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オメガだけど、やられてたまるか

シーサイド・メイヘム(1)

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「北海道タイムスの田中一郎です」

 ヒナタは朗らかに偽名を名乗り、にっこり笑った。

 デッキで出航の準備をしていた初老の男たち二人は、ぽかんとした顔でヒナタを見返した。

 大小さまざまなヨットやクルーザーが停泊するヨットハーバー。その中でもひときわ真新しく優美なクルーザーに、ヒナタは乗り込んでいた。

「週末号で『セレブ御宅来訪』というコラムを担当しているんですが、お読みになったことありますか? センスのいいお屋敷や車を紹介しているコーナーです。実は一つお願いがあって来たんですが、この素敵なクルーザーを撮影させていただきたくて……」

 暗記したセリフを一気にまくしたてた。

 ヒナタは暗記があまり得意ではない。覚えたセリフを忘れないうちに言ってしまいたい、という気持ちが強く働いた。
 演技なんかしている余裕はない。完全にセリフの棒読みだった。

 しかも、いちばん大事な部分で、噛んだ。思いっきり噛んだ。「撮影させていただきたくて」が「いたたた」となってしまった。

 男たちは、いきなり船に乗り込んできたあげく、わけの分からない事を早口でまくしたてる青年を、あっけにとられて眺めた。

「えーっと……何だって、兄ちゃん?」

 しばらく両者の間に沈黙が流れた。

 ヒナタは狼狽のあまり涙目になった。もう一度最初からセリフを言い直さなければならないのか。すでに自分が名乗った偽名もうろ覚えだ。

「あのぉ……僕は北海道ポストの……」
「さっき『北海道タイムス』と言ってなかったか? どっちなんだ」

 男の一人が的確につっこんでくる。ヒナタには北海道ポストと北海道タイムスの違いさえわからない。「地名の入った、何か新聞っぽい名前」という認識しかない。

「うう……その……クルーザーの写真を撮りたくて……」

 少し離れた所にある、ヨットハーバー全体を見渡せるカフェのオープンテラスで、桃真は一見のんびり座っていた。周囲の女客、時には男客がちらちら投げてくる視線を完全無視だ。

 桃真の足首は、真新しいチェーンとベルトでテラスの柵に縛りつけられている。それを周囲の客から隠すため、できるだけさりげなく足元に鞄を置いている。

 柵の向こうでは、傾きかけた日が海をけだるい色に染めていた。
 黄色い光の中、肩を落としてとぼとぼと歩いているヒナタの姿が見えた。

 また失敗か、と桃真は思った。

 ――桃真のヒナタに対する「二次試験」の課題は「クルーザーを一隻調達して来い」というものだった。

「おまえ、船の操縦できるんだろ? 今夜はナイトクルーズといこうぜ」
「え……調達って、どうやって……?」
「だまし取るんだよ。何か適当な嘘を並べて、船をまき上げて来い。……あ。言っとくが、持ち主を始末したり脅したりして船を奪うのはナシな。おまえそっちの方が得意そうだが」
「はい。……わかりました……」

 いちおう首を縦に振ったものの、ヒナタの顔にはすっきりしない表情が浮かんでいた。

 桃真はヒナタに反論を許すつもりはなかった。裸同然のヒナタにファストファッションの店で適当な服を買ってやり、ヒナタのたっての要望で、ホームセンターでチェーンと南京錠とペット用の首輪を買い込んだ後、二人でハーバーへ向かったのだ。

 ヒナタはホームセンターで買った物品を使って、器用に桃真の足をテラスの柵に縛りつけた。たかがチェーンとペット用首輪の組み合わせなのに、いくら暴れてもびくともしない。足は溶接されたみたいに固定されてしまっている。

 もうこれで桃真に逃げられることはない、と安心したところで、ヒナタはようやくやる気が出てきたようだ。

「じゃあ行ってきます! ナイトクルーズ、楽しみにしててください!」

 そう言い残して、意気揚々と船着き場へ向かって駆けていった。

 ――それが、およそ二時間半前のことだ。ヒナタは根性のあるところを見せた。ヨットハーバーに停泊しているクルーザーに次から次へと突入した。だが、十隻以上のクルーザーのオーナーと話をしたのに、一人たりともだませずに終わった。

 それは、桃真が予想していた通りの成り行きだった。

 ヒナタは、薄暗い世界で生きてきただけのことはあってそれなりにしたたかなようだが、明らかに素直な性格だ。嘘は下手だろう。たぶん、複雑な計略も苦手そうだ。

 桃真は初めから、ヒナタの成功など期待していなかった。

 そもそも、この「二次試験」自体が口からでまかせ、時間稼ぎのための嘘だ。

 桃真は逃げることしか考えていなかった。ヒナタを仕事仲間にするつもりなどまったくなかった。

 二時間半もこのゲームにつき合ったのは、ヒナタを完全に油断させ、今度こそ無事に逃げ切るためだ。

 ヒナタは目先の課題に熱中し始めていた。クルーザーをだまし取るにはどうすればいいか、必死で考えていた。桃真が逃げずに待っているかどうか、振り返って確認する回数は目立って減っていた。いつの間にかカフェからもずいぶん遠ざかってしまった。もし桃真が不審な動きを見せても、すぐには駆け戻ってこられない距離だ。

 その間に、桃真は必要な手配をすべて済ませていた。スマホで航空券とタクシーを手配した。あと五分もすれば、カフェの裏口にタクシーが迎えに来ることになっている。
 交通情報も確認済みだ。ここから空港までの道に渋滞は存在していない。

 今度こそヒナタを置き去りにして、海外へ高飛びだ。

 桃真をテラスの柵に縛りつけているチェーンは確かに頑丈だが。
 チェーンを結び終えたヒナタが立ち去る際、そのポケットから、桃真は南京錠の鍵をスリ取っておいたのだ。
 拘束は意味をなさない。ヒナタは桃真が逃げられないと信じているようだが、おあいにくさま、だ。

 ヒナタがまた別のクルーザーに乗り込むのが見えた。桃真は身をかがめて足首の南京錠を外し、チェーンとベルトの拘束をじゃらじゃらと解いた。

 その時、勘が働いた。首筋にちりちりするような気配を感じる。

 桃真は顔を上げた。

 筋肉の塊みたいな大男が三人、巨体に似ずまったく足音をたてずに近づいてくるところだった。

 見知らぬ男たちだが、どういう職種であるかはすぐに見当がついた。やくざは人相と体つき自体が制服みたいなものなのだ。

「山王寺先生がおまえをお探しだ。一緒に来てもらうぞ」

 いちばん長身の男が、すごみのある声を出した。

 桃真は平然とした態度をとりつくろった。へらっと笑ってみせた。

「へーえ。またカードでケツの毛までむしり取られたいって? マゾっ気があるんだな、あんたらのボスは。遊んでやってもいいけど……俺、今ちょっと忙しいんだよな」
「……」

 三人のやくざの無表情は崩れなかった。威圧するように三方から桃真を囲んだ。

 最初に手を伸ばしてきた男の肩に、桃真はスタンガンを押しつけた。電撃が男をくずおれさせた。

 次の瞬間、みぞおちに痛打を食らい、桃真は目の前が真っ暗になった。
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