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桜野美海子の逆襲・探偵学校編
16「匣が開かれたその先で」
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16
空原神社への道すがら、樽木さんから外の様子について聞いた。
事件には報道規制が為されているものの、大規模なそれであれば情報流出を避けられない。昨日の夕方には地下鉄で、駅から駅の間の短い時間に、乗客全員が虐殺される密室殺人が起きたそうだ。窓のすべてに血で象形文字が描かれており、おそらく桜野の指揮によるものだと目されている。
その一方で、別の地方ではようやく、桜野の手下が三名、逮捕されたらしい。しかし彼女らは捕まるとすぐに舌を噛み切って自害し、何の証言も引き出せなかったとの話である。
「やはり桜野美海子をどうにかせん限り、事件は止められそうにないな。くそっ……此処への応援はまだないのか? まだ半数以上の〈空き〉があるだろう? 暗号の答えは分かってるというのに、何を手こずっているんだ?」
桝本さんは愚痴を重ね、それを聞いていた陽子さんも「月子……まだなの……」と涙ぐんで呟いていた。
「まぁまぁ、いいではないですか! どうせ間もなく、すべて解決されるのです。この私の手によってね! あっはっはっは!」
空原神社に着くとジェントル澄神は掃き掃除の最中だった厄火ちゃんに先ほどの推理をかいつまんで話し、厄火ちゃんは僕らが社殿に入るのを認めてくれた。「地下への通路なんてありませんが……」と厄火ちゃんは不安げだったけれど、ジェントル澄神は「いえいえ、隠されているのですよ。何か仕掛けがあるのです」と自信満々だった。
社殿は板の間の前方が厄火ちゃんの生活スペースになっており、後方に例の御神体があった。直方体の匣である。床に倒された格好で固定されていて、ジェントル澄神は辺りを見回した後に「ははぁ。これが怪しい」と目星を付ける。
蓋を開けるとあの巻物だけが収められているほか、底の面に不思議な彫刻が施されていた。
「あみだくじ、ですね」
たしかに、それはあみだくじであった。真ん中の縦線だけが他と比べて長い。その上はどうやら天空を描いた彫刻であり、下は地底を描いた彫刻であると分かる。また、あみだくじの面は三枚のパネルに等分されていて、それぞれ左右にスライドさせられる。
「なるほど、分かりましたよ。これこそ『天と地を繋ぎ』です。はて……〈地〉ではなく〈池〉だったはずですが……まぁいいでしょう。つまりこの縦にひとつだけ長い中央の線をあみだくじの要領で上から辿り、下で再び戻ってくるようにしてやればいいのです。このままではいけません。一番左の下端に着いてしまいますからね。そのために、三枚のパネルを正しいかたちにスライドさせるのだ」
それから彼はパネルをあれこれ動かしてみては指であみだくじを辿り、しかし思いどおりにいかず、徐々に苛立ちはじめ、顔面の痙攣が激しくなり、指先が震えだすけれど、答えを導き出すことは全然できない。
「もう馬鹿だな。ちょっと貸してよ」
そう云ってジェントル澄神を押しのけたのは樽木さんだった。
「全体で考えようとするから駄目なんだ。それぞれのパネルは上と下でどことどこが繋がってるのか決まってる。先にそれを全部確認して、あとは繋ぎ合わせるだけだ」
彼女はスムーズに三枚のパネルを動かし、あっという間に正しいかたちを仕上げた。
バチンっ――と音が鳴って、直後、底の面が抜けた。正確には上部だけがくっついたままで、ぶら下がっている。匣の下には深く深く真っ暗な縦穴が続いており、その壁に木製の梯子が固定されていた。
「思ったとおりですよ! あはははは!」
ジェントル澄神は先ほどの仕返しとばかりに樽木さんを突き飛ばした。
「さぁ、下りて行こうではありませんか! しかし手錠が邪魔だが――仕方ない――私が先陣を切りますよ! 桝本さん、懐中電灯をお願いします」
ヒュオーッと冷たい風の通る音が響く縦穴を、僕らは――厄火ちゃんと、足を悪くしている覇唐さんは地上に残して――順次下りて行く。穴は思っていたほど深くはなくて、底に着くと今度は横に洞窟となっていた。方角としては南東だ。どうやら人工的につくられた洞窟らしく、鳥居に似た格好の木の柱が等間隔で続いている。横に二人並べる程度には幅があるし、高さとしても少し身をかがめるだけでよかった。
「時計塔といい此処といい、桜野美海子はえらく凝った仕掛けを用意したもんだな。ここまでくると、少しは尊敬を覚えるぜ」
「レイモンドさんは、此処も桜野美海子がつくらせたんだと考えてるんすか? 柱の感じとかだいぶ古そうっすけど」
「柱の感じなんて加工さ。当たり前だろ。いまも昔も、あんな小さな社殿に巫女だけひとりで住むわけがねぇ。なら久井世冬詩の伝説だって嘘だし、神社と池とが地下で繋がってるなんて土台おかしな話だ。全部、桜野美海子が今回の謎解きゲームのためだけに拵えたフィクションだよ。その中をこうして歩いてる現実の俺達もまた、だいぶ面妖な存在だな」
地下洞窟は多少右に左に曲がりつつも、やはり南東に向かって、下り坂として続いていた。そして間もなく、懐中電灯の灯りが前方に変化を捉えた。
「おお……何でしょうこれは……いやしかし、扉がありますよ」
地下洞窟は途絶えていた。行き止まりとは違う。地の裂け目とでも云うべきか、顔だけ出してみれば、上下にも左右にも、ひたすら闇の支配する空洞。左右に関しては、どうやら奥にいくにつれて緩やかにカーブしているらしいけれど……懐中電灯では照らしきれない。ただ前方には、三メートルほど先、こちらと並行に壁が続いており、ちょうど正面には壁に埋まるようなかたちの木の扉が一枚見えていた。僕らがいる側とその扉との間には、簡単な木の板が橋として渡されている。
「どうした澄上、行くしかないだろう。少し不安な橋ではあるがな」
「突っつかないでください桝本さん! なんて危ない……もしも転落すれば、底がどこだか分かりません。死にますよ!」
ゴオオオ……ゴオオオ……と、何か怪物の唸り声のような音が響いている。ギイ……ギイ……と軋む頼りない橋を、僕らはひとりひとり、渡って行く。いちおう、橋の左右にはロープも渡されていたけれど、両端を壁に釘で打ち込まれただけの手摺りなので、あまり信用はできない。それでも無事に、全員が橋を渡りきった。先に渡っていた者達は既に、扉を開けて中に這入っていた。
そこはヒンヤリと冷たい、小さな部屋だった。床も壁も天上も石造りで、何だかゴツゴツとしており、あまり寝転がったりはしたくない。とはいえ住空間としてつくられたものでないのは明らかで、調度品はひとつもなかった。ただ中央に椅子がひとつ置かれていて、首なし死体がひとつ、ぐにゃりとだらしない格好で腰掛けていた。
ひどい異臭だ。死んだのは昨日や今日ではない。腐敗が始まっている。首の断面から流れ出した大量の血液も完全に酸化して黒くなっている。切り取られた首は、どこにも見当たらない。だが着ているのは〈探偵学校〉のセーラー服であり、胸には名札が付いていた。
名札には『左条』と書かれていた。
左条は既に、しかも随分と前から、死んでいた。
「そ、そんな……そんな馬鹿な……」
唇の端をピクピクと動かすジェントル澄神。
「ち、違う……はは、そうか、分かったぞ! 首切り死体における典型的なトリックだ! べ、別人の死体の首を切って、左条の制服を着せたのだ……いや、制服はそのままでいい、名札だ……名札を代えてやるだけでいい……そうです、こ、これは左条ではなく――」
「いいや、左条だな」と、レイモンドさんが冷静に告げる。
「この死体はもう、殺されてから一週間は経ってる。一週間以上前から行方不明になっていたのは、左条だけだ。この死体は左条でしかあり得ない。入れ替えトリックは存在しない。存在できないんだ」
ジェントル澄神の顔から血の気が失せた。その細い身体が、小刻みに震え始めた。
「さ、左条がし、死んでいた……行方不明となった左条は、此処でず、ずっと、死体となって……」
震えがガタガタと、大きくなっていく。
「私達をま、待っていたのは……こ、これもダ、ダミーだったのか……私達を、わ、私を、嘲笑うための、だ、だ――うキャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「澄上ッ! 馬鹿、落ち着けッ!」
ついに発狂したジェントル澄神を、桝本さんが抑え込んだ。背後からほとんど締め付けるように抱きかかえられ、哀れなジェントル澄神は「ああ、うあ、うあ、ああ、うあ、ああ、うあ、うあ」と、もはや意味のある言語を発せない。
「かと云って、左条がまるきり無実だったわけでもねぇな」
なおも冷静に、レイモンドさんは――鼻を摘まみながらだけれど――意見を述べる。
「左条が悪魔主義者を集めて連続自殺を指示したのも、それを誤魔化すために久架を云いくるめて連続タロットカード殺人を演出させたのも、事実と見ていい。ただ、その裏に、さらに真犯人がいたらしいってだけだ。顔の広い左条を利用して準備を整えさせ、用済みになると殺して此処に隠しておいた真犯人。実際、左条はスケープゴートとして効果的だった。左条を追ってきた俺達は、ここで行き止まりだぜ」
「一体、誰なんすかねー。行方不明者はもう残ってませんから、僕らも一度は見てる人なんでしょーけど。あ、左条が一週間前から実は死んでたってことは、呉山に手紙出したり、鞍更と遠茉にタロットの見立てを施したりしたのはその人なんすよね?」
「いいや、手紙はそうだろうが、見立ての方は考えてみると、鞍更と遠茉が自分でやったんじゃねぇかと思う。それぞれ『女帝』と『皇帝』の格好してから服毒したってわけだな。だから真犯人が自分で動いた場面はほとんどないはずだ。全部、誰か他人を使ってる」
ならば、と僕は考える。その真犯人の目的は何なのだろうか? 連続タロットカード殺人も悪魔降臨もフェイクであったなら、これらの裏に、さらに別の意味が潜んでいることになる。左条の首が持ち去られていることが関係しているのだろうか? よくある首なし死体の入れ替えトリックは、たしかに、この左条の死体には使えない。であれば、首切りの目的もまた分からない。
無花果は左条の胸元を見詰めていた。切断は首の中ほどから為されていたから、そこにはネックレスが掛かっていた。四ツ葉のクローバーのネックレス……見覚えがある。昨夜、『女帝』鞍更の死体が発見された現場で、カメラを持った陰気そうな女子――湯夏という名前だったと思う――がさげていたそれと同じだ。
「でも完全に行き止まりってわけでもないんじゃない? この先は?」
樽木さんは、奥の扉の前に立っていた。入口と向かい合うその扉の存在は、皆が先ほどから気にしていた。こちらは木製でなく、赤錆びた銅でできている。両開きのそれであり、隙間なく厳重そうに閉じられていて、閂まで嵌っている。
「触れない方がいいですよ」
無花果が発言した。
「久井世冬詩の二の舞となります」
「そうらしいな。位置的に、その先は池の中だ。いわば、この部屋は蓋だぜ」
肩をすくめ、溜息まで吐いたのはレイモンドさん。
「収穫はなさそうだ。戻ろう。死体は生徒会の奴らに回収させればいい」
左条の首なし死体を残し、僕らは地下洞窟を引き返す。自分が正解だと信じていたものがダミーに過ぎなかったと知ったジェントル澄神は茫然自失し、桝本さんに凭れ掛かるようにしながら、死人のような顔でブツブツ呟くばかりの廃人と化していた。
空原神社の社殿まで戻ってくると、待っていた覇唐さんと厄火ちゃんに、地下で見たものを報告した。覇唐さんは「そうか」と頷き、厄火ちゃんは「なんと恐ろしいのでございましょう」と目を伏せたが、そこで人の神経に触る声を発したのが誠くんだった。
「ん~、おかしいと思うんすよね~。地下に行くにはこの社殿を通らなくちゃいけないし、それは一度きりのことじゃなくて事前調査なんかもあったでしょーし、他にも、みすみす巻物を盗まれてしまったりとか、鳥居の下で『女教皇』の見立てが行われているときに気付かなかったりとか、この匣の仕掛けのことにしたって、あまりにあまりに、知らん顔で通すには無理があり過ぎるんじゃないっすか、厄火さん~」
「……私が疑わしい、ということでしょうか?」
「もっちろん! それ以外にないっすよ。ねぇ皆さん、」
誠くんは厄火ちゃんの肩に手を置いて、僕らへ振り返った。
「僕はずっと思ってたんす。桜野美海子は既に僕らの前に姿をさらしてるんじゃないかって。なら彼女は整形してるんじゃないかって。彼女が宣戦布告した映像は一週間前でしたし、もしあれが録画した映像だったなら、さらに以前の顔だってことも充分に考えられるっすよね? でね、整形した桜野美海子を注意深く探してたんすけど――この厄火さん、一番ぴったりなんすよ~。此処には元〈桜生の会〉で桜野美海子に近づこうと整形した人が複数いますけど、〈別人が桜野美海子になろうとした顔〉と〈桜野美海子が別人になろうとした顔〉って近似すると思いません? ほら、桜野美海子が整形するなら、大幅に整形した人って顔が不自然になってすぐバレますから、その程度にとどめると思うんすよね~。桜野美海子を隠すなら桜野美海子たちの中っす。厄火さんのこの中途半端さはいかにもそんな感じですし、身長もちょうど良いくらいでしょ~?」
薄っぺらな笑顔を貼り付かせた誠くんと、彼に怯え、両手を身体の前でぎゅっと握っている厄火ちゃん。悪い冗談のような構図だけれど、タチの悪いことに、誠くんの話はそれなりの説得力を持っていた。
さらに彼は、それこそ悪い冗談そのものなアイデアを続けた。
「とゆーわけで、僕が厄火さんを軽く拷問して、口を割らせますよー」
さすがに批判が出る。桝本さんは「な、何を云ってるのだ君は!」と困惑や叱責が混じった反応を示し、レイモンドさんは「冴えた手とは思えねぇな。謎解きゲームじゃ御法度だろ」と冷静に述べる。
しかし誠くんは「ちょっとちょっとちょっとー」と半ば強引にそれらを封じ込める。
「分かってくださいよ~。僕ははるか先輩を殺されて非常に非常に憤ってるんすよ~? 何が謎解きゲームっすか。人が殺されてるんすよ? 皆さん感覚が麻痺してません? 僕はね~、やれることは何でもやるっすよ~。さらなる被害者を出さないためってのもありますし、これははるか先輩の仇討ち――そう、復讐でもあるんすからね! 復讐っすよ、分かります?」
「あたしは賛成だ」
樽木さんが進み出て振り返り、厄火ちゃんを挟む格好で誠くんと並んだ。
「最愛の者を殺された苦しみや憎しみは、お前らには分からない。あたしは馬鹿馬鹿しい謎解き遊びになど付き合っていられない。もっと直截的で具体的な手段を選ぶよ」
なおも桝本さんが何か云おうとしかけたけれど、またも誠くんが「おっと」と遮る。
「忘れてないっすよね~? この厄火さんももちろんとして、此処にいる人達はみーんな桜野美海子の共犯者で、犯罪者なんすよ~? 犯罪者の肩を持つつもりっすか~? それに拷問と云ってもね、そんな酷いことはしませんって。やだなぁ。僕は一介の善良な高校生っすよ~? 心配しないでくださいって。ただ、いまのままじゃ埒が明かないから、別のやり方も試させて欲しいってだけなんすよ」
「あたしに関しては、優しくやる保証はない。だけど、此処で謎解き遊びに付き合って、殺人を看過しているお前らに、あたしを責める資格もないでしょ。此処で桜野美海子を探すうえで、別に禁止されてるルールはないはずだ。お前らが勝手に空気を読んでるだけで。ならお互い、自由にやればいいじゃないか」
これで誰にとっても、口を挟むのは難しくなった。加えて無花果が「彼女の云うとおりですね。互いに障害とならない限り、各々、自分が思う道を行けばいい」と珍しく肯定的な意見を述べて社殿を出て行くと、自然、誠くんと樽木さんの離脱を咎めるムードはなくなった。
不安そうに身を縮めている厄火ちゃん。それは果たして、高メタレベル、低メタレベル、いずれにおける振る舞いだろうか? 現実的な恐怖や痛みは、その垣根を簡単に壊してしまえるかも知れない。樽木さんが厄火ちゃんを見る目に慈悲はなく、誠くんは笑っていた。
そして、その三人を残して〈探偵学校〉に戻った僕らは、新たに六つの首が切断されたことを知る。犯人は湯夏。突然の派手な展開に、学校中が大騒ぎだ。
空原神社への道すがら、樽木さんから外の様子について聞いた。
事件には報道規制が為されているものの、大規模なそれであれば情報流出を避けられない。昨日の夕方には地下鉄で、駅から駅の間の短い時間に、乗客全員が虐殺される密室殺人が起きたそうだ。窓のすべてに血で象形文字が描かれており、おそらく桜野の指揮によるものだと目されている。
その一方で、別の地方ではようやく、桜野の手下が三名、逮捕されたらしい。しかし彼女らは捕まるとすぐに舌を噛み切って自害し、何の証言も引き出せなかったとの話である。
「やはり桜野美海子をどうにかせん限り、事件は止められそうにないな。くそっ……此処への応援はまだないのか? まだ半数以上の〈空き〉があるだろう? 暗号の答えは分かってるというのに、何を手こずっているんだ?」
桝本さんは愚痴を重ね、それを聞いていた陽子さんも「月子……まだなの……」と涙ぐんで呟いていた。
「まぁまぁ、いいではないですか! どうせ間もなく、すべて解決されるのです。この私の手によってね! あっはっはっは!」
空原神社に着くとジェントル澄神は掃き掃除の最中だった厄火ちゃんに先ほどの推理をかいつまんで話し、厄火ちゃんは僕らが社殿に入るのを認めてくれた。「地下への通路なんてありませんが……」と厄火ちゃんは不安げだったけれど、ジェントル澄神は「いえいえ、隠されているのですよ。何か仕掛けがあるのです」と自信満々だった。
社殿は板の間の前方が厄火ちゃんの生活スペースになっており、後方に例の御神体があった。直方体の匣である。床に倒された格好で固定されていて、ジェントル澄神は辺りを見回した後に「ははぁ。これが怪しい」と目星を付ける。
蓋を開けるとあの巻物だけが収められているほか、底の面に不思議な彫刻が施されていた。
「あみだくじ、ですね」
たしかに、それはあみだくじであった。真ん中の縦線だけが他と比べて長い。その上はどうやら天空を描いた彫刻であり、下は地底を描いた彫刻であると分かる。また、あみだくじの面は三枚のパネルに等分されていて、それぞれ左右にスライドさせられる。
「なるほど、分かりましたよ。これこそ『天と地を繋ぎ』です。はて……〈地〉ではなく〈池〉だったはずですが……まぁいいでしょう。つまりこの縦にひとつだけ長い中央の線をあみだくじの要領で上から辿り、下で再び戻ってくるようにしてやればいいのです。このままではいけません。一番左の下端に着いてしまいますからね。そのために、三枚のパネルを正しいかたちにスライドさせるのだ」
それから彼はパネルをあれこれ動かしてみては指であみだくじを辿り、しかし思いどおりにいかず、徐々に苛立ちはじめ、顔面の痙攣が激しくなり、指先が震えだすけれど、答えを導き出すことは全然できない。
「もう馬鹿だな。ちょっと貸してよ」
そう云ってジェントル澄神を押しのけたのは樽木さんだった。
「全体で考えようとするから駄目なんだ。それぞれのパネルは上と下でどことどこが繋がってるのか決まってる。先にそれを全部確認して、あとは繋ぎ合わせるだけだ」
彼女はスムーズに三枚のパネルを動かし、あっという間に正しいかたちを仕上げた。
バチンっ――と音が鳴って、直後、底の面が抜けた。正確には上部だけがくっついたままで、ぶら下がっている。匣の下には深く深く真っ暗な縦穴が続いており、その壁に木製の梯子が固定されていた。
「思ったとおりですよ! あはははは!」
ジェントル澄神は先ほどの仕返しとばかりに樽木さんを突き飛ばした。
「さぁ、下りて行こうではありませんか! しかし手錠が邪魔だが――仕方ない――私が先陣を切りますよ! 桝本さん、懐中電灯をお願いします」
ヒュオーッと冷たい風の通る音が響く縦穴を、僕らは――厄火ちゃんと、足を悪くしている覇唐さんは地上に残して――順次下りて行く。穴は思っていたほど深くはなくて、底に着くと今度は横に洞窟となっていた。方角としては南東だ。どうやら人工的につくられた洞窟らしく、鳥居に似た格好の木の柱が等間隔で続いている。横に二人並べる程度には幅があるし、高さとしても少し身をかがめるだけでよかった。
「時計塔といい此処といい、桜野美海子はえらく凝った仕掛けを用意したもんだな。ここまでくると、少しは尊敬を覚えるぜ」
「レイモンドさんは、此処も桜野美海子がつくらせたんだと考えてるんすか? 柱の感じとかだいぶ古そうっすけど」
「柱の感じなんて加工さ。当たり前だろ。いまも昔も、あんな小さな社殿に巫女だけひとりで住むわけがねぇ。なら久井世冬詩の伝説だって嘘だし、神社と池とが地下で繋がってるなんて土台おかしな話だ。全部、桜野美海子が今回の謎解きゲームのためだけに拵えたフィクションだよ。その中をこうして歩いてる現実の俺達もまた、だいぶ面妖な存在だな」
地下洞窟は多少右に左に曲がりつつも、やはり南東に向かって、下り坂として続いていた。そして間もなく、懐中電灯の灯りが前方に変化を捉えた。
「おお……何でしょうこれは……いやしかし、扉がありますよ」
地下洞窟は途絶えていた。行き止まりとは違う。地の裂け目とでも云うべきか、顔だけ出してみれば、上下にも左右にも、ひたすら闇の支配する空洞。左右に関しては、どうやら奥にいくにつれて緩やかにカーブしているらしいけれど……懐中電灯では照らしきれない。ただ前方には、三メートルほど先、こちらと並行に壁が続いており、ちょうど正面には壁に埋まるようなかたちの木の扉が一枚見えていた。僕らがいる側とその扉との間には、簡単な木の板が橋として渡されている。
「どうした澄上、行くしかないだろう。少し不安な橋ではあるがな」
「突っつかないでください桝本さん! なんて危ない……もしも転落すれば、底がどこだか分かりません。死にますよ!」
ゴオオオ……ゴオオオ……と、何か怪物の唸り声のような音が響いている。ギイ……ギイ……と軋む頼りない橋を、僕らはひとりひとり、渡って行く。いちおう、橋の左右にはロープも渡されていたけれど、両端を壁に釘で打ち込まれただけの手摺りなので、あまり信用はできない。それでも無事に、全員が橋を渡りきった。先に渡っていた者達は既に、扉を開けて中に這入っていた。
そこはヒンヤリと冷たい、小さな部屋だった。床も壁も天上も石造りで、何だかゴツゴツとしており、あまり寝転がったりはしたくない。とはいえ住空間としてつくられたものでないのは明らかで、調度品はひとつもなかった。ただ中央に椅子がひとつ置かれていて、首なし死体がひとつ、ぐにゃりとだらしない格好で腰掛けていた。
ひどい異臭だ。死んだのは昨日や今日ではない。腐敗が始まっている。首の断面から流れ出した大量の血液も完全に酸化して黒くなっている。切り取られた首は、どこにも見当たらない。だが着ているのは〈探偵学校〉のセーラー服であり、胸には名札が付いていた。
名札には『左条』と書かれていた。
左条は既に、しかも随分と前から、死んでいた。
「そ、そんな……そんな馬鹿な……」
唇の端をピクピクと動かすジェントル澄神。
「ち、違う……はは、そうか、分かったぞ! 首切り死体における典型的なトリックだ! べ、別人の死体の首を切って、左条の制服を着せたのだ……いや、制服はそのままでいい、名札だ……名札を代えてやるだけでいい……そうです、こ、これは左条ではなく――」
「いいや、左条だな」と、レイモンドさんが冷静に告げる。
「この死体はもう、殺されてから一週間は経ってる。一週間以上前から行方不明になっていたのは、左条だけだ。この死体は左条でしかあり得ない。入れ替えトリックは存在しない。存在できないんだ」
ジェントル澄神の顔から血の気が失せた。その細い身体が、小刻みに震え始めた。
「さ、左条がし、死んでいた……行方不明となった左条は、此処でず、ずっと、死体となって……」
震えがガタガタと、大きくなっていく。
「私達をま、待っていたのは……こ、これもダ、ダミーだったのか……私達を、わ、私を、嘲笑うための、だ、だ――うキャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「澄上ッ! 馬鹿、落ち着けッ!」
ついに発狂したジェントル澄神を、桝本さんが抑え込んだ。背後からほとんど締め付けるように抱きかかえられ、哀れなジェントル澄神は「ああ、うあ、うあ、ああ、うあ、ああ、うあ、うあ」と、もはや意味のある言語を発せない。
「かと云って、左条がまるきり無実だったわけでもねぇな」
なおも冷静に、レイモンドさんは――鼻を摘まみながらだけれど――意見を述べる。
「左条が悪魔主義者を集めて連続自殺を指示したのも、それを誤魔化すために久架を云いくるめて連続タロットカード殺人を演出させたのも、事実と見ていい。ただ、その裏に、さらに真犯人がいたらしいってだけだ。顔の広い左条を利用して準備を整えさせ、用済みになると殺して此処に隠しておいた真犯人。実際、左条はスケープゴートとして効果的だった。左条を追ってきた俺達は、ここで行き止まりだぜ」
「一体、誰なんすかねー。行方不明者はもう残ってませんから、僕らも一度は見てる人なんでしょーけど。あ、左条が一週間前から実は死んでたってことは、呉山に手紙出したり、鞍更と遠茉にタロットの見立てを施したりしたのはその人なんすよね?」
「いいや、手紙はそうだろうが、見立ての方は考えてみると、鞍更と遠茉が自分でやったんじゃねぇかと思う。それぞれ『女帝』と『皇帝』の格好してから服毒したってわけだな。だから真犯人が自分で動いた場面はほとんどないはずだ。全部、誰か他人を使ってる」
ならば、と僕は考える。その真犯人の目的は何なのだろうか? 連続タロットカード殺人も悪魔降臨もフェイクであったなら、これらの裏に、さらに別の意味が潜んでいることになる。左条の首が持ち去られていることが関係しているのだろうか? よくある首なし死体の入れ替えトリックは、たしかに、この左条の死体には使えない。であれば、首切りの目的もまた分からない。
無花果は左条の胸元を見詰めていた。切断は首の中ほどから為されていたから、そこにはネックレスが掛かっていた。四ツ葉のクローバーのネックレス……見覚えがある。昨夜、『女帝』鞍更の死体が発見された現場で、カメラを持った陰気そうな女子――湯夏という名前だったと思う――がさげていたそれと同じだ。
「でも完全に行き止まりってわけでもないんじゃない? この先は?」
樽木さんは、奥の扉の前に立っていた。入口と向かい合うその扉の存在は、皆が先ほどから気にしていた。こちらは木製でなく、赤錆びた銅でできている。両開きのそれであり、隙間なく厳重そうに閉じられていて、閂まで嵌っている。
「触れない方がいいですよ」
無花果が発言した。
「久井世冬詩の二の舞となります」
「そうらしいな。位置的に、その先は池の中だ。いわば、この部屋は蓋だぜ」
肩をすくめ、溜息まで吐いたのはレイモンドさん。
「収穫はなさそうだ。戻ろう。死体は生徒会の奴らに回収させればいい」
左条の首なし死体を残し、僕らは地下洞窟を引き返す。自分が正解だと信じていたものがダミーに過ぎなかったと知ったジェントル澄神は茫然自失し、桝本さんに凭れ掛かるようにしながら、死人のような顔でブツブツ呟くばかりの廃人と化していた。
空原神社の社殿まで戻ってくると、待っていた覇唐さんと厄火ちゃんに、地下で見たものを報告した。覇唐さんは「そうか」と頷き、厄火ちゃんは「なんと恐ろしいのでございましょう」と目を伏せたが、そこで人の神経に触る声を発したのが誠くんだった。
「ん~、おかしいと思うんすよね~。地下に行くにはこの社殿を通らなくちゃいけないし、それは一度きりのことじゃなくて事前調査なんかもあったでしょーし、他にも、みすみす巻物を盗まれてしまったりとか、鳥居の下で『女教皇』の見立てが行われているときに気付かなかったりとか、この匣の仕掛けのことにしたって、あまりにあまりに、知らん顔で通すには無理があり過ぎるんじゃないっすか、厄火さん~」
「……私が疑わしい、ということでしょうか?」
「もっちろん! それ以外にないっすよ。ねぇ皆さん、」
誠くんは厄火ちゃんの肩に手を置いて、僕らへ振り返った。
「僕はずっと思ってたんす。桜野美海子は既に僕らの前に姿をさらしてるんじゃないかって。なら彼女は整形してるんじゃないかって。彼女が宣戦布告した映像は一週間前でしたし、もしあれが録画した映像だったなら、さらに以前の顔だってことも充分に考えられるっすよね? でね、整形した桜野美海子を注意深く探してたんすけど――この厄火さん、一番ぴったりなんすよ~。此処には元〈桜生の会〉で桜野美海子に近づこうと整形した人が複数いますけど、〈別人が桜野美海子になろうとした顔〉と〈桜野美海子が別人になろうとした顔〉って近似すると思いません? ほら、桜野美海子が整形するなら、大幅に整形した人って顔が不自然になってすぐバレますから、その程度にとどめると思うんすよね~。桜野美海子を隠すなら桜野美海子たちの中っす。厄火さんのこの中途半端さはいかにもそんな感じですし、身長もちょうど良いくらいでしょ~?」
薄っぺらな笑顔を貼り付かせた誠くんと、彼に怯え、両手を身体の前でぎゅっと握っている厄火ちゃん。悪い冗談のような構図だけれど、タチの悪いことに、誠くんの話はそれなりの説得力を持っていた。
さらに彼は、それこそ悪い冗談そのものなアイデアを続けた。
「とゆーわけで、僕が厄火さんを軽く拷問して、口を割らせますよー」
さすがに批判が出る。桝本さんは「な、何を云ってるのだ君は!」と困惑や叱責が混じった反応を示し、レイモンドさんは「冴えた手とは思えねぇな。謎解きゲームじゃ御法度だろ」と冷静に述べる。
しかし誠くんは「ちょっとちょっとちょっとー」と半ば強引にそれらを封じ込める。
「分かってくださいよ~。僕ははるか先輩を殺されて非常に非常に憤ってるんすよ~? 何が謎解きゲームっすか。人が殺されてるんすよ? 皆さん感覚が麻痺してません? 僕はね~、やれることは何でもやるっすよ~。さらなる被害者を出さないためってのもありますし、これははるか先輩の仇討ち――そう、復讐でもあるんすからね! 復讐っすよ、分かります?」
「あたしは賛成だ」
樽木さんが進み出て振り返り、厄火ちゃんを挟む格好で誠くんと並んだ。
「最愛の者を殺された苦しみや憎しみは、お前らには分からない。あたしは馬鹿馬鹿しい謎解き遊びになど付き合っていられない。もっと直截的で具体的な手段を選ぶよ」
なおも桝本さんが何か云おうとしかけたけれど、またも誠くんが「おっと」と遮る。
「忘れてないっすよね~? この厄火さんももちろんとして、此処にいる人達はみーんな桜野美海子の共犯者で、犯罪者なんすよ~? 犯罪者の肩を持つつもりっすか~? それに拷問と云ってもね、そんな酷いことはしませんって。やだなぁ。僕は一介の善良な高校生っすよ~? 心配しないでくださいって。ただ、いまのままじゃ埒が明かないから、別のやり方も試させて欲しいってだけなんすよ」
「あたしに関しては、優しくやる保証はない。だけど、此処で謎解き遊びに付き合って、殺人を看過しているお前らに、あたしを責める資格もないでしょ。此処で桜野美海子を探すうえで、別に禁止されてるルールはないはずだ。お前らが勝手に空気を読んでるだけで。ならお互い、自由にやればいいじゃないか」
これで誰にとっても、口を挟むのは難しくなった。加えて無花果が「彼女の云うとおりですね。互いに障害とならない限り、各々、自分が思う道を行けばいい」と珍しく肯定的な意見を述べて社殿を出て行くと、自然、誠くんと樽木さんの離脱を咎めるムードはなくなった。
不安そうに身を縮めている厄火ちゃん。それは果たして、高メタレベル、低メタレベル、いずれにおける振る舞いだろうか? 現実的な恐怖や痛みは、その垣根を簡単に壊してしまえるかも知れない。樽木さんが厄火ちゃんを見る目に慈悲はなく、誠くんは笑っていた。
そして、その三人を残して〈探偵学校〉に戻った僕らは、新たに六つの首が切断されたことを知る。犯人は湯夏。突然の派手な展開に、学校中が大騒ぎだ。
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