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24、25「最愛の裏切りを贈ろう」
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24
千鶴が戻ると、気を取り直して朝食となった。
文丈の料理は見た目だけでなく、味も絶品だった。スランプ中だという画業より、こっちの道に進んだらいいのではないだろうか。
食べ終えても香久耶は戻ってこなくて、僕らは珈琲を飲みながら談笑する。しかし僕の気はそぞろだ。実はみんなグルで誰も死んでいないんじゃないか……千鶴からそう指摘することになっているが、彼女は香久耶が戻るのを待つつもりなのだろう。
僕は洗濯物を干しに行くため一旦退席した。朝食の前に洗濯機を回していたのだ。
南の扉を出て廊下を進み、洗濯室の扉を開ける。
「あ……」
「え……」
沢子と目が合った。彼女は真正面に立っていた。
そして彼女の方が早く動いた。渾身のタックルを食らった僕は、堪らず床に尻餅をつく。その横を沢子が駆け抜けていく。
「沢子さん! 待ってください!」
彼女は階段の下で足を止め、怯えきった顔でこちらに振り向いた。
「うちは貧乏なんです。服は、盗まないと駄目なんですっ」
「はあ?」
「ごめんなさいっ」
階段を駆け上がっていく。僕も立ち上がって、その後を追う。
沢子は昨日に千鶴が着ていた服を着ている。僕が洗濯機にかけていたやつだ。盗まないと駄目って……そもそも千鶴の私服じゃなくて、此処の衣装室から借りたものなのだが。
彼女は図書室に逃げ込んだ。僕まで続いたのは判断ミスだった。本棚の入り組んだ配置のせいで迷路になっているから、探しているうちに出て行かれてしまったようだ。気付いて僕も廊下に出たころには、もう彼女の姿は見当たらなかった。
まだ屋敷の東側にいるはずだ。あるいは玄関から外に出たか。しかし僕ひとりで追い詰めるのは難しいだろう。それに、もうその必要もないんじゃないか?
僕は広間に戻った。香久耶はまだおらず、千鶴と文丈が談笑を続けている。僕は「沢子さんがいました。逃げられましたが」と、文丈に向けて云う。
「なに? また霊を見たのか?」
文丈はすっとぼけている。僕は千鶴の隣に腰掛けて珈琲を一口啜る。
「……やめてください。タネは全部、分かっているんですよ」
千鶴をちらと窺う。彼女から話してもらった方がいいかと迷ったけれど、まあいいだろう。とりあえず僕から話して、その後の追及は自然と彼女からしてくれるはずだ。
「落涙さんも沢子さんも、死んでいないんです。其処の畳の下に死体がないのも、昨日の夜に確かめました。脇にボールを挟んで、一時的に脈を止めていたんでしょう?」
「おいおい。どうしたんだよ、いきなり」
「沢子さんの死体はマネキンに服を着せているんです。それか、昨日話したみたいに、ロープで下りて死んだふりをしていたか……とにかく、ぜんぶ貴方たちのお芝居なんですよ」
僕としては、これで決定的に真相を叩きつけたつもりだった。
だが文丈は半笑いで、コーヒースプーンの先を僕の顔に向ける。
「鼻の穴が大きくなっているぞ、浦羽。落ち着けよ。正月みたいにな」
挑発だ。僕は冷静に応じなければならない。優位なのはこちらなのだ。
「誤魔化さないでください。目的はなんですか?」
「目的? パーパスということか? 空港以外でそんなことを訊かれるとはな」
「どう考えたってやり過ぎですよ。妨害電波を出したり、橋を爆破して閉じ込めたり」
「俺が? 爆破したと云うのか?」
「貴方たちがです。貴方は僕が沢子さんを捕まえられないように、彼女をかばったでしょう? 香久耶さんは落涙さんが見えていないふりをしたり。みんなグルだってことです」
「グルねえ。なにが語源だろうな? まさか、グループのグルじゃないよな?」
「文丈さん!」
僕は前のめりになる。対する文丈は掌を振り上げた。
「なんだよ。またケツを叩かれたいのか? バチコーン、バチコーンと、良い音を響かせながら。まるで太鼓のように。バチバチと。叩かれたいという、意思表示なのか?」
会話にならない。しかし、これは明らかに誤魔化しているじゃないか。彼に本当に心当たりがないなら、こんなふざけた返事ばかりするだろうか?
僕は千鶴に目を向ける。彼女は肩をすくめた。
「香久耶さんもいる場で話そうか。まだ酔っ払ってるかも知れないけど」
「ああ……ちょっと遅いよな? 大丈夫かな? 湯船で溺れていたり……」
「そう思って風呂の栓は抜いておいたよ。なのに遅いから、呼んでくるね」
彼女が北の扉から出て行くと、文丈も「それなら俺も持ってくるものがある」と云って南の扉から出て行った。ひとりになった僕はぬるくなった珈琲を飲んで待つ。
ちょっとカリカリし過ぎたかも知れない。慌てたって良いことなんてないのに。
あとは会話だけで済む話なのだ。出しゃばらずに、千鶴に任せよう……。
二、三分後、先に千鶴が戻ってきた。険しい表情で僕に告げる。
「道雄、来て。香久耶さんが死んでる」
25
「え?」
千鶴はまた引き返していく。僕も慌てて追いかける。
「死んでるって、どうして? 溺れたのか?」
「違う。殺されたの」
殺された? 誰に?
殺されたって――本当に?
突如として訪れる混乱。心拍数が上がっていく。
わけが分からないまま、洗面/脱衣所に到着する。中を通過して浴場へ。香久耶はサウナの扉の前で、床にうつ伏せで寝ていた。脇の下から太腿まで、桜柄のタオルを巻いている。背中に回された両手と両足には縄が巻かれて、見るからに堅く縛られている。
「し、死んでいるのか?」
「うん。ボールとかの余地なく、脈がないからね」
千鶴はサウナの扉を開けた。むわっとした熱気が溢れ出してくる。
「この中で縛られてたんだよ。急いで外に出したけど手遅れだった」
「熱中症ってことか?」
「おそらくね。泥酔状態だったから、なおさら水分が失われやすい」
「そのカードはなんだ?」
サウナ室内を覗き込むと、組まれた丸太の上に名刺サイズのカードが散乱している。僕が昨晩に這入ったときには、こんなものはなかった。
「かるただよ。意味は分からないけど。犯人が撒いていったみたい」
「かるた……?」
本当に意味が分からない。
僕は香久耶の死体を見下ろす。横を向いている死顔は、意外と穏やかだ。しかし全身が真っ赤になっている。びしょ濡れなのも、すべて汗なのだろうか。サウナの中に閉じ込められて死ぬなんて、想像を絶する苦痛だったに違いない……。
「急ぐよ、道雄」
「ああ――え? なにを?」
「事情が変わった。今すぐに沢子さんの転落死体を調べる」
足早に浴場を出て行く千鶴。有無を云わせない感じだ。彼女がこれほど切迫した様子を見せるのは珍しい。
思えば、自分が現場にいながらにして殺人が起きるのははじめてか? いつもは事件が起きた後で依頼を受け、現場に到着するとたちまち解決してしまうから。
「道雄、悪いけど死体のところまで下りて調べてくれる? ロープを使って、私とぶんじょーさんで下ろすから」
「あー……分かった。そうするしかないもんな……」
一瞬、躊躇ったけれど。怖いから嫌だとは云えない。
僕らは倉庫に這入り、様々な物が雑多に押し込まれている中から、誂え向きの長いロープを見つけた。僕がそれを肩に担ぐ。
広間に戻ると、文丈は椅子に座って大判の本を読んでいた。千鶴が状況を説明し、彼は自分も死体を確かめたいと云ったが、千鶴はそれよりも沢子の死体を確かめるのが先だと云って譲らなかった。その静かな迫力に文丈も負けた。
しかし、どうしてそれが、そんなに大事なのだろう? 必要なことだとは思うけれど、香久耶が殺されたせいでそれがなによりも先決になる理屈は、いまいちピンときていない。
千鶴を先頭にして、外に出た。今日も夏の太陽がギラギラと山岳を焼いている。
これから、ロープに吊るされて断崖を下りていくのだ。正直、めちゃくちゃ怖くて心臓がバクバクといっているが、必死で表に出さないようにする。
「文丈さん、その本はなんですか」
彼は広間で読んでいた大判の本を抱えて持ってきていた。
「卒業アルバムだよ」
「あっ、カレン高校のじゃないですか」
「当然だ。同じ高校だって話しただろう?」
「どうして持ってきてるんですか」
「お喋りはやめて」と、千鶴の厳しい声が飛んできた。彼女は崖のふちに立って、沢子の死体を見下ろしている。
僕と文丈も彼女を真似る。死体は昨日と変わらない場所に倒れていた。
マネキンのはずだけれど、どうだろう? 香久耶が殺された。沢子の死体も本物だとしたら……千鶴が確認を急ぐ理由はそれか?
「じゃあ道雄、お願い」
「ああ……」
顔が強張るけれど、まあ大丈夫だろう。大丈夫だ。大丈夫……。
ロープの端を物干し台に堅く結び付けて、もう一方の端を僕の腰に巻いて結ぶ。強く引っ張ってみても、外れそうな感じはない。どうせやるなら、嫌な想像が膨らんでいく前にさっさと済ませてしまうべきだ。
千鶴が段取りを説明して、僕も文丈もよく理解をしたうえで、始まった。
千鶴と文丈は物干し台の傍に立ち、ロープがピンと張る位置で掴むと、その場で踏ん張る。僕は崖のふちに立って、両手でロープをしっかりと握り、身体をゆっくりと後ろ向きに傾けていく。足にも力を入れて、バランスを取りながら、慎重に……。
「大丈夫? いける?」と問う千鶴に、首を縦に振る。声を発する余裕はない。「腰が引けてるぞー」と云う文丈のことは無視する。
身体がたぶん、水平の位置から四十五度くらいまで傾いた。身体は完全に崖の外側に出ている。その状態から、崖の側面に足が引っ掛かるようなでこぼこを探して、ゆっくりと下りていく。千鶴と文丈が「いっせーの、で!」の掛け声で、こぶしひとつぶん、ロープを握る位置を後ろにずらす。
ああ、もうやるしかない。集中力を切らすな……。
千鶴と文丈の掛け声に合わせて、一歩、一歩と下りていく。絶妙なバランスで。しかし万が一バランスを崩しても、ロープで吊るされることになるだけだ。転落することはない。大丈夫。大丈夫……。
そうやって、十数分はかかっただろう。僕はようやく十五メートルほどを下りきって、沢子の死体がある、岩が出っ張っている場所に足をつけるに至った。広さは三畳ほど。ほとんど平らになっていて、ここでバランスを崩す心配はなさそうだ。
「着いたぞー」と大声で報せると、「手を離すよー」の返事があってロープが緩む。ああ、すっかり汗だくだし、ずっとロープを握っていた手は痛くて真っ赤になっている。想像以上に大変だった……。
僕は早速、沢子の死体の傍らに膝をつく。この距離からでは、よく見るまでもない。千鶴が予想していたとおり、マネキンだった。沢子の服を着て、ウィッグをかぶっているだけだ。死体を中心に広がっている血液も、血のりだろう。
「道雄ー」という声が降ってきて、顔を上げる。千鶴と文丈が覗き込んでいる。
「やっぱりマネキンだぞー」
「ごめんねー、道雄ー」
「大丈夫だー」
「そうじゃなくてー、これー」
千鶴が手を振っている。
目を凝らすと、どうやらロープの端を持って、見せているらしいと分かった。
「どうしたんだー? ほどけちゃったのかー?」
「違うー。切ったんだよー」
なにを云っているのか、よく分からない。
聞き取れてはいるけれど、意味が……。
「なんで切ったんだよー」
「ごめんねー、道雄ー」
千鶴は手を離した。ロープがずるずるずるずるっと崖の側面にこすれて、僕の足元に落ちてきた。
驚愕のあまり、なにも云えなくなった。
文丈が「よお!」と声を掛けてくる。
「きみは俺たちに、騙されたんだぜえええええええっ!」
なに、云ってんだ?
唖然とする僕に、千鶴がまた「ごめんねー、道雄ー」と謝る。
「理解しているかああ? 浦羽ええ! 俺と宮代はああ、出来てんだよおお! お前のおお、邪魔がああ、ないところでええ! これからああ、メイク・ラブするぜええ!」
うひゃひゃひゃ、うひゃひゃひゃひゃと腹を抱えて笑う文丈。
「ごめんねー、道雄ー」
「おい……ふざけんなって! 全然……笑えないぞ!」
「そうかああ? 俺はああ、大爆笑だああ! うひゃひゃひゃひゃ!」
「ごめんねー、道雄ー」
「千鶴! おい! 千鶴! どういうことだよ!」
僕を裏切ったのか? 千鶴が? 文丈と――出来ている? メイク・ラブ?
「千鶴! 説明しろよ! おい!」
「宮代はああ、俺のものだあああああああああ!」
文丈の姿が消える。すぐにまた現れる。
「大丈夫だよなああ! 真っすぐ落ちるよなああ? キャッチしようとするなああ! 足元に落ちたら、拾えええ! いいかああ? キャッチしようとするなよおお!」
彼は例の卒業アルバムを崖の外側に差し出して、手を離した。それは真っすぐ、沢子の服を着たマネキンの上に落ちる。
「よっしゃあああああ! あばよおおお! 浦羽えええええ!」
「ごめんねー、道雄ー」
二人の姿が消える。嘘だろ? おい!
「おい! 戻って来いよ! おい! おおおおい!」
いつまで経っても、ふたりがまた現れることはなかった。
戸惑いが、怒りに変わり、悲しみに変わり、絶望に変わっても。
僕の枯れた声が、渓谷にひたすら虚しく響き渡るだけだった。
千鶴が戻ると、気を取り直して朝食となった。
文丈の料理は見た目だけでなく、味も絶品だった。スランプ中だという画業より、こっちの道に進んだらいいのではないだろうか。
食べ終えても香久耶は戻ってこなくて、僕らは珈琲を飲みながら談笑する。しかし僕の気はそぞろだ。実はみんなグルで誰も死んでいないんじゃないか……千鶴からそう指摘することになっているが、彼女は香久耶が戻るのを待つつもりなのだろう。
僕は洗濯物を干しに行くため一旦退席した。朝食の前に洗濯機を回していたのだ。
南の扉を出て廊下を進み、洗濯室の扉を開ける。
「あ……」
「え……」
沢子と目が合った。彼女は真正面に立っていた。
そして彼女の方が早く動いた。渾身のタックルを食らった僕は、堪らず床に尻餅をつく。その横を沢子が駆け抜けていく。
「沢子さん! 待ってください!」
彼女は階段の下で足を止め、怯えきった顔でこちらに振り向いた。
「うちは貧乏なんです。服は、盗まないと駄目なんですっ」
「はあ?」
「ごめんなさいっ」
階段を駆け上がっていく。僕も立ち上がって、その後を追う。
沢子は昨日に千鶴が着ていた服を着ている。僕が洗濯機にかけていたやつだ。盗まないと駄目って……そもそも千鶴の私服じゃなくて、此処の衣装室から借りたものなのだが。
彼女は図書室に逃げ込んだ。僕まで続いたのは判断ミスだった。本棚の入り組んだ配置のせいで迷路になっているから、探しているうちに出て行かれてしまったようだ。気付いて僕も廊下に出たころには、もう彼女の姿は見当たらなかった。
まだ屋敷の東側にいるはずだ。あるいは玄関から外に出たか。しかし僕ひとりで追い詰めるのは難しいだろう。それに、もうその必要もないんじゃないか?
僕は広間に戻った。香久耶はまだおらず、千鶴と文丈が談笑を続けている。僕は「沢子さんがいました。逃げられましたが」と、文丈に向けて云う。
「なに? また霊を見たのか?」
文丈はすっとぼけている。僕は千鶴の隣に腰掛けて珈琲を一口啜る。
「……やめてください。タネは全部、分かっているんですよ」
千鶴をちらと窺う。彼女から話してもらった方がいいかと迷ったけれど、まあいいだろう。とりあえず僕から話して、その後の追及は自然と彼女からしてくれるはずだ。
「落涙さんも沢子さんも、死んでいないんです。其処の畳の下に死体がないのも、昨日の夜に確かめました。脇にボールを挟んで、一時的に脈を止めていたんでしょう?」
「おいおい。どうしたんだよ、いきなり」
「沢子さんの死体はマネキンに服を着せているんです。それか、昨日話したみたいに、ロープで下りて死んだふりをしていたか……とにかく、ぜんぶ貴方たちのお芝居なんですよ」
僕としては、これで決定的に真相を叩きつけたつもりだった。
だが文丈は半笑いで、コーヒースプーンの先を僕の顔に向ける。
「鼻の穴が大きくなっているぞ、浦羽。落ち着けよ。正月みたいにな」
挑発だ。僕は冷静に応じなければならない。優位なのはこちらなのだ。
「誤魔化さないでください。目的はなんですか?」
「目的? パーパスということか? 空港以外でそんなことを訊かれるとはな」
「どう考えたってやり過ぎですよ。妨害電波を出したり、橋を爆破して閉じ込めたり」
「俺が? 爆破したと云うのか?」
「貴方たちがです。貴方は僕が沢子さんを捕まえられないように、彼女をかばったでしょう? 香久耶さんは落涙さんが見えていないふりをしたり。みんなグルだってことです」
「グルねえ。なにが語源だろうな? まさか、グループのグルじゃないよな?」
「文丈さん!」
僕は前のめりになる。対する文丈は掌を振り上げた。
「なんだよ。またケツを叩かれたいのか? バチコーン、バチコーンと、良い音を響かせながら。まるで太鼓のように。バチバチと。叩かれたいという、意思表示なのか?」
会話にならない。しかし、これは明らかに誤魔化しているじゃないか。彼に本当に心当たりがないなら、こんなふざけた返事ばかりするだろうか?
僕は千鶴に目を向ける。彼女は肩をすくめた。
「香久耶さんもいる場で話そうか。まだ酔っ払ってるかも知れないけど」
「ああ……ちょっと遅いよな? 大丈夫かな? 湯船で溺れていたり……」
「そう思って風呂の栓は抜いておいたよ。なのに遅いから、呼んでくるね」
彼女が北の扉から出て行くと、文丈も「それなら俺も持ってくるものがある」と云って南の扉から出て行った。ひとりになった僕はぬるくなった珈琲を飲んで待つ。
ちょっとカリカリし過ぎたかも知れない。慌てたって良いことなんてないのに。
あとは会話だけで済む話なのだ。出しゃばらずに、千鶴に任せよう……。
二、三分後、先に千鶴が戻ってきた。険しい表情で僕に告げる。
「道雄、来て。香久耶さんが死んでる」
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「え?」
千鶴はまた引き返していく。僕も慌てて追いかける。
「死んでるって、どうして? 溺れたのか?」
「違う。殺されたの」
殺された? 誰に?
殺されたって――本当に?
突如として訪れる混乱。心拍数が上がっていく。
わけが分からないまま、洗面/脱衣所に到着する。中を通過して浴場へ。香久耶はサウナの扉の前で、床にうつ伏せで寝ていた。脇の下から太腿まで、桜柄のタオルを巻いている。背中に回された両手と両足には縄が巻かれて、見るからに堅く縛られている。
「し、死んでいるのか?」
「うん。ボールとかの余地なく、脈がないからね」
千鶴はサウナの扉を開けた。むわっとした熱気が溢れ出してくる。
「この中で縛られてたんだよ。急いで外に出したけど手遅れだった」
「熱中症ってことか?」
「おそらくね。泥酔状態だったから、なおさら水分が失われやすい」
「そのカードはなんだ?」
サウナ室内を覗き込むと、組まれた丸太の上に名刺サイズのカードが散乱している。僕が昨晩に這入ったときには、こんなものはなかった。
「かるただよ。意味は分からないけど。犯人が撒いていったみたい」
「かるた……?」
本当に意味が分からない。
僕は香久耶の死体を見下ろす。横を向いている死顔は、意外と穏やかだ。しかし全身が真っ赤になっている。びしょ濡れなのも、すべて汗なのだろうか。サウナの中に閉じ込められて死ぬなんて、想像を絶する苦痛だったに違いない……。
「急ぐよ、道雄」
「ああ――え? なにを?」
「事情が変わった。今すぐに沢子さんの転落死体を調べる」
足早に浴場を出て行く千鶴。有無を云わせない感じだ。彼女がこれほど切迫した様子を見せるのは珍しい。
思えば、自分が現場にいながらにして殺人が起きるのははじめてか? いつもは事件が起きた後で依頼を受け、現場に到着するとたちまち解決してしまうから。
「道雄、悪いけど死体のところまで下りて調べてくれる? ロープを使って、私とぶんじょーさんで下ろすから」
「あー……分かった。そうするしかないもんな……」
一瞬、躊躇ったけれど。怖いから嫌だとは云えない。
僕らは倉庫に這入り、様々な物が雑多に押し込まれている中から、誂え向きの長いロープを見つけた。僕がそれを肩に担ぐ。
広間に戻ると、文丈は椅子に座って大判の本を読んでいた。千鶴が状況を説明し、彼は自分も死体を確かめたいと云ったが、千鶴はそれよりも沢子の死体を確かめるのが先だと云って譲らなかった。その静かな迫力に文丈も負けた。
しかし、どうしてそれが、そんなに大事なのだろう? 必要なことだとは思うけれど、香久耶が殺されたせいでそれがなによりも先決になる理屈は、いまいちピンときていない。
千鶴を先頭にして、外に出た。今日も夏の太陽がギラギラと山岳を焼いている。
これから、ロープに吊るされて断崖を下りていくのだ。正直、めちゃくちゃ怖くて心臓がバクバクといっているが、必死で表に出さないようにする。
「文丈さん、その本はなんですか」
彼は広間で読んでいた大判の本を抱えて持ってきていた。
「卒業アルバムだよ」
「あっ、カレン高校のじゃないですか」
「当然だ。同じ高校だって話しただろう?」
「どうして持ってきてるんですか」
「お喋りはやめて」と、千鶴の厳しい声が飛んできた。彼女は崖のふちに立って、沢子の死体を見下ろしている。
僕と文丈も彼女を真似る。死体は昨日と変わらない場所に倒れていた。
マネキンのはずだけれど、どうだろう? 香久耶が殺された。沢子の死体も本物だとしたら……千鶴が確認を急ぐ理由はそれか?
「じゃあ道雄、お願い」
「ああ……」
顔が強張るけれど、まあ大丈夫だろう。大丈夫だ。大丈夫……。
ロープの端を物干し台に堅く結び付けて、もう一方の端を僕の腰に巻いて結ぶ。強く引っ張ってみても、外れそうな感じはない。どうせやるなら、嫌な想像が膨らんでいく前にさっさと済ませてしまうべきだ。
千鶴が段取りを説明して、僕も文丈もよく理解をしたうえで、始まった。
千鶴と文丈は物干し台の傍に立ち、ロープがピンと張る位置で掴むと、その場で踏ん張る。僕は崖のふちに立って、両手でロープをしっかりと握り、身体をゆっくりと後ろ向きに傾けていく。足にも力を入れて、バランスを取りながら、慎重に……。
「大丈夫? いける?」と問う千鶴に、首を縦に振る。声を発する余裕はない。「腰が引けてるぞー」と云う文丈のことは無視する。
身体がたぶん、水平の位置から四十五度くらいまで傾いた。身体は完全に崖の外側に出ている。その状態から、崖の側面に足が引っ掛かるようなでこぼこを探して、ゆっくりと下りていく。千鶴と文丈が「いっせーの、で!」の掛け声で、こぶしひとつぶん、ロープを握る位置を後ろにずらす。
ああ、もうやるしかない。集中力を切らすな……。
千鶴と文丈の掛け声に合わせて、一歩、一歩と下りていく。絶妙なバランスで。しかし万が一バランスを崩しても、ロープで吊るされることになるだけだ。転落することはない。大丈夫。大丈夫……。
そうやって、十数分はかかっただろう。僕はようやく十五メートルほどを下りきって、沢子の死体がある、岩が出っ張っている場所に足をつけるに至った。広さは三畳ほど。ほとんど平らになっていて、ここでバランスを崩す心配はなさそうだ。
「着いたぞー」と大声で報せると、「手を離すよー」の返事があってロープが緩む。ああ、すっかり汗だくだし、ずっとロープを握っていた手は痛くて真っ赤になっている。想像以上に大変だった……。
僕は早速、沢子の死体の傍らに膝をつく。この距離からでは、よく見るまでもない。千鶴が予想していたとおり、マネキンだった。沢子の服を着て、ウィッグをかぶっているだけだ。死体を中心に広がっている血液も、血のりだろう。
「道雄ー」という声が降ってきて、顔を上げる。千鶴と文丈が覗き込んでいる。
「やっぱりマネキンだぞー」
「ごめんねー、道雄ー」
「大丈夫だー」
「そうじゃなくてー、これー」
千鶴が手を振っている。
目を凝らすと、どうやらロープの端を持って、見せているらしいと分かった。
「どうしたんだー? ほどけちゃったのかー?」
「違うー。切ったんだよー」
なにを云っているのか、よく分からない。
聞き取れてはいるけれど、意味が……。
「なんで切ったんだよー」
「ごめんねー、道雄ー」
千鶴は手を離した。ロープがずるずるずるずるっと崖の側面にこすれて、僕の足元に落ちてきた。
驚愕のあまり、なにも云えなくなった。
文丈が「よお!」と声を掛けてくる。
「きみは俺たちに、騙されたんだぜえええええええっ!」
なに、云ってんだ?
唖然とする僕に、千鶴がまた「ごめんねー、道雄ー」と謝る。
「理解しているかああ? 浦羽ええ! 俺と宮代はああ、出来てんだよおお! お前のおお、邪魔がああ、ないところでええ! これからああ、メイク・ラブするぜええ!」
うひゃひゃひゃ、うひゃひゃひゃひゃと腹を抱えて笑う文丈。
「ごめんねー、道雄ー」
「おい……ふざけんなって! 全然……笑えないぞ!」
「そうかああ? 俺はああ、大爆笑だああ! うひゃひゃひゃひゃ!」
「ごめんねー、道雄ー」
「千鶴! おい! 千鶴! どういうことだよ!」
僕を裏切ったのか? 千鶴が? 文丈と――出来ている? メイク・ラブ?
「千鶴! 説明しろよ! おい!」
「宮代はああ、俺のものだあああああああああ!」
文丈の姿が消える。すぐにまた現れる。
「大丈夫だよなああ! 真っすぐ落ちるよなああ? キャッチしようとするなああ! 足元に落ちたら、拾えええ! いいかああ? キャッチしようとするなよおお!」
彼は例の卒業アルバムを崖の外側に差し出して、手を離した。それは真っすぐ、沢子の服を着たマネキンの上に落ちる。
「よっしゃあああああ! あばよおおお! 浦羽えええええ!」
「ごめんねー、道雄ー」
二人の姿が消える。嘘だろ? おい!
「おい! 戻って来いよ! おい! おおおおい!」
いつまで経っても、ふたりがまた現れることはなかった。
戸惑いが、怒りに変わり、悲しみに変わり、絶望に変わっても。
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