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中編

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 満月の晩にのみ私は月の神マーニーと交信することができた。
 彼は私が幼い頃に『月の聖女』として見初めてからというもの、たとえ言葉を交わせなくても力の弱い昼であったとしても、ずっとずっと天から見守ってくれていた。

『君はとても可愛くて見ていて飽きないよ』
『何があっても僕は君の味方だから』
『君を独り占めできないことが寂しいな』
『困ったらいつでも聖地へおいで』

 とろけてしまいそうな甘い言葉や、優しい言葉の数々。
 両親を亡くした私の心を癒してくれたのもマーニーだった。彼との時間があるからこそ、私は誰に認められずとも追放されるその時まで『月の聖女』を続けていられたのだと思う。

 実際にマーニーに会いたいと思ったことはあったが、まさか本当に実体化して現れるなんて想像もしていなかったので驚いた。

 けれど不思議はない。
 だってここはこの世で天界に最も近い聖地。神の力が高まり、その結果姿を現すことができたのだろう。だから彼は私にここに来るようにと言っていたのだと納得する。

「マーニー、改めてご挨拶いたします。『月の聖女』ドロレスでございます」

「そんなに畏まらなくていい。僕と君の仲だろう? よくここまで来てくれた。こうして直接会い、愛し子である君を愛でられることが僕はとても喜ばしいよ」

 彼の柔らかな両腕に優しく抱かれ、耳元に囁かれる。
 その声は心地良く、思わず身を預けたくなるほどの安心感に包まれた。

「宵闇色の髪がさらさらしていて綺麗だし、瞳も黒曜石のようで美しい。ずっと間近で見てみたいと思っていたが想像以上だったよ。……こんなに可愛いドロレスを魔女呼ばわりするなんて信じられないな。あの愚かな人間どもめ」

「マーニーが手を下すまでもないでしょう?」

「そうだね。人間ども、少しは痛い目に遭って僕の愛しの聖女を傷つけた報いを受けるがいい」

 そう言いながら私の髪を撫でるマーニー。私はそれを受け入れ、彼の掌の感覚を味わっていた。

「もう二度と君を誰にも傷つけさせはしないからね、ドロレス、夜に限らず、月の力が弱まる昼間でも半透明だがこの城に滞在できる。これからたっぷり愛でさせてもらうよ」

「はい、ありがとうございます」

 ふわりと頬に落とされる口付け。それだけで顔面から火が出そうなほどに熱っぽくなってしまい、「本当に可愛らしいね」と微笑まれた。

 きっと私はすぐにマーニーの虜になるだろう。
 だって声を聞いていただけで好きでたまらなかった彼に溺愛されて、幸せな気持ちにならないはずがないのだから――。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 屋敷が、いや、王都全体が燃え盛る炎に包まれていた。

 使用人は全滅、両親も騒動の中で行方不明。
 どうしてこんなことになったのか、わからない。うだるような暑さに耐えかねてワタクシは恥も外聞もなくドレスを脱ぎ捨て、叫んだ。

「どういうことなのよ、ソールー……!?」

 暑い季節でもないのに信じられないくらい気温が上昇し、灼熱のせいで王都のあちらこちらで火災が発生している。領地の屋敷は知らないが王都にある別邸は丸焦げになっていた。

 どうしてこんなことに。
 ワタクシはただ、無能のくせにコーネリアス様の婚約者の座に居座っているあいつ――『月の聖女』ドロレスを蹴落としただけ。
 由緒正しきチャーチル公爵家の娘であるワタクシの方が、ドロレスなんかよりずっと王太子妃になるべきなのは当然の結論だ。

 ワタクシは誰からも慕われ愛される『陽の聖女』ヘレン。
 これくらいのこと、祈りを捧げることで陽の女神の力を借りることができるワタクシならばいくらでもどうにでもできる。そのはずが、陽の女神ソールーは先ほどからずっとケラケラと笑ってばかりだった。

「ぶふっ、楽し過ぎて笑い止まんない。あははっ!」

 それはまるで無邪気な子供の笑い声。
 ソールーは幼い少女の見た目をしている。直接見たことはなく、いつも聞こえてくるのは声だけだけれど、王城に銅像があったから間違いない。

 彼女はいつも明るく可愛らしく、ワタクシの都合のいい存在だった。
 ワタクシが軽くおねだりすればどんな奇跡も与えてくれる。今まではそうだったのに。

「何が楽しくて、そんなに笑っているの? どうしてワタクシに力を貸さないの!?」

「きひひ、ワタシのとこの聖女ちゃんて最っ高にお馬鹿さんだよね! そんなのワタシの仕業だからに決まってるじゃん! おっかしーい。あはっ!」

「あなたの仕業……?!」

 どういうことだ。陽の女神はこの国を、人々を守る存在のはずだろう。

「ワタシが『月の聖女』ちゃんのこと魔女だって言ったなんて嘘まで吐いて、聖女ちゃんが兄様――月の神マーニーを怒らせちゃったからさ。この国から月の守りは消えて、やっとワタシが好き放題遊べるってわけ!」

 ソールーの言葉の意味を呑み込むまでに、しばらく時間がかかった。
 確かにあの女をコーネリアス様に断罪させたのはワタクシだ。でもそれでどうして、陽の女神に裏切られなければならないのかが理解不能過ぎる。

 どうにかしなくては、ワタクシがどうにかしなくては。

 やっとの思いで手に入れた未来の王太子妃の地位。民からの信頼。
 今まで着実に築き上げてきたそれらが一転、最悪の場合、陽の女神を暴走させたとして罪に問われるかも知れない――。

 ワタクシは馬車に飛び乗って王城へと走らせ、コーネリアス様との合流を図った。
 コーネリアス様なら、わかってくれるかも知れない。コーネリアス様はワタクシのことを信じ切っているから。

 でも、もう遅かった。

 王城はまるで放火されたかのように燃え上がっていた。
 それだけではない。王城の周りも一面火の海という、あまりにも絶望的な状況。そんな中で命からがら逃げ出してきたのだろう真っ黒焦げの男が、ワタクシに手を差し出してくる。

「ヘレン……だずげで、ぐれ……」

 男の顔は焼き爛れてほとんど見えないが、くぐもったその声にはどこか聞き覚えがあった。
 認めたくはない。でも、認めざるを得ない。この国の王太子が全身に火傷を負って死にかけている事実を。

 その手に触れるのを躊躇って、彼が力尽きて動かなくなる最期の瞬間までワタクシはただ見ているだけだった。何もできなかった。

 ワタクシが王太子妃になることは、もう――。

「にひひっ! 王子様も死んじゃって、かわいそーな聖女ちゃん! ワタシはちょっと遊んでくるから、じゃあねー」

 何か言い返す前に、ソールーとの交信がぷつりと途切れる。
 それから私が何度呼びかけようが彼女が応えることはなかった。

 この分ではきっと、王都だけで炎は収まらないだろう。国中、いや世界中を焼き尽くしてしまう可能性だってあるのだ。

 そうなったらワタクシはどうなる。
 業火の中で死ぬかあるいは、仮に生き残ったとしても身分は価値を失い、ワタクシはただの女に成り下がってしまうに違いない。それだけは嫌だった。

 聖地に行けばどうにかなるだろうか。
 常人では辿り着けない、この世で最も神に近い場所。ソールーが言っていた通り月の神マーニーが関係しているとすれば、そこに向かうしかない。

 きっとあの女――『月の聖女』が全ての原因に決まっている。

「ワタクシの未来をぶち壊し、コーネリアス様までも焼き殺した。あいつだけは許さないわ、絶対に」

 悔しくてたまらないけれど涙は一滴も流さない。
 怒りと殺意だけを胸に、大火災の中で無事だった馬に乗り、一人で聖地を目指した。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 長年の妃教育を無駄にされたことはいまだに腹立たしく思うが、コーネリアス殿下たちが私を国外追放してくれたことだけは感謝している。
 聖地の古城で過ごすようになってからの毎日があまりにも輝き過ぎていたから。

 人々の悪意に晒されることなくひたすらに穏やかだし、熱心に手を合わせて祈る必要もない。それより何よりマーニーが傍にいるだけで私は満たされていた。

 昼の光に照らされた半透明で神々しさを放つ姿も素晴らしいし、夜の月光の中で姿を濃くする時もまた魅力的。愛情はまごうことなき恋情へと変わっていった。

 神と人の恋。そんなの普通は許されない。
 でも月の神と『月の聖女』になら、本来許されざる恋がまかり通るのだ。なぜなら聖女とは神の寵愛を受けた存在であり、聖女もまた神を慕う。
 心を通い合わせてもその関係が変わらないのなら無問題。私の寿命が尽きるまでは現世で、死後は来世で共に過ごす。

「どうして私を大切にして下さるのですか?」

 気になって一度、聞いてみた。
 私の前にも『月の聖女』は大勢いたことは史実にも残っている。月の神と太陽の女神、それぞれに寵愛されし女が聖女となり、陰に陽に国を守護してきたはず。
 満月の晩にのみ言葉を交わしていた時は特に疑問に思わなかったけれど、こうして実際に間近で触れ合ううちにマーニーの深い愛を感じ、不思議でならなくなったのだ。

 私の問いかけを受け、銀色の瞳を細めたマーニーは、当然のように答える。

「君には不純なところがないだろう。今まで『月の聖女』とした乙女たちは皆、醜い欲望に溺れていた。
 権力、名声。そういったものに興味を示さず、ただ一心に僕の声に耳を傾けてくれる君を好ましく思うようになったのは当然のことだったよ」

「――――」

「人が生まれ、国を築き始めた頃からずっと世界を安定させるために『月の聖女』を生み出してきたが、もう君以外を寵愛する気にはなれない。君が最後の『月の聖女』となるだろうね」

 私なんかが、こんなにも愛されてしまっていいのだろうか。
 子爵家に生まれただけで特別なことなんて何もない。不純なところがないと言われた点も単に、マーニーの優しさに絆されてしまって彼のためにのみ尽くしてきたからというだけのことだった。

 ただ、その想いがこうして報われたのだと思えるとなんだか嬉しくて。
 思わず笑顔になった――その時のことだった。

 それまで柔らかな表情だったマーニーが憂い顔に変わり、ぼそりと呟いた。

「何者が近くに来ている気配がする。それもかなりすごい勢いで」

「近くに……? ですが普通は聖地には至れないはずでは」

 マーニーに寵愛されている身であるからこそ、私はこの古城に来れた。私以外に辿り着けるなんて――。

「そうだ。つまり、普通の相手ではないということだよ。考えられる可能性は一つ。――ああ、来たね」

 マーニーの言葉とほぼ同時、ギィィと、私が古城を来訪した時と同じ門の開閉音が聞こえてくる。
 そして遠くから響く、すたすたという足音。侵入者はこちらへ近づいてきて、私とマーニーの憩いの場である中央ホールへとその身を晒した。

「やはりここにいたのね。良かったわ、当てが外れていなくて」

「――ぁ」

 そうだった。この古城での時間が幸せ過ぎて忘れかけていた彼女の存在を思い出し、小さく声を上げる。

 見るに耐えないボロボロの身なりではあったが、煌めく金髪と碧眼が私の知る人物のそれと一致していた。
 ヘレン・チャーチル公爵令嬢。『陽の聖女』であったはずの彼女がどうしてここに来たのか――彼女の怒りに燃え上がる瞳を見れば、言われなくてもわかった。

 ヘレン様の胸元から鮮やかな宝剣が抜き出される。それは、高位貴族の令嬢なら誰しも持っている護身用のものだった。
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