虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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その運命は公衆トイレから

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 あくる日も〈愛の巣〉。百合莉が食材の買い出しに行ってしまったので、僕は書斎で本を読んでいた――この書斎についてだけれど、四つある部屋の内、リビングとダイニングとベッドルームはすぐに決まったものの、残るひとつはどうしようということになって、とりあえず僕の書斎にしたという経緯だった。いわばプライベートルームだ。この部屋だけ扉に暗証番号式の錠がついていて、使い勝手も悪かったしね。だから内装もコンクリート剥き出しのまま。大きな本棚をひとつと、そこに収める適当な本を数十冊ほど購入した。あとはアームチェアとテーブルと、何かに使えるかと思って冷凍庫。

 ところでこんなふうに思い付くままにものを買いまくったから、百合莉が稼いだバイト代はほとんど尽きてしまった。彼女は「夏休みの間も働くよ!」と云ってくれたが、それはやめさせたんだ。これ以上の金は必要ないし、昼間は僕と会って深夜から明け方はアルバイトでそれらの合間に自宅で親に顔を見せておくってなると、さしもの彼女も疲労と睡眠不足でぶっ倒れるよ。

 話を戻そう。このときに読んでいたのはモームの短編集か何かだったかな……それは別にいいんだが、僕は割と読書家なんだ。と云うのも、貧困家庭で育った僕と姉さんの幼少期からの唯一の娯楽が本を読むことだったからね。いつも図書館や図書室で本を借りてきては二人で一緒に読んでたもんさ。ただし冷静に考えてみると、僕は本を読んで感動したり昂奮したりしたことは一度だってない。せいぜい感心するくらいで……感受性の乏しい、詰まらない人間なんだよ。一方で姉さんは感じやすい人だった。感動的な大作なんかよりも、はなはだ荒唐無稽で珍妙かつ陰惨な推理小説を好んでいるのが変わっていたな。それに観念的な領域に関心があったみたいで、思想書や哲学書に目を輝かせていたよ。

 うん、姉さんは僕の半身だって云ったね、面白いことに、僕が知的好奇心の薄い人間であるぶん、姉さんはそれが濃かったというわけだ。僕はそんな姉さんに憧れていたし、その憧憬しょうけいや懐古心から、いまでもこうして本を読んでるんだろうな……相変わらず、心が揺さぶられるようなことはないんだけど。

 ガチャッガチャッと音がして、どうやら百合莉が帰ってきたようだった。

「刹くーん」

 書斎の扉をノックするから中から開けてやると、買い物袋を手に提げてにこにこ顔だった。猛暑日だったから汗をかいていて、片手でシャツの胸元を摘まんでパタパタさせながら、

「冷やし中華をつくるよぉ。待っててねぇ」

 そう云って台所込みのダイニングへと歩いて行った。僕に振る舞うために練習を重ねてたんだろう、彼女の料理の腕前はなかなか良いんだ。そうは云っても何を食べたってあまり美味しいとか不味いとか思わない僕なんだけれど、出来を判断するくらいはできる。こちとら昔から姉さんと一緒に――いまはひとりで――料理はやってきた身だしね。

 しばらくしてダイニングで遅めの昼食となったが、このときの百合莉は怪訝そうな顔つきで、こう問うてきた。「ねぇ刹くん、私の蛇ちゃん知らない?」どうやらペットの白蛇の姿が見えないらしいんだな。

「カゴに鍵かけるの忘れちゃってたみたいで、どっか行っちゃったんだよぉ。目に付くところは探してみたんだけど……」

「分からないなぁ、ずっと書斎にいたし。蛇ってのは狭くて暗い場所を好むんだろう? なら少し見つけづらい物陰とかにいるんじゃない?」

 というわけで食事を終えてから二人で捜索をしたんだが、ついに白蛇を見つけることはできなかった。不思議な話だ。百合莉が買い出しに出る前までは確かにいたのに、戻ってくると消えていた……カゴのあったリビングの扉は下に隙間があるから出られたかも知れないけれど、エレベーターホールに出るドアには隙間がないし、開いている窓もなかったんだ。まさかトイレの便器の中に潜って行ったはずはあるまい……これはちょっとした〈密室からの消失〉じゃないか?

 結局、いささか考えにくい可能性ではあるものの、百合莉がエレベーターホールへ出た際に一緒に抜け出し、そのまま何処かへ行ってしまったんだろうと結論するしかなかった。蛇に帰巣本能があるかは定かでないし、あったところでこの〈愛の巣〉を帰巣先と考えはしないだろうから、もう〈蛇ちゃん〉とは会えないかも知れなかった。

 無二の親友を失った百合莉のショックは、一般における肉親の死に等しかった。ジーッと宙を見詰め、言葉はなくなり、ほとんど放心状態となった。僕はそんな彼女の肩を抱いて、黙って髪や頬を撫で続けた。すると不意に笑顔になり、これ以上ないくらい緩みきった口調で、

「ううん。全然いいんだぁ。全然いいんだよぉ。私には刹くんがいるもん。刹くんしかいらないもん。刹くん、刹くぅん」

 これには少々ゾクゾクしたね。彼女の目は全然笑っていなくて、奥底には仄暗い輝きが宿っていた。おそらく無意識に、リストカットの痕がひしめく手首をガリガリガリガリと掻き毟り続けて血が滲んでいた。こんなに病的な開き直りは、他にあまりないだろう。

 ああ、この白蛇の失踪は、後に重要な意味を伴って現れてくるよ……。



「毎日ごめんね、刹くん? でも私、どうしてもお別れのときは急にだと耐えられなくて……高山病みたいなものかなって思うの。少しずつ慣らしていくようにしないと、気持ちだけじゃなくって身体も調子悪くなるし、頭痛もするし……」

「構わないよ。それに今日はショックなこともあったんだから。遠慮せずに甘えて」

「うう、刹くぅん、大好きぃ……っ」

 公衆トイレだ。高山病の例えはあまり上手くなかったが、云いたいことは分かる。つまり僕と一緒にいる状態といない状態、両者を行き来するにあたって〈いる〉から〈いない〉のときには段取りが必要となるんだね。〈愛の巣〉から火津路駅へと直行するのでなく、こうしてワンクッション挟まなければ百合莉は落差を受け入れられない。

 白蛇を失ったこともあって、この日の百合莉はひときわ僕を強く求めるように激しい愛撫をしてきた。実のところ、僕は他人と身体が触れ合うのは好きじゃない――相手が恋人であっても。だからその辺、勘付かれないようにしながらそれとなくコントロールするわけだ。これがなかなか難しい。

 やっぱり小一時間ほど掛かって、そろそろ出ようとしたころだった。外から話し声が聞こえてきたんだ。こういうのははじめてだったから、少しドキッとした。やや潜めた感じの声だったから内容は聞こえなかったんだけれど、男女二人組らしくて、隣の男子トイレに這入って行ったのは分かった。うん、女も一緒に這入って行ったようなんだ。

 僕と百合莉は無言で顔を見合わせた。女子トイレの個室に二人でこもってる僕らもまったく同じなんだが、でも奇妙なのに変わりはないだろう? ということは、今の二人も僕らと同様、恋人同士の乳繰り合いのためにこの人気のない公衆トイレを利用してるってことなのか? みんな考えることは一緒なんだなぁ……と、僕はいささか閉口したな。

 とりあえずは様子見で、僕と百合莉はしばらくジッとしていた。出たところで鉢合わせたり、そうでなくとも見られたりしたら気まずい。僕らにも恥じらいはあるからね。しかし出てくる気配は一向になかった。

 壁を一枚隔ててるから少しの声や音なら届いてこない。遠くから聞こえる車の走行音なんかが多少、打ち消してもいただろう。それでも、時折男の「ああ」だの「うう」だのという溜息交じりの声がした。その感じから、僕はハハーンと合点がいったね。あちらさんは僕らよりも上手うわてなようで、要するに情交してたんだな。何とも云えない気持ちになったねぇ。何とも云えない気持ちだよ。そうだよな、世の中ってそんなもんだわ……みたいな諦め混じりのさとりだ。

 百合莉は顔を伏せてしまってて、でも耳が真っ赤になってるのが分かった。僕のシャツを摘まんだ指がどことなく遠慮がちで、何かを躊躇っているふうだった。呆れちゃったな。何にというんじゃないけれど、とにかく白けた感じがした。とっとと立ち去ろう……そう思って、百合莉の肩をポンポン叩いて目配せして、個室から出た。

 その時だった。きゅイイイイイ――――ン。突然、ひどく耳障りで金属的な音が鳴り始めたんだ。こういう場所におよそ似つかわしくない……工事現場か、でなければそうだな……歯科医院で聞くような音だよ。要はドリルだ。さすがに特殊なプレイの一環だろうとは思えなかった。だってドリルだぜ? 明らかに異質。萎えていた僕だったが、急激に興味が湧き出した。

 隣の男子トイレ……凶悪なドリルの音と、それに何かがえぐられて飛び散る音と、それから女の忍び笑い。

「ひひッ……いひひひ……ひひひひッ……」

 僕は男子トイレと女子トイレの境目あたりに立って、それを聞いていた。百合莉が僕のシャツの袖を引っ張って、すっかり蒼褪めた表情で首をぶんぶん横に振っていた。だけどごめんよ、離れるわけにはいかないんだ。むしろ僕は男子トイレの中を覗き込んだ。相手はひとつだけある個室の中にいる。そのドアの下から、真っ赤な血がタイルの上を流れ出してきていた。決まりだな。男は殺されている。公衆トイレ……ドリル……僕は何が起きているのかもう分かっていた。〈こっち〉も連続殺人だったんだ――今、連続殺人になったんだ。

 ドリルの音は止まった。鳴っていたのは長くても二十秒くらいだったな。

「……ひひ、いひひ」

 さっきよりも女の声がクリアに聞こえるようになった。

「とぷとぷとぷ……ひひ……はらめよぉ脳髄……いひッ……赤ちゃん、ローズマリーの赤ちゃん……」

 ガサゴソという音で女が出てくる気配を察したから、僕は急いで百合莉の手を引いて足音を忍ばせつつその場を離れ、駐車場に停めてあった軽トラックの陰に身をひそめた。そして公衆トイレの方に注目した。「刹くぅん……」と子犬みたいに鳴いて縋り付いてくる百合莉が、このときばかりは鬱陶しかった。

 間もなく姿を現したのは、意外にも地味な女子だった。垢抜けない白のブラウスとプリーツスカート。野暮ったいロングヘア。プロポーションにも色気はなくて、猫背気味だし、手に提げてるのは男物のボストンバッグ。ただ、街灯がまばらで薄暗かったうえに前髪が長くって表情は窺えなかったんだけど、でも昂奮した様子が全然なくなっていて、実に飄々としていた――これには感心したね。まるで何事もなかったかのように、彼女は駐車場から出て行ったんだ。

 しばらく待ってから、僕は再び公衆トイレへと向かった。「やめようよ、やめようよ」と不安げに繰り返しながらついて来た百合莉に入口のところで待つよう云ったが首を横に振るばかりで、仕方なく一緒に男子トイレの中に這入る。彼女も本当は好奇心にあらがえない気持ちだったんだろう。それにしてもにおいがきつかったねぇ。鼻がぶっ飛びそうだったよ。

 タイルを流れた血を踏まないように気を付けつつ――さっきの女子もそうしたらしくて足跡は残ってなかった――問題の個室のドアを開けた。中でつっかえて半分ほどしか開かなかったけれど、その惨状は充分に見ることができた。

 壁に背中をつけて座り込んだ中年男。項垂うなだれていて、こちらに禿げた頭頂部をさらしていた。そこにはドリルで掘られた穴が開いてて、掻き混ぜられた脳漿のうしょうと血と、それから白濁液でいっぱいになっていた。床も壁も全面、飛び散ったもので赤黒く染め上げられていた。

 脳姦殺人、二人目の被害者だ。

 目の当たりにしてみると、なるほど、目を背けたくなる光景だった。男はズボンもパンツも下ろしていて下半身が丸出しだったから、それも見るに堪えなかったな。和式便器の中には血塗れのレインコートが脱ぎ捨ててあった。

 百合莉が叫び声をあげた。耳がキーーンとなったね。
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