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第四章 新たな命
第三十一話 不意打ち
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ロバートは荒々しく扉をひらくと、アレックスの執務室から抜け出し、怒りに任せて後ろ手にそれを押した。
ガラスが合間に差し込まれたその木製の扉は、彼の心が発したい悲鳴を代弁するかのように、軋んでオフィスに騒々しさを鳴り響かせる。
ホテルのオフィスで多くの職員たちが、いきなり轟いたその音に引き寄せられる中、ロバートは無言のままその場に足を止めた。
オフィスの片隅で、いつも廊下などですれ違う清掃係の一人に、ふと視線が吸い寄せられたのだ。
シルバーブロンドの髪をポニーテールにした彼女が、なぜか彼の心に興味を抱かせた。
まさかとは思いながらその方向をじっと凝視する。
しかし彼女は、同僚達の輪の中に入るようにして、勤怠の手続きを済ませるとその場から立ち去ってしまう。
彼女がこの場所で、ホテルの最も最下層に位置する仕事に就いているなんて、あまりにもばかばかしい想像だと思い直した。
ロバートはその背中を追いかけるべきだと、なぜか妙な引っかかりのようなものを心に感じた。
心臓があの時の素晴らしい瞬間のように、早く動いて、鼓動を鳴り響かせる。
怒りのあまり動悸や息切れを感じたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
あの女性。
セナと名乗ったパルスティン公爵家の関係者。
彼女が自分の前から消えてしまったからまだ半日も経っていないというのに。
他の女性に目が行くなんて自分はどうかしていると、額に手を当て、疲れを取り払うように頭を振った。
神秘的な出会い方にいろいろと油断をしてしまったが、彼女はもしかしたら本当に詐欺師だったのかもしれない。
そうでないのだとしたら自分は親友に指摘された通りに、最善の方法を改めて考えるべきだと心が告げた。
「なんて一日なんだ!」
自分の行いに恥ずかしさを禁じ得ない。
オフィス中の視線を背中に感じて、足早に彼はその場を立ち去った。
セナは従業員達が出退勤を記入するその日のシートにサインをし、一日の勤務から退勤するところだった。
これで次は夕方から入るバーのシフトまで、少しばかりの休憩を取ることができる。
寮に戻り、睡眠を取ろうと考えていたら、背中を凄まじい勢いで扉を閉める音が叩いた。
勤務中に名前を呼ばれるだけで、心臓が喉から飛び出そうになった。
ロバートから逃げたという罪悪感と、貴族令嬢と仮面は過去のもので、今は単なる清掃係だと気づかれはしないかという恐怖感を交互に感じていた。
それらは時に片方だけ。時に両方でセナの良心を絞り上げては、吊るし上げた。
この職場を失うことを考えただけで、手が震え、仕事が手につかない。
悪い子には悪いことが重なるもので、上司のバルドはいなかったが、バーで彼と食事をしていたもう一つ上の上司と、カティがバルドに代わり、セナの虐め役を買って出た。
態度が悪い、物覚えが悪い、仕事が遅い、移民の癖に。
バルドの物言いとそっくりのセリフを口の端に上げ、彼らは今度は、言葉と権力でセナを十数分に渡って、痛めつけた。
おかげで、退勤時間が、一時間近く延びてしまったのだ。
カティが本来やるべき仕事をセナに押し付けて、さっさとその上司とともに上がってしまったから。
普段なら心の痛みよりも残業代を喜ぶセナだが、今日ばかりはそうもいかなかった。
スイートルームではなく、一般客のもっとも安い部屋の清掃をしているとき、自分の立場がどうにも惨めに感じてしまい、人知れずバスルームを掃除しながら涙を流した。
ひとしきり泣いてほんの少し心が晴れたものの、これから先はバルドの代わりに彼ら二人からの言葉と威圧的な態度によるいじめを受けなければいけないのかと思うと、ますますセナの気分は沈んだ。
そしてやってきた、怒りの感情を含んだ激しい音に、一瞬、飛び上がりそうになる。
肩を抱き、身を縮めて、荒れ狂う台風のような何かに関わらないようにしようとしたら、なぜか理由はわからないな後ろを振り返ってしまった。
揺れる自分のポニーテールを視界に入れて、セナが目にしたのは激高したロバートだった。
まっすぐにこちらを見つめている彼に、とうとう見つかってしまったのだと、背筋が凍り、血管が凝縮して、身動きを取れないまま立ちすくむ。
そんな彼女を急かすように、後ろでサインをするために並んだ別の清掃係が、「終わったら退いて」とぶっきらぼうに言葉をかけてくれたおかげで、セナは金縛りから解放された。
乱暴な同僚は手でセナの背を押して、むりやり自分の権利を主張してくれたお陰で、セナはそれ以上振り返ることなく、従業員用のロッカールームへ向かう。
ロッカールームの壁に背を預けてどうにか身体を休ませると、顔から血の気が引き、いまさらながらに体がおおきくふらついた。
まさかあの場所に彼がいるなんて、予想だにしていなかった。
早くここから立ち去ろう。
自分のロッカーを開き中から、ミアから借りた服を取り出して着替えを始める。
制服から男優と着替える短い間、セナの記憶は今朝の会話へと飛んだ。
ガラスが合間に差し込まれたその木製の扉は、彼の心が発したい悲鳴を代弁するかのように、軋んでオフィスに騒々しさを鳴り響かせる。
ホテルのオフィスで多くの職員たちが、いきなり轟いたその音に引き寄せられる中、ロバートは無言のままその場に足を止めた。
オフィスの片隅で、いつも廊下などですれ違う清掃係の一人に、ふと視線が吸い寄せられたのだ。
シルバーブロンドの髪をポニーテールにした彼女が、なぜか彼の心に興味を抱かせた。
まさかとは思いながらその方向をじっと凝視する。
しかし彼女は、同僚達の輪の中に入るようにして、勤怠の手続きを済ませるとその場から立ち去ってしまう。
彼女がこの場所で、ホテルの最も最下層に位置する仕事に就いているなんて、あまりにもばかばかしい想像だと思い直した。
ロバートはその背中を追いかけるべきだと、なぜか妙な引っかかりのようなものを心に感じた。
心臓があの時の素晴らしい瞬間のように、早く動いて、鼓動を鳴り響かせる。
怒りのあまり動悸や息切れを感じたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
あの女性。
セナと名乗ったパルスティン公爵家の関係者。
彼女が自分の前から消えてしまったからまだ半日も経っていないというのに。
他の女性に目が行くなんて自分はどうかしていると、額に手を当て、疲れを取り払うように頭を振った。
神秘的な出会い方にいろいろと油断をしてしまったが、彼女はもしかしたら本当に詐欺師だったのかもしれない。
そうでないのだとしたら自分は親友に指摘された通りに、最善の方法を改めて考えるべきだと心が告げた。
「なんて一日なんだ!」
自分の行いに恥ずかしさを禁じ得ない。
オフィス中の視線を背中に感じて、足早に彼はその場を立ち去った。
セナは従業員達が出退勤を記入するその日のシートにサインをし、一日の勤務から退勤するところだった。
これで次は夕方から入るバーのシフトまで、少しばかりの休憩を取ることができる。
寮に戻り、睡眠を取ろうと考えていたら、背中を凄まじい勢いで扉を閉める音が叩いた。
勤務中に名前を呼ばれるだけで、心臓が喉から飛び出そうになった。
ロバートから逃げたという罪悪感と、貴族令嬢と仮面は過去のもので、今は単なる清掃係だと気づかれはしないかという恐怖感を交互に感じていた。
それらは時に片方だけ。時に両方でセナの良心を絞り上げては、吊るし上げた。
この職場を失うことを考えただけで、手が震え、仕事が手につかない。
悪い子には悪いことが重なるもので、上司のバルドはいなかったが、バーで彼と食事をしていたもう一つ上の上司と、カティがバルドに代わり、セナの虐め役を買って出た。
態度が悪い、物覚えが悪い、仕事が遅い、移民の癖に。
バルドの物言いとそっくりのセリフを口の端に上げ、彼らは今度は、言葉と権力でセナを十数分に渡って、痛めつけた。
おかげで、退勤時間が、一時間近く延びてしまったのだ。
カティが本来やるべき仕事をセナに押し付けて、さっさとその上司とともに上がってしまったから。
普段なら心の痛みよりも残業代を喜ぶセナだが、今日ばかりはそうもいかなかった。
スイートルームではなく、一般客のもっとも安い部屋の清掃をしているとき、自分の立場がどうにも惨めに感じてしまい、人知れずバスルームを掃除しながら涙を流した。
ひとしきり泣いてほんの少し心が晴れたものの、これから先はバルドの代わりに彼ら二人からの言葉と威圧的な態度によるいじめを受けなければいけないのかと思うと、ますますセナの気分は沈んだ。
そしてやってきた、怒りの感情を含んだ激しい音に、一瞬、飛び上がりそうになる。
肩を抱き、身を縮めて、荒れ狂う台風のような何かに関わらないようにしようとしたら、なぜか理由はわからないな後ろを振り返ってしまった。
揺れる自分のポニーテールを視界に入れて、セナが目にしたのは激高したロバートだった。
まっすぐにこちらを見つめている彼に、とうとう見つかってしまったのだと、背筋が凍り、血管が凝縮して、身動きを取れないまま立ちすくむ。
そんな彼女を急かすように、後ろでサインをするために並んだ別の清掃係が、「終わったら退いて」とぶっきらぼうに言葉をかけてくれたおかげで、セナは金縛りから解放された。
乱暴な同僚は手でセナの背を押して、むりやり自分の権利を主張してくれたお陰で、セナはそれ以上振り返ることなく、従業員用のロッカールームへ向かう。
ロッカールームの壁に背を預けてどうにか身体を休ませると、顔から血の気が引き、いまさらながらに体がおおきくふらついた。
まさかあの場所に彼がいるなんて、予想だにしていなかった。
早くここから立ち去ろう。
自分のロッカーを開き中から、ミアから借りた服を取り出して着替えを始める。
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