リップスティック

美珠

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2巻

2-3

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 比奈が声を押し殺してシーツをつかむ。もっと声を聞きたくて、我慢して欲しくないと言った。
 けれど比奈は首を横に振ったので、もっと声を出させたくて壱哉は腰を揺らす。思った通り優しくできなかった。それでもついてきてくれる比奈が愛しかった。二年半、がれていた身体。思い通りに突き上げて、最後の瞬間まで比奈の身体を自分本位に愛した。これまでの時間と距離を埋めるように。


   * * *


 比奈を何度も抱いた。
 日頃の疲れがたまっているはずなのに、目はえ、身も心も心地よく溶けた。満ち足りていた。
 比奈と別れ、エマと結婚して、そして離婚した。まさかもう一度、比奈を抱ける日が来るとは思わなかった。一度別れ、その後は電話で話しさえしたことがない相手とヨリを戻し、ふたたび身体の関係を持つことになるなんて、今までの壱哉だったら考えられないことだった。
 だが壱哉は、比奈のことが今でも好きだとはっきり告げた。
 比奈も壱哉を好きだと言ってくれた。
 壱哉は、自分の幸運に感謝する。
 隣に眠る比奈の白い顔を眺めていると、過去の思い出がとめどなくあふれてくる。
 いつもお互いの家で会っていたあの頃。比奈を抱く度に、比奈という特別な存在を意識した。どうしてこの人はこんなにも特別なのだろう、といつも考えていた。
 再会した今ならわかる。
 初めて会った十五年前のあの頃から比奈が好きだったのだ。比奈に恋をしていたのだ。
 会う度に可愛く、綺麗になっていく比奈に、壱哉は心かれていたのだ。
 そして健三の結婚式の日、偶然目にした比奈のつけた桜色のキスマーク。あの姿を目撃した瞬間、壱哉ははっきりと恋に落ちたのだ。

「好きだ」

 比奈の細い身体を抱きしめて、唇に軽くキスをする。
 この人には、いつまでもそばにいてほしい。
 そう思いながら壱哉も目を閉じた。


   * * *


 ベッドに膝立ちになった壱哉が、比奈のブラウスを性急に脱がしていく。壱哉自身もジャケットを脱ぎネクタイを捨て、シャツのボタンを片手で器用に外していった。
 そして壱哉は、枕元に紙製の箱を放り投げた。
 まだ封は切られていない。比奈は、いつ買ったのだろう、と思った。

「いち、やさん、これ? 持ってたの?」
「まさか、さっき買ったんだよ」

 壱哉はシャツを脱いだ。壱哉の身体は二年半前よりも筋肉がついていた。壱哉がスラックスのボタンを外したところで、こくりと唾を呑む。
 壱哉は出会った時から魅力的だった。本当にカッコイイ人だと思っていた。憧れの人だった。
 壱哉は何をしても魅力的で、ストイックな雰囲気の彼が服を脱ぐ様は、比奈の中の女の部分を刺激した。目が離せない。
 いつも比奈を魅了する壱哉が、比奈の身体におおいかぶさる。
 ブラウスもスカートも脱がされた比奈のショーツの中に、壱哉の手が侵入してきた。身体を横に向けて手から逃れようするが、壱哉はそれを許さない。身体に重みをかけてくる。

「は、ぁ」

 比奈は久しぶりの感覚に一瞬目を見開いたが、ふたたび目を閉じて、壱哉の肩に手を回した。両脚の間に壱哉の身体が割って入ってくる。さらに強く目を閉じた。
 吐息がもれる。自分でも信じられないほど甘い声が出て、顔が熱くなる。
 かつて、つきあっていた頃も、こういう甘い声を出していたはずだ。でも今夜は久しぶりなので、すごく恥ずかしい。声を出すまいと思っても、つい出てしまう。
 比奈の内部は、壱哉の長い指を感じている。比奈の吐息と混ざって、壱哉のあえぐ声も聞こえる。
 濡れた音を立てる自分の身体が、とにかく恥ずかしい。キスをされた時からすでに濡れていたのだ。

「ん、ん……っふ」

 内部に感じていた異物感が消えた頃、比奈は目を開いて壱哉を見た。壱哉は、四角いパッケージを口で噛み切るところだった。比奈がまばたきをすると、その目蓋に壱哉の指が触れてくる。比奈が目を閉じると、またキスをされた。息苦しさに目が回りそうだった。
 やがて比奈の隙間に指より大きなものがあてがわれた。それは隙間を、ゆっくりと、慎重に、埋めてくる。
 久しぶりの行為だから、痛みは少しだけあった。だが隙間がぴったりと埋められると、痛みよりも快感が勝っていった。
 身体の内部から込み上げる、何とも言えない感覚。満たされている快感。
 まだ腰を揺すられているわけではないのに、繋がっている部分から身体全体がうずきだす。
 比奈の頬を壱哉の大きな手が撫でた。その手に比奈は自分の手を重ねて、大きな手を頬に押し付けた。

「この感覚……、久しぶりだ……」

 壱哉が吐息の合間に放った声はかすれていた。比奈も壱哉の頬に触れた。頬に触れた手のひらに、壱哉がキスをする。穏やかなのはそれまでだった。壱哉が我慢できないように比奈を見て、腰を強く突き上げる。

「あっ……!」

 不意に身体を揺らされて、思わず声が出る。唇を噛みしめてシーツをつかむ。身体を揺すられる度に壱哉の一部がなじみ、濡れた音を立てる。それが恥ずかしいけれど、声は止まらない。

「比奈、声を我慢しないで!」

 そう言われても、首を横に振るしかできない。壱哉はさらに比奈の身体を揺らしてきた。あえぎ声を押し殺していたけれど、そんな抵抗はすぐに尽きた。恥ずかしいほどの声が出てしまう。でも、恥ずかしいと感じられたのも、最初のうちだけだった。久しぶりの壱哉との行為は優しいとは言えない。けれど、比奈を求める気持ちはよく伝わってくる。彼の忙しない呼吸が比奈のすべてを欲しいと言ってくれているような気がして嬉しい。つきあっていた頃のように、比奈は壱哉の行為をすべて受け入れた。
 涙がにじみ、それが頬に落ちるのもまったく気づかないほど、壱哉との行為に夢中になっていた。
 しばらくすると、身体の奥底から込み上げるような快感を覚えた。

「いち、や、さん」

 比奈は、我を忘れた。一体何度、壱哉の名前を呼んだかわからない。それくらい夢中になり、気持ちよかった。

「あ、あ、あ……っん」

 声が抑えられない。壱哉の行為がいるのもあるが、身体が敏感になっている。逃れられない感覚が大きくなって一度弾けたのに、まだ壱哉の行為は終わらないから、どうしたらいいか分からなくなる。

「ぁ……っだめ」

 息が苦しい。もう何も考えられない。ただ、壱哉の手や唇、そして比奈の中にある壱哉の一部を感じている。強い快感を引き出すような、壱哉の行為。これからはずっと、またこうして愛されるのだろうか、と考えたが、その考えもすぐに霧散むさんしてしまう。繋がっている壱哉の腰の動きが強く早くなったからだ。
 しばらくすると壱哉が強く腰が強く突き上げ、二度ほど揺すって止まる。
 壱哉が達した時、比奈も同じように達していた。
 せわしなく息を吐きながら、しばらく抱き合って天井を見つめていた。
 比奈は、愛している人との久しぶりのセックス、久しぶりの快感に浸った。


   * * *


 比奈が目を覚ますと、ネクタイを締めながらこちらを見ている壱哉がいた。

「起きたね」

 比奈はゆっくりと起き上がる。
 壱哉は、比奈のかたわらに来て肩に手をやった。そして、比奈の裸の肩と胸に、肌触りのよいガウンをかけてくれる。
 私ったら裸で寝ていたのか、と比奈はガウンの前をかき寄せた。壱哉はそんな比奈に微笑みかけ、頭を撫でた。
 昨夜は、一度した後、二人で入浴した。そしてもう一度して、それからまたお風呂に入った。

「私、疲れて、あのまま寝ちゃったんだ……」

 壱哉がうなずいて、比奈の髪に触る。

「今、何時ですか?」
「九時半」
「よかった」

 壱哉は冷静だな、と思う。比奈のほうは、恥ずかしさでうるさいくらい心臓がどきどきしているというのに。

「一回しかしないと思ってたのに」
「……嫌だった?」

 少しのためらいもなく聞く壱哉に、この人は変わってないな、と比奈は思う。

「嫌じゃありません。私が受け入れたのだから」
「朝食は? 食べる?」

 比奈は首を横に振った。

「お腹空いてるけど、一度家に戻らないとダメなんです。十一時には、塾にいたいから」

 比奈は立ち上がって、服を探す。

「私の服……」
「服も下着もしまっておいたよ」

 壱哉が、クローゼットを指差す。比奈がクローゼットを開けると、何着ものスーツが掛けられていた。比奈と壱哉が再会した時のブルーのスーツもあった。その隣に比奈の服が綺麗にかけてあり、下着も近くにまとめてあった。

「着がえるところ、見てるんですか?」

 比奈が恥ずかしがると、壱哉はソファに座ってにこりと笑う。

「いつも見てなかったっけ?」

 比奈は何も言い返せず、深呼吸して、壱哉に背を向けた。ガウンを脱ぎ、下着をつけ、スカートをはく。ブラウスを着てボタンを留め、身支度を整えてから、壱哉に近寄った。

「今日も、コンタクトですか?」
「うん。だけど今は裸眼」
「じゃ、さっきの着替えは見えてなかった?」
「でも、比奈さんの仕草で何をしているかは、何となくわかったよ」

 壱哉はコンタクトレンズを洗浄してから目に入れた。

「壱哉さんも仕事でしょ」
「会社に一度行ってから、午後の便でアメリカへまた発つ」

 アメリカ、と聞いて、比奈はかすかに動揺した。

「そうですか」

 何とか平静を装い、そう言った。

「比奈さん、君はどういうつもりで僕に抱かれたの?」

 壱哉が比奈の手を取って言った。

「どういうつもりって……」
「これから、君は僕とどうするつもり?」
「そんなこと……まだ……」
「ただ気持ちが高ぶったせいで僕に抱かれたというなら、僕は、昨日のことを謝らないと」

 比奈はその手を振りほどいて、壱哉をにらむ。

「私、そんなに軽くないです!」

 壱哉は比奈の言葉に満足した。そしてもう一度比奈の手を取って言う。

「じゃあ、重く考えていいよね」
「重くって……意味が……」
「僕の心を君に捧げるから、僕の願いを聞いてほしい。一生、僕のそばにいてくれないだろうか」

 比奈は息が止まりそうだった。

「いきなりそんなこと……」
「前にも言ったよ、同じようなこと。また、断る?」
「返事は、急がなくてもいいんですよね」
「今の気持ちを聞かせてほしい。もう君を手放したくないから」

 比奈は戸惑った。けれど、二年半前にも同じことを言われているのだ。結婚してアメリカについて来てほしい、と。
 しかしその時は、断ってしまった。そして壱哉は比奈を追いかけなかった。断られてなお、しつこくしたくなかったのだろう。
 自ら断ったのだが、比奈はその後、とても苦しんだ。壱哉が結婚したと聞いた時、胸がつぶれそうなくらい寂しくて、辛かった。

「壱哉さんは、これからのことを約束してくれるんですか?」
「約束するよ。だから今度は君も覚悟を決めて。一生そばにいる覚悟を」

 そう言われて、比奈は胸が熱くなった。涙が出そうになる。
 あの時ついて行っていれば、と本心ではいつも後悔していた。
 素直に壱哉の胸に飛び込めなかったのは、恋に人生をけるのが怖かった。それに、仕事のこともあきらめられなかった。つまり、未熟だったのだ。でも今は違う。
 恋に懸けたっていいじゃないか。比奈は、これまでの仕事で人生を渡っていく充分なキャリアを積んできた自負がある。もう恋を優先しても大丈夫という自信がある。

「私、もうすぐ三十歳なんですよ、壱哉さん。言っていること、わかります?」

 壱哉は比奈の言葉にうなずいた。そして比奈の身体を引き寄せた。

「二十代のうちに、結婚したいんです」

 そう言った比奈を見て、壱哉は言った。

「バツイチの男でよければ、いつでもどうぞ」

 比奈も笑顔を浮かべて、そして言った。

「……私でよければ、一生壱哉さんの、そばにいます」

 壱哉は微笑んで比奈を抱く手に力を込めた。
 優しいキスをくれて、「ありがとう」と言った。

「だけど、こんなに簡単に決めていいの?」
「簡単じゃない。すごく時間がかかった」

 壱哉からプロポーズされたのは、これが二度目だ。

「二度も振られたらどうしようかと思った」

 小さな声で「ホッとした」と付け加えた壱哉の身体に、比奈は身を預ける。
 一生そばにいる、という言葉に嘘はなかった。後悔もまったくない。
 比奈は、幸福感に満たされて壱哉の胸に飛び込み、背中に回した手に力を込めた。



   3


 インターホンが鳴ってドアを開けると、会社の部下が二人いた。壱哉はドアロックを外して、その二人を見る。

「おはようございます」

 妙に改まって挨拶するのは、秘書を務める春海だった。

「気持ち悪いな、春海。下心でも?」

 壱哉が返す。

「そんなことないわよね、春海」

 眼鏡を押し上げながら言ったのは、壱哉と同期の女性、宮川みやがわだった。
 壱哉は朝早くからの二人の訪問を不思議に思いながらも部屋の中に招き入れた。

「そろそろ出発の時間です。宮川さんも、です」

 春海に言われ、壱哉は答える。

「わかった。会社へは顔を出さなくていいのか?」
「結構です」

 春海から言われて、壱哉は再度、わかった、と答えた。壱哉は、まとめてあった荷物を取りに寝室へ入ると、乱れたベッドが目に入った。
 先ほどまでいた比奈は送ると言ったのに、自分で帰ると言い張った。別れ際にエレベーター前で、壱哉にキスを残して。

『電話、待ってますね』

 一言そう残し、比奈はエレベーターに乗った。
 比奈と再会してまだそれほど時間はたっていないにもかかわらず、比奈は壱哉を受け入れた。そして「一生そばにいる」と約束した。
 比奈は堅実な考え方をする女性で、冒険はしないが、確実に何かをやり遂げようとする。反面で、その考え方が、比奈を保守的でやや受動的に見せているかもしれない。そして人見知りなところもある。壱哉とつきあっていた頃の比奈は、自分から壱哉に対して働きかけることはなかった。ことセックスに関しては、保守的だった。
 比奈との久しぶりのセックスはもどかしく、それがまた妙に壱哉の心を揺さぶった。しかし今回、誘ったのは壱哉からではなく、比奈からだ。先に部屋に行かせ、もしも帰ってしまっていたなら、仕方がないと思っていた。壱哉はフロントでスペアキーをもらい、近くにあるコンビニに行き、避妊具を買い、そして部屋に向かった。
 比奈は部屋にいた。「比奈さんっ」と声をかけると振り向いて、大きな目をしばたたかせた。
 比奈は、帰ってしまわなかった。
 再会して会ったのは三回目。
 もともと古い仲で、それなりに抱き合っていたとはいえ、二年半のブランクがある。しかし、比奈は壱哉の行為を受け入れた。久しぶりの感覚が、興奮を高めた。とくに二回目の絶頂の時はすごかった。比奈は昇りつめた後、力が抜けたように、くたりとなった。きっと壱哉のせいだろう。それだけ、求めたのだから。
 壱哉はスーツケースを手に、寝室から出る。
 ジャケットを羽織ってボタンを留めていると、春海が微妙な顔をして壱哉を見た。

「どうした?」
「ピアスが、落ちてました。もしかして誰かとご一緒でしたか?」

 そう言うと、うしろから宮川が春海の頭を小突いた。

「あんたはどうしてそういうことをここで言うわけ? そんなの後で渡せばいいでしょ」

 その様子を見て壱哉は思わず笑った。何も言わずに手を出して、ピアスを受け取る。

「可愛いピアスね。誰の?」

 宮川があきれたような目つきで壱哉を見る。壱哉は肩をすくめた。

「奥さんのですよね? すぐわかるじゃないですか」
「……あんたね、篠原の秘書をやってて気づかないの? 篠原、離婚してんだけど?」

 春海は仕事はできるが、少し天然が入っている。

「う、そ、ですよね?」
「本当だよ。一年前に離婚してる」

 壱哉は、控えめだが綺麗な輝きを放つピアスを、スーツのポケットに入れた。

「誰のよ。日本に帰ってきて、もう彼女ができたわけ?」
「できたかもね。結婚するかもしれない」

 壱哉が言うと、二人は同時に声を上げた。

「ええっ!?」
「はぁっ!?」
「そんなに驚かなくても……」

 呆気あっけにとられる二人の表情を見て、壱哉は苦笑し、春海に「時間はまだいいのか」と尋ねる。春海は腕時計を見て「少しなら大丈夫です」と答えた。

「一体、誰よ」

 宮川がしつこく言って、壱哉を見る。

「ピアスが落ちるようなことをしたわけですか。嫌よね、同期のそういう生々しいところ、見たくないわ」
「春海が拾ってくれたのには感謝する。彼女、かなり探していたから。帰国したら返そう」

 春海が「じゃ、そろそろ」と出発を促した。
 ホテルの部屋を出て、エレベーターの前まで行くと、宮川が「ねぇ」と言った。

「何か見覚えあるわ、そのピアス。私、そのピアスが欲しいって、誰かに言ったことがあるような……。そう、篠原が前につきあってたあの子よ!」

 エレベーターに乗り込んで、壱哉は記憶を手繰る。確かに宮川がそう言っていたことを思い出した。

「彼女、物持ちがいいんだ」

 宮川は、あきれたようにため息をつく。

「若くして支社長にまで上りつめた、仕事のできるイイ男も、ただのバカな男だったというわけね」
「そういうことになるかな」

 話の見えない春海は首をかしげるばかり。

「どうぞお幸せに。結婚式には呼んで頂戴な」

 宮川の物言いに苦笑していると、一階に着いた。

「なんか、僕だけ話がわかりませんが……」
「あんたはいいのよ、春海。そのうち分かるから待ってなさい」

 宮川から言われて春海は「分かりました」と素直にうなずいた。
 壱哉は、フロントに顔を出す。

「おはようございます」

 フロントマネージャーが応ずる。

「おはよう」
「今日は遅いご出勤ですね」
「今日から出張なんだ」

 そう言って、壱哉はカードキーを二つとも出してしまった。

「おや、カードキーは会社にお忘れではなかったのでしょうか?」
「……忘れていたと思ったら、ポケットに入っていた。スペアを貸してくれてありがとう」

 どうして二つも出してしまったのか、しまったなぁ、と思いながら壱哉はフロントマネージャーに笑いかけた。
 マネージャーもにこりと笑って「そうですか」と調子を合わせた。

「お連れ様の役に立ってよかったですね。先ほど、タクシーに乗って帰られましたよ。それでは、お気をつけて行ってらっしゃいませ」


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