真神家奉龍献立暦

秋津冴

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第一部

プロローグ

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 青空が広がる春の朝、私は新しい制服のスカートをつまみながら、足元を見つめていた。高校の入学式。これで人生において三度目の「入学式」だ。

 けれども、この感覚は前のときとも違う。胸の奥が妙にざわざわして、落ち着かない。
 校門が開かれ、保護者に付き添われた新入生たちが次々と中に入っていく。その光景を見ていると、なんだか目を背けたくなった。私にとって入学式は、楽しい思い出よりも――嫌な記憶が先に思い浮かぶ行事だ。

「操、いつまで外に立っているつもりだい?」

 祖母の百合子が声をかけてくれた。ピンと伸びた背筋に、年齢を感じさせないきちんとした身なり。そんな祖母が私の保護者として付き添ってくれていることには、感謝している。けれども、胸の中でどうしようもない思いが湧き上がってくる。

「うん、おばあちゃん……行きます」

 そう返した声は、いつもより小さくなってしまった。祖母が先に歩き出すのを見送り、私は仕方なくその後ろをついていった。
――どうしてだろう。今日は朝からずっと、母のことばかりが頭に浮かぶ。もう10年も会っていないはずなのに。




 あの頃、私はまだ4歳だった。夜が訪れると、母――由紀子は柔らかな灯火の下で私におとぎ話を語ってくれた。それはまるで魔法のような時間だった。

「お母さん、龍神さまのお話、もう一度して!」

 私が布団の中でせがむと、母は微笑んで私を膝に抱き寄せた。

「いいわよ。でも、ちゃんと耳を澄ませて聞いてね。このお話は、操にとっても大切なことを教えてくれるの」

 母の声は優しさにあふれていたけれど、その中に隠しきれない物悲しさがあったことを、私は後になって知る。

 昔々、まだ人と妖(あやかし)が共に暮らしていた頃のお話です。

 とある山深い村に、辰砂(しんしゃ)という強大な力を持つ龍神が住んでいました。辰砂は天と地を巡り、水と火を司る存在でした。青々と茂る木々、静かに流れる川、晴れた空に広がる雲。すべてが龍神の力によって守られていたのです。

 しかし、辰砂は孤独でした。どれだけ多くの民がその力を称え、感謝しても、龍神の心は満たされることがありませんでした。
 辰砂には、永遠に変わることのない時間と、不変の力だけが与えられていたからです。

 ある日、龍神の住む山に、幼い娘が迷い込みました。娘は村で「破子(はし)」と呼ばれており、村人たちから恐れられる存在でした。
 彼女は真紅の瞳と黒髪を持ち、妖や怪異、鬼を呼び寄せる霊力を生まれながらにして持っていました。その力は村に不幸をもたらすとして、座敷牢に幽閉されていたのです。

「その子、破子は龍神さまが好きだったの?」操が口を挟むと、由紀子は優しく頷いた。

「ええ、でも最初は龍神さまも、破子が好きになれなかったのよ」

 龍神は娘に出会うと、その霊力に驚きました。そして、言いました。

「なぜこんなにも強い力を持ちながら、泣いているのか?」

 娘は涙を拭いながら答えました。

「私は怖がられてばかりです。誰も私を愛してくれません。でも、龍神さまなら私を受け入れてくれるのではないかと思いました」

 龍神はしばらくの間、娘を見つめていました。その目は、冷たくもどこか寂しげでした。

「私もまた、永遠に愛を知らぬ身だ。だが、もし私の妻となるなら、永遠の命とともにこの山と村を守ることを誓うがよい。」

「破子はどうしたの?」操は瞳を輝かせながら聞いた。

 由紀子は少し考え込み、声を低めた。

「破子は誓いを立てたわ、辰砂と村を守る、と。でも、それがどんなに重いことか、その時は知らなかったの」

 娘は龍神と誓いを立て、二人は夫婦となりました。
 辰砂は村の守り神として破子と共に暮らしましたが、破子の力は増すばかりでした。
 次第に彼女自身が重荷になっていき、どれほど村の人々を助けても、彼女の存在が呼び寄せる妖や怪異が災厄をもたらしました。
 ある時、破子は辰砂に尋ねました。

「辰砂、教えてください。私は本当にこの村を守ることができているのでしょうか?」

 辰砂は彼女の問いに答えず、ただその瞳を覗き込みました。そして静かに言いました。

「お前の心が清らかであれば、すべての災厄を打ち払うことができる。だが、清らかでいることは容易ではない」

 破子はその言葉の意味を考え続けました。そして、ある夜、辰砂は、自らの存在を消すことで村を守ろうと決意しました。

 由紀子は語り終え、操の髪を撫でた。

「辰砂は、自分のすべてを犠牲にして村を守ったの。そして、破子は彼を待ち続けて孤独に過ごしたの。でも、村にはその後も、百年に一度、破子が生まれるようになったわ。そして、村は怪異にたびたび襲われるようになり、真神家の御先祖様は国いちばんの結界師と破子を結婚させ、破子の力を封じるようになったの」

操は目を閉じ、由紀子の胸に寄り添った。

「私、辰砂みたいになりたい。困っている破子を助けてあげるの」
「そうね。でも、操は操らしく生きる道を探してね。あなたは破子だから……いつか、この座敷牢から解放してあげる。辰砂がいてくれたらよかったのに――」

 由紀子の声はどこか震えていたが、操には気づけなかった。まだ幼い操にとって、このおとぎ話はただの物語でしかなかったのだ。




 その時の母の声が、あんなに切なかった理由を幼い私は知らなかった。
 あの日、6歳の私は母と手をつないで、初めてのランドセルを背負っていた。小学校の入学式へ向かう途中、私はどこか浮き足立っていた。

「操、緊張してる?」

 母が笑顔で尋ねてきた。

「ううん、楽しみ!」

 私ははしゃぎながら答えた。母がいる、それだけで心強かったからだ。
 でも、学校の門の前で、突然母が私の手を離した。

「操、お母さんちょっと用事があるの。先生と一緒に先に式に出てくれる?」

 いつもの優しい微笑みとともに母が言ったその言葉。私はただ「うん」と頷き、先生に手を引かれたまま振り返った。けれど、母の姿はもうどこにもなかった。
 式が終わり、校門を出ると祖母の百合子が迎えに来ていた。隣には赤髪に青い瞳を持つ少年――紅羽が立っていた。
 祖母は私にこう言った。

「操、この子は紅羽。今日から家族になるのよ」

 紅羽の瞳を見た瞬間、私は息を呑んだ。龍神の物語に出てきた「赤い瞳を持つ神様」。彼の姿が、その話に重なった。


「あれから、もう十年経ったんだ……」

 私はふと呟いた。体育館の中では、在校生、保護者がそれぞれに並んでいて、私とおなじ新入生が用意されたパイプ椅子を埋めていく。
 祖母は端のほうに立っていた。
 周りの同級生たちを見ながら、やりきれない思いが胸を締め付ける。どうして私は母に捨てられたんだろう――そんな疑問がいつも心の中にあった。
 ふと男女に分かれている男子の列から視線を感じて、顔を上げた。紅羽だった。
 彼の鮮やかな青い瞳が私を見つめていた。目が合った瞬間、6歳の頃の記憶が蘇る。私が一人になった日、新しい家族として紅羽がやってきた。

「紅羽……」

 私は彼に向かって微かに笑みを返した。彼がいなければ、私はどうしていたか分からない。そう思うと、不思議と心が少しだけ軽くなった。
 高校の入学式は、過去と未来が交差するような一日だった。私は、母との記憶、祖母との生活、紅羽との日々。それらすべてを抱えてここに立っている。
 紅羽と目が合ったその瞬間、ふと確信した。私はこの10年を生き延びてきた。そして、これからの未来も自分で選び取るしかないのだと。

「操、大丈夫だよ」
 
 と、紅羽が唇を揺らして音にならない励ましをくれる。
 紅羽の言葉が私の胸に染み入った。私は深呼吸をして、小さく頷き同じように唇だけを動かして返事をする。

「うん、ありがとう」

 式が始まり、新たな生活が幕を開ける。母の記憶に縛られながらも、それを背負って前に進む。祖母の厳しい愛情、紅羽の存在。それらが支えてくれることを信じて、私は歩みを進める。
 十年前の私と、今の私。そしてこれからの私。すべてが交わるこの場所で、私はようやく一歩を踏み出したのだった。


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