環楽園の殺人

凛野冥

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第一章:環楽園の殺人

4/1「グノーシスの門へと導かれ」

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 四日目の朝だ。

 僕らの滞在は三泊四日の予定だったから、それに従えば今日が最終日ということになる。

 しかし窓の外に目を向ければ、吹雪は依然続いている。まだ此処を出るのは望めない。連絡がつかなくなった僕らを案じて巻譲家が助けを寄越してくれるのは早ければ明日、そうでなければ明後日だろうか。……そう信じたい。

 僕は隣ですやすや眠っている舞游を起こさないようにそっとベッドから下り、洗面所で洗顔と歯磨きと着替えを済ませ、窓際のソファーに腰を下ろした。

 腕時計は09:10と表示している。有寨さんとの約束は十二時にリビングとのことだったから、まだ余裕がある。僕は適当にパンを齧りながら、グノーシス主義に関する本を読んで時間を潰すことにした。

 ……だが、事件の全貌が明らかとなったいま、もうグノーシス主義なるものを学ぶ必要もないと云えばない。これは有寨さんが僕らの目を真実から背けようと機転を利かせて仕掛けたミスディレクションでしかなかったのだ。

 ほどなくして舞游も起床した。彼女はベッドの上でしばらくごろごろ転がった後に洗面所に這いずっていき、顔を洗って着替えて再びベッドルームに戻ってきた。

「有寨さんは大事な話があると云ってたけど、なんだろうな」

 話を振ってみたが、舞游は「うーん」と首を傾げるだけだった。

「もしかして自分が犯人だって告白するつもりなんじゃないかと、僕は思うんだけど」

 殺人犯と分かってもなお、僕の中で有寨さんが誠実な人であるという点はあまり揺らいでいない。冷酷な奸計かんけいの数々には恐怖を覚えるが、それは同時に理性を失ってはいない証左でもある。だから自分でも驚くくらいに、いまの僕は落ち着いていた。

「どうかな。でも觜也、用心はしておいた方が良いよ。お兄ちゃんの間合いには入らないようにしつつ、一挙手一投足に注意を配ってさ」

「そんなに警戒心剥き出しでいたらまずいだろ」

「私達がお兄ちゃんを疑ってるとは、もうお兄ちゃんも承知のうえだと思うよ。二対一って構図なんだから、当然そうなるでしょ」

「そりゃあ、そうかも知れないけど」

 僕は未だ、有寨さんにどういう態度で向き合えばいいのか決めかねていた。



 とにかく有寨さんの出方次第だ。それが分からないうちは僕らの対応も検討のしようがない。と、そんな投げやりな結論を出して、僕と舞游は約束の十分前に部屋を出た。

 個人が所有する邸宅とはとても思えないスケールのこの屋敷には、三晩泊まっても慣れていない。二日目の朝に杏味ちゃんの死体が発見されてからは凄惨な殺人事件の舞台に変わってしまったこの場所に親しみを覚えられるわけもないから当然か。

 二階の踊り場。僕と舞游が壁から外した絵画は元の位置に戻されていた。きっと有寨さんがやったのだろう。彼の所作しょさの端々には、ただの几帳面というより完璧主義者めいたところがある。

 リビングに着いたが、まだ有寨さんは来ていなかった。カーテンが開いているけれど、これは昨日誰も閉めなかっただけだろう。

「わ。雪、減ったね」

 舞游の云うとおり、窓の外の積雪は昨日までと比べて半分近くまで低くなっていた。これなら僕の身長の方が高い。よく気をつけてみると吹雪の勢いもいくらか弱まっていると分かり、まだとても外に出られる状態ではないものの、少し希望が見えたような気分になる。

 僕と舞游は円卓を囲む椅子に適当に腰掛けて有寨さんを待った。

 ……此処で五人揃って食事を取った最初の晩がひどく懐かしい。しかし、もうあんな光景は二度と実現しないのである。

 人の命というものはなんてはかないのか……なんて齢十七に不相応の感慨すら抱いてしまうが、普通に生きている限りはまず遭遇しない壮絶な環境でこの数日を過ごしてきた僕なので、誰にも文句は云われないだろう。

 ボーッとそんなことを考えていたが、そのときふと、背筋に悪寒が走った。

 この円卓は、赤い。

 赤色のテーブルクロスで覆われている。

「……いや」

「ん、どうしたの?」

 不思議そうな顔をする舞游に「なんでもないよ」と答える。

 いくら落ち着いているつもりでも、僕はやはり神経過敏になっているらしい。テーブルクロスが赤いからと云って、なんだと云うのだ。いくら目を凝らしてもその上に血痕や臓物はない。今後一生赤いものを見るたびにいちいち反応していたら、気が狂ってしまうじゃないか。

「遅いね」

「ああ、そうだな……」

 腕時計が、既に正午を五分過ぎていると知らせている。僕は胸の内がざわめくのを感じた。舞游も不安そうな表情を浮かべ、指は円卓を落ち着きなくコツコツと叩いている。

 そのまま、十二時十分になった。

「見に行こう」

 舞游が席を立った。僕もまさに同じことを提案しようとしていたところだったので、すぐに応じた。

 リビングを出て、ロビーを通り、階段を上る。いざ歩き始めると、それと呼応するかのように焦りが強くなってきた。自然、歩みも早まる。二階の廊下を東向きに進み、有寨さんが使っている客室の前まで到着する。

「お兄ちゃん!」

 舞游が扉を少し乱暴に叩いた。返事はない。

 僕はドアノブを下げて押した。すると意外にも錠はかかっておらず、扉はそのまま奥へ――と思ったものの、十センチくらい開いたところでなにかにつっかえて、それ以上は開かなかった。

「バリケードだ」

 中にソファーなんかが置いてあって、扉が開くのを妨害しているのだ。ということは、有寨さんは中にいるということである。

「有寨さん、寝てるんですか!」

 ほとんど怒鳴るように云ったが、反応は返ってこない。

 扉はわずか十センチほど開いているのみなので、這入るのはもちろん、隙間から中を覗くことも叶わない。中でバリケードの役割を果たしているものに扉をガタガタぶつけてみてもどうにもならなかった。音や感触からしてソファーだと思うが、きっと僕が自分の客室でそうしたようにクローゼットを開け、そこに引っ掛けているのだ。

「お兄ちゃん!」

 舞游の呼びかけも虚しく、部屋の中からは依然として物音ひとつ聞こえない。

 僕は最悪の事態を想像した。が、そんなことは有り得ないと理性がすぐに否定する。有り得ない。絶対に有り得ない。

「扉を壊すしかない」

 バリケードが築かれている以上、中に有寨さんがいるのは確かなのだ。ならここは強行突破以外に手はないだろう。僕は扉を一度閉め、前に有寨さんが杏味ちゃんの部屋のそれに対してしたように、思いきり蹴りつけた。ソファーにじかに接していないであろう、扉の真ん中より上寄りを狙って、何度も何度も蹴りを入れる。木製の扉は軋み、縦方向の亀裂も走るが、僕の足にもまた衝撃が響く。扉と同じく僕の足も悲鳴をあげていた。

 何度蹴っただろうか、ようやく扉に穴が開いた。そうなれば後は早い。その周辺部を蹴ることで穴はどんどん広がっていき、人がひとり通れるまでになった。

 だがその穴から覗くことができる範囲には異常は見とめられなかった。ただ、代わりに中から強烈な臭気が洩れてくることにはすぐに気付いた。この数日間で何度も嗅がされた、人間の死体が放つにおいだ。

 僕は愕然としつつも、慌てて穴の下部に足を掛け、部屋の中に飛び込んだ。案の定扉を塞いでいたソファーの上に着地し、そこからも下りて短い廊下を進む。酷使したばかりの足が痛むが、気にしてはいられない。

 ベッドルームに抜け、死角になっていた領域を見回し、すぐに僕の視界はそれを捉えた。

 すぐ左手の床の上に、裸の有寨さんが身体を縦に切断されて横たわっていた。

「っ!」

 僕は身を翻した。すぐ後ろまでやって来ていた舞游と肩がぶつかってしまったが、いまだけはそれを気に掛けていられない。僕は廊下の途中にあるクローゼット、トイレ、洗面所の中を順に確認していった。そして、信じられない思いでもう一度それを繰り返した。だが結果は同じだ。いない。誰もいない。

 ベッドルームまで戻ってくると、舞游は有寨さんの死体の傍らにくずおれ、嗚咽おえつを洩らしている。

「舞游……」

 肉親の死。舞游は有寨さんを苦手に思っているところもあったらしいが、その死に対する感慨にはそんな理屈は関係がないだろう。彼女はいま、ただ実の兄の死に絶望している。僕は掛けるべき言葉が分からず、その場に立ち尽くすしかなかった。

 有寨さんの死体は、赤色の布の上に収まっていた。部屋のカーペットの上に敷かれたその赤色の布は他から持ち込まれたものみたいだ。無論、流れ出た有寨さんの血で赤色の上からさらに赤色を重ねられている。

 しかしその量を見るに、切断がその上で行われたのではないらしく、また、この部屋で行われたのでもないらしいと分かった。おそらく有寨さんは身体を真っ二つにされた後にこの布に包まれ、此処に運ばれてきたのだ。その証拠に、こぼれ出た有寨さんの中身は布のあちこちに広がっているし、有寨さんの死体の崩れ方も、霧余さんほどではないにしても、杏味ちゃんよりは酷かった。

 しばし放心していた僕だったが、ふと我に返り、その正視するに堪えない有寨さんの死体から目を逸らした。そしてベッドルームの中を奥まで進んで、隅から隅まで確認した。だが僕と舞游と有寨さんの死体の他に、此処には誰もいなかった。

 窓にはしっかりと錠がかかっている。

 全身の力が抜け、その場に倒れそうになった。だがどうにか踏みとどまり、覚束おぼつかない足取りで再び有寨さんの死体のところまで戻る。その傍らに座り込んだ舞游は、血まみれの有寨さんの左半身に半ば縋りつくような格好だった。が、絶望があまりに深すぎるためか、泣き叫んだりはしていなかった。俯いているので表情は見えないけれど、きっと蒼白で、抜け殻のようなそれを浮かべているのだろう。感情が飽和すれば、涙なんて出るはずもない。これはきっと、そういうことだった……。

 有寨さんの死体の先には、一冊の本が置かれていた。『ヘルメス全書』と、そう銘打たれている。僕はそれを拾い上げた。中になにかが挟まれているらしく、完全には閉じていない。既視感を覚えつつもそこを開くと、果たしてそこにはマスターキーが挟まれていた。

 さらに紙面そのものに、この鍵で付けたらしい傷が縦に数本走っている。やはりそれは文章に傍線を引いているようだった。

『お前たちの手をとってグノーシスの門へと導くべき案内人を探すがいい。そこには、闇から清められた輝く光がある。そこには、もはや誰ひとりとして酔いしれるものはなく、すべての者が醒め、見られることを望む御方を心で見つめている。というのは、この御方は聞くことも、読むことも、眼で見ることもできず、霊と心によってのみ見ることができるからである。そこでまずお前はまとっている衣を引き裂かなければならない。すなわち無知の織物を、悪の砦を、つけている手足の枷を、闇の囲いを、生身の死を、目の見える死骸を、倒された墓を……。』

 僕は昨日から本を読んで勉強した知識を引きずり出す。たしか非キリスト教グノーシス主義の一派にヘルメス文書というものがあった。三世紀ごろまでに、それ以前のグノーシス主義や新プラトン主義等の影響を受けてエジプトで成立した文書……内容は占星術や太陽崇拝、ピュタゴラスの要素も取り入れた難解なものであるらしい。そしてその核は〈神を認識することが救いである〉という、まさにグノーシス主義的な思想……。

 グノーシスの門へと導くべき案内人を探せ? 見られることを望む御方? それがお前だと云いたいのか……? だがお前は誰だ? 有寨さん、貴方ではなかったのか?

「觜也、これ……」

 舞游が有寨さんの血がついた手で一枚の紙切れを持っていた。

「お兄ちゃんが、握ってた」

 受け取って見ると、紙切れには奇妙な数式が書かれていた。

 X=cos 2t (r cost + 2)
 Y=sin 2t (r cost + 2)
 Z=r sint        媒介変数  r , t  (-1≦r ≦1 , 0≦t ≦π)

 見たこともない式だ。

「なんだ、これ……」

 舞游は虚ろな表情で僕を見上げたまま、この数分間でかなり衰弱してしまったことを窺わせる声で「たぶん……」と切り出した。

「死体の傍にはグノーシス主義的なものと、永遠を象徴するものが残される。今回は『ヘルメス全書』とその数式だから……」

「ああ、なるほど」

 そう考えれば、僕でもこの数式がなにかは推測できる。

「メビウスの帯、か」

 舞游は小さく頷いた。

 数学の分野で〈永遠〉を象徴するといえば、〈メビウスの帯〉しか思い浮かばない。帯状の長方形の端を百八十度ひねり、もう片方の端に繋げて完成する図形……。これは表と裏の区別をつけられないという特徴を有している。ある部分を始点として帯の表面をなぞっていくと、一周して戻ってきたときには裏側になってしまうのだ。向き付け不可能性というのだったか……。とにかくこの始点も終点もない――始まりも終わりもない曲面が〈循環〉や〈再生〉を想起させるというので、そこから〈無限〉や〈永遠〉という象徴性が見出された。

 きっとこの紙切れに書かれた式に従えば、三次元ユークリッド空間に〈メビウスの帯〉を描き出せるのだろう。

「じゃあこれは犯人が書いて、有寨さんに握らせたもの……」

「ううん……握らせたのはそうだと思うんだけど、でもその字はお兄ちゃんが書いた字に間違いないの」

「ん。ということは……どういうことだ……?」

 犯人が有寨さんに無理矢理書かせたのだろうか。自分の筆跡を残さないように? あるいは元から有寨さんが書いていたものを、犯人が利用したのか……。

 いや、この場で考えるのはやめよう。

「舞游、とりあえず此処を出よう。あまり長くいるべきじゃないと思うんだ」

 悲惨な死体と、噎せ返りそうな死臭。それでも舞游は兄の亡骸からまだ離れたくはなかったかも知れないけれど「うん」と頷いて立ち上がってくれた。

「歩けるか?」

「大丈夫」

 その表情はとても大丈夫そうではなかったが、舞游は多少ふらつきつつも、部屋の外に向かって歩き始めた。僕は〈メビウスの帯〉を指す式が書かれた紙切れとマスターキーをポケットに入れ、『ヘルメス全書』を片手に持ってそれに続く。

 部屋を出るとき、僕はもう一度室内を振り返った。燃えるような寒さが身体の中を暴れ回り、頭の中は滅茶苦茶な混沌でいまにも溶けてしまいそうだ。

 部屋の窓には錠がかかっており、扉は内側からバリケードで塞がれていた。中には有寨さんの死体があるのみだった。これはもはや合鍵がどうのこうのなんて議論さえ必要としない、完全な密室殺人なのだ。絶対に有り得ないものが、具現してしまったのだ。
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