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一番欲しいもの

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 図書寮は、いつも人が少なく静かだ。乾いた紙と墨の匂いが心を落ち着かせてくれる。
 しかし、どうにも落ち着かない様子の男が一人いる。形の良い眉を顰め、心ここにあらずといった様子だ。しかしそんな様子でも桜の間違いはわかるのだから、かわいくない。


「眉間のしわ」

 自分の眉間を指で指す桜に、橘は怪訝な顔を浮かべる。

「俺には見えませんが、化粧品の類なら女官にお願いしてください」
「私じゃなくて、あなたよ」

 先日の花見の後から、橘の様子がおかしい。
 いつも眉間にしわを寄せて、何だか憂いているようにも見える。朝顔が「憂える美男子もまた素敵でございます……」と心配しつつも感嘆していたけれど、桜はどうにも落ち着かない。まだいつもの無表情がましだった。

 花見の時の桔梗の様子が気にかかっているのかもしれない。
 あの後彼からは身内が申し訳ないと謝罪を貰い、あんな事を言い出すとは想定していなかったと何度も謝られた。

 桔梗からは丁寧な詫び状が届いたし、何より橘は庇おうとしてくれた。だから桜は気にしてないしそれは伝えたけれども、可愛い妹分があの場であのような振る舞いをした事自体に、橘は胸を痛めているのだろう。

「桔梗様のことを気にしているの?」
「それは……まあ、それもありますが、個人的な悩みがあるだけです。試練も近いですしね」
「ああ……」


 もう少しで、第一の試練が始まる。

 試練の課題は弓・馬・剣の三種類。一番最初の試練は弓だった。
 帝を始め、全ての公家の前で試験は行われる。皇后候補の近衛武士というだけでも誉れだが、この試練に一度でも勝ったものは武士として最高の名誉と褒美が与えられる。


「緊張、するわよねえ……」
「緊張は、しますね。本当にこれで良いのかと、毎日思い悩んでおります」

 練習量のことだろうか。毎日、橘は凄く練習していると聞いたのだけれど。
 橘が見つめる彼の手のひらに目を向けると、手は擦り切れて至るところに血が滲み、見るも無惨なことになっていた。気づいた桜はきゃっと小さく悲鳴をあげる。

「薬は?手当しなくちゃ」
「いえ、そこまででは……」
「いいから!」

 桜が席を立ち、図書寮の外で控えていた女官に手当のための道具を取ってきてもらうと、綺麗な水で布を湿らせ橘の手を優しく拭った。絶対痛いやつだ。見ている桜まで痛い。むしろ怖い。

 ある程度綺麗になったところで薬を塗り、綺麗な布をぐるぐると巻きつけた。

「はい、おしまい。毎日ちゃんと薬を塗ってね。布も取り替えて」
「……ありがとうございます」

 そう言って手当をした手を、橘がまじまじと見る。

「……ねえ、手が擦り切れるほど練習したら、本番には痛くて力を発揮できないんじゃないの?治るまでお休みしたら?」
「いえ、集中していれば痛みはそこまででも。精神統一になりますし」
「えええ……まあ私が言うことじゃないけど、やめた方がいいと思うのだけど……」

 この状態の手では物を掴むだけでも痛そうだ。桜が顔を顰めて、強制するわけじゃないけど、と続ける。

「近衛になるほどの腕を身につけて、ここまで練習しているあなたならきっと一番になれると思う。例え弓が上手くいかなくても、馬も剣もある。気負い過ぎない方が上手くいくんじゃないかしら……」
「一番……」

 橘が目を瞬かせ、逡巡し目を伏せた。

「俺があなたのために一位を獲ったら、褒めて頂けますか」

 今度は桜が目をぱちくりと瞬かせた。言っている意味がよくわからない。

「私が?私、橘を褒められるような人間じゃないような気がするんだけど……」

 何せ現在進行形で勉強を教わっている。全てに於いて、今のところは橘のほうが上なのに、褒めてつかわすとは、言いにくい。

「急にしおらしくなられる。褒めるのはお嫌ですか」

 嫌とかではないけど、目的がわからない。
 私に褒められて橘に何の得があるのだろうかと、桜は訝しんだ。もしかして何かの隠語の一つだろうか。
 そう考えて、はたと思い浮かんだ。報賞だ!

「なるほど、もちろん。それから一番望むことを言ってみて。叶えましょう。今の私にできる範囲内ならいいわよ」
「一番望むこと……」

 考え込む橘に、桜が慌てて「爬虫類は却下」と付け加える。昔誕生日の祝いに蛙の卵が欲しいと言われたことを思い出した。半泣きで獲ったのだ。


「……では、祝福を頂ければ」
「え、それが一番なの?」

 西の大陸で行われているという祝福は、自身の持ち物に相手の無事を願い渡すことだ。以前橘が言っていた。

「一番ではないですが、それはどうも叶わなそうなので。頂けるのなら、何でも結構です」

 まあ確かに、桜ができることなどたかが知れている。一番の望みは叶えられないだろう。

「わかったわ。でも何にしようかなあ……橘は化粧品なんか、使わないわよね?」

 うんうん悩む桜に、橘は苦笑して「使いませんが、何でもいいですよ」と、いつもの調子でそう言った。






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