華の幼少に帰り咲き

凛野冥

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桔梗の観覧が知らせる秘密①

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 母親につくらせた弁当を僕に渡すのはやめるように云ったところ、鶴姫は弁当を持たずに学校に来た。僕も同じなので、昼休みは外で食べることになった。

「何が食べたい?」

「んーとねえ、パンケーキかなあ。大きなクリームが乗った可愛いやつ」

 腰を折って、合わせた両手を頬にあてて、いかにも媚びている調子の鶴姫。

「本当は?」

「もお。本当にパンケーキだよ。鶴姫、甘いもの好きって云ったでしょお」

「嘘つかないように練習しようって約束したよね?」

「う、」

 マスクで目元しか見えていなくても、表情が固まったと分かった。それから彼女は僕から目を逸らして、ぼそりと呟いた。

「らーめん修羅の道……」

「らーめん修羅の道?」

 聞き間違いか?

「らーめん修羅の道って云った? 馬鹿みたいに野菜とチャーシューが盛られたうえにニンニクがぶちこまれてるあれ?」

「た、食べたことはないんだけどね! ちょっと気になるって云うかぁ……」

「本当は?」

「いつもひとりで通ってるの……」

 恥辱に耐えて罪を告白しているかのようだ。

「良いじゃないか。其処にしよう。実は僕、食べたことがないんだよ」

「いいの? 息が一日中ニンニクになるよ?」

「学校に戻ったら歯磨きするさ」

「歯磨きなんて焼け石に水だよお。ニンニクは身体の中からにおってくるもん」

「まぁ鶴姫はマスクもしているし平気だろう。もしかしてマスクの理由はそれ?」

「違うからあ。でも嬉しいかも。女の子ひとりだと、ちょっと入りづらいから……」

 鶴姫は自然に僕の手を握ってきたけれど、僕は振り払った。

「なんで繋いでくれないの!」

「繋がないよ。恋仲でもあるまいし」

「鶴姫、末端冷え性なんだよ。今日はカイロ忘れちゃったの。それならいいでしょ?」

「それならいいかも知れないが、そうじゃないだろ?」

「うん……」

〈らーめん修羅の道〉は歓楽街の方にあるため、花天月高校から歩いて十分ほどを要した。しかも着いてみると、店の前には長蛇の列ができていた。

「昼休み終了までに入って食べて出られるかな」

「大丈夫だよ。鶴姫に任せて」

 彼女は指でマスクをずらしつつ、列の人々に対して「みなさーん」と呼び掛けた。僕からは見えない角度だけれど、間違いなく舌に咲いた菫を見せている。そして一言。

「私達ふたりはずっと並んでいてえ、列のいちばん前なんですよお」

 何食わぬ顔で入口の前に立つ大ホラ吹き。

「駄目だろ、そんな不正をしたら!」

「だけど逸見くん、もう並んじゃったよ」

 …………仕方ない。次からは止めよう。

 店に入るまでの間、鶴姫は「鶴姫、大食いとかじゃないんだよ」「いつも小らーめんで、トッピングもしないし」「今日も完食はできないかも」「無理そうだったら逸見くんに手伝ってほしいなあ」なんて云い訳めかしたことを並べていたが、注文したのは大らーめんの野菜が佉羅騫駄きゃらけんだ、ニンニク婆稚ばちだった。虚言癖というより人格破綻者だ。

 僕は初心者とはいえ負けたくなかったので大らーめんの野菜が毘摩質多羅びましったら、ニンニク婆稚にした。結果、地獄を見た。食事を苦行と感じたのは初めてだった。

「美味しかったねえ。好きな人と修羅の道に来られるなんて幸せえ」

 店を出た鶴姫の第一声がそれ。嘘であって欲しいが、こんなときだけ本心みたいだった。

「ああ、僕も満足したよ……一週間は何も食べなくていいな……」

「逸見くん、苦しそうだよ? 休憩して行く? あっちに行くとラブホテル街が――」

「う……気持ち悪いこと云わないでくれ」

「なんで気持ち悪いことなの。酷いよっ」

 もちろん僕らはまっすぐ学校に戻った。午後に体育がなくて本当に良かった。

 歯を磨くためトイレに向かう最中、携帯電話が鳴った。画面の表示は『野呂維景』。カラオケを共にした日曜の夜に番号を交換していたのだが、掛かってきたのは初めてである。

「はい、馬米です……」

『俺だ。野呂維景だよ。何だか苦しそうな声だな?』

「もう吐きそうですよ……」

『何だと? 大学受験すら経験していない餓鬼にそんな苦しいことがあるわけねえ。めてんじゃねえぞ!』

 何でそんなに怒られないといけないんだ。

『今にも吐きそうなのは俺の方だぜ。だがな、明日は強制的に休みを取らされることになった。先月に休日出勤した分、代休を消化しろと人事部からお達しがあったのさ』

「へぇ、完全なブラック企業じゃないんですね」

『当然だろ大企業だぞ。制度上はちゃんとしているんだよ。まぁ実態はブラックだがな!』

「それで、もしかしてカラオケのお誘いですか?」

『察しが良いじゃねえか。ふん。この電話を一本かける暇を捻出するにも血の滲むような苦労があったぜ』

「じゃあ用件だけ話してください……」

『今から話すんだよ。高校生の分際で俺相手に会話の主導権を握ろうとするなよな! それで今晩なんだが、』

「今晩ですか。まぁいいですけど、できれば明日とかの方が。次の日休みですし」

『明日の夜は職場の飲み会なんだよ。俺が幹事だから、代休取らされるのにそっちは行かないといけねえんだぜ? 意味分かんねえけどな。とにかく今晩、七時くらいに連絡する。伊升と一緒に待機していてくれ』

「分かりました」

『あと晩飯も奢ってやるよ。ははは。何か食べたいものあるか?』

「い、今は食べ物の話をしないでください……」

『ああ? さっきから苦しそうなのって、昼飯食い過ぎたのか?』

「そうなんです」

『ふざけんなよ。俺からいつ誘いが来てもいいように、常に腹を空かせておけボケ!』

「行きたくなくなってきました……」

『ちょっ――それはやめてくれよ。ちょっとキツく当たり過ぎたな。でもこれはウィットに富んだ会話と云うか、お互い信頼があるからこそ叩ける憎まれ口と云うか――なぁ、分かるだろ? へそを曲げなくたっていいじゃねえか。俺が平日夜に遊べるなんて滅多にないことなんだから、付き合ってくれたって――』

「心配しないでください。ちゃんと行きますよ」

『そうか! ありがとな。じゃあまた』

 月豹由布の件をどうするか考えないといけないが、期限は土曜日。まだ大丈夫……。


    2


 野呂さんから電話がきたのは二十時を回った頃だった。

『悪い。遅れた。しかし馬米には分からんだろうが、一日休むってのは大変なことなんだよ。引継ぎだってあるしな。俺ひとりに膨大な案件を抱えさせるからこうなるんだぜこの職場はよぉ。ところで焼肉食べたくないか? 駅の西側に〈讃嘆苑さんたんえん〉って焼肉屋があるから来いよ。結構美味いんだ』

 ムツミは今日も暗い顔で帰ってきて「お腹空きました」と「ニンニク臭いですよ」を連呼していたけれども、僕はまだ昼の毘摩質多羅が残っていたので、少しでも時間を稼げて助かった。

〈讃嘆苑〉は表通りに面しているものの、古そうなビルの六階にある個人経営の店で、しかしほとんど満席だった。野呂さんは手前の方のテーブル席で待っていた。テーブル席はそれぞれ三方を壁で仕切られていて、ちょっとした個室気分だ。

「お疲れ様です。明日から三連休の人には見えないですね」

 ムツミが帰ってきたときの顔も大概だったが、野呂さんはさらに酷い。死相が出ている。

「仕事する場所が会社か自宅かの違いだからな……まぁいい! 今夜は忘れよう! 飲み物は何だ。ビールかハイボールかワインか焼酎か――」

「ジンジャエールにしてください。ムツミは?」

「自家製野菜ジュースをお願いします」

「そんなものはねえ。オレンジジュースでいいな」

 野呂さんは手際良く注文してくれた。テーブルに並んでいくシーザーサラダ、ユッケビビンバ、タン塩、上ロース、骨付きカルビ……さらに焼き方にもこだわりがあるらしくて、トングを手放さない。あるいは、意外と面倒見が良い人なのかも知れない。

「客はタレやレモンをつけないのが、この店の特徴なんだ。味付けされた状態で出てくるんだよ。気が利いてるだろ?」

「へぇ。初めて体験するスタイルです」

「見てください、馬米さん」

 僕の肩をつついたムツミは、箸で摘まんだタン塩を口の前にぶら下げている。

「猿姫の舌も美味しいのかなー、噛んでみたくないー?」

「君は妙に鶴姫を馬鹿にしたがるよな……」

 野呂さんから「何のネタか知らんが、食べ物で遊ぶな。育ちを疑うぜ」と叱咤が飛んだ。とはいえ焼肉が始まって表情はいくらか柔らかくなっている。

 その後ハイボールも三杯目あたりになると、彼はいよいよ饒舌になってきた。

「職場の飲み会ほど馬鹿馬鹿しいものもないぜ。あんなの無能な上司がやりたがるだけだ。知ってるか? 人間にはみな〈先生になりたい欲求〉があるんだ。つまり他人に何かを教えたいという欲求だな。他人に何かを教えるという行為は優越感に繋がって、自己肯定の種になるからだよ」

 網の上でジュージュー焼ける骨付きカルビを、憎々しげに見下ろしながら語る。

「有能な人間は普段からその欲求が満たされている。周りが引っ切り無しに質問や相談を持ち掛けてくるからだ。だが無能はそんなふうに頼られることがねえ。だから飲み会を開いて、頼まれてもないのに部下に説教を垂れ流したがるんだぜ。そうすることで有能な上司のつもりになってるのか知らんが、飲み会に誘う時点でてめえの無能は証明されてんだよボケがって話だよな。いいか、今後君たちを飲みに誘ってくる年上はことごとく無能だと覚えておくといいぞ」

「勉強になります」

 野呂さん自身がまさにそれを体現中なのは指摘しないでおいた。きっと疲れているのだ。

 僕もムツミも満腹になったので遠慮したが、野呂さんは最後にホルモンと冷麺を注文した。骨と皮しかないような痩身なのに、結構食べる方らしい。そういえばカラオケでも異常な量の注文をしていたのだった。

 ホルモン一人前が乗った皿が運ばれてくると、彼は口元を綻ばせて、この日はじめてシガレットケースとオイルライターを取り出した。

「あまり知られていないんだがな、焼肉屋でホルモン噛みながら吸う煙草が一番美味いんだよ。こいつは人類が知ってはならない快楽だぜ」

「此処で吸うつもりですか? もう夜ですよ?」

 彼の夕顔乃幼少帰咲は、夜に煙草を吸うと人々を昏倒させる煙に換えて排出してしまう。

「問題ねえよ」

 ホルモンを焼きながら、野呂さんは鞄から複数枚のビニール袋を取り出した。シャツのボタンをふたつ外すと、ビニール袋の口を広げてシャツの下――左肩のあたりに押し込む。

「そこまでして吸いたいものですか」

 溜息を吐くムツミ。

「私は化粧直しに行ってきます」

「化粧なんてしてないじゃん」

かわやだろ。中学生が気取った云い回しするなよ」

「貴方たち、それだから友達がいないんですよ」

 ムツミはトイレに向かって行った。友達がいないのは君も同じだと思うけどな……。

「うっま! びっくりするわ!」

 野呂さんはホルモンを口の中で噛みながら煙草を吸って至福の表情だ。肩にあてているビニール袋がぶふーっと膨らんだ。

「うめえな~~。うっめえな~~マジでよ~~」

「物凄く健康に悪そうですね。ホルモンで何が変わるんですか」

「煙がすーっと入ってくるんだぜ! 咥内から喉まで油でコーティングされるからか、味がクリアになる。本当は口から吐き出すとこまでやりてえが、これはこれで、な」

 三回程度吸うと、袋は限界まで膨れた。野呂さんは煙草を咥えたまま袋の口を縛って、二枚目の袋を左肩に宛がう。相変わらず不便そうな能力である。

「ところで俺はこういう下世話な質問をするような下らない人間じゃあ決してないんだが、馬米と伊升ってどういう仲なんだ? 付き合ってるのとは違うようだな?」

 いや質問してるじゃんと思いつつ、どう答えたものか悩む。

「訳あって同居しているんですよ。あいつ身寄りがないので」

「ふうん……エロいことすんの?」

「しませんよ。って云うか、これ以上なく下世話じゃないですか!」

「その必死さは怪しいな。ハッキリしてくれ。大事なことなんだぞ」

「何が大事なんですか。していませんし」

「本当にしてないのか。よく我慢できるな。あんなでも、いちおうは女だろ?」

 からかうふうでもなく、むしろ野呂さんは深刻な顔つきだ。何故か不安げでもある。

「頼むから、そういうのはやめてくれよ? 俺は若者がそういうことしていると胸糞悪くて仕方ないんだ。馬米は童貞だよな? 雰囲気で分かるんだが……」

「やめて欲しいのは僕の方です。何なんですか。支離滅裂ですよ」

「分からんか? 異性と無縁の学生時代を送った俺の孤独が、君には分からんか。しかしだな、俺はエリートだ。青春を犠牲にしたからこそ俺は高学歴で高収入、おまけに高身長だしな……モテない道理がねえぜこれからは! 恋だの何だのほざいてる若造共なんて今だけだからな。新卒で初任給が手取り二十万もいかねえ! ざまあみろって話だぜ!」

 要するに若者が楽しそうにしていると羨ましいようだ。鬱屈していると云うか、狭量と云うか……お金は持っているみたいなのに、どうしてこんなにも余裕がないのだろう。

 野呂さんの傍らには丸く膨れたビニール袋が既に三つも重なっている。四枚目を肩に宛がいながら、新しいホルモンを口に放り込んで二本目の煙草に火が点けられた、その時、

「きゃアアアアああぁあアあああっ!!!」

 店の奥から女の子の絶叫が響いた。

 一瞬遅れて――今のはムツミの声だと気付く!

 僕は通路を駆け出していた。店員にぶつかって落ちた食器が割れる音を背後に聞きながらも、突き当たりを左に折れて正面にトイレの入口を見とめる。トイレの扉が開いていて、ムツミが床に膝を着いている。ベレー帽が脱げて、頭の椿は前に垂れている。両手で顔を覆っている。その色白の手と制服の袖が真っ赤な血で濡れている。

「ムツミ! どうした!」

 僕も床に片膝をついて、ムツミの華奢な肩に触れた。彼女の唇から洩れる声は震える。

「どろどろです……血がサラサラ、してないです……」

 この出血は何だ。酷い量だ。何かで切った? それとも、切られたのか?

「野菜ジュース、お風呂上がりにいつも、飲んでるのに……馬米さんがミキサー、買ってくれましたのに……」

「そんなことより――」

「馬米さん、痛いです、痛い……」

 彼女は両手を顔から外して、僕を見上げた。

 汗だくの顔。右目から流れる涙。そして左目はなかった。

 眼球がなくなった左の眼窩がんかから、どろどろの血液は流れ出していた。
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