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アレクサンドラ・サラヴァン
しおりを挟むサラヴァン辺境伯家に生まれる者が、皆記憶を継承するわけではない。
古龍の慈悲か、それとも狂うことすら許さないという呪いなのか。
強い精神力を誇るサラヴァン辺境伯家の中でも、特に強靭な精神力を持つ者だけが記憶を継承するようだった。
それはある日突然訪れる。
アレクサンドラはわずか五歳で、祖先の記憶を引き継いだ。
人は、何故食事をするのだろう。
虫は何故飛ぶのだろう。
雪は何故水になるのだろう。
世界の全てを知りたかった少女は、突如雪崩れ込んできた数百万人もの記憶と知識に、衝動的に手首を裂いた。
好奇心は猫をも殺す。
それでも死に損なった自分に残ったのは、手首の癒えない傷痕と、これほどの記憶を持ってしてもまだ知識を蓄えたいという渇望だった。
そして今目の前に。アレクサンドラの知識には存在しないような女性が、存在している。
「――というわけで、わたしが驚いてうっかり傷つけてしまった手首の傷をな。そなたがあの広場で癒してしまったのだ。古傷さえも跡形もなく治せる聖霊力は、遠い昔に途絶えた伝承に出てくる、聖女にしか成し得ないというのに」
アレクサンドラがそう言うと、リディアはわかりやすく青い顔をした。その表情に「誰にも言わぬ」と頷いて、上機嫌で言葉を続ける。
「一つ、聖女の伝承を語っても良いだろうか。以前ラスター殿には、一番大切な探し物――『人を生き返らせる、あるいは転生させる方法を知らないか』と聞かれた時に、話した内容になるのだが」
リディアが驚きに見開いた目を、横にいるラスターに向ける。ラスターの表情からは感情が窺えない。
(それでもきっと、彼女には何も知ってほしくはないのだろう)
巻き込まれたり、危険なことに深入りなどしないように。
彼女の前に散らばる、どんな小さな小石も取り除いてあげたいと、そう願っている男だから。
そんな男がどうして今回、アレクサンドラの「婚約者に全てを打ち明けた方が良いのでは」と言う説得に応じたのかはわからない。
きっと彼なりに、思うことがあったのだろうけれど。
そんなことを考えながら、アレクサンドラは口を開いた。
「昔あるところに、五色の瞳を持つ魔術師がいた。あらゆる不可能を可能にする魔術師を、いつしか古龍は深く愛するようになる」
まるで何かを彷彿とさせるような物語だな、と、話を聞く二人を見て、アレクサンドラはそう思った。
「しかし当時すでに千年を生きていた古龍は、寿命が近づいていた。そして自身が亡くなる時に、死してなおずっと一緒にいられるようにと、魔術師の胸にその核を宿した。その魔術師は魔力と同時に強い精霊力を持つようになり、遠くにいる人間を癒し、古傷に苦しむ女人の傷痕を消し、手足を失った者の全てを再生させ、亡くなった人間の蘇生までも叶え、生涯人々を幸福にしたのだと言う」
その話を聞いた時、何かを考え込んでいたリディアがハッとラスターの顔を見て、胸に視線を移した。
アレクサンドラも胸に宿る核のことは知っている。
一番最初にラスターにこの話をした時、彼は自身の胸に宿る核のことを、アレクサンドラに告げた。
当時十七歳のラスターは伝承を聞いたあと、まだ六歳のアレクサンドラに深く深く頭を下げた。
絞り出すような声で『ありがとう』と呟いた。あれほど希望に満ちた声音を、アレクサンドラは他に知らない。
『――なるほど。俺は、そのために実験体にされたのか。精霊力を身につけるために』
『ならば俺は……彼女を生き返らせることができるのかもしれない』
表情は変えないまま、少年の青い水面の瞳から静かに雫が零れ続けた。
声も出さず泣く男に、『ただの眉唾ものの伝承だ』とは、当時のアレクサンドラには言えなかった。伝承など伝えなければよかったかもしれないと、叶わぬ希望を持たせたことに、その後少し後悔はしたけれど。
「古龍の核を胸に宿す、五色の瞳を持つ魔術師。そなたが思う通り、その条件を満たすのはラスター殿。……しかしラスター殿には、精霊力は欠片もなかった。……努力したが、蘇生は無理だと数年かけて悟った」
自殺行為と思うほどの鍛錬を、リディアに言う必要はない。
それでも諦め切れない彼の愚かな妄執を、アレクサンドラだけは知っていてやろうと思ったのだが。
「しかし、そなたはラスター殿の前に現れた。この奇跡の全てを、わたしは知りたい」
しかしながら、希望に縋り苦しんだ果てに掴んだ奇跡が、彼にとってどれだけ幸福だったのかを、彼の少女に知っていて欲しいと思う。
(きっと、ラスター・フォン・ヴィルヘルムは言えないだろうから)
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