秋津冴短編集

秋津冴

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中華後宮モノ

氷の城の春告げ鳥

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 あらすじ
 玉華宮の冷宮には、誰も近づけない美しい姫がいた。母を政争で失った悲しみから、自らの心を氷漬けにした白雪菱。「触れれば凍える」と噂される彼女の診療を命じられたのは、温かな手技で知られる御医・煖明。彼は姫の心の奥に、まだ凍っていない何かを見出す。玉簪に秘められた想いと、冬至の祝宴という運命の日。氷の城は溶けて春を迎えるのか。心温まる宮廷ラブストーリー。

 

「このまま、時が止まっていれば良いのに」

 白雪菱は、母の形見の玉簪を掌に載せたまま、微かに囁いた。
 診療の時刻が近づいている。新しい御医が自分の心を解こうとするのを、彼女は予感していた。この八年、凍らせることで守ってきた心を。

「でも、このままではいけないのかもしれない」

 侍女の春燕が、新たに配属された若い給仕に小声で告げる。冷気の満ちる廊下に、二人の吐く息が白く滲んだ。

「姫様は八年前から、何も感じないことで自らを守ってこられた。誰も近づけない美しさは、姫様が編み出した防壁なのです」
「気をつけなさい」

 もう一人の侍女・秋桜が口を挟む。

「姫様は薄氷と呼ばれておいでです。その心に触れようとする者は、みな凍えてしまう」
「春燕様、それはどういう……」

 給仕の問いは、突然の呼びかけで途切れた。
「春燕」
 凛とした声が響き、侍女たちは背筋を正す。先ほどまでの儚げな囁きとは別人のような、凍てついた声音。
「御前です」

「今朝は早めに診療の準備を」
「はい。ですが、まだ刻限まで」
「早めに、と申しました」
 微かな感情の揺らぎが、氷のような声に混じる。

「姫様」秋桜が心配そうに声をかける。「お気持ちを乱されぬよう」
「乱れなどいたしません。八年もの間、完璧に保ってきた心です」

 しかし玉簪に触れる指先は、僅かに震えていた。春燕はそれを見逃さない。
「姫様が心を閉ざされたのは、玉蘭様の失寧の後から」春燕は給仕に囁く。「政争の荒波から身を守るため、お心を氷のように凍らせられた。けれど、その氷は……」

「春燕」

 再び凛とした声が響く。だが今度は、どこか切迫したものを含んでいた。

「はい」
「新しい御医は、どのような方なのです?」
「温かな手技で知られる方と、噂で」
「……そう」

 白雪菱は玉簪を静かに箱に納めた。その仕草には見慣れぬ迷いが混じっている。

「温かさなど、私には」
 言葉は途中で途切れた。

「噂を立てるものではありません」秋桜が給仕を窘める。
「ただ、姫様の氷のような心は、誰かを守るためのもの。それ以上は何も」

 診療の準備が始まった。白雪菱は凍てついた仮面の下で、誰にも見せぬ表情を浮かべている。温もりに触れることは、この氷の城を溶かすことになるのか。それとも……。

 時が動き出そうとしていた。

(また、この時間)

 白雪菱は硝子窓に映る自身の姿に気づき、思わず指先で窓に触れた。冷たい。

(これまでと同じように、ただ脈を取られ、終わるだけ。それでいい)

 そう言い聞かせながら、彼女は何度目かの袖の整え直しをしている。

「薄氷はね、触れれば必ず割れるのよ」秋桜の声が遠くで響く。

(割れる? いいえ、私は割れない。ただ、凍ったまま)

 硝子から離れ、白雪菱は診療室に目を向ける。侍女たちが白木の寝台を運び込み、その上に雪のような白布を丁寧に敷いていく。
 彼女は不必要なほどゆっくりと歩み寄り、布の皺を指で伸ばす。

「姫様、それは私どもが」春燕が慌てる。
「いいえ」

(この八年、完璧だった。誰にも触れさせない。誰の温もりも、受け付けない)

 布の端を整えながら、白雪菱は自分の呼吸の乱れに気づく。

「先代の御医様は、たった三日で辞めてしまわれたわ。『心太りすぎたか、瘦せすぎたか』。そう尋ねられたそうよ。その時、姫様は……」

 白雪菱は手を止め、ゆっくりと振り返る。

「私の心など、とうの昔に凍りついて参りました」

 声に力を込めすぎた。そのことに気づき、彼女は白玉の簪に手を伸ばす。
 いつもの儀式のように磨こうとして雪菱のこころは落ち着かない。(

「春燕」
「はい」
「時刻は?」
「まだ申の刻まで、少し」
「そう」

 白雪菱は鏡台の前に座り、自らの姿を凝視する。何度も櫛を通し、既に整っている髪を梳かし続ける。

(早すぎた。慌てている。私が、慌てている?)

 櫛の動きが乱れる。

「噂では、新しい御医様は」給仕が声を潜める。「手の温もりで、心まで」
「黙りなさい」秋桜が遮る。

 櫛が止まる。

(温もり)

 その言葉に、白雪菱は思わず櫛を取り落とす。カタン、と澄んだ音が部屋に響く。

「薄氷のように美しく、薄氷のように危うい」

 宮人たちは、そう囁いた。
 玉華宮の回廊を行き交う噂話は、いつも彼女のことから始まる。
 先帝の寵妃・玉蘭の娘が、母の失寧から心を閉ざし、誰も寄せ付けぬ美しさで自らを守っているのだと。

(みな、私を見ている。あの日から、変わらず)

「もうすぐ、新しい御医様の診療が」
「あの御医様ですか? 手の温もりで人の心まで解くという」
「まあ。今度は上手くいくかしら」
「でも、先代の御医様は――」

 廊下の向こうに、白雪菱の姿が見える。宮人たちは慌てて言葉を飲み込んだ。

「春燕」
 立ち止まった白雪菱が、侍女を呼ぶ。
「はい」
「先代の御医について、何を話していたの?」
「申し訳ございません。ただの噂話で」
「聞かせて」

 春燕は一瞬躊躇したが、姫の真摯な眼差しに、ゆっくりと口を開く。

「先代の御医様は、姫様の心を温めようとされた。けれど」
「私が拒絶したわ」
「はい」
「温かな心は、誰かを傷つける」白雪菱は静かに告げる。
「姫様?」
「私は、母上のようになれませんでした」

 春燕は息を呑む。

「母上は温かすぎた。だから、あの方たちは」
「姫様、そのような」秋桜が慌てて制する。
「いいえ、話すわ」

 白雪菱は窓辺に歩み寄る。

「春燕、覚えていますか? 母上が私に教えていた舞を」
「はい。玉蘭様は、姫様の舞姿をとても」
「優美だと、褒めてくださったわ」

 白雪菱の声に、かすかな温もりが混じる。

「そして、あの日」
「姫様、もう」
「母上は私に言ったの。『心を閉ざすのではなく、誰かを信じなさい』と」

 春燕は黙って姫の横顔を見つめる。

「けれど、私には」白雪菱は硝子に触れる。「母上のような、温かな心は持てません」
「それは、姫様を守るため」春燕が静かに告げる。「玉蘭様は、きっと」
「いいえ」白雪菱が振り返る。「これは、私の臆病さよ」

 初めて聞く告白に、侍女たちは言葉を失う。

「春燕、秋桜」
「はい」
「新しい御医様は、本当に温かな手をお持ちなの?」
 その問いには、不安と期待が混じっていた。

「噂では」春燕が答える。「民間で、多くの心を救ってこられたと」
「心を、救う?」

 白雪菱は言葉を反芻する。

 窓の外では、最初の雪が静かに舞い始めていた。

(このまま、凍えていても)

 白雪菱は自分の掌を見つめる。

(誰かの温もりに、触れてもいいのかしら)

 ※

 玉華宮の南門をくぐった時、煖明は冷気に包まれた。
 まだ早い。診療の刻限までは少しある。それでも彼は早めに来ることにした。

「このたびの御医様は」門番が囁く。「お若いので」
「民間からの登用と伺っております」もう一人が答える。
「白雪菱様の診療とは」

(薄氷)

 その言葉に、煖明は立ち止まった。

「失礼ながら」案内役の侍医が声をかける。「お気になさいましたか」
「いいえ」
「姫様は、その」
「薄氷と呼ばれると」煖明は静かに言う。「伺っております」

 彼は懐から一枚の書状を取り出した。上級医官からの診療命令書。その端に走り書きで記されていた言葉。

『氷の下には、必ず水が流れている』

「先代の御医様は」侍医が躊躇いがちに続ける。「姫様の脈を診ることさえ」
「凍えてしまったと」
「はい」

 煖明は空を仰ぐ。

「たとえ氷の城でも、太陽は昇る」
「御医様?」
「私の故郷では、そう言います」

 侍医は煖明の横顔を見つめた。まだ若いながら、その眼差しには温かな光が宿っている。

「噂では、御医様は」
「ええ」
「手の温もりで、心を」
「それは、違います」

 煖明は静かに歩みを進めながら告げる。

「私にできるのは、ただ」
「ただ?」
「氷の下を流れる水の、声を聴くことだけです」

 北殿に向かう道すがら、侍医は何度も煖明の手元を盗み見ていた。
 その手には、確かに不思議な温もりが感じられた。

「御医様」
「はい」
「姫様は、八年もの間」
「わかっています」

 煖明は立ち止まり、遠くに見える北殿を見上げた。

「凍りついた時を、動かすのは」
「はい」
「その方の、心なのです」

(扉の向こうで、誰かが私を待っている)

 煖明は、そう感じていた。

「準備はよろしいでしょうか」

 彼は、診療室の扉の前で声をかけた。

「どうぞ」

 返ってきた声は、確かに凍てついていた。
 しかし、その奥に、かすかな温もりが。
 煖明は、そっと扉に手をかけた。
 扉が開く音は、やけに大きく響いた。
 白木の寝台に座す白雪菱の姿は、まさに噂通りの凛とした美しさだった。

(この方の心は、まだ動いている)
 
 と、煖明は一瞬で悟った。

「失礼いたします」
「どうぞ」

 春燕が椅子を差し出し、煖明はゆっくりと腰を下ろす。

「お手を」

 白雪菱は迷いなく左手を差し出した。

(これまでと同じように、ただ、脈を取られるだけ)

 しかし、煖明の指が触れた瞬間、彼女は息を呑む。

「温かい」思わず漏れた言葉に、白雪菱は我に返り、表情を凍らせる。

「申し訳ありません」煖明は静かに告げる。「驚かせてしまって」
「いいえ」
「では、脈を」

 三本の指が、そっと白い腕に触れる。

(不思議な温もり。でも、怖くはない)

 白雪菱は目を伏せたまま、その感触に身を委ねる。

「姫様の脈は」
「遅すぎると、おっしゃるのでしょう」
「いいえ」

 意外な返事に、白雪菱は思わず顔を上げた。

「氷の下を、水が流れているように」

 その言葉に、彼女の脈が一瞬乱れる。
(私の中で、何かが)

「失礼ながら」煖明は姫の瞳を見つめる。「お母上は、玉蘭様と」
「触れないで」

 白雪菱は手を引こうとした。
 だが、煖明の指は優しく、そして確かな力でその手を支えていた。

「春の訪れを、一番に告げるのは」
「何を」
「氷を割る、川の流れなのです」

(この人は、私の心を)

 白雪菱の脈が、再び乱れる。

「姫様」
「はい」
「氷の下で凍えているのは」

 煖明の声が、さらに柔らかくなる。

「きっと、悲しみではなく」
「もう、十分です」

 白雪菱は立ち上がろうとする。

(これ以上、私の心に入って欲しくない)

「温もりへの、憧れなのだと」

 その言葉で、彼女の動きが止まった。

「春燕」
「はい」
「お茶を」
「でも、姫様」
「お茶を、お願い」

 その声には、かすかな揺らぎがあった。
 煖明は静かに微笑む。

「姫様」
「なんです」
「明日も、この時刻に」
「診療の必要は」
「はい、必要です」

 白雪菱は長い沈黙の後、小さく頷いた。

「わかりました」
「では」

 立ち上がった煖明は、最後にもう一度、姫を見つめた。

「明日、氷の声を、一緒に聴かせていただけますか」

 返事はなかった。
 けれど、白雪菱の指先が、かすかに震えていたことを、煖明は見逃さなかった。

 診療室を出た煖明は、廊下の窓辺で足を止めた。
 掌には、まだ白雪菱の脈の感触が残っている。

「御医様」
 春燕が後ろから声をかけた。

「ああ」
「姫様の容態は」
「容態という程のものではありません」

 煖明は窓の外を見つめたまま告げる。

「ただ、氷の城に、小さな隙間が」
「隙間、でございますか?」
「ええ。薄氷には、必ず」

 言葉の途中で、秋桜が駆けてきた。

「御医様、姫様が」
「何か?」
「お茶を、召し上がっておられます」

 煖明の表情が僅かに緩む。

「温かいお茶を?」
「はい。八年もの間、冷たい物しか」
「お二人に、尋ねたいことがあります」

 煖明は二人の侍女に向き直る。

「玉蘭様について」侍女たちは息を呑む。
「玉簪のことです」煖明は続ける。「姫様が、毎朝」
「まさか」秋桜が身を硬くする。

「姫様の心を、壊そうとは」
「違います」

 煖明は静かに首を振る。

「氷の城には、必ず光が差す隙間がある。私はただ、その隙間が」
「玉簪は」春燕が言葉を継ぐ。「玉蘭様が、最期に」
「最期に?」
「『この簪のように、清らかに。でも、冷たくではなく』と」

 廊下の向こうで、小さな物音。
 振り返ると、そこには白雪菱の姿があった。

「姫様」
「明日の」白雪菱は視線を落としたまま。「明日の診療は」

「同じ時刻に」煖明は柔らかく告げる。
「同じ、手で」
「はい」

 白雪菱は何か言いかけて、そのまま踵を返した。
 しかし、彼女の足取りには、いつもの凛とした冷たさが、わずかに溶けていた。



「上級医官がお待ちです」

 侍医に導かれ、煖明は診療記録を携えて医局へと向かう。

「どうでしたか」

 白髪の上級医官は、窓際の椅子に腰掛けたまま問いかけた。

「氷の下に、確かな流れを感じました」
「ほう」
「しかし、まだ」

「先代の御医は」上級医官が言葉を重ねる。「姫様の心を温めようとして、自らが凍えてしまった」
「存じております」
「なぜ、そうなったのか」

 煖明は一呼吸置いて答える。

「氷を溶かそうとしたからです」
「ほう」
「大切なのは、氷の下にある流れに」

「気づかせること、か」

 上級医官の目が鋭く光る。

「はい。姫様は」煖明は診療記録を開く。
「母君を失った悲しみで心を凍らせたのではない」
「では?」
「愛しすぎる心を、自ら閉じ込めたのです」
「愛しすぎる、心?」

 上級医官は深く頷く。

「玉簪という光が差す隙間があります」煖明は続ける。
「そこから、少しずつ」
「時間はありません」

 突然、上級医官の声が冷たくなる。

「冬至の祝宴までに」
「祝宴?」
「姫様には、そろそろれっせきをしていただかねばなるまい」

 煖明は息を呑む。そういうことか。
 立ち上がりながら、煖明は決意を固める。

「わかりました。ただし、私のやり方で」
「任せましょう」
「氷の城に、春を運んでください」

 自室に戻った煖明は、診療記録に新たな一文を記す。

「氷の下の流れは、確かに生きている」

 明日の診療まで、まだ時間がある。
 その時までに、彼は準備をしなければならない。
 白雪菱の、新たな物語のために。 

 ※

「同じ場所を、同じように」

 春燕は診療室の白木の寝台に、雪のような白布を丁寧に敷く。
 毎日、申の刻の直前に。

(変わらない手順、変わらない時刻)

 白雪菱は診療の支度をしながら、密かに掌を見つめる。
 以前より、温かくなっているような。

「姫様、御医様がまいりました」
「ええ」

 扉が開く音に、白雪菱は僅かに背筋を伸ばす。

(今日も、あの温かな手が)

「失礼いたします」

 煖明の声は、いつものように静かだった。

「お手を」

 白雪菱は左手を差し出す。
 以前のような躊躇いは、もう見られない。

「今日は」煖明が脈を取りながら、「市場に花売りが出ていました」
「花、ですか」
「ええ。白い花が、とても綺麗で」

 脈が、僅かに乱れる。

(白い花。母上も好きだった)

「姫様?」
「私は、花など」
「白玉の簪にも、花の意匠が」

 白雪菱は息を呑む。

「なぜ」
「拝見いたしました。毎朝の手入れの際に」

(見ていたの?)脈が再び乱れる。

「白玉の花は」煖明は静かに続ける。「氷の下でも、凍えることなく」
「もう十分です」

 白雪菱は手を引こうとする。しかし――。

「まだ」煖明の指が、優しく留める。「氷の声を、もう少し」
「声など」
「ええ、聞こえます。姫様の心の奥で」
「黙って」

(どうして、この人はこんなにももどかしい思いをさせるの……!)

 春燕と秋桜は、部屋の隅でその様子を見守っていた。

「姫様の声が」春燕が小さく囁く。
「ええ」秋桜も頷く。「少しずつ、温かみを」

 夕暮れ時。
 白雪菱は一人、窓辺に立っていた。
 市場からは笛の音が風に乗って届く。

(母上も、この窓から)

 思いがけない記憶が、氷の下からこぼれ出る。
 掌を窓に押し当てる。
 冷たい。
 でも、以前ほどは凍えない。

「姫様」春燕が戸口で声をかける。「お茶の時間です」
「ええ」

 振り返る白雪菱の瞳が、夕陽に照らされて揺らめく。

「春燕」
「はい」
「明日の診療は」
「申の刻、いつもの」
「そう」

(また、あの温かな手にふれていただけるかしら?)

 そう思った自分に、白雪菱は僅かに戸惑う。
 夜になっても、市場の笛の音は時折聞こえてきた。

「姫様」秋桜が心配そうに。「お休みになられては」
「もう少し」

(不思議ね。このまま、氷が溶けてしまったら……私は、どうなるの)

 白雪菱は自分の心の変化を感じていた。
 夜風が窓を揺らす。
 まるで、氷の城を溶かすように。
 その夜、煖明は上級医官に報告していた。

「変化は確実に起きております。ですが、冬至の祝宴まで、それほど時間はありません」
「氷の城は、必ず溶けるのだな?」
「はい」煖明は強く頷く。「必ず、春をもたらしてみせましょう」

 明日も、申の刻。
 白雪菱の掌には、まだ温もりが残っていた。

 ※

 診療室の空気が、いつもと違っていた。
 白雪菱は、煖明の手の動きが普段より慎重なことに気づいていた。

(何か、あるの?)

「今日は」煖明が静かに切り出す。「珍しい一座が」
「一座、ですか」
「ええ。西の国から」

 白雪菱は、煖明の指に触れる自分の脈が、わずかに速くなるのを感じた。
(どうして、こんなに)

「花の舞を披露するという話です」
「花の......」

 言葉を継ぐ声が、かすかに震える。

「白い花びらを、舞いながら」
「止めてください」
「姫様?」
「これ以上は」

(思い出したくない……あの日の、白い花びらも、母上の、温かな手も)

「姫様の脈が」
「分かっています」
「いいえ、気づいていらっしゃらない」
「何を」

 煖明の声が、より柔らかくなる。

「氷の下で、何かが」
「黙って」
「流れ始めている」
「お願い、です」

 春燕が一歩前に出ようとするが、秋桜が制する。

「記憶は、時として」
「私の心を、もてあそばないで」

 白雪菱の声が、切なく響く。

「もてあそぶつもりは」
「なら、どうして」
「姫様ご自身の心が」
「私の......心?」

 その言葉を口にした瞬間、白雪菱の中で何かが崩れ始めた。

「そうです」煖明の声が、より深く響く。「姫様の心は」
「もう、凍ってしまった」
「本当に、そうでしょうか」

 脈が、大きく波打つ。 
(どうして、こんなに、私のこころが、鼓動を激しくするの……)

「白い花びらが舞う時」煖明は静かに続ける。「玉蘭様は、何とおっしゃったのですか」
「やめて」
「きっと、姫様に」
「お願い」

(母上の声が氷の下から聞こえてくる)

「清らかに、でも冷たくなどならずに」その言葉に、白雪菱の瞳が揺れる。
「なぜ、その言葉を」
「玉簪に刻まれた花は」
「もう、十分です」
「姫様の心そのもの」

 頬を伝う温かいものに、白雪菱は息を呑む。

(涙? こんなにも、温かい)

「氷の下には」煖明の手が、そっと力を込める。「まだ、確かな流れが」
「でも、私は」
「生きています」
「え?」

「姫様の心は、生きています」煖明の声に、強い確信が宿る。
「この脈が、その証」

(生きている……私のこころは、まだ?)

「白い花びらは、今も」
「舞っている」

 思わず、白雪菱の口から言葉がこぼれる。

「ええ」
「母上と見た、あの日のように」
「姫様の心の中で」

 涙が、止まらない。
 でも不思議と、痛くはない。
 氷が溶けるように、温かい。
 診療室の空気が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
 白雪菱は両手で茶碗を包んだまま、その温もりを確かめるように静かに佇んでいた。

「姫様」春燕が差し出したのは、手拭い。
「ありがとう」

 その声には、かすかな潤いが残っている。
 夕暮れ時。
 白雪菱は、窓辺に立っていた。

(母上。私のこころは、まだ生きていたのですね)

 市場からは、かすかに笛の音が聞こえてくる。
 その調べに合わせるように、白い花びらが風に舞う。

「姫様」春燕が声をかける。「もうお休みに」
「もう少し」
「はい」

 白雪菱は自分の掌を見つめる。

(あの温かな手が、また、私のこころを、溶かしていく)

 窓の外では、月光に照らされた花びらが、まだ舞い続けていた。
 まるで、氷の城に春を運ぶように。

 ※

「冬至祝宴の話を、伺っておりますか」

 その日の診療で、煖明は慎重に切り出した。
 白雪菱の指先が、かすかに震える。

「はい」
「踊り手たちの舞が」
「どうして」

(ずっと、避けていた場所だわ。あの母上が、最後におられた場所)

「姫様」煖明の指が、そっと力を込める。
「脈が」
「分かっています」
「怖いのですか?」
「いいえ」
「姫様」
「ただ」

 白雪菱は初めて、まっすぐに煖明を見つめた。

「私に、その資格が」
「資格、ですか」
「母上のように、美しく舞うことも」
「違います」

 煖明の声が、より深く響く。

「大切なのは」
「......」
「姫様の、本当の心です」

(本当の、心)

 白雪菱は自分の胸に手を当てる。
 確かな鼓動を感じる。

「御医様」
「はい」
「この氷が、溶けてしまったら」
「姫様は」

「私は――」言葉が途切れる。
「きっと」煖明が続ける。
「母上のように?」
「いいえ」
「では」
「姫様、ご自身の」
「私自身の?」
「花を、咲かせる時なのです」

 春燕と秋桜は、息を潜めて見守っていた。

「春燕」
「はい」
「母上の、着物を」
「玉蘭様の?」
「見てきて欲しいの」
「姫様」
「私、決めたから」

 侍女たちの目に、涙が光る。
 煖明は静かに立ち上がる。

「明日も、この時刻に」
「ええ」
「その時は、きっと」

 白雪菱は小さく頷いた。

「私なりの、花を」



 夕暮れ時、北殿の広間で。

「玉蘭様の着物です」
 
 春燕が差し出した箱を、白雪菱はそっと開く。

「懐かしい香り」

 白地に花が舞うように散りばめられた着物。
 八年前、母が最後に着た。

「秋桜」
「はい」
「少し、練習を」
「舞を?」
「ええ」白雪菱は立ち上がる。「もう、逃げない」

 窓の外では、雪が舞い始めていた。

(冬至まで、あと三日。その時までに、私は)

「姫様」春燕が心配そうに。
「大丈夫」

 白雪菱は、かすかに微笑む。

「この氷は、もう……ね?」

 *

「準備は、整いました」

 上級医官に報告する煖明。

「冬至の祝宴で」
「はい」
「氷の城が、溶けるのですね」
「いいえ」煖明は静かに告げる。
「姫様の心に、春が訪れるのです」

 窓の外の雪は、次第に強さを増していた。
 最後の冬の訪れを、告げるように。
 冬至祭前日の朝は、例年より早く訪れた。

「姫様、お目覚めは」

 春燕の声に、白雪菱は静かに目を開けた。
 眠れなかったわけではない。ただ、心が。

(もう、眠ってはいられない)

 窓の外は、まだ暗い。

「着付けの準備を」
「はい。ですが、まだ早くて」
「母上の、着物を」

 白雪菱は蝋燭の灯りに照らされた箱を見つめる。
 八年前、玉蘭が最後に身に纏った白地の着物。
 花が舞うように散りばめられた模様は、今も美しい。

「春燕」
「はい」
「私、怖いの」

 珍しく弱気な声に、春燕は息を呑む。

「姫様」
「でも」

 白雪菱は静かに立ち上がる。

「もう、逃げない」

 蝋燭の炎が揺れる。

「申の刻の診療まで、練習を」
「でも、お体が」
「大丈夫」

 白雪菱は広間に向かう。
 足取りは確かだった。



 煖明が脈を取る手は、いつもと変わらない温かさ。

「最後の診療となりますね」
「ええ」
「姫様の脈は」
「もう、氷のようではないのでしょう?」
「まるで、春を待つ小川のよう」

 煖明は静かに微笑む。
(春)
 その言葉に、白雪菱は目を伏せる。

「御医様」
「はい」
「母上は、最期に」
「......」

「この簪のように、清らかに、と」
 白雪菱の声が掠れる。

「でも、冷たくではなくと」
「姫様」
「私、できるでしょうか」
「既に」
 
 煖明の声が、優しく響く。

「姫様の中で、春は」
「でも、この手が」

 白雪菱は自分の手を見つめる。

「まだ、こんなにも」
「温かいですよ」

 煖明は静かに告げる。

「触れてみれば、分かるはず」

薄氷雪は恐る恐る、自分の頬に手を当てる。
(本当に、温かい)

「明日は」
「はい」
「私の番なのですね」
「ええ」

「母上のように、美しくは」
「姫様ご自身の」
「私自身の?」
「花を、咲かせる時です」

 その言葉を胸に、白雪菱は立ち上がる。
 最後の診療が、終わった。



 夕暮れ時、広間で。

「玉蘭様もきっと」秋桜が着付けを終えながら。
「ええ」
「誇らしく思われます」

 白雪菱は、鏡の中の自分を見つめる。
 白地に花が舞う着物は、八年の時を超えて、今も美しく輝いていた。

「春燕、秋桜」
「はい」
「明日は、私の」

 言葉が詰まる。でも、それは寒さのせいではなかった。

「姫様の」春燕が優しく続ける。
「新しい始まり、ですね」秋桜も。
「ええ」

 窓の外では、今年最後の雪が静かに降り始めていた。

(明日は、冬至――そして、私の……こころが溶ける日)

 白雪菱は、そっと玉簪に手を触れる。
 もう、冷たくはなかった。

 冬至祭の大広間は、息を潜めていた。

「白雪菱様、まもなく」

 春燕の声に、白雪菱は小さく頷く。

(母上、見ていてください)

 玉華宮の冬至祭は、年に一度の祝宴。
 八年前、この場所で。

「舞姫、白雪菱」
 
 呼び出しの声が響く。
 立ち上がる時、袖が僅かに震えた。
 でも、それは寒さではない。
 凍りついた時が、今、動き出そうとしている。
 大広間への扉が開かれる。

(もう、逃げない)

 白地の着物が、月光のように輝く。
 玉簪が、静かな光を放つ。
 八年の沈黙を破って、白雪菱は一歩を踏み出した。
 ざわめきが、広間を渡る。

「玉蘭様の着物」
「あの日と同じ」
「でも」

 白雪菱は、そっと目を閉じる。

(聞こえる、あの日の、笛の音)

 祝宴の楽の音が、静かに始まる。
 白雪菱の手が、ゆっくりと上がる。

(母上の教えは大事。でも、今日は……変わりたい)

 袖が、風のように揺れる。白い花びらが舞い散るように。

「まるで、氷が溶けるような温かな舞だ」

 広間の片隅に、煖明の姿。温かな眼差しが、彼女を見守っている。
 白雪菱の中で、踊りの躍動が自然に流れ始める。

(もう、寒くない)

 玉簪が、月光に輝く。

「清らかに、でも、冷たくはなく」

 白雪菱の舞は、誰のものでもない。
 母の形見の着物に、自分だけの花を咲かせるように。
 笛の音が高まる。
 白雪菱の姿が、月光の中で輝きを増す。
 
「氷の城が溶けていく」

 それは、確かな春の訪れ。
 白雪菱は、舞の中で微笑む。
 初めて見せる、本当の笑顔。
 広間の空気が、柔らかく溶けていく。
 まるで、長い冬が終わるように。
 舞の終わりを告げる鈴の音が、清らかに響く。
 白雪菱は、静かに目を開く。

(終わったのではない。始まるの)

 拍手が、静かに広がっていく。
 その音は、氷が溶ける音のようでもあった。

「白雪菱様」
 
 春燕の目には、涙が光る。
 白雪菱は、もう一度微笑む。
 その表情には、もう迷いはない。

「新しい季節の始まりです」

 秋桜が差し出した茶を、彼女は両手で包み込む。
 温かい。
 夜空では、冬の最後の雪が、静かに舞い始めていた。
 でも、その冷たさは、もう彼女の心には届かない。

(ありがとう、母上……私は、私の花を咲かせました!)

 白雪菱は、そっと玉簪に触れる。
 その感触は、かつてないほど、温かかった。
 舞の終わった後の広間は、不思議な静けさに包まれていた。

「白雪菱様」

 春燕が差し出した手拭いで、白雪菱は静かに額の汗を拭う。
 それは、冷や汗ではなかった。

「春燕」
「はい」
「私、今」
「はい」
「舞っていたのね」

 その言葉に、春燕は思わず涙ぐむ。
 八年の時を超えて、初めて聞く誇らしい声。

「母上の着物で」白雪菱は白地の袖を見つめる。「でも、私の舞を」
「姫様の舞は」扉の向こうから、煖明の声。
「美しく、そして」
「御医様」

 白雪菱は初めて、まっすぐに煖明を見つめた。
 もう、視線を伏せる必要はない。

「温かかった。春の訪れのように」
「春、ですか」

 白雪菱は窓の外を見る。
 冬の最後の雪が、まだ静かに舞っている。

「御医様」
「はい」
「私の心は」
「もう」
「氷では、ありませんね」

 白雪菱は自分の胸に手を当てる。
 確かな鼓動を感じる。

「春燕、秋桜」
「はい」
「明日からは」
「はい」

「もう、冷宮とは呼ばせません」

 その言葉に、侍女たちは息を呑む。
 煖明が一歩前に出る。
「白雪菱様、これからは新しい季節の始まりです。どうか、最後の診療を」
「いいえ。これからも、時々は心の声を聴いていただけますか?」
「喜んで」

 春燕と秋桜は、互いに目を見合わせる。

「姫様が」
「笑顔で」

 白雪菱は玉簪に手を触れる。

「御医様」
「はい」
「氷の城は、もう」
「ええ」
「でも、不思議と」白雪菱は自分の手を見つめる。
「寂しくはありません」

「それは新しい花が咲いたからです」

 煖明は優しく告げる。
 窓の外で、雪が静かに舞う。
 でも、それはもう冬の終わりを告げる雪。
 春を待つ、優しい雪。

「ええ」

 白雪菱は、もう一度微笑む。
 今度は、清らかに、そして温かく。
 広間の窓から、最初の朝日が差し込む。
 それは確かに、新しい季節の光だった。
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