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前編
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「――公爵令嬢、お前との婚約を破棄する!」
「……っ!」
ああ、いい気味だわ。
あたしはうつむき、肩を震わせている。きっとあたしの今の姿は、悲壮感を漂わせながら涙を堪えるか弱き少女に見えることだろう。
けれどそれはそう見えるだけであって、実際のところはあまりの可笑しさに笑ってしまっていたのだ。これが笑わずにいられるだろうか?
夜会の最中だというのに、高らかに吠える王太子。
その婚約者――たった今婚約が破棄されたから『元』婚約者ね――である公爵令嬢は、驚きに声を失っている。そしてこちらを憎々しげに睨みつけながら言った。
「殿下。なぜそんなことをおっしゃるのか、理由をお聞かせいただけますか」
「しらばっくれるな! お前がアリアをいじめたんだろうが!!! 知らないとは言わせないぞッ」
王太子があたしをグッと抱き寄せながら叫ぶ。臭いしうるさい。
アリアというのはあたしのこと。公爵令嬢が、男爵令嬢のアリアをいじめたということになっている。
もちろんそんな事実はあたしが捏造したことでしかないし、調べればすぐにわかる冤罪だ。でもこの馬鹿はあたしにお熱だからそこまで頭が回るはずがなく、あたしが「いじめられましたぁ~」と言って泣きついただけですぐに信じ込んでしまう。いつも思うけどどうして男というのはこんなに馬鹿なのかね。
「わたくしは神に誓ってそんなこといたしておりません。証拠はあるのですか?」
公爵令嬢の方が当然ながらまとも。でも王太子があんたの言葉なんか聞き入れるはずがないのさ。
「フッ、笑わせてくれる! アリアがお前にいじめられたと言ったんだ。これが何よりも確固たる証拠だろう!」
そんなわけないでしょ、という言葉をグッと堪え、あたしは顔を上げる。
そして代わりに王太子にたっぷりの色目を使った。
「ああ、セイファル様……。あたし、とっても、とぉっても、怖かったんですぅ……。階段から落とされてぇ、足とか怪我しちゃってぇ」
嘘だ。あたしは階段から落ちてなんかいないし、青あざだってただのペイントである。
しかしそんなことには気づかない群衆は、ドレスを捲って見せびらかしたあたしの脚を見て痛ましそうな目を向け、公爵令嬢を睨みつける。あたしの甘い声にすっかり骨抜きな王太子なんか、公爵令嬢を親の仇のような目で見ていた。
「というわけで婚約は破棄! お前は死刑とするッ!」
「……冤罪ですっ! わたくし、そんなことなどしておりません!」
「うるさいうるさいッ。衛兵、この汚らしい女を早く連れて行け! ……アリア、怖い思いをさせて悪かったね」
冤罪の公爵令嬢が引っ捕らえられて行った後、王太子はあたしに愛を囁く。
あたしはそれにうっとりした目を向けながら――内心でほくそ笑んでいた。
――今回も上手くいったわ。こいつは馬鹿だから特に簡単だったわねぇ。
男爵令嬢風情に恋をしたがために有能な婚約者を冤罪で殺すだなんて、なんて馬鹿なんだろう。
これでこの国ももう終わりだ。有能な側近たちは皆王太子の手によって既に処刑済み。国王も王妃も王太子を溺愛しているから放置するだけだ。ふふっ、愉快痛快。
じゃ、役目が終わったことだしあたしはそろそろドロンしますか。
やっとこの王太子から離れられると思うとせいせいするわぁ……。明日あたしがいなくなったと知ってこの王太子はどんな顔をするかしらねぇ。
じゃ、バイバーイ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ふぅ……。今回の任務も終わりっと」
あの国はあれから大混乱になり、公爵令嬢が処刑され、王太子は狂ったように失踪した男爵令嬢を探し始め、国王と王妃は公爵家からクーデターを起こされ殺された。
そして結局王族皆殺しになり国は廃れて元公爵が治める公国として、ある帝国の属国となったのである。
これも全てあたしの計画通り。男爵令嬢一人のせいでここまでガタガタになっていく国を見ているのは面白い。なんだかスカッとした気分だ。
――あの国を破滅に追いやったのはあたし。でも、本当はあたしは男爵令嬢なんかではない。
ピンクブロンドに空色の瞳、いかにも庇護欲そそる容姿をしているあたしの正体は、とある帝国の人間兵器だ。
通称『泥棒猫』。国の重役に取り入り、美貌と色気を最大限に使って相手を堕とし、スキャンダルを起こさせるのが仕事。ある意味人間兵器と呼べるだろう。
すでに五つ以上の国家があたしのせいで滅んでいる。あたしのハニートラップにはどんな男でも逆らえないからね。
『魅了』――その魔法が使えるあたしには、馬鹿だろうが頭でっかち野郎だろうがどんな男も目がハートになる。
一度魅了されてしまえばあら不思議、どんなに信頼関係を結んでいた相手でもあたしの二の次にするようになり、あたしとベタベタしていることを注意されれば敵認定してしまう。面白いくらいにあたしに優しくしてくれて、軽く囁けばどいつもこいつも馬鹿騒動を起こしてくれるのだ。
そして自滅する。
さて、次はどんなターゲットが待っているのか。あたしはウキウキした気持ちで、雇い主の待っている帝国の城へ足を運んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「次は聖王国へ行け。そこの聖王太女の婚約者の心を奪い、聖王や周囲の男も皆手懐けろ。教皇をはじめとする教会関係者も全て手中に収めてから国を壊滅状態に追い込め」
「……わかりました、皇帝陛下」
あたしは帝城で、玉座に堂々と構える皇帝に頭を下げていた。
この人があたしの雇い主。男だから本当なら魅了して操ってやりたいところだけど、それができないようにあたしには奴隷用の腕輪がつけられている。
まあ、わけあって一応命の恩人だし、憎んではいないけどね。人間兵器としてこき使われるのは気に入らないけど、それは仕方ないと甘んじて受け入れている。
それにしても、今度は聖王国かぁ。
普通の王国と違って宗教――教皇も尊いとされる国。
聖王と、それと同様に力のある教皇は確実に落としておかなければならない。一度あたしに魅了されてくれれば面白いくらいに操り人形になってくれるから大丈夫。
王太女というのが厄介そうだけど、周りの男どもがあたしの思い通りになれば簡単に排除できるだろうからそこまで難しい仕事ではないだろう。
あたしはピンクブロンドの髪を整えると、早速変装に取りかかる。
そうして数日後、あたしこと『泥棒猫』は聖王国へと向けて旅立った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……は、初めまして。あたし、デーオン下爵の娘のルイーズです。皆さん、どうぞ仲良くしてください」
おどおどした声音を作り、魅力的に見えるように気をつけながらピンクブロンドのツインテールを揺らして挨拶をする。
新たに聖王国の聖マリエット学園に入学したあたしに、一同の視線は釘付けだ。ざっくりと胸元を開けた『はしたない』とよく令嬢たちに言われるドレスを着たあたしは、男子生徒の注目の的である。
さあ、見なさいあたしの自慢の胸を。あんたたちこの胸が好きなんでしょ? たぷんたぷん揺すってあげるわ。ほら、すでに何人かの男が舌なめずりしているのが見えた。
女衆は、下爵というこの国では最も低い爵位にあるあたしを馬鹿にしたように笑っている。
聖王国の爵位は三つ。上爵、中爵、下爵。一番身分の低い下爵の中でも没落寸前のデーオン下爵家の令嬢を名乗っているあたしは見下されやすいと想像していたけど、ここまでとはね。
清らかな女神の愛し子たちの住まう国とされているこの聖王国だけど、もちろんそんなのは嘘っぱち。所詮醜い人間ばかりだ。
でもまあ、そんなの最初からわかっていたことだから何も気にしない。
学園の授業は難しいので、適当に聞き流しておいた。ハニートラップを仕事としているあたしにとって勉学はいらないことだった。
そんなことよりも早く目的の王太女の婚約者を見つけなければいけない。出会いは早ければ早い方がいいわ。
転入生のあたしの話を聞こうとして集まって来る男子生徒どもを笑顔で振り切って、昼休み時間に学園をうろうろしていると、あたしは、庭で一人のんびりしている男子生徒を見つけた。
金髪に薄緑色の瞳。ナヨナヨした体つきをしたその少年は、間違いなく皇帝陛下に聞かされていたターゲットの一人だった。
王太女の婚約者、上爵令息のパディ・ルーマソン。控えめに言ってもイケメンだ。
あたしは彼を見るなり、すぅっと目を細めた。猫のように足音を忍ばせて彼に接近すると、甘い声で言った。
「あのあの、ちょっといいですかぁ?」
モジモジし、口ごもり気味に。我ながらあたしって名女優になれると思う。
それまでひなたぼっこをしていたらしいパディはあたしを振り返ると、「何だい? 初めてみる子だね」と優しく笑いかけてきた。
――これは落とすのが簡単そうね。
「あたしはデーオン下爵家の養女、ルイーズっていいます。今日転入してきたばっかりなんです。あ、あなた、上爵令息のパディ様……ですよね?」
「うん。そうだよ。君はルイーズというのか。とても可愛らしいお嬢さんだね」
ルイーズというのはもちろん偽名。
一応、デーオン下爵家の養女ということになっている。もちろんあたしの実態は帝国の人間兵器『泥棒猫』であり、下爵にはあたしの正体を伏せた上で接触、魅了し、養女にしてもらっただけのこと。
本当にこの魅了の力は便利だ。
……それにしても初対面の人間に『可愛らしいね』なんて言うのはどうなのかしら。このイケメン、ずいぶんな女たらしだわ。
「あたし、今日初めてこの学園に来たんですけど……友達とかいなくってぇ。だから、お友達になってくれません?」
不安そうな顔をして、上目遣いで尋ねる。
普通であればすぐに「ダメだ」と断られることだろう。没落下爵家の娘と裕福すぎる上爵家の長男、しかも婚約者持ちだ。仮に女好きでも彼にだって立場はある。例え友人関係だとしても、そう簡単にいくはずはない。
だからあたしは早速、迷いなく魅了魔法を使った。
「――『愛してる』」
ウインクし、甘ったるい声で囁いた。
これだけであたしの魅了魔法は発動する。直後パディを見てみれば、彼はあたしをじぃっと見つめ、しばらく呆けていた。
これで彼もあたしの操り人形ね。
「……パディ様、お願ぁい」
「いいよ。ルイーズのためなら僕は、何でもするさ」
すると、ついさっき出会ったばかりとは思えない言葉が返って来た。
魅了の魔法にかかった者は、その瞬間から絶対にあたしに逆らえなくなる。そして全て受け入れ、命をかけても守りたいとそう思ってしまうの。
ああ、楽しいわ。こんなイケメンをあたしのおもちゃにできるなんて。
面白くなってあたしは少し調子に乗ってみた。
「キス、してもいいですか?」
満面の笑みでパディが頷く。「嬉しいな。君みたいな子に好きになってもらえるなんて。もしかしたら君は、運命の人かも知れないな」
――あたしはちっともあんたのことを好きじゃないんだけどね。
そんな内心の声は微塵も顔に出さず、あたしはニコニコ笑いながら彼と口づけをした。
「絶対にこのことはな・い・しょ。ね?」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
聖王国の主要メンバーを落とすにはそんなに時間はかからなかった。
パディを手懐けた後、あたしはすぐに次に行動へ移った。彼の婚約者であり王太女のイライザを見つけ出し、こっそり観察。その側近候補たちの顔を全て把握しておく。
そしてその翌日に早速王太女の側近候補の一人の少年との接触を図った。
その少年は聖騎士団の団長の息子。剣の実力は確かであるし、その上、パディと同様に超絶イケメン。どうしてこんなイケメンばかりなのかしら、貴族のお坊ちゃんは。
偶然を装って声をかけ、あたしはこの学園の案内をしてほしいのだと言った。昨日全て調べ尽くしているから実際には案内などいらないのだけれど、ちょうどいい口実だと思ったのだ。
「――でも私は、あまりイライザ殿下から離れてはいけないということになっていて」
「えっと。い、イライザ殿下とお知り合いなんですか?」
わざととぼけるあたしに彼は頷いた。
「はい。一応側近候補です」
「で、でもっ! ちょっとくらい、いいですよね……?」
露骨に彼の顔に戸惑いの色が生まれた。今だ、とあたしは思い、彼へ急速に身を寄せると――。
「――『愛してる』」
その瞬間から彼はあたしの虜になった。
そのまま学園を案内してもらい、側近候補たちの教室を確かめると、あたしはできるだけ魅惑的に見えるように笑みを浮かべ、静かに少年と別れる。
……本当に馬鹿ばかり。下級貴族の、しかも養女なんていう一番危うい身分の女と無警戒で話すなんて。だから都合のいいように魅了されるのよ。
しばらくして他二人の側近候補と会い、それぞれ魅了を使って彼らの心を手に入れた。先ほどまでは王太女に忠誠を誓う臣下だったはずが、あっという間にあたしの奴隷。ああ、なんて面白いの。
後一人。そいつさえ魅了すれば、この学園での仕事は終わりだ。最後の側近候補は確か、教皇の息子だったか。しばらく探しているとすぐに見つかった。
銀髪に灰色の瞳。王太女の側近候補ナンバーワンと言われる頭脳派、ローゼイン・リグフィーユ。
でもその実結構素行は悪い……らしい。噂でしか知らないし、あちらの性格などあたしにはどうでもいいことだけれど。
「こ、こんにちは」
「――。誰だお前。新入りか?」
汚い言葉づかい。下級貴族かと思うけれど教皇の血筋を引くものは聖王族と同じくらい偉いとされている。多分評判が悪いのはこの口調も関係しているのだろう。
「は、はい! あたし、ルイーズ・デーオンっていいます! もしよかったら、お名前お願いできますか?」
「……初対面の女なんかにバラせるかよ。下心丸見えだぜ?」
「そっ、そんなこと。あたしはただロー……あなたとお友達になりたいだけなんです」
危ない危ない。まだ名前も聞いてないのにうっかり口走りそうになった。
あたしに簡単に靡かない男はここ最近珍しかったので、少しだけ驚いてしまった。でもそれが普通の反応というものだろう。あたしは気を取り直して、彼へささっと駆け寄る。
周りであたしたちの様子を見ていた数人の生徒が眉を顰めるのが見えた。下級貴族の娘が教皇の息子とこんな距離で話していることが気に入らないのだろう。まあ、嫌われたところで別に構わないので気にしないが。
そしてあたしはローゼインへ、お決まりの言葉を囁きかけた。
「ああ、『愛してる』」
これで学園での任務は完了。
聖王と教皇は残っているけれど、パディに頼めばすぐに会わせてもらえるはず。近づくのは令息たちよりは難しいだろうがそれもなんとかやってみせる。
……と、そんな先々のことを考えていた、その時だった。
「お前、何言ってんだ?」
不満げにそう呟いたローゼインが、あたしの体を突き飛ばしたのは。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――は? なんで?
あたしは理解が追いつかず、思わず一瞬硬直してしまった。
だって今、あたしは確かに魅了の魔法をかけた。言い間違ったわけでもない。舌を噛んでもいない。
なのにあたしを突き放したローゼインの瞳には、いつもの男たちのようにとろんとしておらず、むしろ敵意すら見せていた。
わけがわからない。ワナワナと震えるあたしに彼は言った。
「下心ありありじゃねえか。なんだよ『愛してる』って。名前も知らない相手に言うことか? それにさっきも俺の名前言いかけてたよな? あんまり舐めんなよ馬鹿」
「ば、馬鹿!?」
「馬鹿以外に何だって言うんだ? それともただお友達になりたいだけ、だなんていうわかりやすい嘘をこれ以上吐き続けるつもりはないよな?」
あたしは混乱していた。
なぜ、どうして。魅了がかからなかった? そんなはずはない。でも今現に目の前の彼は少しもあたしへの想いは植え付けられていなかった。
好きな人間に冷たいそぶりをしたい、いわゆるツンデレというやつか?とも考えたが、すぐに可能性から排除した。敵意丸見えなこの状況でツンデレと捉えるのはあまりにも無理がある。
魅了の魔法の行使に失敗した。これしか考えられない。
慌ててあたしはもう一度魔法の言葉を口にした。
「す、すみません……! でも『愛してる』んです!」
なのに、
「気持ち悪い。どっか行けよ、破廉恥女」
……効かなかった。
周りの生徒たちからの冷笑が突き刺さる。今のあたしの姿はきっと、金持ちの令息と関わり合いを持とうとして失敗した卑しい貧乏者に見えることだろう。大して間違っていないのだが。
――どうしよう。魅了が効かないなんて。そんなはず、ないのに。
でもこれ以上醜態を晒せば怪しまれる。ここであたしが取れる選択肢は、逃亡の一手のみだった。
ローゼインに背を向けて走りながら、あたしは心の中で叫ぶ。
――何よあいつ! おかしい! おかしすぎる!!!
その時、一つの可能性に思い至る。
もしかして遅効性? 遅効性なのか?
そういえば前、とある島国で魅了魔法が効きづらい相手がいた。
最初から好感度マックスが普通なのに、その人物は最初あたしが少し気になると思う程度で、好感度はかなり低めだった。しかし何度も何度もじっくりと魅了し続けることで結局は思い通りになったのだったが。
もしかして今もあれと同じかも知れない。体質的にあいつの効き目が遅いんだ。ああ、人前でなければ一度くらいの失敗、なんともなかったのに。
あたしはその日は諦め、後日、やり直すことに決めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「こ、これは本気なんですっ。実は、ローゼイン様のこと、ず、ず、ずっと、お慕いしてて」
「なんだ、またお前か」
「『愛してる』!」
「……愛してるって何度言われても靡かねえよ馬鹿。俺はピッチは嫌いなんだ」
「ピ、ピッチ!? ひどい!」
――何よ何よ、またダメじゃない。
「あのぅ。ローゼイン様。一緒にお茶しません?」
「しない。イライザ殿下のお目付役しなきゃいけないからな」
「そ、そんなこと言わないでくださいよ……。せっかくあたし、いい場所見つけたんですから。『愛してる』んです!」
「どんなに甘えても無駄だ。消えろ、邪魔くさい」
――なんでなんで。なんで、この男はあたしの手に入らないの!?
「『愛してる』ッ!」
「衆人環視の中で愛を叫ぶって……どれだけヤンデレだよ」
――ダメだ。全然ダメだ。どうして? 魅了魔法は発動しているはずよ!
何度試してもあたしの魅了はローゼインに届かなかった。
他の男たちを使い、ローゼインと会う機会をなるべく作って愛を囁いたが、彼は不快そうな顔をしてこちらを見てくるだけだ。
あたしは聖王や教皇の魅了もそっちのけでローゼインを落とそうと奮闘した。しかしどうやっても届かない。もしかすると自分の能力が低下しているのではないかと思って名も知らぬ少年に魅了をしたらベタベタに惚れられた。少なくともあたしの力のせいではないとわかって安心したが、それはそれで大問題だ。
――いけない、ローゼインなんて放っておいて目的を果たさなければ!
いつの間にかローゼインの攻略にのめり込んでいたあたしは我に返り、慌ててパディとの距離を詰め、イライザ王太女との仲を悪くする作戦に出た。
皆が見ている前でわざわざパディと親しげにし、悪評を立てる。それをイライザ王太女の耳に届けるのだ。
そしてお咎めはすぐにやって来た。
「貴女、どういうつもりですの? ワタクシの婚約者に近づいて、不快ですの。ふしだらな行動は慎んでほしいですの。わかりましたの?」
「お、恐れながら、イライザ王太女殿下。あたしとパディ様の関係はあくまで友人同士で、で、殿下が不安に思っているような関係では、ありません」
わざとおどおどと上目遣いで答えた。
男はこれを好むが、女はこういう態度を嫌う。そしてイライザ王太女も例外ではなかった。
「わざとらしい。これ以上ワタクシの婚約者に近づかないでくださいですの!」
「で、でもあたしは彼と友人なんです。本当です……!」
イライザ王太女は肩を怒らせながら歩き去って行った。
完全にあたしの予想通りの展開。どうして全員が全員こんなにもわかりやすいのかしら。
そうしてイライザが襲来した直後、まもなくパディがやって来た。
「おおルイーズ。会いたかったよ」
「ぱ、パディ様! あたし、とっても、とぉっても怖かったんですぅ……」
あたしは早速パディに泣きついた。甘ったるい声を少し出せば彼はあたしの言うことを何でも聞いてくれるからね。
……あたしへ向けられる彼の薄緑色の瞳には、熱に浮かされたような色を帯びている。これが恋ってやつのかしら、とあたしはふと思った。
そういえばあたしは本物の恋というものをしたことがない。
こうして男を落とすことは何度もした。けれど一度たりとも恋心を抱かなかった。それより何より『泥棒猫』として帝国が遣わせた人間兵器であるあたしは、決して恋をしてはいけないのだ。恋は人間を盲目にするからと、皇帝は言っていた。
男たちの甘い視線を受けて、これに酔ってしまいたいな、と思うこともある。
しかしそれは許されない。あたしはパディを見つめながらキュッと唇を噛み締めた。
「……イーズ。ルイーズ、聞いているかい?」
「あっ。す、すみません。つい、パディ様に見惚れてしまい」
「ははは、嬉しいなぁ。ともかくイライザには僕が厳しく言っておこう。君にこれ以上不安な思いをさせることはないと誓うよ」
「わ、かりました。よろしくお願い……します」
うっかり話を聞きそびれていた。危ない危ない。
どうやらパディはイライザに何か言いつけるつもりらしかった。身分が低いパディから何か言うのはどうだろうと思ったが、すでにあたしの手駒でしかないパディにはそこまでの考えがないのだろう。
ふふふ、面白い。人間を手玉に取れるというのは気持ちいいものね――。
「――そこで何してんだ、お前。パディ上爵令息と密会か?」
ちょうどいい気分に浸っていたところで、あたしの耳にそんな声が届いた。
「げ」と思い振り返ると、そこにはあいつがいた。
「ローゼイン、様ぁ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「パディ、この女と最近遊び回ってるそうだな」
「……人聞きの悪い。僕と彼女は『真実の愛』で結ばれているんだ」
「はっ! 笑わせてくれる。その女はな、昨日も俺に『愛してる』って言って来たんだぜ? 薄っぺらなピッチ娘に騙されるとは、お前も随分馬鹿になったもんだな」
「何! 僕はともかく彼女を侮辱するのは許さないぞ!」
――まずい。
基本、ターゲット同士が出会うことはよろしくない事案である。だが両者共にあたしの手に落ちてさえいればなんとか収めることはできる。
しかし今回の場合、ローゼインは魅了できていない。方法としては今この瞬間に魅了することだが、おそらくそれは叶わないだろう。
あたしは頭をフル回転させ、それから馬鹿な女のフリをすることに決めた。
「ローゼイン様ぁ。パディ様とは、友人なんですぅ。み、密会だなんて言わないでくださいよぉ……」
本当ならここでパディからの非難がましい目が向けられるはずである。しかし、すっかりあたしの操り人形のパディは何の疑いもなくうんうんと頷いた。
「そうだ。僕と彼女は決して卑しい関係じゃあない。ローゼイン、いくら彼女が美しいからと嫉妬するなんて意地汚いよ」
「美しい? その女が? ふしだらの間違いじゃないか?」
このままでは二人が喧嘩を始めてしまう。あたしにとってそれは非常にまずいことだった。決定的な場――婚約破棄劇という最終の舞台まで、ことを荒立てたくはないのだ。
「ローゼイン様。誤解があるなら、あたしが誠心誠意お話ししますっ。だ、だからぁ、パディ様と喧嘩なさらないでください……!」
「ふんっ。ルイーズがこう言っているから今日のところは見逃すけど、今度彼女を侮辱した時は許さないからね」
「パディ、お前……。イライザ殿下を好きなんじゃなかったのかよ?」
「あんな女、ルイーズと比べれば月とすっぽんだよ」
ローゼインはパディをキッと睨むと、あたしの手をぐんと引いて歩き出した。二人だけの個室に連れて行く気だ。
魅了の効かない相手と二人きり、あたしは切り抜けることができるだろうか。大きな不安を抱えつつ、あたしは連れて行かれるままに部屋へ入った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
連れて来られたのは休憩室だった。他には誰もいない。あたしとローゼインはソファに座って向き合い、話を始めた。
「お前、パディに何かしただろ」
開口一番に言われたのがその言葉だった。
あたしはしばし戸惑ったように唇を震わせて見せ……ゆるゆると首を振った。
「な、何もしてません……。下爵家の娘でしかないあたしには、パディ様は不相応な方だと、思っています」
「でも教皇の息子である俺には求婚に近い行為を繰り返している。上爵よりは教皇の方が地位が高いのは、誰でも知っていることだろう」
「は、はい。ですがあたし、ローゼイン様をどうしようもなく、好きになって、しまったんです……」
――できるだけ色目を使い、あたしは言葉を紡ぐ。魅了の魔法が効かない分こうするしかなかったが、やはりそれでも彼を手懐けることはできなかった。
「お前が狙ってるのはなんだ。地位か、金か、男か?」
「あ、あたしは、別に、何も……」
「答えろ」
「ですから」
「お前の目が語ってる。パディに対しても俺に対しても、好意なんかちっともないってな。まるでそう……ゲームだ。盤ゲームのコマを見ているみたいなんだよ、お前は」
こんなに勘の鋭い男を、あたしは他に知らない。
取り繕うのは難しそうだ。そう思って黙っていると、彼はため息を漏らし、
「お前が何者かはわからんが、イライザ殿下に危害を及ぼす可能性がある以上、俺は放っておくわけにはいかない。とりあえずあいつらに相談するとするか……」
あいつら、とはおそらく側近候補たちのことに違いない。それならすでにあたし側についているのだが、ローゼインはまだ知らないだろう。
「――せいぜい気をつけろ。あまり派手なことをしたら、聖王様に言いつける」
あたしは怯えたような様子を見せながら、小さく頷いた。
ここからだ。あたしと彼、ローゼインとの戦いがが始まったのは――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あたしはイライザ王太女の側近たちに言って、彼女の不貞を捏造することにした。
『ローゼインとイライザがふしだらなことをしているところを見た者が多数いる』。この噂を発生源がわからないようにして流させ、さも本当のことのように周囲に浸透させていくのだ。
王太女の不貞、それはすなわち婚約破棄の理由。こちら側が正義になるための重要な布石。
その一方でローゼインも負けてはいず、あたしがパディを手中に落としていること、側近たちがおかしいことなどを周囲の者に知らせている様子だった。あたしはなるべくその話を抹消することに奮闘したが、それでもあちらの方が聖王と教皇という後ろ盾がいる以上一枚上手だった。
聖王と教皇も落とせばいいだけの話なのだが、未だ彼らとの接触の機会が測れないのである。対面しなければ魅了できないのがあたしの魔法の欠点だった。……すぐ近くにいても魅了できない奴が一人だけいるが、それは除外しておく。
「これもきっとローゼインのせいよね。……ああもうほんとあいつ、むかつく! なんであたしの思い通りにならないのよ!!!」
「人間そう簡単に思い通りになるかよ。それとも、俺以外の人間はそうなのか?」
「――ッ!」
廊下で独り言を思わず叫んでいたところへ、背後から声がしたのであたしは飛び上がった。
振り返らずともわかる。なんで、という思いと共に、胸が早鐘を打った。
――もしかしてずっと、あたしは監視されている?
「ろ、ローゼイン様ぁ……」
甘えた声を出してみるが、彼の灰色の瞳に揺らぎはない。静かな怒りを込めた声でローゼインは言った。
「怪しい行動はするなと言ったよな?」
激しく鼓動を繰り返す胸。
決定的瞬間を見られた。今すぐ逃げなくては、と自分の中で警報が鳴り響く。
でも逃げたところでどうなる? 問題が先延ばしになるか、はたまた悪化するだけだ。
あたしは精一杯の笑顔を浮かべた。
「あは、聞かれちゃいましたぁ? さすがはあたしのローゼイン様! 素敵ですッ!」
「いいから本当のことを話せよ」
背の高い彼に迫られ、あたしは思わずビクッとなった。
ここで捕まったらおしまいだ。とりあえず逃走ルートを確保しようと思ったが、すでに壁際まで追い詰められてしまっていた。
冷や汗が背中を伝う。
「……なかなかやりますねぇ、ローゼイン様。ここを見られたらますますあなたの評判が地に落ちると思うんですけど?」
「そんなことはどうでもいい。そもそも、俺は元よりあんまり人に好かれないタイプなんでな」
――そうでしょうね。
「あたしを脅しても、何も出て来やしませんよ?」
「お前はやめない気なのか」
「何をでしょう? あたし、全く心当たりがありません。パディ様とのことでしたら、本当にお友達なだけですしぃ」
「あのベタベタが友達? 冗談も休み休みに言えっての」
さらに詰め寄られる。胸ぐらを掴まれたような錯覚に陥りながら、必死で今助かる方法を考えていた――ちょうどその時。
「「「「ルイーズに近寄るな!」」」」
あたしの奴隷……じゃなかった、友人たちが助けに来てくれたのは。
「ルイーズがいないから心配して来てみれば」
「やいローゼイン。女の子に迫るなんて卑怯だぞ」
「イライザ殿下の側近候補として恥ずかしくはないのか」
「教皇様が嘆かれるぞローゼイン。ルイーズ、大丈夫だったか」
すっかりあたしの騎士様気取りの彼らは、今まで優勢だったローゼインを囲んで罵倒し始めた。
……ふぅ、なんとか今は助かったみたい。
なぜか今も鼓動の早いままの胸を押さえながら、あたしは安堵に息を漏らす。
『泥棒猫』たるあたしがここまで追い詰められるだなんて。少しローゼインを舐めすぎていたようだとあたしは反省する。それから王太女の側近とパディに激しく糾弾されるローゼインを残し、逃げるように自分の教室へと走り戻った。
しかしこれが一時的な休戦でしかないことくらいあたしにもわかっている。
次こそはローゼインの攻撃をかわし、彼へダメージを与えてやる方法をしっかり考えなくては。次の授業時間の間中ずっとそのことに頭を悩ませることになったのだった。
――なんとしてもローゼインに勝ってみせるんだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
気づけばあたしは、ローゼインの心を手に入れることだけに夢中になってしまっていた。
パディも、聖騎士団長の息子も、宰相の息子も、中爵家の息子も。
そんなのはみんなどうでもいい。適当に媚びを売っていればいいだけのおもちゃだ。
しかし彼、ローゼインだけは違う。このあたしがどんなに愛想良く振る舞っても、はたまたそっけなく見せても、決して落ちてくれない。
逃げる敵ほど追いたくなるのは獣の本性だが、それに近かったのだと思う。あたしは必死でローゼインを手に入れようと奮闘した。冷たくされればされるほど、「イライザ殿下に危害は及ばさせない」と敵意を向けられれば向けられるほど、欲しくなる。
手に入れてしまいたくなる。
――そんなある日、ふと、気づいてしまったのだ。
そんなはずはないと思った。けれど、胸の高鳴りは、そして彼への執着心は、日に日に高まっていって。
……これは恋心というやつではないだろうか?
「このあたしが、恋だなんて」
馬鹿げている。何かの間違いだと笑ってしまいたかった。
皇帝陛下に拾われた時、言われたではないか。
『金も身分も食も、思う存分与えてやろう。だが恋だけはするな。お前が任務を忘れた時、それはお前が死ぬ時だと思え』
だからこの変な感情は、きっと気のせいだ。
心の内側まで探って来るような彼の灰色の瞳に見つめられてドキドキするのだって、ただの恐怖から来るもので、決して恋などというものではないはずだ。
そうでなければあたしは任務を遂行できない。その時には死が待っている――。
「どうしたんだいルイーズ。近頃は元気がないね? もしかしてイライザに何か酷いことでも言われたのかい?」
ふと柔らかな声がして、あたしは振り返った。
そこには金髪の少年が立っている。しかしあたしは彼を見ても何も思わなかった。
――こんな男はいらない。
パディは優しく物腰柔らかく、とてもいい男なはずだ。
しかしあたしはこれ以上こんなクズといるのが苦痛でならなかった。そして内心であの男と目の前の男を比較している自分が嫌だった。
だからもう、早く終わらせてしまうことにしよう。
「は、はい。あたし、とっても、怖くてぇっ。だからぁっ! パディ様があたしを守って、イライザ様と婚約破棄してくださいっ!」
パディはしばらくの沈黙の後、「わかった」と使命感に駆られた顔で頷いた。
何が使命感だ。何がわかった、だ。
あんたは何もわかっていない。あたしが今どんな気持ちであんたを見ているか、少しだって考えていないくせに。
恋に酔いしれるなんていいご身分だこと。
あたしは舌打ちしたいのを精一杯堪え、甘い笑顔でパディに絡みつく。
その後すぐに王太女の側近たちにも根回しし、近く開かれる『聖星祭』という祝いの場で婚約破棄を行うことが決定した。
これで何もかもに決着がつく。それでいい。それでいいのだ。
なのに痛むこの胸は一体なんだというのだろう。あたしはイライラして、血が滲むくらいに強く強く唇を噛んだのだった。
「……っ!」
ああ、いい気味だわ。
あたしはうつむき、肩を震わせている。きっとあたしの今の姿は、悲壮感を漂わせながら涙を堪えるか弱き少女に見えることだろう。
けれどそれはそう見えるだけであって、実際のところはあまりの可笑しさに笑ってしまっていたのだ。これが笑わずにいられるだろうか?
夜会の最中だというのに、高らかに吠える王太子。
その婚約者――たった今婚約が破棄されたから『元』婚約者ね――である公爵令嬢は、驚きに声を失っている。そしてこちらを憎々しげに睨みつけながら言った。
「殿下。なぜそんなことをおっしゃるのか、理由をお聞かせいただけますか」
「しらばっくれるな! お前がアリアをいじめたんだろうが!!! 知らないとは言わせないぞッ」
王太子があたしをグッと抱き寄せながら叫ぶ。臭いしうるさい。
アリアというのはあたしのこと。公爵令嬢が、男爵令嬢のアリアをいじめたということになっている。
もちろんそんな事実はあたしが捏造したことでしかないし、調べればすぐにわかる冤罪だ。でもこの馬鹿はあたしにお熱だからそこまで頭が回るはずがなく、あたしが「いじめられましたぁ~」と言って泣きついただけですぐに信じ込んでしまう。いつも思うけどどうして男というのはこんなに馬鹿なのかね。
「わたくしは神に誓ってそんなこといたしておりません。証拠はあるのですか?」
公爵令嬢の方が当然ながらまとも。でも王太子があんたの言葉なんか聞き入れるはずがないのさ。
「フッ、笑わせてくれる! アリアがお前にいじめられたと言ったんだ。これが何よりも確固たる証拠だろう!」
そんなわけないでしょ、という言葉をグッと堪え、あたしは顔を上げる。
そして代わりに王太子にたっぷりの色目を使った。
「ああ、セイファル様……。あたし、とっても、とぉっても、怖かったんですぅ……。階段から落とされてぇ、足とか怪我しちゃってぇ」
嘘だ。あたしは階段から落ちてなんかいないし、青あざだってただのペイントである。
しかしそんなことには気づかない群衆は、ドレスを捲って見せびらかしたあたしの脚を見て痛ましそうな目を向け、公爵令嬢を睨みつける。あたしの甘い声にすっかり骨抜きな王太子なんか、公爵令嬢を親の仇のような目で見ていた。
「というわけで婚約は破棄! お前は死刑とするッ!」
「……冤罪ですっ! わたくし、そんなことなどしておりません!」
「うるさいうるさいッ。衛兵、この汚らしい女を早く連れて行け! ……アリア、怖い思いをさせて悪かったね」
冤罪の公爵令嬢が引っ捕らえられて行った後、王太子はあたしに愛を囁く。
あたしはそれにうっとりした目を向けながら――内心でほくそ笑んでいた。
――今回も上手くいったわ。こいつは馬鹿だから特に簡単だったわねぇ。
男爵令嬢風情に恋をしたがために有能な婚約者を冤罪で殺すだなんて、なんて馬鹿なんだろう。
これでこの国ももう終わりだ。有能な側近たちは皆王太子の手によって既に処刑済み。国王も王妃も王太子を溺愛しているから放置するだけだ。ふふっ、愉快痛快。
じゃ、役目が終わったことだしあたしはそろそろドロンしますか。
やっとこの王太子から離れられると思うとせいせいするわぁ……。明日あたしがいなくなったと知ってこの王太子はどんな顔をするかしらねぇ。
じゃ、バイバーイ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ふぅ……。今回の任務も終わりっと」
あの国はあれから大混乱になり、公爵令嬢が処刑され、王太子は狂ったように失踪した男爵令嬢を探し始め、国王と王妃は公爵家からクーデターを起こされ殺された。
そして結局王族皆殺しになり国は廃れて元公爵が治める公国として、ある帝国の属国となったのである。
これも全てあたしの計画通り。男爵令嬢一人のせいでここまでガタガタになっていく国を見ているのは面白い。なんだかスカッとした気分だ。
――あの国を破滅に追いやったのはあたし。でも、本当はあたしは男爵令嬢なんかではない。
ピンクブロンドに空色の瞳、いかにも庇護欲そそる容姿をしているあたしの正体は、とある帝国の人間兵器だ。
通称『泥棒猫』。国の重役に取り入り、美貌と色気を最大限に使って相手を堕とし、スキャンダルを起こさせるのが仕事。ある意味人間兵器と呼べるだろう。
すでに五つ以上の国家があたしのせいで滅んでいる。あたしのハニートラップにはどんな男でも逆らえないからね。
『魅了』――その魔法が使えるあたしには、馬鹿だろうが頭でっかち野郎だろうがどんな男も目がハートになる。
一度魅了されてしまえばあら不思議、どんなに信頼関係を結んでいた相手でもあたしの二の次にするようになり、あたしとベタベタしていることを注意されれば敵認定してしまう。面白いくらいにあたしに優しくしてくれて、軽く囁けばどいつもこいつも馬鹿騒動を起こしてくれるのだ。
そして自滅する。
さて、次はどんなターゲットが待っているのか。あたしはウキウキした気持ちで、雇い主の待っている帝国の城へ足を運んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「次は聖王国へ行け。そこの聖王太女の婚約者の心を奪い、聖王や周囲の男も皆手懐けろ。教皇をはじめとする教会関係者も全て手中に収めてから国を壊滅状態に追い込め」
「……わかりました、皇帝陛下」
あたしは帝城で、玉座に堂々と構える皇帝に頭を下げていた。
この人があたしの雇い主。男だから本当なら魅了して操ってやりたいところだけど、それができないようにあたしには奴隷用の腕輪がつけられている。
まあ、わけあって一応命の恩人だし、憎んではいないけどね。人間兵器としてこき使われるのは気に入らないけど、それは仕方ないと甘んじて受け入れている。
それにしても、今度は聖王国かぁ。
普通の王国と違って宗教――教皇も尊いとされる国。
聖王と、それと同様に力のある教皇は確実に落としておかなければならない。一度あたしに魅了されてくれれば面白いくらいに操り人形になってくれるから大丈夫。
王太女というのが厄介そうだけど、周りの男どもがあたしの思い通りになれば簡単に排除できるだろうからそこまで難しい仕事ではないだろう。
あたしはピンクブロンドの髪を整えると、早速変装に取りかかる。
そうして数日後、あたしこと『泥棒猫』は聖王国へと向けて旅立った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……は、初めまして。あたし、デーオン下爵の娘のルイーズです。皆さん、どうぞ仲良くしてください」
おどおどした声音を作り、魅力的に見えるように気をつけながらピンクブロンドのツインテールを揺らして挨拶をする。
新たに聖王国の聖マリエット学園に入学したあたしに、一同の視線は釘付けだ。ざっくりと胸元を開けた『はしたない』とよく令嬢たちに言われるドレスを着たあたしは、男子生徒の注目の的である。
さあ、見なさいあたしの自慢の胸を。あんたたちこの胸が好きなんでしょ? たぷんたぷん揺すってあげるわ。ほら、すでに何人かの男が舌なめずりしているのが見えた。
女衆は、下爵というこの国では最も低い爵位にあるあたしを馬鹿にしたように笑っている。
聖王国の爵位は三つ。上爵、中爵、下爵。一番身分の低い下爵の中でも没落寸前のデーオン下爵家の令嬢を名乗っているあたしは見下されやすいと想像していたけど、ここまでとはね。
清らかな女神の愛し子たちの住まう国とされているこの聖王国だけど、もちろんそんなのは嘘っぱち。所詮醜い人間ばかりだ。
でもまあ、そんなの最初からわかっていたことだから何も気にしない。
学園の授業は難しいので、適当に聞き流しておいた。ハニートラップを仕事としているあたしにとって勉学はいらないことだった。
そんなことよりも早く目的の王太女の婚約者を見つけなければいけない。出会いは早ければ早い方がいいわ。
転入生のあたしの話を聞こうとして集まって来る男子生徒どもを笑顔で振り切って、昼休み時間に学園をうろうろしていると、あたしは、庭で一人のんびりしている男子生徒を見つけた。
金髪に薄緑色の瞳。ナヨナヨした体つきをしたその少年は、間違いなく皇帝陛下に聞かされていたターゲットの一人だった。
王太女の婚約者、上爵令息のパディ・ルーマソン。控えめに言ってもイケメンだ。
あたしは彼を見るなり、すぅっと目を細めた。猫のように足音を忍ばせて彼に接近すると、甘い声で言った。
「あのあの、ちょっといいですかぁ?」
モジモジし、口ごもり気味に。我ながらあたしって名女優になれると思う。
それまでひなたぼっこをしていたらしいパディはあたしを振り返ると、「何だい? 初めてみる子だね」と優しく笑いかけてきた。
――これは落とすのが簡単そうね。
「あたしはデーオン下爵家の養女、ルイーズっていいます。今日転入してきたばっかりなんです。あ、あなた、上爵令息のパディ様……ですよね?」
「うん。そうだよ。君はルイーズというのか。とても可愛らしいお嬢さんだね」
ルイーズというのはもちろん偽名。
一応、デーオン下爵家の養女ということになっている。もちろんあたしの実態は帝国の人間兵器『泥棒猫』であり、下爵にはあたしの正体を伏せた上で接触、魅了し、養女にしてもらっただけのこと。
本当にこの魅了の力は便利だ。
……それにしても初対面の人間に『可愛らしいね』なんて言うのはどうなのかしら。このイケメン、ずいぶんな女たらしだわ。
「あたし、今日初めてこの学園に来たんですけど……友達とかいなくってぇ。だから、お友達になってくれません?」
不安そうな顔をして、上目遣いで尋ねる。
普通であればすぐに「ダメだ」と断られることだろう。没落下爵家の娘と裕福すぎる上爵家の長男、しかも婚約者持ちだ。仮に女好きでも彼にだって立場はある。例え友人関係だとしても、そう簡単にいくはずはない。
だからあたしは早速、迷いなく魅了魔法を使った。
「――『愛してる』」
ウインクし、甘ったるい声で囁いた。
これだけであたしの魅了魔法は発動する。直後パディを見てみれば、彼はあたしをじぃっと見つめ、しばらく呆けていた。
これで彼もあたしの操り人形ね。
「……パディ様、お願ぁい」
「いいよ。ルイーズのためなら僕は、何でもするさ」
すると、ついさっき出会ったばかりとは思えない言葉が返って来た。
魅了の魔法にかかった者は、その瞬間から絶対にあたしに逆らえなくなる。そして全て受け入れ、命をかけても守りたいとそう思ってしまうの。
ああ、楽しいわ。こんなイケメンをあたしのおもちゃにできるなんて。
面白くなってあたしは少し調子に乗ってみた。
「キス、してもいいですか?」
満面の笑みでパディが頷く。「嬉しいな。君みたいな子に好きになってもらえるなんて。もしかしたら君は、運命の人かも知れないな」
――あたしはちっともあんたのことを好きじゃないんだけどね。
そんな内心の声は微塵も顔に出さず、あたしはニコニコ笑いながら彼と口づけをした。
「絶対にこのことはな・い・しょ。ね?」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
聖王国の主要メンバーを落とすにはそんなに時間はかからなかった。
パディを手懐けた後、あたしはすぐに次に行動へ移った。彼の婚約者であり王太女のイライザを見つけ出し、こっそり観察。その側近候補たちの顔を全て把握しておく。
そしてその翌日に早速王太女の側近候補の一人の少年との接触を図った。
その少年は聖騎士団の団長の息子。剣の実力は確かであるし、その上、パディと同様に超絶イケメン。どうしてこんなイケメンばかりなのかしら、貴族のお坊ちゃんは。
偶然を装って声をかけ、あたしはこの学園の案内をしてほしいのだと言った。昨日全て調べ尽くしているから実際には案内などいらないのだけれど、ちょうどいい口実だと思ったのだ。
「――でも私は、あまりイライザ殿下から離れてはいけないということになっていて」
「えっと。い、イライザ殿下とお知り合いなんですか?」
わざととぼけるあたしに彼は頷いた。
「はい。一応側近候補です」
「で、でもっ! ちょっとくらい、いいですよね……?」
露骨に彼の顔に戸惑いの色が生まれた。今だ、とあたしは思い、彼へ急速に身を寄せると――。
「――『愛してる』」
その瞬間から彼はあたしの虜になった。
そのまま学園を案内してもらい、側近候補たちの教室を確かめると、あたしはできるだけ魅惑的に見えるように笑みを浮かべ、静かに少年と別れる。
……本当に馬鹿ばかり。下級貴族の、しかも養女なんていう一番危うい身分の女と無警戒で話すなんて。だから都合のいいように魅了されるのよ。
しばらくして他二人の側近候補と会い、それぞれ魅了を使って彼らの心を手に入れた。先ほどまでは王太女に忠誠を誓う臣下だったはずが、あっという間にあたしの奴隷。ああ、なんて面白いの。
後一人。そいつさえ魅了すれば、この学園での仕事は終わりだ。最後の側近候補は確か、教皇の息子だったか。しばらく探しているとすぐに見つかった。
銀髪に灰色の瞳。王太女の側近候補ナンバーワンと言われる頭脳派、ローゼイン・リグフィーユ。
でもその実結構素行は悪い……らしい。噂でしか知らないし、あちらの性格などあたしにはどうでもいいことだけれど。
「こ、こんにちは」
「――。誰だお前。新入りか?」
汚い言葉づかい。下級貴族かと思うけれど教皇の血筋を引くものは聖王族と同じくらい偉いとされている。多分評判が悪いのはこの口調も関係しているのだろう。
「は、はい! あたし、ルイーズ・デーオンっていいます! もしよかったら、お名前お願いできますか?」
「……初対面の女なんかにバラせるかよ。下心丸見えだぜ?」
「そっ、そんなこと。あたしはただロー……あなたとお友達になりたいだけなんです」
危ない危ない。まだ名前も聞いてないのにうっかり口走りそうになった。
あたしに簡単に靡かない男はここ最近珍しかったので、少しだけ驚いてしまった。でもそれが普通の反応というものだろう。あたしは気を取り直して、彼へささっと駆け寄る。
周りであたしたちの様子を見ていた数人の生徒が眉を顰めるのが見えた。下級貴族の娘が教皇の息子とこんな距離で話していることが気に入らないのだろう。まあ、嫌われたところで別に構わないので気にしないが。
そしてあたしはローゼインへ、お決まりの言葉を囁きかけた。
「ああ、『愛してる』」
これで学園での任務は完了。
聖王と教皇は残っているけれど、パディに頼めばすぐに会わせてもらえるはず。近づくのは令息たちよりは難しいだろうがそれもなんとかやってみせる。
……と、そんな先々のことを考えていた、その時だった。
「お前、何言ってんだ?」
不満げにそう呟いたローゼインが、あたしの体を突き飛ばしたのは。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――は? なんで?
あたしは理解が追いつかず、思わず一瞬硬直してしまった。
だって今、あたしは確かに魅了の魔法をかけた。言い間違ったわけでもない。舌を噛んでもいない。
なのにあたしを突き放したローゼインの瞳には、いつもの男たちのようにとろんとしておらず、むしろ敵意すら見せていた。
わけがわからない。ワナワナと震えるあたしに彼は言った。
「下心ありありじゃねえか。なんだよ『愛してる』って。名前も知らない相手に言うことか? それにさっきも俺の名前言いかけてたよな? あんまり舐めんなよ馬鹿」
「ば、馬鹿!?」
「馬鹿以外に何だって言うんだ? それともただお友達になりたいだけ、だなんていうわかりやすい嘘をこれ以上吐き続けるつもりはないよな?」
あたしは混乱していた。
なぜ、どうして。魅了がかからなかった? そんなはずはない。でも今現に目の前の彼は少しもあたしへの想いは植え付けられていなかった。
好きな人間に冷たいそぶりをしたい、いわゆるツンデレというやつか?とも考えたが、すぐに可能性から排除した。敵意丸見えなこの状況でツンデレと捉えるのはあまりにも無理がある。
魅了の魔法の行使に失敗した。これしか考えられない。
慌ててあたしはもう一度魔法の言葉を口にした。
「す、すみません……! でも『愛してる』んです!」
なのに、
「気持ち悪い。どっか行けよ、破廉恥女」
……効かなかった。
周りの生徒たちからの冷笑が突き刺さる。今のあたしの姿はきっと、金持ちの令息と関わり合いを持とうとして失敗した卑しい貧乏者に見えることだろう。大して間違っていないのだが。
――どうしよう。魅了が効かないなんて。そんなはず、ないのに。
でもこれ以上醜態を晒せば怪しまれる。ここであたしが取れる選択肢は、逃亡の一手のみだった。
ローゼインに背を向けて走りながら、あたしは心の中で叫ぶ。
――何よあいつ! おかしい! おかしすぎる!!!
その時、一つの可能性に思い至る。
もしかして遅効性? 遅効性なのか?
そういえば前、とある島国で魅了魔法が効きづらい相手がいた。
最初から好感度マックスが普通なのに、その人物は最初あたしが少し気になると思う程度で、好感度はかなり低めだった。しかし何度も何度もじっくりと魅了し続けることで結局は思い通りになったのだったが。
もしかして今もあれと同じかも知れない。体質的にあいつの効き目が遅いんだ。ああ、人前でなければ一度くらいの失敗、なんともなかったのに。
あたしはその日は諦め、後日、やり直すことに決めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「こ、これは本気なんですっ。実は、ローゼイン様のこと、ず、ず、ずっと、お慕いしてて」
「なんだ、またお前か」
「『愛してる』!」
「……愛してるって何度言われても靡かねえよ馬鹿。俺はピッチは嫌いなんだ」
「ピ、ピッチ!? ひどい!」
――何よ何よ、またダメじゃない。
「あのぅ。ローゼイン様。一緒にお茶しません?」
「しない。イライザ殿下のお目付役しなきゃいけないからな」
「そ、そんなこと言わないでくださいよ……。せっかくあたし、いい場所見つけたんですから。『愛してる』んです!」
「どんなに甘えても無駄だ。消えろ、邪魔くさい」
――なんでなんで。なんで、この男はあたしの手に入らないの!?
「『愛してる』ッ!」
「衆人環視の中で愛を叫ぶって……どれだけヤンデレだよ」
――ダメだ。全然ダメだ。どうして? 魅了魔法は発動しているはずよ!
何度試してもあたしの魅了はローゼインに届かなかった。
他の男たちを使い、ローゼインと会う機会をなるべく作って愛を囁いたが、彼は不快そうな顔をしてこちらを見てくるだけだ。
あたしは聖王や教皇の魅了もそっちのけでローゼインを落とそうと奮闘した。しかしどうやっても届かない。もしかすると自分の能力が低下しているのではないかと思って名も知らぬ少年に魅了をしたらベタベタに惚れられた。少なくともあたしの力のせいではないとわかって安心したが、それはそれで大問題だ。
――いけない、ローゼインなんて放っておいて目的を果たさなければ!
いつの間にかローゼインの攻略にのめり込んでいたあたしは我に返り、慌ててパディとの距離を詰め、イライザ王太女との仲を悪くする作戦に出た。
皆が見ている前でわざわざパディと親しげにし、悪評を立てる。それをイライザ王太女の耳に届けるのだ。
そしてお咎めはすぐにやって来た。
「貴女、どういうつもりですの? ワタクシの婚約者に近づいて、不快ですの。ふしだらな行動は慎んでほしいですの。わかりましたの?」
「お、恐れながら、イライザ王太女殿下。あたしとパディ様の関係はあくまで友人同士で、で、殿下が不安に思っているような関係では、ありません」
わざとおどおどと上目遣いで答えた。
男はこれを好むが、女はこういう態度を嫌う。そしてイライザ王太女も例外ではなかった。
「わざとらしい。これ以上ワタクシの婚約者に近づかないでくださいですの!」
「で、でもあたしは彼と友人なんです。本当です……!」
イライザ王太女は肩を怒らせながら歩き去って行った。
完全にあたしの予想通りの展開。どうして全員が全員こんなにもわかりやすいのかしら。
そうしてイライザが襲来した直後、まもなくパディがやって来た。
「おおルイーズ。会いたかったよ」
「ぱ、パディ様! あたし、とっても、とぉっても怖かったんですぅ……」
あたしは早速パディに泣きついた。甘ったるい声を少し出せば彼はあたしの言うことを何でも聞いてくれるからね。
……あたしへ向けられる彼の薄緑色の瞳には、熱に浮かされたような色を帯びている。これが恋ってやつのかしら、とあたしはふと思った。
そういえばあたしは本物の恋というものをしたことがない。
こうして男を落とすことは何度もした。けれど一度たりとも恋心を抱かなかった。それより何より『泥棒猫』として帝国が遣わせた人間兵器であるあたしは、決して恋をしてはいけないのだ。恋は人間を盲目にするからと、皇帝は言っていた。
男たちの甘い視線を受けて、これに酔ってしまいたいな、と思うこともある。
しかしそれは許されない。あたしはパディを見つめながらキュッと唇を噛み締めた。
「……イーズ。ルイーズ、聞いているかい?」
「あっ。す、すみません。つい、パディ様に見惚れてしまい」
「ははは、嬉しいなぁ。ともかくイライザには僕が厳しく言っておこう。君にこれ以上不安な思いをさせることはないと誓うよ」
「わ、かりました。よろしくお願い……します」
うっかり話を聞きそびれていた。危ない危ない。
どうやらパディはイライザに何か言いつけるつもりらしかった。身分が低いパディから何か言うのはどうだろうと思ったが、すでにあたしの手駒でしかないパディにはそこまでの考えがないのだろう。
ふふふ、面白い。人間を手玉に取れるというのは気持ちいいものね――。
「――そこで何してんだ、お前。パディ上爵令息と密会か?」
ちょうどいい気分に浸っていたところで、あたしの耳にそんな声が届いた。
「げ」と思い振り返ると、そこにはあいつがいた。
「ローゼイン、様ぁ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「パディ、この女と最近遊び回ってるそうだな」
「……人聞きの悪い。僕と彼女は『真実の愛』で結ばれているんだ」
「はっ! 笑わせてくれる。その女はな、昨日も俺に『愛してる』って言って来たんだぜ? 薄っぺらなピッチ娘に騙されるとは、お前も随分馬鹿になったもんだな」
「何! 僕はともかく彼女を侮辱するのは許さないぞ!」
――まずい。
基本、ターゲット同士が出会うことはよろしくない事案である。だが両者共にあたしの手に落ちてさえいればなんとか収めることはできる。
しかし今回の場合、ローゼインは魅了できていない。方法としては今この瞬間に魅了することだが、おそらくそれは叶わないだろう。
あたしは頭をフル回転させ、それから馬鹿な女のフリをすることに決めた。
「ローゼイン様ぁ。パディ様とは、友人なんですぅ。み、密会だなんて言わないでくださいよぉ……」
本当ならここでパディからの非難がましい目が向けられるはずである。しかし、すっかりあたしの操り人形のパディは何の疑いもなくうんうんと頷いた。
「そうだ。僕と彼女は決して卑しい関係じゃあない。ローゼイン、いくら彼女が美しいからと嫉妬するなんて意地汚いよ」
「美しい? その女が? ふしだらの間違いじゃないか?」
このままでは二人が喧嘩を始めてしまう。あたしにとってそれは非常にまずいことだった。決定的な場――婚約破棄劇という最終の舞台まで、ことを荒立てたくはないのだ。
「ローゼイン様。誤解があるなら、あたしが誠心誠意お話ししますっ。だ、だからぁ、パディ様と喧嘩なさらないでください……!」
「ふんっ。ルイーズがこう言っているから今日のところは見逃すけど、今度彼女を侮辱した時は許さないからね」
「パディ、お前……。イライザ殿下を好きなんじゃなかったのかよ?」
「あんな女、ルイーズと比べれば月とすっぽんだよ」
ローゼインはパディをキッと睨むと、あたしの手をぐんと引いて歩き出した。二人だけの個室に連れて行く気だ。
魅了の効かない相手と二人きり、あたしは切り抜けることができるだろうか。大きな不安を抱えつつ、あたしは連れて行かれるままに部屋へ入った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
連れて来られたのは休憩室だった。他には誰もいない。あたしとローゼインはソファに座って向き合い、話を始めた。
「お前、パディに何かしただろ」
開口一番に言われたのがその言葉だった。
あたしはしばし戸惑ったように唇を震わせて見せ……ゆるゆると首を振った。
「な、何もしてません……。下爵家の娘でしかないあたしには、パディ様は不相応な方だと、思っています」
「でも教皇の息子である俺には求婚に近い行為を繰り返している。上爵よりは教皇の方が地位が高いのは、誰でも知っていることだろう」
「は、はい。ですがあたし、ローゼイン様をどうしようもなく、好きになって、しまったんです……」
――できるだけ色目を使い、あたしは言葉を紡ぐ。魅了の魔法が効かない分こうするしかなかったが、やはりそれでも彼を手懐けることはできなかった。
「お前が狙ってるのはなんだ。地位か、金か、男か?」
「あ、あたしは、別に、何も……」
「答えろ」
「ですから」
「お前の目が語ってる。パディに対しても俺に対しても、好意なんかちっともないってな。まるでそう……ゲームだ。盤ゲームのコマを見ているみたいなんだよ、お前は」
こんなに勘の鋭い男を、あたしは他に知らない。
取り繕うのは難しそうだ。そう思って黙っていると、彼はため息を漏らし、
「お前が何者かはわからんが、イライザ殿下に危害を及ぼす可能性がある以上、俺は放っておくわけにはいかない。とりあえずあいつらに相談するとするか……」
あいつら、とはおそらく側近候補たちのことに違いない。それならすでにあたし側についているのだが、ローゼインはまだ知らないだろう。
「――せいぜい気をつけろ。あまり派手なことをしたら、聖王様に言いつける」
あたしは怯えたような様子を見せながら、小さく頷いた。
ここからだ。あたしと彼、ローゼインとの戦いがが始まったのは――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あたしはイライザ王太女の側近たちに言って、彼女の不貞を捏造することにした。
『ローゼインとイライザがふしだらなことをしているところを見た者が多数いる』。この噂を発生源がわからないようにして流させ、さも本当のことのように周囲に浸透させていくのだ。
王太女の不貞、それはすなわち婚約破棄の理由。こちら側が正義になるための重要な布石。
その一方でローゼインも負けてはいず、あたしがパディを手中に落としていること、側近たちがおかしいことなどを周囲の者に知らせている様子だった。あたしはなるべくその話を抹消することに奮闘したが、それでもあちらの方が聖王と教皇という後ろ盾がいる以上一枚上手だった。
聖王と教皇も落とせばいいだけの話なのだが、未だ彼らとの接触の機会が測れないのである。対面しなければ魅了できないのがあたしの魔法の欠点だった。……すぐ近くにいても魅了できない奴が一人だけいるが、それは除外しておく。
「これもきっとローゼインのせいよね。……ああもうほんとあいつ、むかつく! なんであたしの思い通りにならないのよ!!!」
「人間そう簡単に思い通りになるかよ。それとも、俺以外の人間はそうなのか?」
「――ッ!」
廊下で独り言を思わず叫んでいたところへ、背後から声がしたのであたしは飛び上がった。
振り返らずともわかる。なんで、という思いと共に、胸が早鐘を打った。
――もしかしてずっと、あたしは監視されている?
「ろ、ローゼイン様ぁ……」
甘えた声を出してみるが、彼の灰色の瞳に揺らぎはない。静かな怒りを込めた声でローゼインは言った。
「怪しい行動はするなと言ったよな?」
激しく鼓動を繰り返す胸。
決定的瞬間を見られた。今すぐ逃げなくては、と自分の中で警報が鳴り響く。
でも逃げたところでどうなる? 問題が先延ばしになるか、はたまた悪化するだけだ。
あたしは精一杯の笑顔を浮かべた。
「あは、聞かれちゃいましたぁ? さすがはあたしのローゼイン様! 素敵ですッ!」
「いいから本当のことを話せよ」
背の高い彼に迫られ、あたしは思わずビクッとなった。
ここで捕まったらおしまいだ。とりあえず逃走ルートを確保しようと思ったが、すでに壁際まで追い詰められてしまっていた。
冷や汗が背中を伝う。
「……なかなかやりますねぇ、ローゼイン様。ここを見られたらますますあなたの評判が地に落ちると思うんですけど?」
「そんなことはどうでもいい。そもそも、俺は元よりあんまり人に好かれないタイプなんでな」
――そうでしょうね。
「あたしを脅しても、何も出て来やしませんよ?」
「お前はやめない気なのか」
「何をでしょう? あたし、全く心当たりがありません。パディ様とのことでしたら、本当にお友達なだけですしぃ」
「あのベタベタが友達? 冗談も休み休みに言えっての」
さらに詰め寄られる。胸ぐらを掴まれたような錯覚に陥りながら、必死で今助かる方法を考えていた――ちょうどその時。
「「「「ルイーズに近寄るな!」」」」
あたしの奴隷……じゃなかった、友人たちが助けに来てくれたのは。
「ルイーズがいないから心配して来てみれば」
「やいローゼイン。女の子に迫るなんて卑怯だぞ」
「イライザ殿下の側近候補として恥ずかしくはないのか」
「教皇様が嘆かれるぞローゼイン。ルイーズ、大丈夫だったか」
すっかりあたしの騎士様気取りの彼らは、今まで優勢だったローゼインを囲んで罵倒し始めた。
……ふぅ、なんとか今は助かったみたい。
なぜか今も鼓動の早いままの胸を押さえながら、あたしは安堵に息を漏らす。
『泥棒猫』たるあたしがここまで追い詰められるだなんて。少しローゼインを舐めすぎていたようだとあたしは反省する。それから王太女の側近とパディに激しく糾弾されるローゼインを残し、逃げるように自分の教室へと走り戻った。
しかしこれが一時的な休戦でしかないことくらいあたしにもわかっている。
次こそはローゼインの攻撃をかわし、彼へダメージを与えてやる方法をしっかり考えなくては。次の授業時間の間中ずっとそのことに頭を悩ませることになったのだった。
――なんとしてもローゼインに勝ってみせるんだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
気づけばあたしは、ローゼインの心を手に入れることだけに夢中になってしまっていた。
パディも、聖騎士団長の息子も、宰相の息子も、中爵家の息子も。
そんなのはみんなどうでもいい。適当に媚びを売っていればいいだけのおもちゃだ。
しかし彼、ローゼインだけは違う。このあたしがどんなに愛想良く振る舞っても、はたまたそっけなく見せても、決して落ちてくれない。
逃げる敵ほど追いたくなるのは獣の本性だが、それに近かったのだと思う。あたしは必死でローゼインを手に入れようと奮闘した。冷たくされればされるほど、「イライザ殿下に危害は及ばさせない」と敵意を向けられれば向けられるほど、欲しくなる。
手に入れてしまいたくなる。
――そんなある日、ふと、気づいてしまったのだ。
そんなはずはないと思った。けれど、胸の高鳴りは、そして彼への執着心は、日に日に高まっていって。
……これは恋心というやつではないだろうか?
「このあたしが、恋だなんて」
馬鹿げている。何かの間違いだと笑ってしまいたかった。
皇帝陛下に拾われた時、言われたではないか。
『金も身分も食も、思う存分与えてやろう。だが恋だけはするな。お前が任務を忘れた時、それはお前が死ぬ時だと思え』
だからこの変な感情は、きっと気のせいだ。
心の内側まで探って来るような彼の灰色の瞳に見つめられてドキドキするのだって、ただの恐怖から来るもので、決して恋などというものではないはずだ。
そうでなければあたしは任務を遂行できない。その時には死が待っている――。
「どうしたんだいルイーズ。近頃は元気がないね? もしかしてイライザに何か酷いことでも言われたのかい?」
ふと柔らかな声がして、あたしは振り返った。
そこには金髪の少年が立っている。しかしあたしは彼を見ても何も思わなかった。
――こんな男はいらない。
パディは優しく物腰柔らかく、とてもいい男なはずだ。
しかしあたしはこれ以上こんなクズといるのが苦痛でならなかった。そして内心であの男と目の前の男を比較している自分が嫌だった。
だからもう、早く終わらせてしまうことにしよう。
「は、はい。あたし、とっても、怖くてぇっ。だからぁっ! パディ様があたしを守って、イライザ様と婚約破棄してくださいっ!」
パディはしばらくの沈黙の後、「わかった」と使命感に駆られた顔で頷いた。
何が使命感だ。何がわかった、だ。
あんたは何もわかっていない。あたしが今どんな気持ちであんたを見ているか、少しだって考えていないくせに。
恋に酔いしれるなんていいご身分だこと。
あたしは舌打ちしたいのを精一杯堪え、甘い笑顔でパディに絡みつく。
その後すぐに王太女の側近たちにも根回しし、近く開かれる『聖星祭』という祝いの場で婚約破棄を行うことが決定した。
これで何もかもに決着がつく。それでいい。それでいいのだ。
なのに痛むこの胸は一体なんだというのだろう。あたしはイライラして、血が滲むくらいに強く強く唇を噛んだのだった。
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