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第四章 新たな命
第二十七話 後悔の朝
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深い微睡みの中、底なし沼へと身を投じたような感覚のまま、セナはなにか重たいものが音を立てて引き出され、別のなにか硬いものとぶつり合う音を聞いた。
妙に懐かしさを覚える音だった。
音の正体を無意識に察して、セナの意識は覚醒する。
それは心地よい眠りを覚ますのに、十分な刺激だった。
ここ数年間、ずっと日々の大半を過ごしてきた業務の経験が、彼女の意識を覚醒させた。
それは引かれて戻されるタイミングといい、音の質といい、まさしくこのホテルがスイートルームに用意してある扉が引かれて閉じる音だったのだから。
驚いて上半身を起こすと、寝室の窓から差し込んでくる太陽の光で、彼女はここがどこかを察した。
ついでに、ベッドの脇に置かれている時計の文字盤を見て、その心は凍った。
時計の短針と長針は、午前四時を指している。
それは業務に就く、一時間前だとセナに教えていた。
「そんなっ……!」
一言、悔やむように呻くと、そこから起き上がろうとして、頭が不快な感覚に支配される。
脳はまるでハンマーかなにかで叩かれたように、激しい衝撃をセナに伝えた。
一瞬、誰かに殴られたのかと錯覚を覚えるも、その痛みに似たものを知っているセナは自分の愚かさに気づいて、さらに低く後悔のため息を吐いた。
「昨日の、ワインのせい?」
もしそれが原因なら、ひどい二日酔いに際悩まれていることになる。
どうしてそうなったのかを探るまでもなく、ここがロバートのロイヤルスイートルームで、自分と彼が素晴らしいムードのおかげで、一夜を伴にしたことも思い出した。
その彼がいま隣にいないことを不思議に思い、セナはそっと耳を澄ました。
すると、扉の向こう。
キッチンの方から、何やら料理をする音が聞こえる。
それは多分、コーヒーを淹れたり、用意されている食事を温めたりとその程度の物音でしかなかった。
彼はリビングルームをもう一つ越えた、キッチンにいるのね。
しばらくは戻ってこないはず。
どうしよう、とセナの心はざわめいた。
彼と一夜を過ごしてしまったのだ。
セナという人物はあのリストにはない名前だろうし、あったとしても調べれば即、別人だと判明するだろう。
そうなれば、自分の身元をホテル側が割り出すのは簡単だし、解雇になるのも即日のことになる。
「逃げなきゃ」
そうしようと心に決めると、セナの行動は素早かった。
いつものように神聖魔法を使い、まず二日酔いを醒ますことから始まったそれは、ベッドの周囲に脱ぎ散らかしているドレスや、下着や、身につけていた宝石類やそういったものを、集めることへと変わる。
ドレスは丁寧に部屋の隅にあった椅子の上にかけられていたし、耳を飾ったイヤリングや髪留め、ネックレスなども彼の手によって、置時計の隣に集められていた。
ドレスを手にすると、その下には彼の着ていたであろう、黒いズボンを見つけた。
それを目にした途端に、ロバートの優しくも情熱的な瞳が思い返される。
「ああ……もう!」
覚えている限りで、彼と数度目に愛し合った記憶がよみがえり、セナは自分の愚かさに打ちのめされた。
情事を思い返すだけで、恥ずかしさで頬が朱に染まる。
シャンパンの勢いもあったせいか、いや、それだけではなく彼の魅力に取り付かれてしまった自分が、本当に情けない。
抗えない引力に引き寄せられてしまったかのように、勢いのままに彼にこの身を任せてしまった。
ロバートと関係を持っただけでも最悪な判断だったというのに、そのままこの部屋で朝まで寝てしまうなんて。
男性とそうしたことの経験がなかったセナは、何もかもが初めてだったと改めて知り、自分の行いを恥じた。
ミアとの約束は舞踏会を楽しんでくること、ただそれだけだったはず。
室内と窓の景観を、いくども見比べて、セナはそこがホテルの間取りでどの位置にある部屋なのかを、脳裏に地図を描くと逃げ道を検討した。
なるべく早くこの姿から抜け出して、普段の自分に戻る必要がある。
そのために最善な手段はどれか。
早くしないと彼が戻ってきてしまう。
その焦りを心に覚えながら、セナは通路を一本隔てた向こう側に、親友の部屋があることに思い至った。
普段身に着けているマスターキーは、今だって彼女の手元にある。
スイートルームを担当している清掃係なら、誰もが念じるだけで空間から任意にそれを取り出せる。
ドレスを身につけている暇はなく、それを守って胸元を隠しながら、セナは時間を見計らう。
もう少ししたら、早出の清掃係たちが、寝室まで物音が響かない通路の向こうにあるリネン室に集まるだろう。
彼女たちに姿を見られる可能性がある。
中庭を抜けていく方法も考えたが、それには、このロイヤルスイートルームを守っている、セキュリティの目に留まる恐れがあった。
「仕方がないわね」
どうしてこんなことをしてしまったんだろう、と自分を罵りながら、覚えてる限りで身につけているものがひとつも減っていないことを確認して、セナは片手に靴を揃えて持った。
寝室につながっているドレスルームへと続く扉をそっと開く。
その向こう側には、ロイヤルならではの、付き人たちが寝起きをする別の部屋があるからだ。
そこを通り、廊下へと繋がる扉を開けて、辺りに人影がいないことを確認すると、廊下へと移動を開始する。
そのまま通路を横切り、東の方角の一番果てにある、ミアの部屋を目指した。
途中、他の通路と交差する角を横切るときに、はるか向こうから歩いてくる人影が目に入ったが、あちらはこちらに気付いた様子はなかった。
ミアの部屋に辿り着くと、マスターキーでそのロックを解除し、セナは扉の合間にそっと身を潜ませてから、静かにそれを閉じた。
妙に懐かしさを覚える音だった。
音の正体を無意識に察して、セナの意識は覚醒する。
それは心地よい眠りを覚ますのに、十分な刺激だった。
ここ数年間、ずっと日々の大半を過ごしてきた業務の経験が、彼女の意識を覚醒させた。
それは引かれて戻されるタイミングといい、音の質といい、まさしくこのホテルがスイートルームに用意してある扉が引かれて閉じる音だったのだから。
驚いて上半身を起こすと、寝室の窓から差し込んでくる太陽の光で、彼女はここがどこかを察した。
ついでに、ベッドの脇に置かれている時計の文字盤を見て、その心は凍った。
時計の短針と長針は、午前四時を指している。
それは業務に就く、一時間前だとセナに教えていた。
「そんなっ……!」
一言、悔やむように呻くと、そこから起き上がろうとして、頭が不快な感覚に支配される。
脳はまるでハンマーかなにかで叩かれたように、激しい衝撃をセナに伝えた。
一瞬、誰かに殴られたのかと錯覚を覚えるも、その痛みに似たものを知っているセナは自分の愚かさに気づいて、さらに低く後悔のため息を吐いた。
「昨日の、ワインのせい?」
もしそれが原因なら、ひどい二日酔いに際悩まれていることになる。
どうしてそうなったのかを探るまでもなく、ここがロバートのロイヤルスイートルームで、自分と彼が素晴らしいムードのおかげで、一夜を伴にしたことも思い出した。
その彼がいま隣にいないことを不思議に思い、セナはそっと耳を澄ました。
すると、扉の向こう。
キッチンの方から、何やら料理をする音が聞こえる。
それは多分、コーヒーを淹れたり、用意されている食事を温めたりとその程度の物音でしかなかった。
彼はリビングルームをもう一つ越えた、キッチンにいるのね。
しばらくは戻ってこないはず。
どうしよう、とセナの心はざわめいた。
彼と一夜を過ごしてしまったのだ。
セナという人物はあのリストにはない名前だろうし、あったとしても調べれば即、別人だと判明するだろう。
そうなれば、自分の身元をホテル側が割り出すのは簡単だし、解雇になるのも即日のことになる。
「逃げなきゃ」
そうしようと心に決めると、セナの行動は素早かった。
いつものように神聖魔法を使い、まず二日酔いを醒ますことから始まったそれは、ベッドの周囲に脱ぎ散らかしているドレスや、下着や、身につけていた宝石類やそういったものを、集めることへと変わる。
ドレスは丁寧に部屋の隅にあった椅子の上にかけられていたし、耳を飾ったイヤリングや髪留め、ネックレスなども彼の手によって、置時計の隣に集められていた。
ドレスを手にすると、その下には彼の着ていたであろう、黒いズボンを見つけた。
それを目にした途端に、ロバートの優しくも情熱的な瞳が思い返される。
「ああ……もう!」
覚えている限りで、彼と数度目に愛し合った記憶がよみがえり、セナは自分の愚かさに打ちのめされた。
情事を思い返すだけで、恥ずかしさで頬が朱に染まる。
シャンパンの勢いもあったせいか、いや、それだけではなく彼の魅力に取り付かれてしまった自分が、本当に情けない。
抗えない引力に引き寄せられてしまったかのように、勢いのままに彼にこの身を任せてしまった。
ロバートと関係を持っただけでも最悪な判断だったというのに、そのままこの部屋で朝まで寝てしまうなんて。
男性とそうしたことの経験がなかったセナは、何もかもが初めてだったと改めて知り、自分の行いを恥じた。
ミアとの約束は舞踏会を楽しんでくること、ただそれだけだったはず。
室内と窓の景観を、いくども見比べて、セナはそこがホテルの間取りでどの位置にある部屋なのかを、脳裏に地図を描くと逃げ道を検討した。
なるべく早くこの姿から抜け出して、普段の自分に戻る必要がある。
そのために最善な手段はどれか。
早くしないと彼が戻ってきてしまう。
その焦りを心に覚えながら、セナは通路を一本隔てた向こう側に、親友の部屋があることに思い至った。
普段身に着けているマスターキーは、今だって彼女の手元にある。
スイートルームを担当している清掃係なら、誰もが念じるだけで空間から任意にそれを取り出せる。
ドレスを身につけている暇はなく、それを守って胸元を隠しながら、セナは時間を見計らう。
もう少ししたら、早出の清掃係たちが、寝室まで物音が響かない通路の向こうにあるリネン室に集まるだろう。
彼女たちに姿を見られる可能性がある。
中庭を抜けていく方法も考えたが、それには、このロイヤルスイートルームを守っている、セキュリティの目に留まる恐れがあった。
「仕方がないわね」
どうしてこんなことをしてしまったんだろう、と自分を罵りながら、覚えてる限りで身につけているものがひとつも減っていないことを確認して、セナは片手に靴を揃えて持った。
寝室につながっているドレスルームへと続く扉をそっと開く。
その向こう側には、ロイヤルならではの、付き人たちが寝起きをする別の部屋があるからだ。
そこを通り、廊下へと繋がる扉を開けて、辺りに人影がいないことを確認すると、廊下へと移動を開始する。
そのまま通路を横切り、東の方角の一番果てにある、ミアの部屋を目指した。
途中、他の通路と交差する角を横切るときに、はるか向こうから歩いてくる人影が目に入ったが、あちらはこちらに気付いた様子はなかった。
ミアの部屋に辿り着くと、マスターキーでそのロックを解除し、セナは扉の合間にそっと身を潜ませてから、静かにそれを閉じた。
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