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第一部

第4話 殿下と最有力候補

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 アーガイムが送った手紙を読んだニーシャがメアリを通じて違法霊薬を渡した相手、それこそ、メアリの最愛の男性で初めてを捧げた騎士見習い、テッドだった。
 テッドは質実剛健な性格で、気性も温和で人当たりが良い。
 あの主人にしてこの付き人は相応しくないほど、まともな人物だと評判だった。
 そんな彼が高級ホテルギャザリックのロビーにあるカフェで人待ちをしているのだから、ホテル関係者の目に留まらないわけがない。

「カフェロンデナールはどちらに?」
「あの角を曲がった先にありますよ、お嬢様」

 ドアマンが入口を開き、丁寧に説明してくれる。
 メアリが指示された方角に歩き出すと、彼は「あの子がテッド様の……」と他のドアマンたちとひそひそと話を始めた。

「最近、殿下はこもりっきりで暴れているというじゃないか。時折、物音や怒声が飛んでいるとか」
「そうそう。令嬢も何人か来られているし――ほら、オンデス公爵家の」
「ああ、ミネラ様」
「あの方は数いる婚約者のなかでも、最有力候補だというよ。可哀想にな、あの子の主人は競り負けるだろう」
「そうなると、テッド様の恋愛も上手くいかなくなるのか……」
「あの二人はお似合いだ。末永く幸せになって欲しいものだが」
「まったくだ」

 噂話はメアリが過度の向こうに消えるまで続いた。
 人々の口に上がるのは、テッドとメアリの未来を心配する内容だ。
 誰もが、二人には幸せになって欲しいと思っている。
 しかし、アーガイムとニーシャがうまくいくように、という声はついぞ上がらなかった。

「メアリ! 手をかけてすまない」
「御心配なく。これも家命だから」
「そりゃそうなんだが」

 店に入ると、ウェイターが席へと案内してくれる。
 イスを引いてもらい、テーブルに着くとテッドが済まなさそうに言った。

「あなたに逢いたくてって言って欲しかった? もうそんな関係じゃないでしょ、わたしたち」
「じゃあ、どんな関係なんだ」
「主人同士の仲がうまくいくように足元を整備する係、かな?」

 メアリが手提げから出した小箱をテーブルに置いてみせた。
 中には違法霊薬の小瓶が20本ほど入っている。
 持ち上げてみてそこそこの重量だったため、テッドはうら若い女性に木箱を運ばせたことを後悔する。

「あと数歩、関係を進展させてもいいんじゃないのか」
「それはテッド次第じゃないかしら。わたしは侯爵家の、ニーシャ様の物だもの。欲しいなら、努力して」
「――はあ、ああ。分かってるよ。来月、騎士の叙勲式がある」
「え……?」

 彼にしっかりして欲しいメアリは、わざと冷たい素振りを取っていた。
 片方は侯爵家に仕える侍女、片方は王家に仕える騎士見習い。
 身分の差は釣り合うようで、釣り合わない。
 メアリはニーシャの幼いころから付き合いがある。祖母から侯爵家で雇われている。
 結婚するには最低でも騎士程度の身分が必要だ。
 少なくとも、テッドが騎士に叙勲されれば叶うだろう。
 でも彼は商家の出身で出世なんて目指せるはずもない――そう思っていた。

「殿下が新たに伯爵位を叙勲される。結婚に向けた準備が着々と進んでいるんだ。その一環だよ」
「つまり、あなたも晴れて騎士になれる、と。本当に?」
「殿下だけじゃない、第二騎士団団長からもお声をいただいた。叙勲されれば王都を守る王国騎士の一員になる」
「待って、近衛騎士じゃなくて?」
「近衛は……世襲制だ。王族に近い貴族の子弟しかなれない。もっとも、近衛衛士なら農民や市民でもなれるけどな」

 それは単なる兵隊じゃない、とメアリはぼやいた。
 彼は近衛騎士じゃなく、王国騎士になるんだ。と、どこか落胆する。
 王国騎士は市民でもなれる。
 騎士としての身分は同じ騎士でも、近衛騎士とは雲泥の差だ。
 あくまで貴族の末端の近衛騎士と、警察官のような国家公務員の王国騎士。
 じゃあ、殿下の側近としてはどうなの、と聞きたくなる。

「あなた、まさか殿下から離れるつもりなの?」
「俺がそうしたくなくても、そうなる。元々、身分が違ったんだ。これから先へは進めない。俺は貴族じゃない」
「私たちの仲も上手くいかないのね」
「君だって――いつまで続ける気だ。人には言えない薄ら暗い生き方をずっとする気か?」
「ご主人様のためだから! 最後までお仕えしろと母にも、祖母にも言われているの。離れるつもりはないわ」
「俺が王国騎士になるのでは不満なのか、メアリ!」

 どことなくしびれを切らせて、苛立った顔つきで彼は言う。
 メアリは悪びれた素振りも見せず、「そうね」と切り捨てた。
 
「‥‥‥分かった。二年間、君を想ってきた。この場から連れ出してやれなくて済まない。できるなら君は離れた方がいい」
「どういう意味?」
「――殿下はニーシャ様に期待しておられない。血筋でいえば最も王家に近いオンデス公爵家のミネラ様を検討しておられる。殿下の後ろ盾が無くなれば霊薬密売も明るみに出るかもしれない。君は早く逃げるべきだ」
「主人を裏切れ、と? これまで散々、利用した癖に!」
「だから! ――だから、俺は騎士見習いで長く続くよりも、王国騎士を選んだんだ。殿下や忠誠よりも、君を……助けたい」

 意外だった。
 この人は主人を裏切るために王国騎士を選んだわけではなかったのだ。
 すべては自分への愛を全うするために、己を犠牲にしても、別の未来を選んだのだと。
 農家の息子なら、殿下に紐づいた出世は男として追いかけたいものだろう。
 貴族になり財を築き、それまで見下してきた者たちを見返したいはず。
 なのに自分のためにそれを捨ててまで――。

「馬鹿な人」
「な、なに?」
「女なんていくらでもいるのに、馬鹿な人。哀れな人。こんなどうしようもない私にかまけてないで、先に進むべきよ」
「俺は君がいいんだ、メアリ」
「いっときの迷いかもね。楽しかったわ、テッド。これまでありがとうございました。ニーシャ様を殿下が選ばないなら、侯爵家も終わるかもね。でも、ニーシャ様はただ利用されて終わる方ではないわ。あなたは安全なところに行くべきなのよ」
「なら君も――君を放っていけない」
「忘れて。夢だったの。もう幻想はまっぴら。霊薬を飲んで過ごしたほうがまだ、まし。さようなら」

 これから先、霊薬を希望するときは他の誰かに運ばせるから、とメアリは言い残してテーブルを後にする。
 テッドは何もかもが遅すぎたということを、今更ながらに思い知らされていた。
 ホテルギャザリックを出たメアリは辻馬車で戻ろうか、歩いて帰ろうか思案する。
 悲しさと喪失感で胸が裂けそうだった。
 できることなら、主人が待つ部屋に戻るまでに感情の昂ぶりをおさめたい。
 とりあえず、少し歩いて人々で賑わう大通りへとやってきた。
 同じ間隔で街路樹が植えられていて、こんもりとした屋根がアーチ状に広がっている。
 昼の日差しを避けられる場所にベンチがあり、腰掛けていろいろと思案する。
 これまでのこと、これからのこと。
 あの夜、彼に愛されたこと――まで思い出したら虚しさが増してしまった。

「遠回りして戻りますか」
「おやおや、ニーシャのところのメイドじゃないか」
「――ッ!? バッカニア……?」
「おや、中身が誰が理解できたか?」
「そんなどす黒いオーラ、あなたくらいしかいませんからね」
「さすがだな、主人も侍女も良い魔法使いに育ってやがる。うちに入らないか? 優遇するぞ」
「愚かなことを! 我々は組織などに関わりません!」
「もう関わっているだろう。ずぶずぶと腰まで浸かっている癖に」
 
 黒猫はベンチの端に腰掛けて、本物の猫のように舐めた手で顔を撫でていた。
 苛立ちまじりに持っていたバッグを叩きつけるが、ひらりっとかわされてしまう。
 すたすたと何気ない自然な歩みでバッカニアはメアリの懐に入り込んだ。
 ニャー、と甘えた声と仕草なのに、首筋に押し当てられた肉球からはしっかりと爪が突出して、メアリの白い肌にちくちくと当たる。

「このまま殺してもいい。舐めるなよ」
「‥‥‥どうしろ、と」
「まずはお前の主人に挨拶だ」

 ふっと痛みが消える。
 視界の中にいた黒猫はどこかに消えてしまった。
 
「主人……? ニーシャ様!」

 ニーシャの部屋で待っているぞ、とバッカニアの声がしたような気がした。
 メアリは慌ててバッグを取り上げると、スカートの裾が乱れるのも気にせず、全速力で主人の元へと走り出していた。
 
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