秋津冴短編集

秋津冴

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サマードライブ

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 高校2年生の夏、私は人生において初めて孤独というものに遭遇した。
 きっかけは些細なことだった。
 高校1年生の時。
 1年前の夏、両親が離婚した。
 私には3歳離れた妹のなつきがいるのだが、なつきは母親と共にいることを選んだ。
 その理由は簡単で父親が入り婿だったからだ。
 離婚の原因は父親の浮気。
 母方の実家には祖父母が健在で本屋を経営している。
 それほど裕福ではないらしいけれど、娘と孫の面倒を見るくらいには生活は苦しくない。
 その当時、父親はサラリーマンをしていて浮気相手は同じ会社の女性だった。
 妹は高校受験を控えていてとても大事な時期に差し掛かっている。
 父親は入り婿だから当然のごとく、母の実家からは出て行かなければならない。
 大学のラグビー部で主将を務めたほどの行動力がある人だから、浮気がバレて離婚調停になり、実家から追い出されるようにして借りたマンションに逃げ出しています父親の背中はとてもちっぽけなもののように思えてしまった。
 私はどちらかといえばお父さん子だったから、私よりもしっかりしている妹と母親をとりあえず実家において、父親を選ぶことにした。
 理由?
 なんだろう……最初はとても小難しい内容で意義のあるもののように感じていたのだけれども。1年経過した今となっては特にどうでもいい。
 母親を裏切った父のことは今でも許す気にはなれない。
 だけど浮気相手に捨てられ、妻からは愛想をつかされ、娘2人からも親子の縁を切られたとしたら――あまりにも哀れではないか。
 だから私は今も父親のマンションで同居している。
 しっかりと面倒を……見てもらいながら?



「あかね、起きなさい。もう学校に行く時間だ」
「うーん……まだあと、5分」
「何をバカなことを言ってるんだ。あと15分で家を出ないと、学校に行くバスに間に合わないぞ?」
「えぇっ!?」
 夏の夜。
 オンラインゲームにはまっていた私は、いつものように深夜3時過ぎまでゲームを楽しみ、そこから電池が切れてしまったかのようにふらりとベッドに倒れ込んだ。
 と、いうところまでは記憶がある。
 明日の朝は、夏休み中の登校日だから――ちゃんと目覚ましをかけていたはずなのに。
 ううむ……と、眠気が晴れずモヤモヤとした痛みのようなものに支配された頭をしっかりと動かして、ベッドの脇に置いてある目覚まし時計に視線をやる。
 おかしい。アラームは2時間前にちゃんとセットされていた。

「食事を取る時間があるのか?」
「いや――難しいかもって! 出て行ってよ!」
「起こしてもらってその態度はないだろう」
「いいから出て行って! 今下着なんだから――」
「風呂上がりにしょっちゅう見せてるからそんな恰好……ここに置いておくからな」

 ブランケットの下にある私の格好は本当にだらしなくて、キャミソールにショーパンという姿。
 それも寝着であり、ほとんど下着も当然。
 恋人になって見せたことがない姿を、40を過ぎた父親に見られるのはちょっと厳しい。きつい、辛いものがある。
 父親のたかしは、いい父親だ。
 ちゃんと娘のことを心配してくれている。
 朝食を食べる時間がないだろうから、通学用に利用しているバスを降りた先にあるコンビニでなにか買いなさい、と千円札を1枚置いて行ってくれた。

「いつもどうも……ちゃんとお金あるんだけどね。まあいっか」

 紺色のロングワンピースが私の高校の制服だ。
 胸元にリボンがついていてそれを閉めるだけで、着替えは完了する。
 ヘアーアイロンで前髪を作り、くしゃくしゃになった髪を矯正してヘアゴムで1つにまとめると、通学用に使っているバッグを担いで足早にリビングへと赴く。
 たかしは既に会社に出ていて、人気がなくガランとしている。
 離婚した後に引っ越し先として父親が選んだ市内の2LDKマンションは、親子2人が住むにはちょっと広すぎて、1人になった途端奇妙な孤独感に襲われる。
 もし、たかしに――父親に新しい恋人ができたら私は追い出されてしまうのだろうか?
 そんな不安を胸に抱く時が最近多い。
 たかしはお酒に強いし、接待で飲み帰宅が遅くなることが昔はよくあった。
 でもそれは世界的に流行した疫病前で、いまどき、深夜遅くまで飲み歩く人なんてほとんどいない。
 ここ2、3ヶ月。
 たかしは……お酒を飲んで帰宅することが多くなった。

「行ってきまーす」

 いってらっしゃい、と返事がない部屋のシーンと静まりかえった雰囲気に背中をされて、革靴を履いた私は後ろ手に玄関の扉を閉めた。
 やってきたバスにどうにか乗り遅れずに乗り込んだ私は、同じ地区に住まう友人のあやかの姿をその中に見つける。
 座席は人で埋まっていて、あやかは立ったまま手すりにもたれかかっていた。
 人の間を縫うようにして隣に立つ。

「おはよう。暑いね」
「あかね、おはよう。夏だから仕方ないよ!」

 耳が隠れないくらい短い黒髪でショートカットのあやかは、ボーイッシュな女の子。
 端切れが良い返事を元気と共に受け取る。
 あやかは誰に対しても元気一直線で、いつもエネルギーに満ち溢れている。
 彼女と一緒にいたら、どんよりと落ち込みそうな気分なんて一気に払拭されてしまう。
 私は校則違反にならない程度に染めている自分の長髪の根元を、ちょっとだけいじってみた。
 腰まではないけれど背中まで届く自分の髪は、茶色と薄いベージュのコントラストがいたいたしい。
 我が校の校則は緩く、金髪に染めていても怒られることはない。
 外側を茶色に。影になるであろう部分は薄いベージュに。二段階に彩られたこの髪色を、あやかは好きだと言ってくれる。
 生来冒険をする性分ではない私が、ファッションのためだからとちょっとした冒険をしてみたのには理由があった。

「だいぶ色が抜けてきたんじゃない、それ」
「ああ……これ? 次はどんな色に染めようかなって」
「あたしみたいに外側は真っ黒。んで、内側は真っ蒼とか!」
「先生、マジギレするやつじゃん。それ」
「大丈夫大丈。凛校の校則ゆるいから!」
「同じ学校だって。自分だけまともな格好してて私にちょっと頑張ってみるとか言うかね、普通」
「あかねだから言うんだよ? あたしはそれを見てみたい」
「うっ……」

 見てみたい、の言葉を言い終えてから背が低いあやかは、私の目を下からじっと見つめてくる。
 まるで、待てができない子犬のようだ、と思った。
 凛校とは我が高校、聖凛女子高等学校の略称である。
 聖凛女子高等学校、略して凛校。
 女子高等学校だからもちろん男子はいない。
 男子はいないが恋人はいる――女の子は女の子同士で恋をすることもあるのだ。
 例えば、いま目の前にいる背の低い悪ガキ男子のようないでたちの少女……山路あやかのように。

「そうやって下から見つめるの反則……。断れないじゃん、あやかの馬鹿」
「はっはーん。あかねは恥ずかしいと? 青春だね?」
「青春なんてしてないし。他人が見たら誤解するでしょ」
「誤解だっけ?」

 あやかはうーん? そうだっけ? と私から視線を外さずに首をひねる。
 器用なものだ。
 誤解じゃないよ、と言いたい。
 でも、こんな関係はまだまだ一般的ではなくて、他人がたくさんいるところで事情を知らない人がいる前で、そうだね。大好きだよ、みたいな発言はやっぱりやりづらい。

「いいから、あそこ開いたから座ろう?」
「あ、いいね。立ちっぱなしで膝の裏が伸びちゃった」
「そんなことで伸びないでしょ」

 冗談を言い合いながら、2人の社会人が座っていた座席へと移動する。
 窓際に座ったあやかは小さくて、可愛くて、子供のようで少年なのか少女なのかよくわからない中性的な顔立ちをしていて、とても美しい。
 私は彼女の横顔をじっと見つめるのが好きだ。
 そうしていると、こちらの視線に気付いたのか、あちらもじっと見つめ返してきた。
 あやかは何を考えたのか、キョロキョロっと周囲に視線を一巡する。
 そして小さな声で「よし!」と叫ぶと、事情をよく飲み込めていない私に向かい急接近してくる。

「髪、ちょっと歪んでるよ」
「え? あ、ありがと――んんっ?」

 あやかの手はすっと私の後頭部に向かう。
 てっきり髪型を直してくれるものだと思っていたら、違った。
 手と顔とで外から見えないようにして、さっ、と私の唇を奪っていく。
 触れるか触れないかの微妙なキス。
 肌触りがどうこうというより、羽毛で撫でられたかのような軽やかなものだった。
 あやかは――こういうことがうまい。
 女子陸上部のエースとして抜群の運動神経を誇る彼女は、いたずらをやることに関しては、普段の数倍の力が発揮されるらしい。
 あー、またやられてしまった。
 学校に通うバスの中で、行きと帰り。往復で二度。
 毎日のように必ず繰り返される私たちの儀式。
 最初の頃はやめてくれと何度もせがんだけれど、聞く耳をもってくれない。
 これをしないと1日が始まらないし明日への活力がわかないと、あやかはのたまう始末。
 私たちの関係は長くて、あと少しで2年になろうとしている。

「また!」
「ごめんごめん、美味しくて」
「あんたは吸血鬼か!」
「かもしれない」

 手で口元を覆い、じゅるっと美味しそうに舌なめずりするあやかは、本物の吸血鬼のようだ。
 だが、やられるばかりの私からしてみれば、焦りと恥ずかしさが常につきまとい、おいしいなんて感情を感じたことがない。
 もういい加減慣れて、とあやかには言われるのだが、2年近く経過した今もなれることはない。
 むしろ罪悪感と、どきどきと、誰かに見られたらどうしようなんていう気恥ずかしさで、心は冷たくなる。

「嫌ならやめるけど?」
「‥‥‥」

 バスの中には冷房が効いているはずだけど、夏の暑さが胸元まで押し寄せたのか、微妙な熱を感じる。
 それは胸元だけではなくて、お腹の方にも同様に生まれていた。
 嫌じゃないかもしれない。
 認めるのは負けを認めて服従してしまったような気がして、絶対にうんとは言いたくない。

「どうしたの?」
「知らない。あやかなんて嫌い。もう寄ってこないで」
「およよ? なんで手が回る?」
「めんどくさいから。しばらくじっとしてて」

 嫌いだ、寄ってくるな、とのたまいながら私の腕はあやかの右腕に巻き付き、ぎゅっと抱き寄せてしまう。
 暑いけれど、密着していればあやかはそれ以上悪いことをしてこない。
 そのことを経験則として知っているから、防御策としてついついこういう行動をとってしまう。
 
「んまあ……あたしは文句ないけど。人から見られちゃうよ?」
「見たければそうすればいいじゃない。学校じゃ皆こうしてるよ」
「それは間違いない。女子高だしね」
「だからじっとしてなさい。これ以上何かしたら今日一日、口聞いてやらないから」
「はあーい」

 毎日の日課となっているキスをしたからか、あやかはそれから大人しく隣で参考書を読んでいた。
 家の近くのバス停から学校の近くのバス停まで、揺られること三十分近く。
 自転車で通うにはトーク近くの駅まで電車で移動してそこから歩くにはちょっと遠い距離。
 学校に到着したら別々のクラスで、あやかは放課後に陸上部の練習があり、私は私で家政科クラブの実習がある。
 それぞれの練習が終わるのはだいたい18時近くで、そこからバスに乗り、家にたどり着くころには、もう19時を軽く回っていることもしばしば。
 来年は大学受験で受験勉強のために塾に通ったりして、お互いに恋人として触れ合うことができる時間はもっと短くなると思う。
 だから今、こうやって往復するバスの中。
 約1時間の密着できる2人だけの時間が、私たちにはとても大事なのだった。

「なんか買ってく?」
「朝、寝過ごしちゃって。おにぎりかなにか欲しい」
「じゃあ寄ってこう、コンビニ。あたしも、夕食買いたいし」
「‥‥‥おやつの間違いじゃないの?」
「さあー? 食べるのは部活の間だけどねー」

 1日数時間を走り抜けるあやかにとって、エネルギーを補充するために何かを食べるというのはとても大切な日課のようなものだ。
 学校には冷蔵庫がないから、サンドウィッチとか生鮮食品のような、気温によっては足が早いものは選べない。
 私がおにぎりを冷たいお茶を買うと、あやかは菓子パンを数個レジにもっていき会計を済ませていた。
 それだけのカロリーを食べて太らないのが本当に羨ましい。
 学校が始まるまではまだ少し時間がある。
 いつのまにかぽつりぽつりと通り雨が降っていた。
 コンビニのフードコートで食事を済ませていく。
 そういえば、とあやかは前から聞きたいことがあったんだと、質問してくる。

「こうやってさ一緒に登下校することって、1年前はなかったじゃない?」
「あ、え? うん……そうだね」

 私がおにぎり1個を食する間に、あやかは既に2個の菓子パンを昇華していた。
 朝練をしているわけでもないのに、そんなに食べて大丈夫か? と思ってしまう。

「あかねがお父さんのことを大好きなのはわかるけど、本当にそれだけ? まあ、あたしは毎朝毎晩バスで一緒に入れるからいいんだけど」
「さ、あ? どうかな」
「隠し事下手だよね」
「知らないよ。だってお父さんを一人にはできないもの」
「娘としてその気持ちはわかるんだけど。でも浮気した――ごめんねこんなこと言って」
「いいよ。本当のことだから」

 あやかは言葉を選び間違えた、と謝罪する。
 それからおずおずと別の言葉を選んで会話を続けた。

「あたしたちの恋愛も、人には大っぴらに言えないじゃん? そう考えたら、あかねはこの関係そのままで納得しているのかなって」
「納得……」

 こくりと一口冷たいお茶を飲む。
 涼やかな味が、もやもやとしていた頭の中がすっきりと晴れた気分になった。
 納得? していますとも。
 だって――あやかと一緒にいられる時間が増えるって分かったから……おっとこれ以上は秘密だ。

「納得。そう、納得」
「してなかったら、ここにはいないと思うよ。多分ね、あとは秘密」
「なんだよー秘密主義者かよー……。素直になれよ、あかね。楽になるぜ?」
「どんなドラマのセリフを引用してるんだか。そういうあやかはどうなのさ?」
「あたし? あたしは……ありがとう」

 自分から話題を振っておいて、あやかはがらにもなく感謝の言葉を述べると真っ赤になってうつむいてしまった。
 バスの車内でキスをする――なんて、大胆な行動を取るくせに、実はここぞというときにはシャイになってしまう、あやかさん。
 豪胆なんだか、そういったフリをしているのか。
 まあ、これもあやかだなあ、彼女らしいと思い、「よしよし」と頭を撫でる。
 私も感謝してるよ、ありがとう。と告げた。

「あたしたち――その……両親みたいにならないと、いいよね」
「うん?」
「だから、ちゃんとずっといたいっていうか、そういうこと?」
「ああ」

 そんな未来のことまで考えてくれていたのか、あやかは。
 そうなるとどっちが夫になるのだろう。
 性格的にいえば、たぶん、あやかが夫だ。
 行動力があるし、気前がいい。思いやりもあるし、どちらかといえば男性的だ。
 対して私はどうだろう、と考える。
 自分のわがままでしくじって追放された父親を見捨てられない娘。
 あやかといられるという副次的な効果はあったけれど、だめな男性を見たら抱擁してあげたくなるのは、自分でも悪い癖だと感じている。

「なに? その気の抜けた返事」
「いやーそういえば、あやかも抜けたとこあるよなって」
「はあ?」
「なんでもない」
 
 ああ、確かに。
 好きになる人にはみんな共通点がある。
 肝心なところでどこか抜けているのだ。
 浮気がクレジットカードの履歴からばれた父親。
 他人に目撃されていないと思い込んでキスしてくるあやか。
 しかし、私たちの仲と毎朝の行動は、同じ路線で通学している同級生や下級生、上級生には筒抜けで、いつも生暖かい視線で見守られている。
 抜けてるなあ、本当に。
 そして、見捨てられない。だめだからこそ、そばにいたくなる。愛でたくなる。
 私がいてこそ、彼や彼女はさらに花開くのだ、と思ってしまうから。

「ダメ女の典型だ、私」

 と、コンビニを出てから思ったことを呟いてしまう。
 あやかはそんなことないよ、と言い私の手をぎゅっと掴んで離さずに歩き出す。
 雨上がりの空には、薄く虹が輝いていた。
 母親はどうして離婚したのだろう、とつい考えてしまう。
 許す妻よりも自立する強い女であることを選んだ彼女は、私とは真反対の生き方をしている。
 私はあやかをうまく制御して、父親と母親のように離婚せずにやって行けるのだろうか?
 あやかに強く手を引かれながら、でも浮気はなさそうだな、とどこか安心感を感じる私だった。
 
 
 
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