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ノークライ【SIDE: ヴァレンチン】

そんな言葉は、聞きたくなかったんだ

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 俺は一人で船に残された。わからず屋どもとの怒鳴り合いで、ひどく消耗してしまっているのを自覚した。熱に引き込まれるように眠りに落ちた。
 熟睡ではない。夢と現実の狭間を漂うような、中途半端なまどろみだ。

 [研究所]にいた頃の夢を見た。
 高い塀に囲まれた世界で、実験材料として生まれ育った俺たちだが、仲間もいたし、[研究所]の敷地内に学校も街もあった。
 楽しいことが何一つないわけじゃなかった。
 言葉にできない閉塞感をいつも持てあましていた俺は、授業中も窓から校庭を眺めていることが多かった。
 マルクの姿は、すぐに目についた。
 誰よりも速く走り、誰よりも高く跳び、誰よりも遠くまで投げる男。
 ひとことも言葉を交わさないうちから、トラックを支配するその姿は、憧憬という名の灯を俺の胸にともした。

 きれいなままにしておきたかったんだ。
 俺にとってあんたは「自由」の象徴だから。



 不意に、意識がはっきりした。
 窓の外は漆黒の闇に塗りこめられていた。知らないうちに日が暮れてしまったようだ。電力供給が不安定なせいで、天井の照明がまたたいている。

 目が覚めたのは、デッキに聞き慣れた足音が響いたせいだ。
 マルクが船室に入ってきた。夜はバンパイアのための時間だ。帽子を脱ぎ、アイシールドもマスクも外してしまって、あふれる生気に瞳を輝かせている。

「やったぞ、ヴァレンチン。『教授』をとっつかまえた。少し手こずったが、貸金も全額取り立てた」

 こんなに得意げなこの男を見るのは初めてかもしれない。
 俺は体を起こした。マルクの上着に鮮血が飛び散っているのが目にとまった。

「その血は……」
「ああ、心配するな。これは返り血だ。俺はどこも怪我をしていない」

 マルクはほがらかに笑ってみせた。照明を受けて、その金髪が鈍く光った。

 ――マルクの身を案じたわけじゃない。この男は、銃の連射を受けても平然と復活する不死身のバンパイアだ。多少の怪我ぐらい屁でもないだろう。
 ただ、この男が他人の返り血を浴びるような行為をしているところを想像すると、俺の心は沈んだ。

 マルクは、落ち込んでいる俺に気づいた様子もなく、陽気にしゃべり続けた。

「明日から、おまえの代わりに、俺がユロージヴイ金融で働くことになった。だからおまえは何も気にせず、傷が治るまでゆっくり休んでいればいいぞ」
「勝手なこと言うな。あんたがそんなことする必要はない。これは俺の仕事だ」
「おまえが完治するには最低でも二週間はかかるだろうと、ニジンスキーが言っていた。無理せず、任せておけ。俺だって働ける。おまえはいつも俺に『仕事を探せ』と言ってるじゃないか。……出勤は夜だけでもいいそうだ。今日も日光を浴びているうちに気分が悪くなって、三回ほど吐いてしまったからな」
「なんで、そこまでして……! 冗談じゃねえ。認められるか、そんなこと。会社に電話する」

 俺の「会社に電話」という言葉に反応して通話モードに入りかけたPDCごと、マルクの拳が握りこんだ。強すぎる力で手首をつかまれ、俺は顔をしかめた。

「ムチャクチャするな。PDCが壊れる……!」
「悪いが、食事させてくれないか、ヴァレンチン。俺ももう限界だ」

 薄暗い船室内で、マルクの双眸が発光した、ような気がした。

 腕を荒々しく引き寄せられた。マルクの牙が俺の首筋の皮膚を食い破る。鋭い痛み。それに続いて、まるで髄液を吸い出されるみたいな、体の中心で湧き起こる違和感と脱力感。
 全身の力が抜ける。目の前が暗くなる。きぃぃぃん、という耳鳴りが襲ってくる。

「う……ぁ……」

 何度繰り返しても、バンパイアに吸血されるのには慣れない。
 朦朧とした意識の中、安定感のある太い腕で支えられ、そっと横たえられるのを感じていた。



 街の中心部からはるかに遠い、夜のジャンクヤードは静かだ。鉄骨に係留されたクルーザーはヨアン川の流れにたゆたっている。

 「食事」を終えたというのに、マルクはまだ俺を腕の中に収めている。いくら初仕事を成功させたからといって調子に乗りすぎだろう。
 ちらつくライトが、至近距離にあるマルクの顔を不安定に照らし出している。

 鮮血に濡れた唇が開き、ひとつの短い言葉を紡ぎ出した。

「××××」

 

「……おまえにかばわれているだけの俺じゃ、おまえを愛する資格がないからな。俺におまえを守らせてくれ」


 ――胸の奥に、あの頃・・・の青空が広がった。
 日光の降り注ぐ広大なグランド。スポットライトを浴びる舞台俳優のように光輝に包まれて、のびやかなフォームで走っていくマルク。全身の筋肉が、思う存分力を発揮できる歓びを歌い上げている。

 マルクならどんな障壁でも越えていける。どこまでも走っていける。
 俺はその姿に希望を重ねていた。自由の夢を見ていた。

 だがもう、マルクがトラックを駆けることはない。アスリートとして高みを目指すことはない。棒高跳びのバーを越えていくあの雄姿を、もう二度と見ることはないのだ。

「生きるために手を汚さなければならないのなら、二人で一緒に汚れよう。ずっと一緒だ」

 低く囁き、マルクは俺を抱き込んだ腕に力を入れた。

 その声、その抱擁に、腰が砕けそうな安心感を覚えずにはいられない。それはまぎれもない事実だ。

 けれども、偶像を美しいままに守れなかった悲しみが、俺を支配していた。
 呑み込んだ嗚咽が喉を揺すった。俺は涙と戦った。
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