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第二章 偽りの公爵令嬢

第十五話 殿下と海賊

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 セナの頭の中は後悔の一色で染められていた。
 どうして本名を名乗ったのよ!
 これから会場に入ってチェックを受け、そこで初めて名乗るべきなのに。
 ミア・パルスティンです、と……。
 
 しかし、名乗ったのはセナだ。
 そこいらの酒に酔った紳士ならばともかく、まだ会場入りも果たしていない殿下に、二度の名乗りを行うのはさすがに怪しまれる。
 下手をすれば、身分の追求をされて解雇という最悪の結果を招きかねない。

 セナは自分の手の中にある、招待状の人物、ミア・パルスティンになりきらなければならなかった。
 敢え無く最初の関門で落第してしまいそうになり、しっかりするのよ、と自分を鼓舞した。

 まだ彼しか知らないのだ
 自分の本名は。
 ミアの厚意を予想しなかった形で裏切ってしまい、セナは更に心を落ち込ませた。

 彼女の優しさは親戚や親友というものを抜きにしたとしても、あまりにも慈悲にあふれたものだった。
 仮面舞踏会に出られるという夢のような現実に心を奪われてしまい、さらに美しいドレスと、奪われた正当な物を取り返すことができるという誘惑に、駆られたのが間違いだった。

 たとえ、その誘惑が一瞬の、数時間だけの瞬きだと分かっていても、抗えない魅力を、このパーティーは秘めていた。
 短い時間でもいい。

 自由が欲しかったのだ。
 スイートルームを利用する側に戻ってみたかった。

 普段の顧客のベッドを整え、床を磨き、リネンを交換する、そんな終わりのない重労働から、一夜でもいい、解き放たれたかった。
 もし父親が生きていたら、自分はこの仮面舞踏会にまっさきに招待されていたはずだ、とセナは思い直すことにした。

 どのような手段を講じたか分からないが、高等学院の寮に入り、実家をでていたセナは父親の死によって、継母と義姉たちに、手にするべき遺産の全てを奪われた。

 父親の遺した遺産相続書にはセナにたいする遺産配分はあったものの、その管理はすべて継母がセナが成人になる十八歳まで代理することになっていた。

 本来、貴族の女性は夫を失ったとき、遺産を相続する権利を認められない。
 しかし、それは古い時代の産物であって、いまは魔導列車や冷蔵庫までもが庶民の手に入る、近代だ。

 時代は変わり、女の権利も強く認められた帝国では、女公爵として爵位を継承することにより、継母は夫の全遺産を我がものにしてしまった。

 セナには遺産から必要な分だけ支援をしているとうそぶきながら、その実、彼女への学費の支払いは、たった半年で打ち切られてしまったのだ。

 十四歳の少女は実家からの支援を失い、わずかな銀行預金と寮においていた身の回り品をまとめて、帝都から遠く離れた田舎の寮を追い出された。 
 そんな生い立ちの彼女はさまざまな苦労をして、このホテル・ギャザリックの清掃係をしている。

 セナはそそくさと逃げて怪しまれるより、本当の自分のままにこの場を生きてみようと思った。
 そして、殿下ともし踊れるならば……。

 なんて、ささやかな希望を望みつつ、いまの状況を冷静に鑑みる。
 殿下は私の正体に気づいた?

 いいえ、そんなはずはない。
 もしそうならば、この男性のことだ。

 すぐにでも、両隣にいる警護にセナを突き出すだろう。
 詐欺師がいる、と。
 今夜、限られた従業員以外はこの場にいたら、即解雇だ。
 けれども、ロバートがセナに気づいた様子はなかった。
 
 よくよく考えてみたら、セナとロバートの接点など、ほとんどないのだ。
 むしろ、セナが解雇を危惧して自意識過剰になっていた節がある。

 王太子は、ホテルの中ならどこにでもいる客室係としてしか、それまで見てこなかっただろう。
 今夜は特別、目立つ装いをしているから、目に留まっただけで、貧乏くさいドレスなど着ていたら、彼は微塵にも興味を示さなかっただろう。

 このホテルだけで数百人の従業員がいる、その中に銀髪の客室係が何人いると思うのか。
 帝国ならばまだしも、王国のこの土地では、銀色の髪はたいして珍しくもない。

 セナの髪色は混じり気のない美しいものだが、それでも立場は重要な要素だ。
 ホテルの従業員にはそれぞれ相応しいサービスの場所が与えられている。

 富裕層に接する者には、それなりの上等な装いが普段から用意されているのだ。
 ところが、セナはそのピラミッドの最下層に位置する。

 なるだけ目立たないようにスイートルームを清掃し、顧客の目を汚さないように配慮して、動き回るだけなのだ。
 そんな普段の自分に、ロバートのような身分の最上位に属する王太子が、興味を示すとは考えにくい。

 動悸が高まり、鼓動の激しさが耳の奥をじんじんと叩きつけてくる中、セナはそう思い直すことで、自分を落ち着かせた。

 焦りを隠し、口元に優雅な笑みを浮かべて、彼の腕へと手を通す。
 断る理由はどこにもなかった。

 ロバートは長身で、そばで見るとその碧い髪色は、空よりも波打つ大海を思わせた。
 彼は大学を卒業して一時期、騎士団に入っていたと聞く。

 そのせいか、髪は短く整えられて、前髪ごと後ろに流すように、撫でつけられていた。
 鼻は王国男性のなかではかなり高い方で、舞台の一流役者のような長い睫毛はそれだけで華やかさがあった。

 優しいが、気分屋で傲慢な気質を感じさせる真紅の瞳には、これまで幾度か見かけた彼にはない、深い愛情に満ちたものがうかがえる。

 華奢な男性がこのまれる昨今、彼は古いタイプのハンサムだといえた。
 横目にも、目元に浮かぶ余裕を笑みがいまの場を楽しもうとしていることが分かる。

 それは彼の魅力であったし、大いに周囲を惹き付ける、人望のようなものがあった。
 最初にロバートをこの会場で見た瞬間。

 いやもしかしたらもっと前。
 ホテルで客室係として通り過ぎたあのころから、セナの関心は彼に向いていた。

 ロバートの顔にはそれまで生きてきた人生の苦労の一端を垣間見ることができる。
 まだ若いのに、眉尻には深い皺が寄せられていて、目尻も微笑むことで軽くなっているものの、王族ならではの気疲れによるものだろう、細やかな皺が見て取れた。

 身を包む黒革の燕尾服を貴公子然として着こなしている彼は、いつのまにか、胸の内側から仮面を取り出して、それで整った顔の上半分を覆い隠してしまっていた。

 これで素顔を見納めにするのには若干の勿体なさが感じられたが、仕方ない。
 彼の仮面は一枚の布をうまく加工して、かつての航海時代に暴れまわったといわれる海賊のような危険めいた雰囲気を漂わせている。

 セナはその横顔にうっとりとなってしまい、ついつい見入ってしまいそうになってしまった。

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