聖女カナリアは俯かない。

秋津冴

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戻らない彼女

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「そうだな。あそこなら、今夜の俺たちに相応しい」
「ロイヤルスイートがいいわ!」
「君の望むままに、我が姫」

 オリバーの同意を得て、王立楽団の歌姫であってもおいそれとは宿泊できない最上級の部屋に泊まれる嬉しさを以って、カナリアは恋人に近づいた。

 あと一歩というところで、いつも彼女は歩みを止める。
 しかし、今夜は違った。また一歩近づいた。

 楽器と楽譜を片腕に寄せると、彼の額におちた前髪を払いのけ、じっとこちらを見つめて来る。
 形の良い小さなあごを親指と人差し指でそっと持ち上げたら、目が合い、唇が重なって二人の時が一瞬、止まった。

「本当にいいのかしら。我が儘だと思われない?」

 言ってから迷う彼女はとても可愛らしい。

「本当だよ。俺は今週末から第二王子と共に、辺境視察に行く。その間、寂しくさせることへの詫びだと思って頂きたいね、我が姫様」
「今週末って、もうあと三日もないじゃない」

 いきなり知らされた予定に、カナリアはちょっとだけ不機嫌になった。

「すまない。急に決まったんだ」
「私は来週末まで王都であなたと過ごそうと思っていたのに‥‥‥」

 二人の想いは同じだと分かるとオリバーは早くカナリアを抱きしめたい欲求に駆られた。
 唇を奪い、全てを奪い尽くしてしまいたい。

「俺も同じだよ。姫様」
「……いいわ。許してあげる。でも、戻ってきたら旅行に行きましょう? お互い、結婚式の話もしないといけないし」

 結婚。
 考えてはいたが、これまでの付き合いからなんとなく実感のわかなかったその言葉が、オリバーの背中から寂しさを、激しい痺れとともに流して行く。

 本当に彼女を妻にできるのだ。
 幸福感で視界が明るく染まった。

 夜会の演奏のために控え目にされていた会場の明かりが、元通りになったせいではあるまい。

「そうだな。次に会えるまで時間がある。今夜は最後の晩にしたいしな」
「最後の晩?」

 片方の眉を上げて、カナリアは意味を問う。

「恋人としての最後の夜だ。次は純白のドレスを着た君を見たい」
「……指揮のレットーと会うことになっているの」
「二人でか?」

 レットーとはこの国の第二王子だ。
 オリバーが剣を教えている相手でもあり、三十代の才能豊かな音楽家でもある。

 今夜の夜会で指揮を務めたのも彼だった。

「いいえ、楽団のみんなでよ。振り返りと、次の公演についての説明も」
「それなら仕方ないな」

 結婚式を匂わせるオリバーの言葉に、カナリアは恥ずかしそうに頬を赤らめて、踵を返した。
 あと少し。

 もう少し待てば、本当の愛が手に入る。
 カナリアが去る際、半分ほどに伏せた瞼の合間から寄越した眼差しは初めて見るものだ。

 オリバーの心は高鳴った。
 手を伸ばせば届くところにいる少女を引き寄せて、荒々しくキスをした衝動を我慢した。

 情熱と純粋な愛の炎で、欲望を焼き尽くされるまで唇を重ねられたら、どんなにいいことか。

「待っているよ」
「ええ、オリバー。早く終わらせる」

 彼女のうわずった声は潤いに満ち、オリバーの胸を期待感で満たした。
 しかし、この夜。

 いくら待っても、カナリアは戻ってこなかった――。
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