
ただ時々、自分はいつまでこの仕事を続けるのかと考えてしまうことがあるのだ。
自由に街中を歩くこともできず、友達は芸能人がほとんど。好きな店で酒を飲むこともできないし、好きな子ができても気軽にデートに誘うこともできない。
この十二年の間、付き合った人は全員芸能人。美人で大人で割り切った相手だから、キスもセックスも楽しかったけれど、結局はそれだけだ。たまに綺麗な身体を揺さぶりながら、自分は一体何をやっているのだろうと思ってしまう。
こういう不健全な付き合いしかしてこなかったから、真実の愛なんてものに憧れを抱くようになるのだろう。
「ふと思っただけ。たださ、さっきの取材で、音成さんにとっての恋愛とは何ですか? って聞かれて、あったらいいけど、なくても死なないものって答えた。けど……考えたら、まともな恋愛なんて、芸能界に入ってからしてないな、と」
「……怜思、どうしちゃったの?」
モデルとしてデビューした頃は考えたこともなかったが、自分や周囲の予想に反してトップスピードで売れ始めてしまった。大した覚悟もないまま、いつしか怜思のプライベートは怜思の自由ではなくなった。
「今の相手は? 彼女とは結構長く続いているじゃない?」
今の相手、というのは現在恋人のような関係を保っている女性のことだ。最近、彼女とは冷めてきているから、怜思が一言別れると言えばすぐにこの関係も終わるだろう。
「とりあえず引退の話は置いといて、彼女のマンションの近くで降ろせばいい?」
「ああ。行ったところで、ただセックスするだけだけどね」
それすらも面倒くさく感じて、つい投げやりに答えてしまう。
「……怜思。いい加減、本気の恋を見つけなさいよ」
「はっ、こんな嘘ばっかりの場所で、どうやって?」
思わず苦笑すると、向井はそれ以上何も言わなかった。
車が信号で止まると、ビルのスクリーンに自分の出ているCMが流れるのが目に入った。カメラを持った自分の顔が大画面に映し出される。
こんなものばかり流すから、自分は健全でいられなくなるんだ、とぼんやり思った。
芸能人として生きていて仕事がたくさんある。それこそオファーを断るほどに。それはすごくありがたいことだ。仕事は楽しいし、やりがいもある。もっと新境地を開きたいと思うことも多い。
でも、時々、どうでもよくなる時があった。
音成怜思という存在に背を向けたくなるような、冷たい気持ちが湧き上がってくる。
ふと視線を移すと、大きなビルの壁面を占領する自分が目に入る。先ほどとは別のファッションブランドの看板だ。確かに目を引くが、このブランドはあまり好きではなかったことを思い出す。
初めて見る看板の出来をじっと確認していると、一人の女性がその前に立ち止まった。何気なく見ていたら、女性はそっと看板の怜思の頬に手を添える。
「手、小さいな」
小さくつぶやく。すると彼女は、そのまま冷たい怜思の頬にキスをした。
「へぇ……彼女も俺のファンか」
ありがたいことに、ファンは大勢いる。でも、なぜかわからないけど、彼女が看板にキスをする姿がやけに新鮮に映った。
ビルのスクリーンに、また自分のCMが流れ始める。ついため息をつくと、看板にキスをしていた彼女が振り返ってビルのスクリーンを見上げた。
「……あ」
「ん? どうしたの、怜思?」
思わず漏れた声に、運転席の向井が声をかけてくる。
「いや、何でもないよ」
マネージャーに答えながら、怜思の視線は彼女から離れない。
肩のラインで切りそろえた髪と、優しい顔立ち。特別美人ではないが、ぱっちりとした目が可愛い子だった。スクリーンを見上げて柔らかく微笑む彼女を見た時、怜思の心臓がドクンと大きな音を立てた。
なぜか目が離せない。彼女を見つめたまま何度も瞬きをしてしまう。
CMが終わると、彼女は一度目を閉じて幸せそうな顔をした。
その表情に、心臓が射抜かれる。
彼女は、どこにでもいる普通の子だろうと思う。流行りの服を着て、ただ怜思を見ていた。往来で看板にキスをするなんて大胆なことをやるようなタイプには見えなかった。
だからこそ、ものすごい引力を感じる。頭の中で鐘が鳴り響いているような気がした。
「怜思、スマホ鳴ってるよ? その音、毎回思うけどけたたましい鐘の音みたいよね」
「あ……」
頭の中で鳴り響いた鐘の音はスマホの着信音だったのか。
当たり前だ……頭の中で鐘が鳴るなんて、現実ではあり得ない。
彼女は満足したように歩き出す。そして怜思が乗っている車も動き出した。
スマホの着信音はそのままに、怜思は彼女を目で追う。すぐに人混みに紛れてしまった彼女を、車を降りて捕まえに行きたかった。
でもそんなことをしたら、あっという間に大変な騒ぎになるのは目に見えている。
「やっぱり、芸能人は嫌だな」
「えっ!?」
つい本音が口から出てしまう。
自分が芸能人じゃなかったら、きっと彼女を追いかけることができた。
まるで子供みたいに、この出会いに興奮している。
彼女のことなど何も知らないのに、話しすらしていないのに。
頭の中が、彼女のことで埋め尽くされていた。
車が目的地のマンション近くで停まった時、恋人と別れようとはっきり決意する。
不健全な付き合いはもう必要ないと思っている自分に驚いた。
「里佳子さん。悪いけど、もうあなたとセックスできない。だから、別れてくれるかな?」
マンションの玄関先でいきなりそう告げた怜思の頬を、彼女は思いっきりビンタした。
何かいろいろ言われたが、全部無視して彼女の部屋を出る。
途中持っていた帽子を被って、一般人に擬態した。
「ははは、なんだコレ、自分が信じられない!」
あり得ないくらい心が興奮している。何だか走り出したい気分だった。
それから怜思は、毎回あの看板の前を通るように向井に指示し、彼女との二度目の出会いを待つのだった。
* * *
何度か看板の前で彼女を見かけた。しかし、いつもタイミング悪く車を降りることができない。とりあえず、あまり好きじゃないけど、看板のブランドと契約の更新をした。イメージモデルを更新するのは久しぶりのことで、社長の美穂子が驚いていた。
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