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千代原真一の章 肆
3、4「仲野宮ゆめ、調査」
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3
昼休み、朝と同じ場所に僕とゆめと麗子さんの三人は集合した。ゆめは朝よりもさらに疲れを湛えた様子である。放課後まで持つか、僕は気が気でないのだが……。
「随分と久し振りね、ゆめちゃん」
「そうですね」
「ゆめちゃんが手伝ってくれるなら心強いわ。ところで、少し痩せたかしら」
「どうでしょう。さて、話を聞かせてください。真一より麗子さんの方が簡潔にまとめてくれるでしょうから、お願いします」
ゆめは久闊を除するいとまもなく、本題に入った。
麗子さんが事情とこれまでの調査の経過を分かりやすく説明する間、ゆめは質問を挟んだりせずにひたすら黙って聞いていた。説明が終わるとゆめは僕に目を向けて、
「何か付け加えることはありますか?」
「ないよ」
「そうですか」
ゆめなら話を聞いただけでも新機軸となるような考えを披露するかも知れないと身構えていたが、どうやらそうもいかないらしかった。彼女の態度は話を聞く前とあまり変わっていない。
「真一、放課後に僕をその喫茶店に案内してください。実際に見ておきたいです」
当然、僕は承諾する。
「もっとも、真一と麗子さんからしてみれば既に行った場所ですから、麗子さんは別行動にした方が賢明でしょう。それが効率的というものです」
「そうね。私は私で、他に心当たりのある場所に出向いてみるわ……きゃっ」
麗子さんが小さく叫び声をあげた。その視線は階段の方に向いている。僕もそちらを見たが、しかし変わったところはない。
「どうしたんですか」
「誰かが覗いていたの。顔の半分だけを出して、まるで私達の様子を窺っているみたいだったわ」
ゆめが「男子ですか。女子ですか」と訊ねると、麗子さんは首を傾げた。
「一瞬しか見えなかったから、判断しかねるわ。髪の長さは、どっちでもおかしくなかったような……」
今から僕が階段まで走っても、相手は逃げているだろう。ただ、僕にはそんなに気にする必要もないように思われた。
「此処は逢引きの場としても使われますから、そう勘違いされただけじゃないでしょうか。僕らも声を潜めての会話ですし、問題ないですよ」
「たしかに真一の云うとおり、神経過敏になっていますね」
「ええ、そうみたいだわ……」
だが、無理もないかも知れない。麗子さんは僕らの前でこそ平静を保っているけれど、彩音ちゃんがなかなか見つからないせいで、精神的に疲弊しているはずなのだ。
「いま聞いておきたいことはもうありません。解散としましょう」
「あ、私からひとつ。ゆめちゃん、現時点での見解があったら、是非聞かせて欲しいわ」
「ありません」
ゆめは即答した。麗子さんは内心肩を落としたかも分からないが、表には出さなかった。
麗子さんと三年生の教室がある三階で別れた後に、ゆめは僕に云った。
「真一、麗子さんを信用するのは危険です」
真意は分からないが、聞き逃せない発言である。
「彼女は秘密を抱えているに相違ありません」
「どういうこと? ゆめも知っているだろ、麗子さんはあのとおり誠実な――」
「それは真一が彼女に抱いている印象です。印象とはすなわち、幻想です。幼馴染だからと云って、真一が彼女について知っている事柄なんて、氷山の一角に過ぎません」
ゆめはまた「死にたいですね……」と呟いてから、
「人は人を理解できないのですよ」
そう云う彼女の姿は、どこか寂しそうだった。
4
放課後、僕とゆめは校門を出ると、普段とは逆方向――つまり百条駅の方に向かって歩き始めた。
「久し振りの学校はどうだった?」
「……気休め感覚で訊いているようですが、僕にとってはその質問、心的外傷になってもおかしくありませんよ」
トラウマと云えばいいのに、珍しい云い方をする。
「死にたいです。もう二度と来ません」
「明日からまた登校拒否になるつもりか? ゆめ、そんな調子じゃ卒業できないんじゃないかな」
「重々承知しています。卒業は、僕もしないとだと思っていますよ……嗚呼、真一、此処は周りに人間が多すぎます」
駅を利用する生徒が全員使う通学路なので、人が多いのは仕方がないことである。
「精神衛生上良くないので、裏道めいたルートで案内してもらえませんか?」
「僕も普段使わないから裏道なんて知らないけれど……そうだね、方向感覚には多少の自信があるから、適当に迂回してみようか」
思えば、こうして二人で外を歩くのはいつ以来か知れない。不謹慎だが、僕は今を楽しいと感じている自分を自覚した。ゆめだって、学校での疲労が色濃く表れてはいるものの、若干愉快そうに見えなくもない。
下校途中の生徒がいない道に這入ったところで、ゆめが藪から棒に「通り魔殺人について教えてください」と云った。僕としてはあまり思い出したくない事柄だが、ゆめにそういった気遣いをされるのもかえって居心地が悪いか。
「お母さんからは大雑把なことしか聞いていないのです」
「僕だって詳しいわけじゃないけれどね。……通り魔による被害者は現時点で三人。みんな、百条市内の高校に通っている女子高生だ。たしか愛穂以外の二人は住んでいるのも百条市だったと思う。身体を切断されて、各部は別々の場所に置かれていた。えーっと、ひとり目が四ヶ所、二人目が……たぶん三ヶ所、愛穂も三ヶ所だったかな。花壇の中とか、茂みの中とか、ゴミ箱の中とか、駐車場とか、民家の庭とか……いずれも百条市内。ひとり目が発見されたのは先週の……火曜だったはず。全員、殺害された翌日に発見されているんだ。殺されたのはみんな、下校中だったらしいよ。それで、二人目の発見が木曜だったね。愛穂は一昨日だ」
「殺害された日は、ひとり目が先週の月曜、二人目が水曜、三人目が今週の月曜ですか……三人目、真一の恋人さんが何時頃に殺されたかは、分かっていますか? 下校中とはいえ、寄り道していたなら、夜とも考えられそうですけれど」
「夕方頃って聞いたよ。それに愛穂の場合、高校から駅までの間で襲われたみたいだし、犯人は大胆すぎる。愉快犯だから、警察への挑発という趣向もあったのかな」
それに愛穂は運悪く、巻き込まれてしまったのだ。憤りを感じるよりもまず、遣る瀬無いと感じてしまう。
「真一は月曜もどうせ、恋人さんと校門の前までべたべたしていたのですよね」
「僕らはそんなに人目を憚らないカップルではなかったけれど……」
「恋人さんは、その後なにか予定があるという旨の発言はしていなかったのですか? そうでなくとも、それを匂わせる様子は?」
「なかったと思う。ゆめ、どうしてそんな細かいことを訊くんだ? 僕も辛くなってきたんだけれど……」
「ちょっと真一、僕が意地悪でその日のことを執拗に質問しているなんて思っていませんよね?」
「そんなに悪趣味だとは思っていないよ、さすがに」
「なんですか、その云い方」
ゆめは唇を尖らせた。
「あ、道はこれで良かったみたいだよ」
誤魔化すためではなく、目的の喫茶店がある通りに出たので僕はそう云った。
「此処を真っ直ぐ行けばいいんだ」
「学生は見当たらないようですが、通学路からは外れているのですか?」
「そうだね。他の高校の人達とも、この通りはひとつずれていると思う。彩音ちゃんは落ち着いて話がしたくてその喫茶店を選んだみたいだから、それがこの通りなのは当然なのかもね」
中学生にしてはませている。繭ちゃんの方には、たしかにそういった印象があるけれど。
「彩音ちゃんが友達の家にいる場合は、繭ちゃんが上手く探し出してくれればいいんだけれどね」
「その空井という中学生には、麗子さんから話を持ち掛けたのですか?」
「いや、繭ちゃんからだよ」
「なら、彩音が空井の家にいるということはないですね」
思ってもみない可能性だった。今、僕の隣を歩いているだけでも、ゆめの脳内ではそのような検討が目まぐるしく進んでいるに違いない。
「やっぱり凄いよ、ゆめは」
「改まって云われても困りますけれど」
ゆめはどんな可能性も見逃さない。先入観や常識に捕らわれず、真に理性的な思考ができる。僕はそれをたびたび目にしてきたのだ。昼休みに麗子さんについて述べていたのも、そのうちのひとつなのだろう。
目的の喫茶店に到着し、僕らは中に這入った。昨日と同じ一番奥の席が空いていたので、そこを確保してから、入口から見て左手を続いているカウンターまでやって来る。この店はカウンターで注文して商品を受け取り、連なっているレジで支払いをする仕組みだ。
「わ、わ、真一、僕の注文も任せます」
ゆめは僕の服の裾を摘まんで、似合いもせず慌てた。こういう店は不慣れなためか、緊張しているようだ。
「アイスコーヒーでいい?」
ゆめはこくりと頷く。彼女はストローでしか飲み物を飲まないという変わった主義を持っているので、必然的にホットは飲めないのだ。
支払いのとき、ゆめが僕に耳打ちした。
「店員さんに、月曜のことを訊いてください。彩音と空井が四時から八時まで店内にいたのかどうか、です」
そんなことを質問するのは不自然な気がするけれど、僕は仕方なくレジを打っている女子大生くらいの店員に、
「三日前、女子中学生の二人組が来ませんでしたか? 寄辺中学の制服で、一番奥の席に座っていたそうなんですが」
この店にいたら目立つだろう二人組なので、云われれば思い出せるはずだと思う。
「三日前と云うと、月曜ですか? ああ、私は月曜いなかったので……。宗田さん、月曜に寄辺中学の女の子二人組って来ました?」
女子大生らしき店員は、三十代前半くらいに見られる女性の店員に訊いてくれた。他に客は並んでいないので、そう迷惑ではないと信じたい。
「そうね、来ていたわよ。ずっと話し込んでいたわね」
それを聞いて、僕は宗田さんというらしい店員に、
「四時頃から八時頃までいたんですよね?」
「そこまでは憶えていないけど、そうね、だいぶ遅くまでいたと思うわ」
「分かりました。ありがとうございます」
質問した理由を詮索されないうちに僕は礼を告げ、飲み物の乗った盆を持って、奥の席へ退散した。
「どうしてあんな質問を?」
席に着いて、ゆめに訊ねる。恥ずかしい役回りだったので教えて欲しかったが、彼女は「ただの確認です」と云うだけだった。
「それで、来たのはいいけれど、この後はどうするんだ?」
「疲れたので休憩ですね」
ゆめはストローを咥えて、窓の外を眺めている。僕も自然な流れで飲み物まで注文してしまったが、彼女は本当に一息つくつもりらしい。
「のんびりしてもいられないよ。麗子さんは今もあちこち探し回っているんだから」
「僕からすれば、此処まで来ただけでも充分な前進ですよ」
「何か分かったってこと?」
しかしゆめは答えなかった。彼女に対しては急かしても仕方がないので、僕も一旦落ち着くことにする。
そのまま時間は経過し、僕のコーヒーもすっかり冷めたので、
「ゆめ、そろそろ――」
「ところで」
ゆめは僕の言葉を遮るように、
「せっかくなので甘いものが食べたいです。先程確認しましたところ、メニューにモンブランという名前がありました」
「……分かった。買ってくるよ」
それで今度こそ満足してもらうしかない。
「えへへ、お願いします」
ゆめが上機嫌そうに笑うのを久々に聞いた気がする。
僕が席を立つと、席で待っていてくれていいのに、ゆめもぴっとりとついて来た。
カウンターでモンブランを注文し、代金を払う際に先程と同じ女子大生らしき店員に「お二人は恋人同士で?」と問い掛けられた。彼女は何気なく訊いたふうだったが、僕は少なからず衝撃を受けた。
「いいえ、そういうわけではありませんよ」
返事も遅れ気味となってしまった。ゆめがあまりにもくっ付いているから、そう見られてもおかしくないのかも知れないが、しかしそれでも虚を衝かれた気分だった。
席に戻ると、ゆめは早速モンブランを食べ始めた。前髪に隠れて表情は窺えない。「美味しい?」と訊いてみると、その頭が縦にこくんと動いた。
先程は動揺したが、考えてみれば僕とゆめの関係をその手のものと誤解したような言葉は、これまでも何度か受けてきた。麗子さんだって、特にからかう感じでもなく、よく云ってくる。
僕は一度だってそう意識したことはないのに。
外が若干暗くなってきたために、窓を見ると僕とゆめの姿が映り込んでいた。こうして見ても、やはり恋人同士には見えない。
「僕はこの手の店を利用する必要があるとはまったく思えないのですが、此処は割合静かなので悪くはないですね」
「え、ああ、そうだね」
「なんですか。似合いもせず、考え事に没頭していたようですけれど」
「彩音ちゃんのことだよ。ゆめ、目的を見失ってない?」
「見失っていませんよ」
まだモンブランは一口ぶん残っている。それが口に運ばれたら、行動を再開するように進言しよう……そう思っていると、ゆめが「少し失礼します」と云って席を立った。トイレに行くのだろう。
誤魔化すように彩音ちゃんの名前を出してしまったけれど、僕の方こそつい失念していた。いま考えるべきはそれなのだ。
連絡がない以上、麗子さんも繭ちゃんも成果は上げられていないようだ。彩音ちゃんが行方知れずとなってから、もう丸三日が経とうとしている。これが家出の類だとしたら、さすがに帰って来るはずの頃合いだ。それがないということは……もう楽観していられる段階をとうに過ぎているのではないだろうか。
ゆめが戻ってきた。なぜか、彼女は目に見えて落ち込んでいた。一時は笑い声さえあげていたのに、露骨に肩が下がっている。
「どうしたんだ?」
「なんでもありませんよ」
意気消沈といった様子のゆめは、モンブランの最後のひとかけらをなかなか食べようとしない。トイレに行っただけで、こうも変わるものだろうか。
「お腹いっぱいなの?」
「……そうですね。真一、食べていいですよ」
これが片付けば活動再開の目途も立つので、僕はゆめの奨めに従った。ゆめはモンブランが僕の口に入るのを見ていたが、名残惜しそうだったりはしなかった。
「じゃあ行こうか」
店を出ないことには始まらないと思い、僕は立ち上がった。ゆめも今度ばかりは従ってくれた。
店員の「ありがとうございました」という声を背に受けつつ外へ出ると、陽も落ちてかなり肌寒くなっている。
「何処か当てはある?」
「では真一と麗子さんが昨日歩いたというコースをお願いします」
昨日は何も発見できなかったわけだが、果たしてそれで進展があるのだろうか。かと云って代案もないけれど……。僕はいまいち釈然としないままに歩き始めた。
「夜は嫌ですね。無条件で陰鬱とさせられます」
それでそんなに物憂げなのだろうか。
「ゆめ、考えがあるなら、聞かせてくれないかな」
そう思った理由は、茫洋としていて説明できない。長い付き合いだからそうと分かる、直感的なものだった。
ゆめは黙っている。
「中三のときのことを気にしているのか?」
ゆめは中学時代、探偵活動をしていた。難事件の数々について、警察に助言を与え、解決に導いた。その活躍は表沙汰にはされなかったけれど、それについて知る一部の大人達は、いつしかゆめの能力を認め、フィクションの中の名探偵を頼るかのようにゆめに接するようにさえなっていた。
だが、中学三年の夏に、ゆめは推理を誤った。いつまでも順風満帆にはいかなかったのだ。彼女は善良な人間に冤罪を負わせてしまった。いくら有能と云ってもまだ中学生であるゆめの言葉を鵜呑みにした警察にも責があると僕は思ったが、みなはゆめを責め立てはせずとも、言外にそういった態度をとった。その事件は結局、迷宮入りとなった。ゆめにとって、はじめての失敗であり、敗北であった。それきりゆめは探偵活動をやめた。周囲からの圧力もあったが、それがなくたって、そうなっていただろう。
ゆめはそのときのことを、ずっと気に病んでいるのではないだろうか。だから今回も、こうしてなかなか考えを披露できないでいるのではないだろうか。また間違えるのが怖くて……。
「愚にも付かないです」
ゆめはややあって否定したが、その語調には自信が欠けているように感じられた。
「仮にそうだとしても、くだらない感傷ですよ。本当に、くだらない……」
思い出したくないことを、思い出させてしまった。それは確かだ。僕は配慮に欠けた自分の言動を反省した。
「ごめん」
「気にしないで結構です。本当に、違いますから」
ゆめは「死にたいです」と挟んで、独り言を述べる調子で、
「まったく僕は最低の人間です……」
その言葉は、僕が何かを云うのを拒否しているようであった。
しかし、僕は黙っていられなかった。
「そんなことないよ。絶対にない」
思った以上に強い語調となった。
ゆめは一瞬驚いた顔になってから、自嘲気味な笑みを浮かべる。
「真一、僕は日々を充実させたくないのです」
急な話題の転換に、反応が遅れる。
「どうして?」
「楽しいと、恐ろしくなります。嬉しいと、恐ろしくなります。胸が締め付けられて堪りません。だって、生きているのを楽しいと、嬉しいと感じてしまったら、死ぬのが怖くなるじゃありませんか」
ゆめは顔をずっと前方に向けたままで話を続ける。
「死ぬのが勿体ないと思ってしまうじゃありませんか。諦められなくなってしまうじゃありませんか。死ぬときに辛くないように、死んだように生きていたいのです。でないと、生死の落差に耐えられません。死にたいうちに、早く人生が終わって欲しいのです」
だから死にたいです、とゆめは云った。
この話を僕は、中学のときにも聞いていた。ゆめは忘れてしまったのかも知れないけれど、僕は憶えている。ゆめはずっと、この悩みから抜け出せずにいる。
ゆめは逃げている。彼女は類稀なる才覚を持つ身でありながら、誰よりも純粋で、誰よりも脆い……触れれば壊れてしまいそうなほどに。
変わってなんていなかった。僕は中学時代のゆめは孤高であったと、超然としていたと感じていたけれど、それは当時の僕が抱いていた印象に過ぎないのだ。印象であり、幻想――ゆめが云っていたように。
あのときの僕が、ゆめと出逢ったばかりのころの僕が感じたこと、考えたこと、それらが数珠繋ぎのように次々と溢れてくる……。
立ち眩みがして、危うく転びそうになって、僕はもう終点まで来てしまったことに気付いた。
「……ゆめ、此処だ。彩音ちゃんと繭ちゃんが別れた地点は」
反応はない。なんだろう……いつからか、僕とゆめの間に重苦しい空気が漂っている。喫茶店で、ゆめがトイレから帰って来たあたりからだったか……それとも……。
「ねえ、真一」
喫茶店を出てからはじめて、ゆめが僕と目を合わせた。
「このまま何処か、知らない場所に行ってしまいませんか? 二人で、何もかもから逃げ出しませんか?」
街灯が遠く、薄暗く、ゆめの表情がよく読めない。その真意が分からない。
「何を云っているんだ?」
冗談だろうか。あまりに突飛な発言だ。そう考えるのが妥当だけれど、その割には……。
「知らない場所って……旅にでも出るってこと?」
現実的ではない。逃げ出すとはなんだろう。僕らは罪人でもないのに、一体なにから逃げると云うのだ。
「彩音ちゃんのことはどうするんだ?」
逃げ出すとは、彩音ちゃん捜索を請け負った責務から、だろうか。やはりゆめにも彩音ちゃんの居場所は見当がつかなくて、それで負い目を感じて……しかし、それで逃避行には繋がるまい。
「ごめん、云っている意味が――」
「なら、結構です」
ゆめは僕に背を向けた。その肩が、声が、わずかに震えている。
「来なければ、良かったです。僕は最低ですから、こんな気持ちになると分かっていたのです。最低です、僕は。僕は、ずっとさよならが嫌いでした。また会えるのに、さよならが嫌で嫌で。なら、会わなければいいと、思うのです。ずっとひとりでいられれば、さよならなんてないのですから。ごめんなさい、なんの役にも立てなくて」
それから彼女が底知れぬ諦観を籠めて告げた台詞は、いつかと同じ――
「真一なんか、嫌いです」
ゆめは小走りで去って行った。
僕は立ちすくんでしまい、追いかけられなかった。
いつも通りのゆめの奇行……とは思わなかった。
ゆめは逃げている……内心でそんなことを思っていた僕こそ、逃げていた。
ずっと逃げ続けていた。
今もこうして逃げている。
昼休み、朝と同じ場所に僕とゆめと麗子さんの三人は集合した。ゆめは朝よりもさらに疲れを湛えた様子である。放課後まで持つか、僕は気が気でないのだが……。
「随分と久し振りね、ゆめちゃん」
「そうですね」
「ゆめちゃんが手伝ってくれるなら心強いわ。ところで、少し痩せたかしら」
「どうでしょう。さて、話を聞かせてください。真一より麗子さんの方が簡潔にまとめてくれるでしょうから、お願いします」
ゆめは久闊を除するいとまもなく、本題に入った。
麗子さんが事情とこれまでの調査の経過を分かりやすく説明する間、ゆめは質問を挟んだりせずにひたすら黙って聞いていた。説明が終わるとゆめは僕に目を向けて、
「何か付け加えることはありますか?」
「ないよ」
「そうですか」
ゆめなら話を聞いただけでも新機軸となるような考えを披露するかも知れないと身構えていたが、どうやらそうもいかないらしかった。彼女の態度は話を聞く前とあまり変わっていない。
「真一、放課後に僕をその喫茶店に案内してください。実際に見ておきたいです」
当然、僕は承諾する。
「もっとも、真一と麗子さんからしてみれば既に行った場所ですから、麗子さんは別行動にした方が賢明でしょう。それが効率的というものです」
「そうね。私は私で、他に心当たりのある場所に出向いてみるわ……きゃっ」
麗子さんが小さく叫び声をあげた。その視線は階段の方に向いている。僕もそちらを見たが、しかし変わったところはない。
「どうしたんですか」
「誰かが覗いていたの。顔の半分だけを出して、まるで私達の様子を窺っているみたいだったわ」
ゆめが「男子ですか。女子ですか」と訊ねると、麗子さんは首を傾げた。
「一瞬しか見えなかったから、判断しかねるわ。髪の長さは、どっちでもおかしくなかったような……」
今から僕が階段まで走っても、相手は逃げているだろう。ただ、僕にはそんなに気にする必要もないように思われた。
「此処は逢引きの場としても使われますから、そう勘違いされただけじゃないでしょうか。僕らも声を潜めての会話ですし、問題ないですよ」
「たしかに真一の云うとおり、神経過敏になっていますね」
「ええ、そうみたいだわ……」
だが、無理もないかも知れない。麗子さんは僕らの前でこそ平静を保っているけれど、彩音ちゃんがなかなか見つからないせいで、精神的に疲弊しているはずなのだ。
「いま聞いておきたいことはもうありません。解散としましょう」
「あ、私からひとつ。ゆめちゃん、現時点での見解があったら、是非聞かせて欲しいわ」
「ありません」
ゆめは即答した。麗子さんは内心肩を落としたかも分からないが、表には出さなかった。
麗子さんと三年生の教室がある三階で別れた後に、ゆめは僕に云った。
「真一、麗子さんを信用するのは危険です」
真意は分からないが、聞き逃せない発言である。
「彼女は秘密を抱えているに相違ありません」
「どういうこと? ゆめも知っているだろ、麗子さんはあのとおり誠実な――」
「それは真一が彼女に抱いている印象です。印象とはすなわち、幻想です。幼馴染だからと云って、真一が彼女について知っている事柄なんて、氷山の一角に過ぎません」
ゆめはまた「死にたいですね……」と呟いてから、
「人は人を理解できないのですよ」
そう云う彼女の姿は、どこか寂しそうだった。
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放課後、僕とゆめは校門を出ると、普段とは逆方向――つまり百条駅の方に向かって歩き始めた。
「久し振りの学校はどうだった?」
「……気休め感覚で訊いているようですが、僕にとってはその質問、心的外傷になってもおかしくありませんよ」
トラウマと云えばいいのに、珍しい云い方をする。
「死にたいです。もう二度と来ません」
「明日からまた登校拒否になるつもりか? ゆめ、そんな調子じゃ卒業できないんじゃないかな」
「重々承知しています。卒業は、僕もしないとだと思っていますよ……嗚呼、真一、此処は周りに人間が多すぎます」
駅を利用する生徒が全員使う通学路なので、人が多いのは仕方がないことである。
「精神衛生上良くないので、裏道めいたルートで案内してもらえませんか?」
「僕も普段使わないから裏道なんて知らないけれど……そうだね、方向感覚には多少の自信があるから、適当に迂回してみようか」
思えば、こうして二人で外を歩くのはいつ以来か知れない。不謹慎だが、僕は今を楽しいと感じている自分を自覚した。ゆめだって、学校での疲労が色濃く表れてはいるものの、若干愉快そうに見えなくもない。
下校途中の生徒がいない道に這入ったところで、ゆめが藪から棒に「通り魔殺人について教えてください」と云った。僕としてはあまり思い出したくない事柄だが、ゆめにそういった気遣いをされるのもかえって居心地が悪いか。
「お母さんからは大雑把なことしか聞いていないのです」
「僕だって詳しいわけじゃないけれどね。……通り魔による被害者は現時点で三人。みんな、百条市内の高校に通っている女子高生だ。たしか愛穂以外の二人は住んでいるのも百条市だったと思う。身体を切断されて、各部は別々の場所に置かれていた。えーっと、ひとり目が四ヶ所、二人目が……たぶん三ヶ所、愛穂も三ヶ所だったかな。花壇の中とか、茂みの中とか、ゴミ箱の中とか、駐車場とか、民家の庭とか……いずれも百条市内。ひとり目が発見されたのは先週の……火曜だったはず。全員、殺害された翌日に発見されているんだ。殺されたのはみんな、下校中だったらしいよ。それで、二人目の発見が木曜だったね。愛穂は一昨日だ」
「殺害された日は、ひとり目が先週の月曜、二人目が水曜、三人目が今週の月曜ですか……三人目、真一の恋人さんが何時頃に殺されたかは、分かっていますか? 下校中とはいえ、寄り道していたなら、夜とも考えられそうですけれど」
「夕方頃って聞いたよ。それに愛穂の場合、高校から駅までの間で襲われたみたいだし、犯人は大胆すぎる。愉快犯だから、警察への挑発という趣向もあったのかな」
それに愛穂は運悪く、巻き込まれてしまったのだ。憤りを感じるよりもまず、遣る瀬無いと感じてしまう。
「真一は月曜もどうせ、恋人さんと校門の前までべたべたしていたのですよね」
「僕らはそんなに人目を憚らないカップルではなかったけれど……」
「恋人さんは、その後なにか予定があるという旨の発言はしていなかったのですか? そうでなくとも、それを匂わせる様子は?」
「なかったと思う。ゆめ、どうしてそんな細かいことを訊くんだ? 僕も辛くなってきたんだけれど……」
「ちょっと真一、僕が意地悪でその日のことを執拗に質問しているなんて思っていませんよね?」
「そんなに悪趣味だとは思っていないよ、さすがに」
「なんですか、その云い方」
ゆめは唇を尖らせた。
「あ、道はこれで良かったみたいだよ」
誤魔化すためではなく、目的の喫茶店がある通りに出たので僕はそう云った。
「此処を真っ直ぐ行けばいいんだ」
「学生は見当たらないようですが、通学路からは外れているのですか?」
「そうだね。他の高校の人達とも、この通りはひとつずれていると思う。彩音ちゃんは落ち着いて話がしたくてその喫茶店を選んだみたいだから、それがこの通りなのは当然なのかもね」
中学生にしてはませている。繭ちゃんの方には、たしかにそういった印象があるけれど。
「彩音ちゃんが友達の家にいる場合は、繭ちゃんが上手く探し出してくれればいいんだけれどね」
「その空井という中学生には、麗子さんから話を持ち掛けたのですか?」
「いや、繭ちゃんからだよ」
「なら、彩音が空井の家にいるということはないですね」
思ってもみない可能性だった。今、僕の隣を歩いているだけでも、ゆめの脳内ではそのような検討が目まぐるしく進んでいるに違いない。
「やっぱり凄いよ、ゆめは」
「改まって云われても困りますけれど」
ゆめはどんな可能性も見逃さない。先入観や常識に捕らわれず、真に理性的な思考ができる。僕はそれをたびたび目にしてきたのだ。昼休みに麗子さんについて述べていたのも、そのうちのひとつなのだろう。
目的の喫茶店に到着し、僕らは中に這入った。昨日と同じ一番奥の席が空いていたので、そこを確保してから、入口から見て左手を続いているカウンターまでやって来る。この店はカウンターで注文して商品を受け取り、連なっているレジで支払いをする仕組みだ。
「わ、わ、真一、僕の注文も任せます」
ゆめは僕の服の裾を摘まんで、似合いもせず慌てた。こういう店は不慣れなためか、緊張しているようだ。
「アイスコーヒーでいい?」
ゆめはこくりと頷く。彼女はストローでしか飲み物を飲まないという変わった主義を持っているので、必然的にホットは飲めないのだ。
支払いのとき、ゆめが僕に耳打ちした。
「店員さんに、月曜のことを訊いてください。彩音と空井が四時から八時まで店内にいたのかどうか、です」
そんなことを質問するのは不自然な気がするけれど、僕は仕方なくレジを打っている女子大生くらいの店員に、
「三日前、女子中学生の二人組が来ませんでしたか? 寄辺中学の制服で、一番奥の席に座っていたそうなんですが」
この店にいたら目立つだろう二人組なので、云われれば思い出せるはずだと思う。
「三日前と云うと、月曜ですか? ああ、私は月曜いなかったので……。宗田さん、月曜に寄辺中学の女の子二人組って来ました?」
女子大生らしき店員は、三十代前半くらいに見られる女性の店員に訊いてくれた。他に客は並んでいないので、そう迷惑ではないと信じたい。
「そうね、来ていたわよ。ずっと話し込んでいたわね」
それを聞いて、僕は宗田さんというらしい店員に、
「四時頃から八時頃までいたんですよね?」
「そこまでは憶えていないけど、そうね、だいぶ遅くまでいたと思うわ」
「分かりました。ありがとうございます」
質問した理由を詮索されないうちに僕は礼を告げ、飲み物の乗った盆を持って、奥の席へ退散した。
「どうしてあんな質問を?」
席に着いて、ゆめに訊ねる。恥ずかしい役回りだったので教えて欲しかったが、彼女は「ただの確認です」と云うだけだった。
「それで、来たのはいいけれど、この後はどうするんだ?」
「疲れたので休憩ですね」
ゆめはストローを咥えて、窓の外を眺めている。僕も自然な流れで飲み物まで注文してしまったが、彼女は本当に一息つくつもりらしい。
「のんびりしてもいられないよ。麗子さんは今もあちこち探し回っているんだから」
「僕からすれば、此処まで来ただけでも充分な前進ですよ」
「何か分かったってこと?」
しかしゆめは答えなかった。彼女に対しては急かしても仕方がないので、僕も一旦落ち着くことにする。
そのまま時間は経過し、僕のコーヒーもすっかり冷めたので、
「ゆめ、そろそろ――」
「ところで」
ゆめは僕の言葉を遮るように、
「せっかくなので甘いものが食べたいです。先程確認しましたところ、メニューにモンブランという名前がありました」
「……分かった。買ってくるよ」
それで今度こそ満足してもらうしかない。
「えへへ、お願いします」
ゆめが上機嫌そうに笑うのを久々に聞いた気がする。
僕が席を立つと、席で待っていてくれていいのに、ゆめもぴっとりとついて来た。
カウンターでモンブランを注文し、代金を払う際に先程と同じ女子大生らしき店員に「お二人は恋人同士で?」と問い掛けられた。彼女は何気なく訊いたふうだったが、僕は少なからず衝撃を受けた。
「いいえ、そういうわけではありませんよ」
返事も遅れ気味となってしまった。ゆめがあまりにもくっ付いているから、そう見られてもおかしくないのかも知れないが、しかしそれでも虚を衝かれた気分だった。
席に戻ると、ゆめは早速モンブランを食べ始めた。前髪に隠れて表情は窺えない。「美味しい?」と訊いてみると、その頭が縦にこくんと動いた。
先程は動揺したが、考えてみれば僕とゆめの関係をその手のものと誤解したような言葉は、これまでも何度か受けてきた。麗子さんだって、特にからかう感じでもなく、よく云ってくる。
僕は一度だってそう意識したことはないのに。
外が若干暗くなってきたために、窓を見ると僕とゆめの姿が映り込んでいた。こうして見ても、やはり恋人同士には見えない。
「僕はこの手の店を利用する必要があるとはまったく思えないのですが、此処は割合静かなので悪くはないですね」
「え、ああ、そうだね」
「なんですか。似合いもせず、考え事に没頭していたようですけれど」
「彩音ちゃんのことだよ。ゆめ、目的を見失ってない?」
「見失っていませんよ」
まだモンブランは一口ぶん残っている。それが口に運ばれたら、行動を再開するように進言しよう……そう思っていると、ゆめが「少し失礼します」と云って席を立った。トイレに行くのだろう。
誤魔化すように彩音ちゃんの名前を出してしまったけれど、僕の方こそつい失念していた。いま考えるべきはそれなのだ。
連絡がない以上、麗子さんも繭ちゃんも成果は上げられていないようだ。彩音ちゃんが行方知れずとなってから、もう丸三日が経とうとしている。これが家出の類だとしたら、さすがに帰って来るはずの頃合いだ。それがないということは……もう楽観していられる段階をとうに過ぎているのではないだろうか。
ゆめが戻ってきた。なぜか、彼女は目に見えて落ち込んでいた。一時は笑い声さえあげていたのに、露骨に肩が下がっている。
「どうしたんだ?」
「なんでもありませんよ」
意気消沈といった様子のゆめは、モンブランの最後のひとかけらをなかなか食べようとしない。トイレに行っただけで、こうも変わるものだろうか。
「お腹いっぱいなの?」
「……そうですね。真一、食べていいですよ」
これが片付けば活動再開の目途も立つので、僕はゆめの奨めに従った。ゆめはモンブランが僕の口に入るのを見ていたが、名残惜しそうだったりはしなかった。
「じゃあ行こうか」
店を出ないことには始まらないと思い、僕は立ち上がった。ゆめも今度ばかりは従ってくれた。
店員の「ありがとうございました」という声を背に受けつつ外へ出ると、陽も落ちてかなり肌寒くなっている。
「何処か当てはある?」
「では真一と麗子さんが昨日歩いたというコースをお願いします」
昨日は何も発見できなかったわけだが、果たしてそれで進展があるのだろうか。かと云って代案もないけれど……。僕はいまいち釈然としないままに歩き始めた。
「夜は嫌ですね。無条件で陰鬱とさせられます」
それでそんなに物憂げなのだろうか。
「ゆめ、考えがあるなら、聞かせてくれないかな」
そう思った理由は、茫洋としていて説明できない。長い付き合いだからそうと分かる、直感的なものだった。
ゆめは黙っている。
「中三のときのことを気にしているのか?」
ゆめは中学時代、探偵活動をしていた。難事件の数々について、警察に助言を与え、解決に導いた。その活躍は表沙汰にはされなかったけれど、それについて知る一部の大人達は、いつしかゆめの能力を認め、フィクションの中の名探偵を頼るかのようにゆめに接するようにさえなっていた。
だが、中学三年の夏に、ゆめは推理を誤った。いつまでも順風満帆にはいかなかったのだ。彼女は善良な人間に冤罪を負わせてしまった。いくら有能と云ってもまだ中学生であるゆめの言葉を鵜呑みにした警察にも責があると僕は思ったが、みなはゆめを責め立てはせずとも、言外にそういった態度をとった。その事件は結局、迷宮入りとなった。ゆめにとって、はじめての失敗であり、敗北であった。それきりゆめは探偵活動をやめた。周囲からの圧力もあったが、それがなくたって、そうなっていただろう。
ゆめはそのときのことを、ずっと気に病んでいるのではないだろうか。だから今回も、こうしてなかなか考えを披露できないでいるのではないだろうか。また間違えるのが怖くて……。
「愚にも付かないです」
ゆめはややあって否定したが、その語調には自信が欠けているように感じられた。
「仮にそうだとしても、くだらない感傷ですよ。本当に、くだらない……」
思い出したくないことを、思い出させてしまった。それは確かだ。僕は配慮に欠けた自分の言動を反省した。
「ごめん」
「気にしないで結構です。本当に、違いますから」
ゆめは「死にたいです」と挟んで、独り言を述べる調子で、
「まったく僕は最低の人間です……」
その言葉は、僕が何かを云うのを拒否しているようであった。
しかし、僕は黙っていられなかった。
「そんなことないよ。絶対にない」
思った以上に強い語調となった。
ゆめは一瞬驚いた顔になってから、自嘲気味な笑みを浮かべる。
「真一、僕は日々を充実させたくないのです」
急な話題の転換に、反応が遅れる。
「どうして?」
「楽しいと、恐ろしくなります。嬉しいと、恐ろしくなります。胸が締め付けられて堪りません。だって、生きているのを楽しいと、嬉しいと感じてしまったら、死ぬのが怖くなるじゃありませんか」
ゆめは顔をずっと前方に向けたままで話を続ける。
「死ぬのが勿体ないと思ってしまうじゃありませんか。諦められなくなってしまうじゃありませんか。死ぬときに辛くないように、死んだように生きていたいのです。でないと、生死の落差に耐えられません。死にたいうちに、早く人生が終わって欲しいのです」
だから死にたいです、とゆめは云った。
この話を僕は、中学のときにも聞いていた。ゆめは忘れてしまったのかも知れないけれど、僕は憶えている。ゆめはずっと、この悩みから抜け出せずにいる。
ゆめは逃げている。彼女は類稀なる才覚を持つ身でありながら、誰よりも純粋で、誰よりも脆い……触れれば壊れてしまいそうなほどに。
変わってなんていなかった。僕は中学時代のゆめは孤高であったと、超然としていたと感じていたけれど、それは当時の僕が抱いていた印象に過ぎないのだ。印象であり、幻想――ゆめが云っていたように。
あのときの僕が、ゆめと出逢ったばかりのころの僕が感じたこと、考えたこと、それらが数珠繋ぎのように次々と溢れてくる……。
立ち眩みがして、危うく転びそうになって、僕はもう終点まで来てしまったことに気付いた。
「……ゆめ、此処だ。彩音ちゃんと繭ちゃんが別れた地点は」
反応はない。なんだろう……いつからか、僕とゆめの間に重苦しい空気が漂っている。喫茶店で、ゆめがトイレから帰って来たあたりからだったか……それとも……。
「ねえ、真一」
喫茶店を出てからはじめて、ゆめが僕と目を合わせた。
「このまま何処か、知らない場所に行ってしまいませんか? 二人で、何もかもから逃げ出しませんか?」
街灯が遠く、薄暗く、ゆめの表情がよく読めない。その真意が分からない。
「何を云っているんだ?」
冗談だろうか。あまりに突飛な発言だ。そう考えるのが妥当だけれど、その割には……。
「知らない場所って……旅にでも出るってこと?」
現実的ではない。逃げ出すとはなんだろう。僕らは罪人でもないのに、一体なにから逃げると云うのだ。
「彩音ちゃんのことはどうするんだ?」
逃げ出すとは、彩音ちゃん捜索を請け負った責務から、だろうか。やはりゆめにも彩音ちゃんの居場所は見当がつかなくて、それで負い目を感じて……しかし、それで逃避行には繋がるまい。
「ごめん、云っている意味が――」
「なら、結構です」
ゆめは僕に背を向けた。その肩が、声が、わずかに震えている。
「来なければ、良かったです。僕は最低ですから、こんな気持ちになると分かっていたのです。最低です、僕は。僕は、ずっとさよならが嫌いでした。また会えるのに、さよならが嫌で嫌で。なら、会わなければいいと、思うのです。ずっとひとりでいられれば、さよならなんてないのですから。ごめんなさい、なんの役にも立てなくて」
それから彼女が底知れぬ諦観を籠めて告げた台詞は、いつかと同じ――
「真一なんか、嫌いです」
ゆめは小走りで去って行った。
僕は立ちすくんでしまい、追いかけられなかった。
いつも通りのゆめの奇行……とは思わなかった。
ゆめは逃げている……内心でそんなことを思っていた僕こそ、逃げていた。
ずっと逃げ続けていた。
今もこうして逃げている。
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