オメガだけど、やられてたまるか

七条楓華@Unsweet(アンスイート)

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オメガだけど、番(つが)ってたまるか

グッバイ・アゲイン

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 タイ、バンコクのウェスティン・グランド・ホテル。巨大なシャンデリアがきらめくロビーを颯爽と横切り、フロントでキーを受け取りながら、桃真は口笛でも吹きたいような上機嫌に包まれていた。

 詐欺しごとはこれ以上ないほど順調に進んでいた。
 カモ――某産油国の第三王子――はすっかりだまされ、架空の兵器購入契約を結ぶため、明日にでも億単位の現金を持ってくることになっている。

 桃真は、コーンケーン県に工場を持つ中国の兵器製造会社のバンコク支社長になりすましていた。
 中国人エリートに化けるため、タイへ来る前わざわざ北京に寄ってスーツを仕立て、髪も北京での流行に合わせてカットしてきた。ディテールにはこだわっている。
 今回は王族相手の大仕事だ。手間はいくらかけてもかけ過ぎることはない。



 直通エレベーターでスイートルームへ上がると、豪華で快適な部屋が桃真を出迎えた。
 エレガントな調度品が目を引く前室。バンコクの街並みを一望できる広々したリビング――。
 華麗な刺繍の施されたソファにヒナタが座っているのを見て取った瞬間、桃真は驚きのあまり心臓が止まるかと思った。

 ウェスティン・グランド・ホテルはバンコクでも最高級のホテルだ。セキュリティもしっかりしているはずだ。この男はどうやってこの部屋に入り込んだ?
 いや、そもそも、ヒナタはどうやってこの国のこの街に桃真がいることを突き止めたのか。


 二か月ほど前、桃真は北海道のH市にヒナタを置き去りにした。薬に睡眠薬を混ぜて眠らせ、その隙にホテルの部屋を脱出したのだ。
 目が覚めている間はセックスばかりしたがる性欲お化けのヒナタと、これ以上一緒にいたら身がもたない、と判断したからだ。
 桃真にはやらなければならないことがある。寝室から一歩も出られない毎日なんて、話にならない。

 偽造パスポートで日本を出国した。飛行機、列車、バスを使い分け、複雑なルートを選んで移動した。追われる・・・・身として、習慣化している用心だ。
 北京を経由してこのバンコクまで、桃真を追ってくることなど不可能なはずだ。

 でも、そう言えばこのヒナタという男は、こと追跡にかけては、野生の勘と人間離れした行動力を発揮する奴だった。

「……ずいぶん探しましたよ、桃真さん」

 陰にこもった声でヒナタが言い放つ。
 桃真は一世一代の演技力で、驚きをきれいに押し隠した。ヒナタの言葉が耳に入らなかったふりをして、

「遅かったじゃねーか。何をやってたんだ?」

と快活な声をあげた。
 ヒナタは暗い目で桃真を見上げた。その童顔には「だまされませんよ」とはっきり書いてある。

「『遅かった』ってどういう意味です?」
「H市のホテルの部屋にメモを置いといただろ? 『急な仕事が入ったからバンコクへ行く』って。それを見たからここまで来たんじゃないのか?」

 桃真の自信たっぷりな言葉に、ヒナタはゆっくりと瞼をまたたかせた。

「……見かけませんでしたけど。メモなんて」

 そう答えつつ、その声には若干の戸惑いが混じり始めている。

 予想通りだ。目を覚まして、桃真がいないことに気づいたヒナタは、あわてて桃真を追うため部屋を飛び出したのだろう。室内を調べたりはしなかったに違いない。
 もちろん、桃真はメモなど残していないから、調べたとしても無駄なのだが。

「ちょうどいいところへ来た。明日、仕事が終わる予定なんだ。サラーラ王子が二億バーツ持ってくることになってる。それを受け取ったらすぐに高飛びだ。……前祝いするからつき合ってくれ」

 立て板に水と快活にしゃべりながら、桃真は部屋に付属の冷蔵庫からシャンパンボトルを取り出した。バーカウンターにグラスを二つ並べる。
 ヒナタは唇をぎゅっと引き結んだ。警戒心が解けていない様子だ。

「またお酒に睡眠薬を入れるつもりですか? いくら僕でも、同じ手には引っかかりませんよ」
「疑い深い奴だな。入れねーよ、薬なんか。……ほら。よーく見てろ」

 ぽん、と華やかな音を立ててシャンパンの栓が抜けた。桃真がすぐに瓶の口をグラスにあてがうと、黄金色の液体が勢いよく流れ出し、流線型の器を満たした。
 桃真は最初から最後までヒナタによく見えるようにして注ぎ終えた。
 そして、きらきらと泡がきらめくシャンパングラスをヒナタの手に押しつけた。

 ヒナタはぼんやりと手の中のグラスを見下ろした。
 ――確かに、小細工はないようだ。シャンパンは完全にヒナタの目の前で注がれた。薬を混ぜる暇はなかった。

 桃真は自分の分のシャンパンを無造作に注いだ。ヒナタは、薬を盛られないと安心したのか、あまりしっかりと桃真の方を見ていない。
 桃真は、ワイシャツの袖口に仕込んでおいた薬包を抜き出し、掌の中に隠しながら、白い粉を自分の・・・シャンパングラスに振り入れた。二秒とかからない間の出来事だった。
 粉はあっという間に酒に溶けて見えなくなった。

 桃真はグラスを手に、ソファのヒナタのすぐ隣に腰を下ろした。

「祝杯っていいもんだよな。乾杯は、二人いなくちゃできないからな」

 ヒナタの警戒を解くためにしゃべっているはずが――桃真は自分の言葉に心がずきっと痛むのを感じた。
 そう言えば、仕事の後に乾杯するなんて五年ぶりだ。師匠を失ってから、そんな事をしたことはない。
 ときどき他の悪党と組んで仕事をすることもあるが、一緒に祝杯をあげるようなぬるい間柄ではなかった。

 桃真の内心の揺れを感じ取ったのか。ヒナタがひどく気遣わしそうな目で桃真をのぞき込んでいる。
 良い流れだ。桃真はあえて、しおらしい態度を繕った。

「頼みがあるんだ。……笑わないで聞いてくれるか」
「わ……笑うもんですか! 何でも言ってください」
「ちょっとだけ……ハグしてくれ。で、背中をぽんぽんと叩いて『お疲れ様』って言ってくれ。……今回の仕事は、相手が大物で、色々キツかったからさ……」

 ハグするためには、手にしたシャンパングラスをいったんテーブルに置かなくてはならない。

 ヒナタの目の色が変わった。一瞬でグラスを手放し、桃真を抱き寄せた。
 桃真はあやうくシャンパンをこぼすところだった。太い腕に抱きしめられながら、かろうじてグラスをテーブルへ避難させた。

「お疲れ様でした、桃真さん……お疲れ様……!」

 背中を優しく叩いていた手が不意に移動し、荒々しく後頭部をわしづかみにする。
 桃真は息もできないほど強く抱きしめられた。喰らいつくようなキスが降ってきた。歯列を割ってヒナタの舌が入り込んでくる。

「んっ、んうーっ」

 二か月ほど前に自分を犯し尽くした男の味と匂いを感じ、オメガの性が反応する。腰まわりにぞくぞくと戦慄が走る。手足の力が抜けそうになる。貫かれる歓びを思い出し、体が熱くなる。
 待て待て待て、冗談じゃない。
 桃真は懸命に理性を振り絞り、ヒナタの顔を押し返した。

「ちょ、ちょっと待てって。『ハグ』って言っただろ。まず、とりあえず……乾杯だ。乾杯してから……」

 ヒナタはしぶしぶ、桃真のシャツの中に潜り込ませていた手を引いた。
 その顔はすでに完全に情欲に濡れている。明らかに「ヤることしか頭にない」モードだ。

 はあはあと息を荒げているヒナタは、グラスがすり替えられたことに気づいていない。飢えた獣のまなざしで、ただ桃真だけを激しくみつめている。

 二人はシャンパングラスをかちりと合わせた。
 ヒナタは一瞬でグラスの中身をすべて喉の奥へ放り込み、グラスを投げ捨てて、桃真にのしかかった。




 十五分後。ヒナタはソファで安らかな寝息を立てていた。
 桃真は乱された服装を直しながら、その寝顔を見下ろしていた。

「悪ぃな、ヒナタ。……でも、もう、俺のことなんか忘れちまえよ」

 正直、ヒナタのことは、なぜかそれほど嫌いになれない。

 年中サカってばかりの絶倫セックス魔人だが。
 こいつにつかまると何十時間もぶっ続けで喘がされ、寝室から出してもらえなくなるので、体がもたないし、仕事にも重大な支障が生じるのだが。
 それでも、キラキラと目を輝かせてみつめてくる表情、まっすぐな言動に、心がなごむ時もある。
 ヒナタの肉体的な強さに、強烈な安心感を覚える時もある。
 不憫な半生を送ってきたこいつが、どこかで幸せな暮らしを見つけられればいい、と思う。

 桃真は一人で生きていこうと決めている。
 ほんの少しでも弱みを見せれば即座に骨までしゃぶり尽くされる裏社会で、誰か特定の相手に依存するのは危険だ。自分の身は自分で守る。己だけを信じて生きる。
 その方が気楽だ。自分の命のことだけ心配していればいいのだから。

 三年前の香港でのあの夜を忘れることはできない。
 マフィアの手先に腹を刺され、激痛で遠のく意識の中、桃真はこの世のものとは思えないようなすさまじい絶叫を耳にした。師匠の声だ。
 かけがえのない相棒であり、つがいでもあったあの人を、永遠に失った夜。

 もう二度と、失うことには耐えられない。
 うっかり誰かに心を預けて、その相手を失ったら――死に等しい苦しみを生きながら味わうことになる。何年も。
 二度も三度も心を殺されるのはごめんだ。
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