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ルースエンド【SIDE: ヴァレンチン】

ビッグ・マネー

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「返せねえだと? ふざけんじゃねえ。返済期限をどれだけ過ぎてると思ってんだ、あぁ?」

 狭いアパートの一室に、ボリスラフの野太い怒鳴り声が響いた。
 化粧の濃い三十前後の女が怯えたように身を縮ませた。

「ごめんなさい! 勤め先が……お給料を遅配してるんです、不景気だとか言って……! お給料さえもらえたら、すぐにお返ししますから! 本当です! あとほんの少しだけ待ってください!」
「下手な言い訳こくんじゃねえよ! そんなもん、理由にも何にもなりゃしねえんだよ! 給料が出ねえなら、体売って金を作ればいいじゃねえか、え? てめえみたいなババアでも、まだ多少の値段がつくだろ?」

 さっきまで影法師みたいに存在感のなかった男にしては、大変な権幕だ。
 俺が軍人あがりの筋肉ダルマを締め上げているときにも、用心棒稼業の長いタンクトップ男を脅しているときにも、ひとことも発しなかったボリスラフが、別人のように勢いよく啖呵たんかを切っている。自分より弱そうな相手にだけ強気に出るタイプだな。わかりやすい男だ。

 債務者の女がすがりつくように抱きしめている二、三歳のガキが、怯えてぎゃあぎゃあ泣き始めた。

 俺はため息をついた。こういう湿っぽい雰囲気は苦手だ。

 一方、ボリスラフは絶好調だ。

「とりあえず、有り金を全部出せ。手持ちのキャッシュ全部だ。アカウントを空にしろ」
「待って……お願いです。それを持って行かれたら……今夜から食べるものもなくなっちゃう。私は別にいいんですけど、この子が……!」
「そんなこと知るかよ。言っとくがな、この程度のキャッシュじゃ全然足りねえんだぞ。残りの借金はどうするつもりだ、え?」

 女のPDCを取り上げたボリスラフと、それを取り返そうとする女とが、ちょっとしたもみ合いを繰り広げる。
 その拍子に誰かの足が床に置かれていた箱に当たった。箱は倒れ、中に入っていた粗末な玩具を床にぶちまけた。子供の泣き声がいっそう高まった。
 ボリスラフがいら立たしげに顔を歪めた。

「ギャンギャンうるせえんだよ、くそガキが。頭を叩き割られてぇのか!」

 俺は強く床を踏み込み、一瞬で移動した。
 ボリスラフが拳を子供の頭に振り下ろす直前にその右腕をとらえ、投げ飛ばした。

 ボリスラフは宙を飛び、ソファに背中から着地して、「ぐえっ」とウシガエルのような呻き声をあげた。

 びっくりしたらしく、子供の泣き声がぴたりと止んだ。涙のたまった目を丸くしてこちらを見上げている。

 床に転がったまま、ボリスラフが叫んだ。

「な……何しやがんだ、てめえ……!」
「あんたのやり方は合理的じゃない。ガキを殴って、金が出てくるってのか?」
「合理的ぃ!? さっきまで理不尽な暴力ふるいまくってた奴が、何をぬかしやがる。『女には甘い取り立て屋』かよ。笑わせるぜ」
「『強そうな男の前ではおとなしいくせに、女にだけ強気な取り立て屋』よりましだ」

 俺はふと、女の様子がおかしいことに気づいた。女は顔をひきつらせて一点を凝視していた。ボリスラフでも俺でもない一点を。
 その視線を追ってみると、床に置かれている紺色のブリーフケースにたどり着いた。
 そのケースは、ソファの座席の下に隠されていたようだ。飛んできたボリスラフがぶつかった拍子にソファも倒れたので、表に現れてしまった、ってところか。

 俺は歩み寄ってケースを持ち上げた。開けてみると、中には現金リアルキャッシュがびっしり詰まっていた。見たことがないほどの大金だ。

「困ります……」

と、女が蚊の鳴くような声を出したが、取り立て屋としてはこんな大金を見逃すわけにはいかなかった。




「今日の分の回収ノルマは終了だな。飲みに行こうぜ」

 ブリーフケースを手にして歩きながら、ボリスラフは上機嫌だった。
 日はまだ高い。飲んだくれるには早すぎる。だが俺たちが歩いている界隈は、安いバーが軒を並べ、昼間から酔っ払いがふらふらしている地区だ。ボリスラフが羽を伸ばしたくなるのも無理はないかもしれない。

 俺は気が進まなかった。ボリスラフとは一緒に酒を飲むような間柄ではない、というのも理由の一つだ。だが、もっと気になることがあった。

「いったん会社に戻って、金を置いてきてからの方がよくねーか? そんな大金を持ち歩くのは物騒だろ」
「物騒が服を着て歩いてるような奴が、面白いこと言うじゃねぇか。おまえ、誰かが俺たちを襲ってくるなんて、本当に思うのか?」

 ボリスラフの主張には一理あった。俺は、童顔のせいでなめられやすいので、盛り場ではよくからまれる。しかしボリスラフは人相が悪く、やくざっぽい雰囲気を漂わせている。ひったくりも強盗もボリスラフを狙おうとは思わないだろう。
 それに何より、俺たちは武装しているのだ。いつでも金は守れる。

「俺たちは同僚としてもっと理解し合うべきだ。腹を割って語り合おうぜ」

と言い張るボリスラフに押し切られ、手近なバーに入った。

 安っぽいが居心地の良い店だった。清潔で、BGMの趣味も良かった。スモーキーなピアノの流れる薄暗い店内には、そこそこ客が入っている。俺は念のためざっと観察してみたが、俺たちやブリーフケースに興味を持っていそうな奴は誰もいなかった。




 世間知らずな俺は、知らなかったのだ。
 「それほど親しくない相手と飲食するときは、用心しなければならない」ということを。

 二杯目に口をつけただけで、頭がぐるぐる回り始めた。
 おかしい。こんなに早く酔うはずがない。

 不審に思ったときには遅かった。すぐに、パチン、とスイッチを切るように意識が暗転した。
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