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第1章:第三音楽室のピアノは君に会いたがっている

#1:憂鬱

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「はぁ、……今年もこの鬱陶しい季節か。いつも以上に憂鬱になるし、おまけに髪はうねるし、マジ最悪」


 今日は朝から雨がシトシトと降っており、桜は雨に濡れて、花弁から雫が滴れ、儚く散っていた。朝比奈 優あさひな ゆうはその美しくも儚い様を見ることも無く、うねった髪の毛を直しながら、学園まで続く緩やかな坂をトボトボと俯き歩いていた。
 優が通う櫻丘学園さくらがおかがくえん櫻ノ宮市さくらのみやしが一望出来る小高い丘に建てられ、自然に囲まれた場所にある。この時期は淡いピンク色の桜が満開となり、通称桜坂トンネルと呼ばれてる位に綺麗である。


「はぁ、……傘に桜の花弁が張り付いてるし、後で取るの面倒だな」


 優は差している透明のビニール傘を見ては溜め息をついた。憂鬱な気分になりながら、やっと坂を登り切ると、校門前に図体がデカいし、声も無駄にデカい生徒指導の後藤先生が立っていた。優は後藤先生が苦手だ。
 優は身を縮め、見つからない様に他の生徒達に紛れ、コソコソと後藤先生の前を通ろうとした。しかし、後藤先生は優の姿を見ると、急に大きな声を出し、優に近付いた。優は易々と捕まり、動揺してうろたえた。


「おい、朝比奈! そんなにビックリしなくてもいいだろう! お前はもっとシャキッとしろ! シャキッと!」


 優は顔を引き攣らせながら、軽く会釈をし、その場を去ろうとした。しかし、後藤先生は近付いてくるなり、優の背中をバシバシと勢いよく何度も叩き、肩を組んできて、自分の方に優を無理矢理引き寄せた。優は嫌そうな顔をして、先生の体を押し退けようとするが、びくともしなかった。


(うわっ……。最悪。また絡んできた。それにしても、やたら体を触ってくるのはどうにかならないかな)


「先生がお前を指導してやろう。もう三年にもなるんだ。ビシッとせんと、面接で落とされるぞ。がははっ」
「……あ、あの、先生。そういうの大丈夫なんで。心配して下さってありがとうございます。……それより、顔近いです」
「何言ってるんだ! お前がいつも下を向いているからだろうが。 な? な?」


 後藤先生は嫌がる優の顔を見て、ニヤつきながら、優の肩や腕の肉感を確かめるように何度も揉んできた。その横を多くの生徒が行き交い、優の姿を見て、ヒソヒソと話す生徒もいた。優は愛想笑いをして、我慢した。しかし、後藤先生は更に顔を近付け、腰の方へ徐々に手を滑らしていった。優は鞄の持ち手をギュッと握り締め、ひたすら我慢した。
 優はもう我慢出来なくて、大きな声を出そうとした。その時、後ろから誰かが自分と後藤先生との間に割り込んできた。


「先生、そういう行為はどうかと思いますが」
「待て待て、俺はコイツに指導してただけだぞ」
「生徒の体を撫で回すのが先生のおっしゃる『指導』というものなのですか? 朝比奈も何か言ったらどうだ?」
「えっと……その……」


 優を助けてくれたのは隣のクラスの一ノ瀬 楓雅いちのせ ふうがだった。後藤先生と一ノ瀬が睨み合っている姿を見て、優は完全に萎縮してしまい、どう言えばいいか分からなかった。困惑する優を見かねて、一ノ瀬は優の腕を引っ張り、校舎まで向かった。


「……い、痛いよ。一ノ瀬君、だ、大丈夫だから、もう手を離して」
「申し訳ない。ついカッとなってしまって……」
「助けてくれてありがとう。でも、まさかこんな時間に一ノ瀬君と一緒になるとは思わなかった」
「今日はたまたまです。朝比奈君こそ今日は早いんですね」
「うん、なんか早く着いちゃった。あはは」


 優が照れ笑いしながら、頭を掻いた。それを見て、一ノ瀬は少し笑った。
 一ノ瀬は高校入学時に仲良くなった唯一の友達だ。綺麗な金色の髪をしていて、顔が整っており、海外の俳優みたいに背が高く、不思議なオーラがあった。クォーターで英語は勿論、他の言語も流暢に話す。成績も良く、学年では優の次に頭が偉かった。全く接点の無い二人がどうして友達になったかと言うと、入学式の時だった。優の新入生代表挨拶に一ノ瀬は感銘を受けて、クラスが違うのに、優を追いかけてきたのだ。


「あの! 君が好きだ!」
「……はい?」


 優にとって、それは衝撃的な出会いであり、入学早々、学校中がその噂で持ちきりで大変だった。なんとか誤解は解けたが、一ノ瀬はそんな事を全く気にせず、友達がいない優の強い味方として、ずっと傍に居てくれた。
 二人は共通の趣味である読書や音楽の話をしながら、教室へ向かった。優にとって、一ノ瀬と会話をする事は一番の安らぎだった。


「朝比奈君、今日も図書室当番?」
「うん、今日も当番。本当は違うけど……」
「はぁ……。また他の人の当番を変わってあげたんですか? そう言うのはあまり良くないですよ」
「いいの、いいの。部活もしてないし、図書室は静かだし、窓から校庭を見て、黄昏るの好きだし」
「全く……。それでしたら、僕も放課後、図書室へ行きます」


 一ノ瀬は優の頭をポンポンとし、優しい眼差しで優を見つめると、軽く手を振り、自分の教室へ入っていった。一ノ瀬はいつも優の頭を優しく撫でてくれた。揶揄っているのかもしれないが、優はいつもそれにドキドキしてしまう。今日もまんまと優しくされ、優は鞄の持ち手をギュッと握り締めて、早歩きで自分の教室へ入った。そして、一目散に教室の一番後ろにある自分の席に座り、机に突っ伏した。


(んんっ! 一ノ瀬君はなんであんなカッコいいんだろう? 僕みたいな陰キャ眼鏡にも優しくしてくれて、さっきの頭撫でてるとこを一ノ瀬君信者に見られてたら、また怒られちゃうよ……)


 優はそう自分に言い聞かせて、ムクッと顔を上げた。優が突然、顔を上げると、今までヒソヒソ話をしていた生徒達は目を逸らし、黙っていた。優は深く溜め息をつくと、いつも持ち歩いている古書を鞄から取り出し、他の生徒に背を向けるようにして読み始めた。


(この本の続きって無いのかな? 春人の父親から貰ってから、地道に翻訳して、読めるようにはしたけど……。他に良い本が無いか、一ノ瀬君に聞いてみようかな?)


 優はそう思いながら、小説のページをめくった。文字を読むと言うよりかは見るに近かった。優にとってそれが唯一の暇つぶしだったからだ。同じクラスに友達がいる訳ではなく、話す相手もいなかったため、意識をどこかへ飛ばすような魔法のアイテムだった。しかし、意識を飛ばせば飛ばす程、優にとっては辛い記憶が頭の中を駆け巡るのであった。
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