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花見

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 今日の桜花の宮は、朝から大忙しだった。

 朝から贅沢に湯を使い、体を丹念に磨き上げられた。
 長い黒髪は黒絹のように艶めくまで、つげの櫛と香油で何度も何度も丁寧に梳かれた。
 薄く化粧を施された顔はいつもよりも大人びて見え、白檀の香を焚いた紅梅色の小袿が、桜の肌の白さを引き立てる。

 今日は、宮中で花見があるのだ。
 といっても姫同士の親睦を深めるためのこの花見に(深めてどうするのか桜にはわからない)、帝や皇太后はいらっしゃらない。候補である四人の姫君が来るのみだ。
 こんなに着飾る意味はあるのだろうか。お洒落は嬉しいけれど、やり過ぎな気がする。

「装いは女の武装ですよ!」

 桜の表情を察したのか、朝顔が真剣な顔で言った。
 全てが終わった頃にはすっかりくたびれた桜を、追い立てるように朝顔が急かした。






 今日は良い天気だった。日が照り、少し冷たい風が着込んで火照る頬に気持ち良い。

 桜花宮の前には橘がいた。立っているだけでも絵になる姿に、朝顔達女官がきゃあっと浮き立った。
 橘はそんな女官達に慣れた素振りで外向けの麗しい微笑を浮かべ、桜に向き直る。

「……お美しいです、とても」

 やや眩しそうな表情だが、安定の無表情だ。絶対思ってないだろう台詞に桜は顔を顰める。

「お世辞なんて言わなくて結構よ。好きじゃないの」
「俺はあなた様に嘘など吐いたことはありません」

 びっくりするくらいの大嘘だ。

「嘘おっしゃい。あなた、甘くて美味しいと言って私に赤い実を食べさせたことがあったでしょう。あれは臭くて苦かった」
「あれは……乾燥させた物は甘いのです。生ならもっと美味しいのではと思って……」

 嘘吐きめ、という眼差しで橘を見ると憮然とした表情で黙った。

 橘がきらきら輝く笑顔で勧めてきたものは、大体がそんな結果で終わった。あの笑顔を見たら、断れない……。そんな桜の気持ちを見透かして裏でほくそ笑んでいただろう橘は、やはり悪魔のような男である。
 そんな悪魔は不満を顔に貼りつけて怒ったように言った。

「今度こそ喜ぶものをお持ちします」
「絶対いらない」

 瞬殺すると、橘は眉を顰めて悲しそうな顔をした。昔からこの顔は苦手だ。

「……朝顔たちに、美味しいものをあげてちょうだい」

 今の桜に嫌がらせをするとは思わないが、贈り物をされるのは煩わしかった。嬉しいものでも嬉しくないものでも、心がざわめくに違いない。

「もう行きましょう」

 顔を見合わせている女官たちに、桜は投げやりにそう言った。


 ◇


 厳しい冬の終わりに、どの花よりも早くに白く可憐な花弁を見せる梅の花はこれから咲き乱れる花々を想起させ、百花の魁ひゃっかのさきがけと呼ばれている。

 宮中の梅の花は見事だった。紅梅白梅、それぞれが競い合うように咲き誇っている。
 その梅の下に毛氈もうせんと呼ばれる赤い絨毯が敷かれ、風雅な光景を引き立たせていた。

 だが桜はそれどころではない。かちんこちんに緊張している。

 こういう催しに参加するのは初めてだ。先ほどまでほんの少し胸が弾んだりもしていたが、今はうっかり口から心臓が出るのではないかと不安になるほど胸が鳴っている。
 後ろから橘の痛いほどの視線を感じる。一挙一動監視しているのだろう。自棄になって堂々と振る舞った。堂々と間違っていたらどうしようかと思いながら。

 控えていた文官から案内された毛氈もうせんの上に座る。文官は年若く、慣れていないのか桜を見てわかりやすく緊張していた。震えながら、用意していた葛湯を女中に手渡す。見てる桜も緊張する。
 女中に手渡された葛湯には梅の花が浮かんでいて、思わず桜は顔を綻ばせた。固まったままの文官に微笑む。

「可愛いわ。ありがとう」
「もっ……もったいないお言葉でございます」

 文官が真っ赤な顔で頭を下げ、足早に去っていった。

「桜花さま。直接言葉をかける必要はありません」

 脇に控えている橘にやや固い顔で注意される。そういうものなのかと頷くと、後ろから湧き水のように透き通った美しい声が響いた。

「桜花さま、橘さま、お久しゅうございます」

 振り向くと、桔梗だった。切れ長の瞳を細め、妖艶に微笑んでいる。白地に紅梅の模様が描かれた春に相応しい装いが、洗練された桔梗によく似合っている。
 脇には桔梗の近衛武士である茲親が控えている。睨め付けるような視線で橘を見る姿に、桜はやや不快感を抱いた。

 桜が桔梗に挨拶を返すと、桔梗は桜の隣に座った。桔梗は橘を見て嬉しそうに話しかけている。
 彼女は、西園寺家の分家の出だ。分家といっても両親とも高位の公家である。橘の父である西園寺家当主の弟君の娘で、娘がいない西園寺本家の養子となった。

 桔梗は橘に殊の外懐いているのだと、幼い頃に聞いたことを思い出した。従姉妹なら結婚できるではないかと、その日は羨ましくて眠れなかったことを覚えている。


 桜は手元の葛湯に目を落とした。表面に、ゆらゆらと花びらが揺れている。
 そうしているうちに、他の姫君もやってきた。

 淡い水色に赤い鯉が描かれた着物を着た、怜悧な顔立ちの白萩と忠政、紺色の着物を着た月光を編んだような美しい髪を持つ蝋梅と雷震がほぼ同時にやってきた。


「皆さま揃ったようですので、始めさせて頂きます」

 今度は慣れているのか落ち着いた様子の文官が始まりの挨拶をし、花見が始まった。






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