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第三十五話 似非令嬢と似非皇帝の幸せ
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目の前にいるのがただの血まみれ皇帝ではなく、ボンボンなのだと思うと、心持ちが大きく変わった。
触れられるだけでも新鮮に感じたし、皇家の影の監視がある手前、令嬢言葉を崩せないながらも気を遣わなくなった。
陛下とミリアの間の遠慮がなくなったことに気づいたのはベラ殿下くらいだろうか?
遠目から微笑ましそうに眺められるようになって、少しばかり恥ずかしかった。まもなく彼女は婚約相手を見つけ、花嫁修行のためにお相手の屋敷に行ってしまったけれど、きっと社交界で顔を合わせることも多々あるだろう。
そんなことより陛下だ。
悪戯っぽく甘えてみたり、全力で振り回してみたり。陛下との他愛ないじゃれ合いが本当に楽しい。
ミリアはずっと、陛下と過ごす日々をフォークロス伯からの依頼の延長線上と捉えて満喫できていなかったのだと思う。一見冷酷に見える陛下の本性が違うことくらい、彼の正体を知る前にもわかっていたことなのに。
そうして過ごしていると、あっという間に結婚の日が目前となった。
ついに皇妃になるのである。
覚悟はとっくにできている。不安が消えたわけではないが、待ち遠しい気持ちの方が大きかった。
婚姻準備の期間中、フォークロス伯が皇家の信頼のおける家の令息を養子に取り、『療養』のために辺境へ向かったという噂が聞こえてきたが、真偽はわからない。正直なところを言えばフォークロス伯がどうなろうがどうでもいい。
フォークロス伯が全て吐いたらミリアの素性は容易くバレてしまうからと、おそらく陛下が婚前に不安要素を潰しておいてくれたに違いない。
彼はもう、人を殺したことのない無害なボンボンではなくなっている。
何せこの国の皇帝陛下だ。いつ暗殺されてもおかしくないのが皇族だというなら、それくらいの危機管理能力があった方が頼りになるからそれでいい。
おかげでミリアは、憂いなく花嫁衣装に袖を通せたのだから。
結婚式場にて。
厳粛な空気の中、紫紺のペンダントを胸に飾ったミリアは、じっと陛下と見つめ合っている。
見上げ過ぎて首が痛い。けれども向けられる優しい視線を、真正面から浴びていたかったのだ。
やがて長ったらしい司会の声が終わって、待ちに待った時間が訪れた。
「誓いの口付けを」
客席の最前列にはベラ殿下とその婚約者、そしてなぜか特例として国内に招かれたペリン公爵令嬢こと隣国のハリエット妃殿下とその婚約者などの姿も見えた。
彼女らの前で口付けを行うかと思うと少々複雑だが、まあいいだろう。
「行くぞ」
陛下がグッとかがみ込み、その勢いで彼の吐息がミリアの鼻筋を掠める。
迫る美形。近づく距離。うるさいくらい跳ねる胸の鼓動を抑える方法をミリアは知らない。
ちゅっ。
触れ合いはほんの一瞬。両者の唇は一瞬で離れてしまう。
初めての接物は砂糖菓子のように甘やかで、気を抜くと表情がとろけそうだった。
そんな情けない顔を晒したくないから、グッと堪えたけれど。
貧民街で憎まれ口を叩き合っていた時はこんな未来があり得るなど想像もしていなかった。あのボンボンと結ばれるとは人生わからないものだ。
周囲で飛び交う黄色い声を聞きながら、「これで皇妃の座まで奪えたのねぇ」と陛下にだけ届く小声で笑って見せる。
「相変わらずだな、コソ泥。国母の座に就くよう求めたのは俺のはずだが?」
「それでも最初にあんたの最愛になりたいって言ったのはわたしよ」
「……ふっ。確かにその通りだ」
思わずといった風に陛下も噴き出し、それから優しい声で囁く。
「口だけではないことを期待しているぞ」
「見てなさい。あんたが仕事要らずになるくらいの立派な皇妃とやらになってみせるから!」
――かくして。
この日、似非令嬢のコソ泥と偽りの皇帝の二人は、晴れて夫婦となったのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
婚姻後は色々とあった。
初夜に一人陛下を待っていたところ、黒髪に紫色の瞳の男が現れて「せっかくの初夜だ。偽りではない姿で行いたい」と言われた。
例の薬――皇家の影を眠らせるあれを盛った上での誘い。それをミリアは躊躇いながらも呑んだ。何せ、陛下よりデズモンドの姿の方がより一層好みだったので。
陛下は元の姿とイーサンの姿をその時々で選べるらしい。そのために影の機能を止めるのはさすがに横暴だと思うが、とても満ち足りた夜であったことだけは確かだ。
そんなこんなありつつも始まった新婚生活だったが、これまた苦難の連続。お茶会やら何やらに引っ張りだこで皇妃になるということの大変さを思い知らされたり、陛下の政務の重責さに驚かされたり。
だがまあ、概ね幸せなので構わなかった。
陛下からの溺愛っぷりはますます加速して昼も夜も可愛がられるようになってしまったし、ミリアもミリアで絆されまくっている気がする。
貧民街の孤児だった女が、忌まれ疎まれる赤毛の娘である自分が味わっていいのかと思う。けれども陛下があまりに優しいからそんな気持ちはすぐに失せてしまうのだ。
――なんだか悔しいわねぇ。
そう思うけれど、そう思えること自体が嬉しくてたまらないから、だいぶ重症だった。
触れられるだけでも新鮮に感じたし、皇家の影の監視がある手前、令嬢言葉を崩せないながらも気を遣わなくなった。
陛下とミリアの間の遠慮がなくなったことに気づいたのはベラ殿下くらいだろうか?
遠目から微笑ましそうに眺められるようになって、少しばかり恥ずかしかった。まもなく彼女は婚約相手を見つけ、花嫁修行のためにお相手の屋敷に行ってしまったけれど、きっと社交界で顔を合わせることも多々あるだろう。
そんなことより陛下だ。
悪戯っぽく甘えてみたり、全力で振り回してみたり。陛下との他愛ないじゃれ合いが本当に楽しい。
ミリアはずっと、陛下と過ごす日々をフォークロス伯からの依頼の延長線上と捉えて満喫できていなかったのだと思う。一見冷酷に見える陛下の本性が違うことくらい、彼の正体を知る前にもわかっていたことなのに。
そうして過ごしていると、あっという間に結婚の日が目前となった。
ついに皇妃になるのである。
覚悟はとっくにできている。不安が消えたわけではないが、待ち遠しい気持ちの方が大きかった。
婚姻準備の期間中、フォークロス伯が皇家の信頼のおける家の令息を養子に取り、『療養』のために辺境へ向かったという噂が聞こえてきたが、真偽はわからない。正直なところを言えばフォークロス伯がどうなろうがどうでもいい。
フォークロス伯が全て吐いたらミリアの素性は容易くバレてしまうからと、おそらく陛下が婚前に不安要素を潰しておいてくれたに違いない。
彼はもう、人を殺したことのない無害なボンボンではなくなっている。
何せこの国の皇帝陛下だ。いつ暗殺されてもおかしくないのが皇族だというなら、それくらいの危機管理能力があった方が頼りになるからそれでいい。
おかげでミリアは、憂いなく花嫁衣装に袖を通せたのだから。
結婚式場にて。
厳粛な空気の中、紫紺のペンダントを胸に飾ったミリアは、じっと陛下と見つめ合っている。
見上げ過ぎて首が痛い。けれども向けられる優しい視線を、真正面から浴びていたかったのだ。
やがて長ったらしい司会の声が終わって、待ちに待った時間が訪れた。
「誓いの口付けを」
客席の最前列にはベラ殿下とその婚約者、そしてなぜか特例として国内に招かれたペリン公爵令嬢こと隣国のハリエット妃殿下とその婚約者などの姿も見えた。
彼女らの前で口付けを行うかと思うと少々複雑だが、まあいいだろう。
「行くぞ」
陛下がグッとかがみ込み、その勢いで彼の吐息がミリアの鼻筋を掠める。
迫る美形。近づく距離。うるさいくらい跳ねる胸の鼓動を抑える方法をミリアは知らない。
ちゅっ。
触れ合いはほんの一瞬。両者の唇は一瞬で離れてしまう。
初めての接物は砂糖菓子のように甘やかで、気を抜くと表情がとろけそうだった。
そんな情けない顔を晒したくないから、グッと堪えたけれど。
貧民街で憎まれ口を叩き合っていた時はこんな未来があり得るなど想像もしていなかった。あのボンボンと結ばれるとは人生わからないものだ。
周囲で飛び交う黄色い声を聞きながら、「これで皇妃の座まで奪えたのねぇ」と陛下にだけ届く小声で笑って見せる。
「相変わらずだな、コソ泥。国母の座に就くよう求めたのは俺のはずだが?」
「それでも最初にあんたの最愛になりたいって言ったのはわたしよ」
「……ふっ。確かにその通りだ」
思わずといった風に陛下も噴き出し、それから優しい声で囁く。
「口だけではないことを期待しているぞ」
「見てなさい。あんたが仕事要らずになるくらいの立派な皇妃とやらになってみせるから!」
――かくして。
この日、似非令嬢のコソ泥と偽りの皇帝の二人は、晴れて夫婦となったのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
婚姻後は色々とあった。
初夜に一人陛下を待っていたところ、黒髪に紫色の瞳の男が現れて「せっかくの初夜だ。偽りではない姿で行いたい」と言われた。
例の薬――皇家の影を眠らせるあれを盛った上での誘い。それをミリアは躊躇いながらも呑んだ。何せ、陛下よりデズモンドの姿の方がより一層好みだったので。
陛下は元の姿とイーサンの姿をその時々で選べるらしい。そのために影の機能を止めるのはさすがに横暴だと思うが、とても満ち足りた夜であったことだけは確かだ。
そんなこんなありつつも始まった新婚生活だったが、これまた苦難の連続。お茶会やら何やらに引っ張りだこで皇妃になるということの大変さを思い知らされたり、陛下の政務の重責さに驚かされたり。
だがまあ、概ね幸せなので構わなかった。
陛下からの溺愛っぷりはますます加速して昼も夜も可愛がられるようになってしまったし、ミリアもミリアで絆されまくっている気がする。
貧民街の孤児だった女が、忌まれ疎まれる赤毛の娘である自分が味わっていいのかと思う。けれども陛下があまりに優しいからそんな気持ちはすぐに失せてしまうのだ。
――なんだか悔しいわねぇ。
そう思うけれど、そう思えること自体が嬉しくてたまらないから、だいぶ重症だった。
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