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敬虔なる父の有難き説教
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しかし〈愛の巣〉へと向かいながら、段々と苛立ちが込み上げてきた。なぜって……さっきは困った低能に付き合わされたものだとしか思ってなかったんだけれど、思い返してみるに、僕はちょっと喋りすぎたってことに気付いたんだ。それも、まんまと乗せられたって云うか……あの妙に会話が噛み合わない感じは意図されたもので、つまり僕の能力を引き出すために油断させるなり反発させるなりする方策だったんじゃないか?ってな疑問が湧き上がり、ぐるぐると回り始めたんだ。
『目的は達成された』――去り際に海老川さんはそう云った。これも今更になって、えらく意味深調だったような気がしてきた。そういう見方に立てば、彼女の振る舞いは秀逸なヒット・アンド・アウェイ戦法にも映る。
あー……憎たらしい。何が憎たらしいって、やっぱり彼女はただの自惚れやな低能に過ぎず、これら一切は僕が無駄に深読みしてるだけかも知れないって可能性も大いにあるところだよ。結局、僕は海老川蝶子という自称探偵の能力について正確なところが分からなくなってしまったんだ。ところが僕の方は無防備にも、有能なところを見せすぎたんだな。
そしてこの場合、事態をよりややこしくしているのは――根拠が単なる勘ってのには呆れたけれど、それでも海老川さんのそれはまるきり見当違いでもなかったって点だよ。僕が脳姦殺人が行われたその時その場に居合わせたのは事実だし、その点で他の野次馬たちと事情が異なったのも本当だからね。ただし、犯人じゃない――そう、ここなんだ。〈通報をしなかった第一発見者〉というのは誰にとっても一種イレギュラー的存在で、しかも当人からすれば、まったく後ろ暗いところがないってわけでもないのが厄介だ。これで痛くもない腹を探られるなんて、なんとも馬鹿馬鹿しいじゃないか。どうしてこんな余計な気苦労を背負わにゃいけない?
〈知らない人について行っちゃ駄目〉と幼稚園や小学校では繰り返されるが、ありゃあ真理だね。何の義理もないんだから、無視しときゃよかったんだ。
脳姦殺人に関わったことで、僕はちょっと調子が狂ってたんだろうか? 普段よりも気が大きくなって、その分、落ち着きを欠いていたんだろうか? ハシャいでいたんだろうか? うん、これは本当に情けないことだよ。情けなくて、腹立たしいことだ。
海老川蝶子の名刺はぐしゃっと丸めて捨てた。
〈愛の巣〉に帰り着くと今度は「刹くぅん、寂しかったぁ、どうしてこんな酷いことするのぉ?」だなんて泣き顔の百合莉に迎えられて、また少しイラっとした。何だか僕の周りには間抜けしかいないように思われて気が滅入ったんだ。
こういうときはひとりになりたい。
「ちょっと色々あってね、僕は疲れちまったよ。公衆トイレは大賑わいだったね。あそこは当分使えないだろう……うん、しばらく休ませてくれ」
それだけ告げて寝室に足を向けかけたけれど思い直して、そそくさと書斎に引っ込んだ。そして施錠。これで百合莉がゴネて扉をノックしてこようものなら僕とて冷酷な対応を取らざるを得なかっただろうが、さすがに彼女はそこまで気が遣えない子じゃなかった。良かったよ。アームチェアに腰を下ろして、僕は目を閉じた。
『この場は単なるファースト・コンタクト』――海老川さんは再び僕の前に現れるつもりだろう。僕を脳姦殺人の犯人、そうでなくとも関係者であると疑って。
どうする? 本当のことを告げても別にいいんじゃないか? 誤魔化す方法だっていくらでもありそうだが……「いや、」……ここで愉快な〈反転〉が起きた。僕が苛立っているのは先程の一幕で術中に嵌められていたのかも知れないという屈辱と、今後も続いていく面倒事への憂慮が原因なわけだが、そう気に病む必要もないじゃないかってね。
海老川蝶子をせいぜい弄んでしまえばいい。犯人でない僕ははじめから追い詰められることがないと決定しているのだから、関われば関わるだけ結局はあちらが馬鹿を見るんだ。しかも……「そうだ、」……上手くやれば、僕はあの探偵から脳姦殺人の情報を引き出すことができるんじゃないか? 彼女の推理力が信用できたものかは分からないけれど、早くから死体発見現場で張っていたのが事実である以上、警察と繋がっているってのは本当だろう。そう、僕は何もリスクを負うことなく――向こうが勝手に突っかかってくるだけなんだからな――捜査関係者でしか知り得ないところまで踏み込んでいけるかも知れない。
「…………はぁん」
こいつは面白いアイデアだ。年甲斐もなく気分が弾んだねぇ。今後への憂慮は楽しみへと転化したんだし、事が上手くいったなら先程の一幕なんて全然チャラでいい。ウルトラCってやつだよ。
僕は椅子の上で伸びをした。もう苛立ちはなくて、むしろ早く再会したいくらいな気持ちになっていた。何をカリカリしてたんだって、そっちの方が恥ずかしくなったね。
……でもちょっと経ってから、不意に疑問が起こった。大したことはない素朴なそれだったけれど、でも不思議だぜ……つまり、海老川さんは僕の名前すら訊こうとしなかっただろう? じゃあ、どうやって僕を探すつもりなんだ?ってね。
公衆トイレが使えなくなったことで、僕はいい加減〈愛の巣〉から火津路駅の途中で寄り道して百合莉を慰めるという工程が億劫になった。そこで懸命な説得を行い、お別れの〈ふんぎり〉は〈愛の巣〉内でしっかり付けてから真っ直ぐ彼女を駅まで送ることにさせた。駄々をこねられないよう、それを拒絶する態度を滲ませてだよ。百合莉はかなりナイーブになってる様子だったけど、甘やかしてばかりもいられないからな。僕は恋人であってカウンセラーじゃないんだし、たまにはこっちの意見を通させてもらわなくちゃ。
いやぁそうしてみると、なんと帰りのスムーズだったこと。今までの〈残業〉がどれほど体力を使う仕事だったのか、なくなってはじめて分かったねぇ。でも帰宅してみると、どうにも憂鬱な展開が待っていたんだ。
「昨夜は何処に行ってたのだ」
父親だよ。熱気がこもった薄暗い居間のテーブルに肘をついて、一本だけ灯した蝋燭にぼぉっと照らされた陰気なツラで一丁前に僕を睨みつけてやがったんだな。もしかして昨晩からずっとこうしてたのか?
「仕事はどうしたの?」
「昨夜は何処に行ってたのだ」
「友達んところに泊まってただけだよ。それで……仕事は?」
すると突然だ――父親はテーブルを蹴っ飛ばして立ち上がり、鼻の穴からフーフー空気を洩らしながら、魚みたいな目でなおも睨み続けてくる。僕は不覚にも射竦められちまった。
「……仕事か?」
今度はその無精髭に覆われた口元に、下卑た薄笑いが浮かんだ。情緒不安定すぎやしないか?
「……仕事なら、とっくにクビになっている」
はぁ?
「じゃあ毎日毎日、アンタこそ何やってたんだよ?」
てっきり真面目に働いてるとばかり思ってたのに――いや、しかし考えてみりゃ、こいつの勤労が本当だったなら、いつまでもこんな貧乏暮らしから抜けられないのはおかしいんだな。僕が馬鹿だったよ。このクズを買いかぶってた。それにしても、まさか働いてないとはな! それで金が足りないからって姉さんを殺したのかこいつは! なんて奴だ!
父親は僕の方に歩み寄ってきた。そして無言のまま腕を掴むと、埃まみれの、硬くって座れたもんじゃないソファまで引っ張って行った。
「何だよ」
離せよ、汚らわしい。
「友達と泊まりか……ふん、嘘だろう」
押し倒された。そのまま上から伸し掛かられて、ソファがミシミシと軋んだ。間近まで顔を近づけてくる父親。精一杯の威圧のつもりだろうが、それよりも口臭がキツかったねぇ。口から排泄してんのかと思うくらい臭いんだ。
「いいか刹……お前は人生を楽しもうなんて考えるな。それは恥ずべき行いだし、愚かしい行いだ。努力はすべからく裏切られる」
何だかなぁ、〈すべからく〉も正しく使えない野郎に説教されなきゃいけないなんて、本当に参っちゃうよ。息も臭いし……僕は自分が可哀想で堪らなくなった。
「人生に何も期待してはいけない。働きかけるな。ジッとしていろ。楽しいと感じることも、嬉しいと感じることも、後に手痛いしっぺ返しを食らうための準備にしかならない。生を謳歌しようとすることは罪なのだ。私達は貝のように生きなければならない。それ以上の願望を抱いては駄目だ。静かに、ひっそりと生きろ。――おい、聞いているか?」
父親はまた次第に昂奮してきたみたいでね、息遣いが荒くなって、僕の両肩を掴んだ手にも力が籠っていた。自分の言葉に酔ってるんだ。ただ負け犬が自己を正統化してるだけだが、この低能にとっちゃ滅法有難い人生哲学のつもりなんだろう。
「おい、聞いているか?」
「聞いてる。聞いてるよ」
「お前の場合は、尚更なんだぞ。お前は呪われた……悪魔の子だ。『サタンは、彼自身の業を、不従順な子らのうちにし遂げるといわれている』。お前は誰とも関わってはいけない。そうだろう……人様に迷惑を掛けたいなんて云うんじゃないだろうな? 私を困らせないでくれ。私は神に使える人間だから、責任があるのだよ。お前が災いを起こそうとしないよう、監視しなくちゃな……いいか……自分が可哀想だなんて、思うんじゃないぞ。お前が同情を煽る手口で、私を懐柔しようとしても、惑わされるものか。決して惑わされないからな、サタンの誘惑には……」
気持ち悪かった。気持ち悪かった。この男は語りながら、僕の太腿に自分の下半身を……分かるだろう?……押し付けて、前後に動かしてるんだな。それが段々と硬さを帯びてくのが不快で……僕はぎゅっと目を閉じて耐えていたんだ。唾がぺっぺと掛かってもくるしさぁ……それに息が臭いんだ。本当に臭いんだよ。
「私を誘惑するなと云ってるだろうが!」
ばしぃん! 良い音だったなぁ。うん、いきなり頬をビンタされたんだ。父親はもはや過呼吸かってくらい「はァはァはァはァ!」と息を荒げて、僕の髪を片手で掴むともう片方の手でもう一度ビンタ、続けてもう一度、もう一度、もう一度。口の中で血の味がした。
「どうしてだ、答えろ刹、答えろッ、答えろッ、答えろッ」
何をだよ? どうして誘惑するのかか? そんなの答えようがない――だって誘惑なんぞしてるわけがないからな! だから云ったろう? 低能なんだよこいつ! どうしようもなく低能で破廉恥な奴なんだ!
「私はお前に屈しないぞッ、いいな刹、お前は私に感謝するんだぞッ、お前を生かしてやってる温情と、こうして世話を焼いてやってる厚意と、おい、私を尊敬しているかッ、えッ、お前は本当に手が掛かる奴だ、サタンの手先めッ、思い知らせてやるからなッ」
いよいよ支離滅裂だった。それから暗闇の中で、何が行われたと思う? ……ああ、いや、答えなくていい。忘れてくれ。とにかく最低なことがあったってことだけ分かっててもらえればいいんだ。それ以上は想像もして欲しくないね。君だって、進んで気分を悪くすることないしさ……。
仕置きが済んだ後、僕は自分の部屋にこもっていた。泣いてたっけかな。憶えてないや。椅子に座って、机に伏せていたんだ。あそこが酷く痛かったから少々不格好な座り方になってたかもね。惨めなことに。
すると廊下の床板がギーッギーッと小さく軋る音が近づいてきて、扉が開いた。あの父親が這入ってきたんだな。僕は顔を上げなかった。肩に手が置かれて、それが優しく撫でるように動いて鳥肌が立ったけれど、それでも顔は上げなかった。
「刹、さっきのことだが……」
耳元に猫なで声で囁かれた。
「……何も起こらなかった。そうだね? 何も起こるはずがないじゃないか。私は敬虔なキリスト教徒なのだ。神に恥じるような行為を、するはずがない。そうだね? だからお前も、そうやって泣いている理由がないのだ……」
あっそ。アンタがそう云うならそうなのかもな。
「なぁ答えておくれよ刹……私は何も間違ったことはしなかっただろう?」
声は出せなかったけどね、僕は頷いたよ。見てなくても、父親の表情が綻んだのが何となく分かったな。
「それなら刹、早く夕食をつくってくれないか? お前がそうしてくれないと、私はいつまでも空腹なんだから……昨夜は辛かったぞ。おい、私を尊敬しているなら、どうして家事をほったらかしてなんていられる? 『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです』。お前は悪魔の子だったが、いまのその姿なら誰もそうとは分かるまい。サタンは取り除かれた。嗚呼、神は何でもお赦しくださる。何でもお救いくださる。お前は私の子だよ。心掛けるのだ……『求めなさい。そうすれば与えられる』……」
僕は立ち上がった。父親の顔には一瞥もくれないでキッチンの方へと歩き出した。でないと五月蠅くて仕方なかったからな。
「お利口だ。天はそれも見てくださっているぞ……」
うるせぇ馬鹿。勝手に見てんじゃねぇよ。
何もかも最低だ。姉さんがいなくなって、僕はひとりで何でも耐えなきゃいけなくなった。これがどんなに孤立無援の恐ろしい環境か、少しでも分かってもらえたらいいんだけど……うん、こういうときには百合莉の存在だとか全然慰めにならないんだ。こういう、本当に肝心なときにはね。結局のところ人間ってのは独りなんだな。
『目的は達成された』――去り際に海老川さんはそう云った。これも今更になって、えらく意味深調だったような気がしてきた。そういう見方に立てば、彼女の振る舞いは秀逸なヒット・アンド・アウェイ戦法にも映る。
あー……憎たらしい。何が憎たらしいって、やっぱり彼女はただの自惚れやな低能に過ぎず、これら一切は僕が無駄に深読みしてるだけかも知れないって可能性も大いにあるところだよ。結局、僕は海老川蝶子という自称探偵の能力について正確なところが分からなくなってしまったんだ。ところが僕の方は無防備にも、有能なところを見せすぎたんだな。
そしてこの場合、事態をよりややこしくしているのは――根拠が単なる勘ってのには呆れたけれど、それでも海老川さんのそれはまるきり見当違いでもなかったって点だよ。僕が脳姦殺人が行われたその時その場に居合わせたのは事実だし、その点で他の野次馬たちと事情が異なったのも本当だからね。ただし、犯人じゃない――そう、ここなんだ。〈通報をしなかった第一発見者〉というのは誰にとっても一種イレギュラー的存在で、しかも当人からすれば、まったく後ろ暗いところがないってわけでもないのが厄介だ。これで痛くもない腹を探られるなんて、なんとも馬鹿馬鹿しいじゃないか。どうしてこんな余計な気苦労を背負わにゃいけない?
〈知らない人について行っちゃ駄目〉と幼稚園や小学校では繰り返されるが、ありゃあ真理だね。何の義理もないんだから、無視しときゃよかったんだ。
脳姦殺人に関わったことで、僕はちょっと調子が狂ってたんだろうか? 普段よりも気が大きくなって、その分、落ち着きを欠いていたんだろうか? ハシャいでいたんだろうか? うん、これは本当に情けないことだよ。情けなくて、腹立たしいことだ。
海老川蝶子の名刺はぐしゃっと丸めて捨てた。
〈愛の巣〉に帰り着くと今度は「刹くぅん、寂しかったぁ、どうしてこんな酷いことするのぉ?」だなんて泣き顔の百合莉に迎えられて、また少しイラっとした。何だか僕の周りには間抜けしかいないように思われて気が滅入ったんだ。
こういうときはひとりになりたい。
「ちょっと色々あってね、僕は疲れちまったよ。公衆トイレは大賑わいだったね。あそこは当分使えないだろう……うん、しばらく休ませてくれ」
それだけ告げて寝室に足を向けかけたけれど思い直して、そそくさと書斎に引っ込んだ。そして施錠。これで百合莉がゴネて扉をノックしてこようものなら僕とて冷酷な対応を取らざるを得なかっただろうが、さすがに彼女はそこまで気が遣えない子じゃなかった。良かったよ。アームチェアに腰を下ろして、僕は目を閉じた。
『この場は単なるファースト・コンタクト』――海老川さんは再び僕の前に現れるつもりだろう。僕を脳姦殺人の犯人、そうでなくとも関係者であると疑って。
どうする? 本当のことを告げても別にいいんじゃないか? 誤魔化す方法だっていくらでもありそうだが……「いや、」……ここで愉快な〈反転〉が起きた。僕が苛立っているのは先程の一幕で術中に嵌められていたのかも知れないという屈辱と、今後も続いていく面倒事への憂慮が原因なわけだが、そう気に病む必要もないじゃないかってね。
海老川蝶子をせいぜい弄んでしまえばいい。犯人でない僕ははじめから追い詰められることがないと決定しているのだから、関われば関わるだけ結局はあちらが馬鹿を見るんだ。しかも……「そうだ、」……上手くやれば、僕はあの探偵から脳姦殺人の情報を引き出すことができるんじゃないか? 彼女の推理力が信用できたものかは分からないけれど、早くから死体発見現場で張っていたのが事実である以上、警察と繋がっているってのは本当だろう。そう、僕は何もリスクを負うことなく――向こうが勝手に突っかかってくるだけなんだからな――捜査関係者でしか知り得ないところまで踏み込んでいけるかも知れない。
「…………はぁん」
こいつは面白いアイデアだ。年甲斐もなく気分が弾んだねぇ。今後への憂慮は楽しみへと転化したんだし、事が上手くいったなら先程の一幕なんて全然チャラでいい。ウルトラCってやつだよ。
僕は椅子の上で伸びをした。もう苛立ちはなくて、むしろ早く再会したいくらいな気持ちになっていた。何をカリカリしてたんだって、そっちの方が恥ずかしくなったね。
……でもちょっと経ってから、不意に疑問が起こった。大したことはない素朴なそれだったけれど、でも不思議だぜ……つまり、海老川さんは僕の名前すら訊こうとしなかっただろう? じゃあ、どうやって僕を探すつもりなんだ?ってね。
公衆トイレが使えなくなったことで、僕はいい加減〈愛の巣〉から火津路駅の途中で寄り道して百合莉を慰めるという工程が億劫になった。そこで懸命な説得を行い、お別れの〈ふんぎり〉は〈愛の巣〉内でしっかり付けてから真っ直ぐ彼女を駅まで送ることにさせた。駄々をこねられないよう、それを拒絶する態度を滲ませてだよ。百合莉はかなりナイーブになってる様子だったけど、甘やかしてばかりもいられないからな。僕は恋人であってカウンセラーじゃないんだし、たまにはこっちの意見を通させてもらわなくちゃ。
いやぁそうしてみると、なんと帰りのスムーズだったこと。今までの〈残業〉がどれほど体力を使う仕事だったのか、なくなってはじめて分かったねぇ。でも帰宅してみると、どうにも憂鬱な展開が待っていたんだ。
「昨夜は何処に行ってたのだ」
父親だよ。熱気がこもった薄暗い居間のテーブルに肘をついて、一本だけ灯した蝋燭にぼぉっと照らされた陰気なツラで一丁前に僕を睨みつけてやがったんだな。もしかして昨晩からずっとこうしてたのか?
「仕事はどうしたの?」
「昨夜は何処に行ってたのだ」
「友達んところに泊まってただけだよ。それで……仕事は?」
すると突然だ――父親はテーブルを蹴っ飛ばして立ち上がり、鼻の穴からフーフー空気を洩らしながら、魚みたいな目でなおも睨み続けてくる。僕は不覚にも射竦められちまった。
「……仕事か?」
今度はその無精髭に覆われた口元に、下卑た薄笑いが浮かんだ。情緒不安定すぎやしないか?
「……仕事なら、とっくにクビになっている」
はぁ?
「じゃあ毎日毎日、アンタこそ何やってたんだよ?」
てっきり真面目に働いてるとばかり思ってたのに――いや、しかし考えてみりゃ、こいつの勤労が本当だったなら、いつまでもこんな貧乏暮らしから抜けられないのはおかしいんだな。僕が馬鹿だったよ。このクズを買いかぶってた。それにしても、まさか働いてないとはな! それで金が足りないからって姉さんを殺したのかこいつは! なんて奴だ!
父親は僕の方に歩み寄ってきた。そして無言のまま腕を掴むと、埃まみれの、硬くって座れたもんじゃないソファまで引っ張って行った。
「何だよ」
離せよ、汚らわしい。
「友達と泊まりか……ふん、嘘だろう」
押し倒された。そのまま上から伸し掛かられて、ソファがミシミシと軋んだ。間近まで顔を近づけてくる父親。精一杯の威圧のつもりだろうが、それよりも口臭がキツかったねぇ。口から排泄してんのかと思うくらい臭いんだ。
「いいか刹……お前は人生を楽しもうなんて考えるな。それは恥ずべき行いだし、愚かしい行いだ。努力はすべからく裏切られる」
何だかなぁ、〈すべからく〉も正しく使えない野郎に説教されなきゃいけないなんて、本当に参っちゃうよ。息も臭いし……僕は自分が可哀想で堪らなくなった。
「人生に何も期待してはいけない。働きかけるな。ジッとしていろ。楽しいと感じることも、嬉しいと感じることも、後に手痛いしっぺ返しを食らうための準備にしかならない。生を謳歌しようとすることは罪なのだ。私達は貝のように生きなければならない。それ以上の願望を抱いては駄目だ。静かに、ひっそりと生きろ。――おい、聞いているか?」
父親はまた次第に昂奮してきたみたいでね、息遣いが荒くなって、僕の両肩を掴んだ手にも力が籠っていた。自分の言葉に酔ってるんだ。ただ負け犬が自己を正統化してるだけだが、この低能にとっちゃ滅法有難い人生哲学のつもりなんだろう。
「おい、聞いているか?」
「聞いてる。聞いてるよ」
「お前の場合は、尚更なんだぞ。お前は呪われた……悪魔の子だ。『サタンは、彼自身の業を、不従順な子らのうちにし遂げるといわれている』。お前は誰とも関わってはいけない。そうだろう……人様に迷惑を掛けたいなんて云うんじゃないだろうな? 私を困らせないでくれ。私は神に使える人間だから、責任があるのだよ。お前が災いを起こそうとしないよう、監視しなくちゃな……いいか……自分が可哀想だなんて、思うんじゃないぞ。お前が同情を煽る手口で、私を懐柔しようとしても、惑わされるものか。決して惑わされないからな、サタンの誘惑には……」
気持ち悪かった。気持ち悪かった。この男は語りながら、僕の太腿に自分の下半身を……分かるだろう?……押し付けて、前後に動かしてるんだな。それが段々と硬さを帯びてくのが不快で……僕はぎゅっと目を閉じて耐えていたんだ。唾がぺっぺと掛かってもくるしさぁ……それに息が臭いんだ。本当に臭いんだよ。
「私を誘惑するなと云ってるだろうが!」
ばしぃん! 良い音だったなぁ。うん、いきなり頬をビンタされたんだ。父親はもはや過呼吸かってくらい「はァはァはァはァ!」と息を荒げて、僕の髪を片手で掴むともう片方の手でもう一度ビンタ、続けてもう一度、もう一度、もう一度。口の中で血の味がした。
「どうしてだ、答えろ刹、答えろッ、答えろッ、答えろッ」
何をだよ? どうして誘惑するのかか? そんなの答えようがない――だって誘惑なんぞしてるわけがないからな! だから云ったろう? 低能なんだよこいつ! どうしようもなく低能で破廉恥な奴なんだ!
「私はお前に屈しないぞッ、いいな刹、お前は私に感謝するんだぞッ、お前を生かしてやってる温情と、こうして世話を焼いてやってる厚意と、おい、私を尊敬しているかッ、えッ、お前は本当に手が掛かる奴だ、サタンの手先めッ、思い知らせてやるからなッ」
いよいよ支離滅裂だった。それから暗闇の中で、何が行われたと思う? ……ああ、いや、答えなくていい。忘れてくれ。とにかく最低なことがあったってことだけ分かっててもらえればいいんだ。それ以上は想像もして欲しくないね。君だって、進んで気分を悪くすることないしさ……。
仕置きが済んだ後、僕は自分の部屋にこもっていた。泣いてたっけかな。憶えてないや。椅子に座って、机に伏せていたんだ。あそこが酷く痛かったから少々不格好な座り方になってたかもね。惨めなことに。
すると廊下の床板がギーッギーッと小さく軋る音が近づいてきて、扉が開いた。あの父親が這入ってきたんだな。僕は顔を上げなかった。肩に手が置かれて、それが優しく撫でるように動いて鳥肌が立ったけれど、それでも顔は上げなかった。
「刹、さっきのことだが……」
耳元に猫なで声で囁かれた。
「……何も起こらなかった。そうだね? 何も起こるはずがないじゃないか。私は敬虔なキリスト教徒なのだ。神に恥じるような行為を、するはずがない。そうだね? だからお前も、そうやって泣いている理由がないのだ……」
あっそ。アンタがそう云うならそうなのかもな。
「なぁ答えておくれよ刹……私は何も間違ったことはしなかっただろう?」
声は出せなかったけどね、僕は頷いたよ。見てなくても、父親の表情が綻んだのが何となく分かったな。
「それなら刹、早く夕食をつくってくれないか? お前がそうしてくれないと、私はいつまでも空腹なんだから……昨夜は辛かったぞ。おい、私を尊敬しているなら、どうして家事をほったらかしてなんていられる? 『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです』。お前は悪魔の子だったが、いまのその姿なら誰もそうとは分かるまい。サタンは取り除かれた。嗚呼、神は何でもお赦しくださる。何でもお救いくださる。お前は私の子だよ。心掛けるのだ……『求めなさい。そうすれば与えられる』……」
僕は立ち上がった。父親の顔には一瞥もくれないでキッチンの方へと歩き出した。でないと五月蠅くて仕方なかったからな。
「お利口だ。天はそれも見てくださっているぞ……」
うるせぇ馬鹿。勝手に見てんじゃねぇよ。
何もかも最低だ。姉さんがいなくなって、僕はひとりで何でも耐えなきゃいけなくなった。これがどんなに孤立無援の恐ろしい環境か、少しでも分かってもらえたらいいんだけど……うん、こういうときには百合莉の存在だとか全然慰めにならないんだ。こういう、本当に肝心なときにはね。結局のところ人間ってのは独りなんだな。
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