聖女カナリアは俯かない。

秋津冴

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神殿へ

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 初夏を迎えた王国の西部地方では、豊かに芽吹く緑が丘を埋め尽くしている。
 緩やかな傾斜を描くその先にうっすらと姿を現した建物を見て、レブナン伯爵令嬢カナリアの心は軽く安堵に包まれた。

 ここ三百年ほどで増築を繰り返し、数十の塔に囲まれた建物は、女神がおわす神殿の外縁に沿って建っている。
 誰が呼んだか『尖塔の神殿』と称されるほどだ。

 一番高い塔の尖端が陽光を鈍く照り返し、銀色の輝きを放つ。
 すると、白い煌きもまた、視界の片隅に揺らめいた。

 馬車が丘の斜面にできた荒い道を走るたびに、車輪を取られて上下したせいだ。

 ――あそこに行けば、彼を苦しませずに済む。

 ハシバミ色の瞳を逡巡させ、カナリアは前を向いた。
 前方は三叉路になっており北部方面へと向かう道、海へと続く道、そして、神殿に至る道となっている。

 思い留まるなら今しかないと思った。
 あの道を折れてしまったら、もう後には戻れない。

 同乗している老いた下男が確認するように主人の顔色を窺う。

「お嬢様……」

 事情の一端を知る老爺に、カナリアは静かにうなづいて見せた。

「では……」

 主人よりも迷いを見せる彼を促す為に、カナリアは薄く微笑みを浮かべる。

「大丈夫よ、リゲル。お前が気にすることではないわ」
「はい……」

 女神タラスの神殿は迷える婦女子を救うことで有名である。
 さまざまな事情を抱え、一般社会で生きていくことが苦しくなった女性や、子供たちが最後にたどり着く場所。
 それが女神タラスの神殿。

 いま、カナリアはそこの一員になろうとしていた。
 つい先日、思いがけない事故に遭遇してしまい、清らかな体ではなくなってしまったせいだ。

 一際高い塔の上にある鐘が、正午を告げる。
 その甲高い音は、彼女に人生の選択を迫っているようでもあった。

 やがて神殿の馬車溜まりに馬車が到着すると、事前に連絡してあったため、迎えが待っていた。
 荷物が馬車から降り始め、次は主人が降りる番となる。

 カナリアは一通の手紙を下男へと手渡すと、強く言い渡した。

「これを彼に。オリバーに渡して頂戴。必ずよ、リゲル、お願いね?」

 王都からここまで、魔道列車と馬車を乗り継いできた。
 手紙は移動の合間、手元が揺れない場所でしたためたものだ。

 男性の宛名を確認するかのように小さく呟くと、手紙を受け取った下男は、必ずと言った。
 そして、懐深くに手紙をしまいこむ。

 カナリアは最後に、力無げに微笑んで馬車を降りた。
 女官が先導するあとに、神殿の門をくぐる。

 そこは、浮世とのわかれ道。
 いまから彼女は、女神に仕える女官となるのだ。

 これから先、世間との関わりをもたず、縛られることもない。
 女神の神殿に匿われたら、王族といえども手出しはできない。

 彼女に残された唯一の逃げ場がここだった。

「……ごめんなさい、あなた」

 カナリアは最後の後悔を述べ、己の身勝手さを胸内に沈め込んだ。
 


 カナリアは王立楽団の誇る歌姫の一人だった。
 彼女が一度、歌を紡げば嫉妬深い美の女神すらも、怒りを忘れて声援を送り、拍手をする。

 それほどに優れた歌い手の彼女だったから、引く手もあまたで、たくさんの場所で演奏する依頼を受け、それをひとつひとつ確実に成功させてきた。

 彼女の明るい未来は、ひとつのコンサートを大成功のうちに終わるせるたびに、明るいものへとなっていった。
 先日行われた、国王陛下即位三十周年記念パーティでも、王立楽団の演奏をバックに歌声を披露した。

 古い時代を舞台にした戯曲の一節で、恋をすることを許されない聖女と、彼女に秘めた愛を伝えられないまま仕え続けた聖騎士の物語。

 報われない恋人たちが、最後に女神によって愛を認められ、死後の世界で願い成就させる、という内容のものだった。

 多くの列席者が悲しみに心を濡らし、騎士の誠実さを拍手で湛え、最後に訪れた愛の奇跡に感動の涙を流した。
 しかし、パーティの成功とは真逆のことがカナリアを襲う。

 愛おしい恋人と過ごすはずの大切な一夜は、暴漢によって壊されてしまったからだ。
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