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第一章:環楽園の殺人
3/7、3/8「消滅していく希望たち」
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3/7
「犯人を探そう」
杏味ちゃんの部屋から出るなり、有寨さんはそう云った。
「俺達が外部に助けを呼ぶことは完全に封じられた」
ハンマーでも使ったのだろう、携帯電話は修復不可能なまでに徹底的に破壊されていた。暗証番号を犯人が変えたということは、犯人は一度金庫を開けたということであり、ならば携帯電話をそのままにしておくはずもなかったのだ。犯人の目的は馬鹿な謎解きゲームよろしく〈謎を解けば助かる〉みたいな趣向の挑戦を僕らに仕掛けることではなく、あくまで現場に〈永遠〉を象徴するものを残すことだったのだから。
「携帯電話を破壊したということは、犯人は俺達をこの屋敷に……クローズド・サークルに閉じ込めることを意図しているということだ。そんななかで杏味に続いて霧余も殺害した。ならばこの殺人は第三、第四……おそらく俺達が全員死ぬまで続く」
それは僕にも分かっていた。僕自身に誰かから殺されなければならないような心当たりはないけれど、この犯人の企みはそんな事情とは関係がないのだろう。既に殺されてしまった霧余さんだって、昨日そんな内容のことを口にしていた。
「なら俺達は、早くにこれを迎撃するべきだ。三対一で対峙できるうちに、相手が次の殺人の準備を整えてしまわないうちにね。……どうだい?」
「……僕は、そうせざるを得ないと思います」
「私も。三人でずっと固まってどこかの部屋に籠城するのも無理がありそうだし、そんなふうに〈あそび〉のないことをしたら、向こうも極端な手段に出るかも知れないもん」
極端な手段とは、たとえば僕らが立てこもる部屋に火を放つとか、ガスを使用するとか、そういった諸々だろう。
「よし。じゃあ早速、始めよう」
有寨さんによって捜索のやり方が説明された。それは屋敷を隅から隅まで虱潰しにしていき、かつ相手が巧妙に僕らとすれ違ったり、捜索の目をかいくぐったりすることを封じる抜かりのない方法だった。
捜索は屋敷の一階、二階、三階という順に進み、それぞれ西端から東端の方向で進んでいく。ひとつひとつの部屋について、有寨さんは中に這入って隅々まで調べ、僕は部屋の前で廊下を見張り、舞游は中央(つまり吹き抜けとなっているエリアで、ロビー、二階の踊り場、三階の階段上という順)に立って階段を見張る。これによってある部屋の中を検めている間に犯人が廊下を通って僕らが既に検め終えた部屋に移ったり、階段を通って僕らが既に調べ終わった階に移ったりするのを防げるのだ。
僕らは別々の場所にいなければならないわけだが、僕と舞游は常に互いの姿を捉えられるうえに廊下も吹き抜けも見通しがきくので、実はあまり危険ではない。最も危険なのは単身部屋に乗り込んでいく有寨さんだ。もっとも有寨さんが部屋の中で犯人と出くわした場合はすぐに僕も応戦する手筈である。
この微に入り細を穿つかのような綿密な捜索は、まさに完璧だった。だからこそ犯人と出くわすのは必至であり、僕らは常に意識を張り詰めながら、それぞれが持たされた包丁の柄を強く握って、額に汗を浮かべて行動した。
それなのに……。
三階の東端に至り、僕と舞游と有寨さんは絶句した。
捜索はすべて終了した。
僕らは完璧だった。
しかし、僕らの他に何者かが見つかりはしなかった。
この屋敷には、僕らしかいなかったのだ。
「見落としがあったのかも知れない」
有寨さんは苦笑いを浮かべたが、それは少し引きつり気味だった。
見落としなんてなかった。それは部屋の中を調べる役を担っていた有寨さん自身が一番承知しているはずだ。
「……犯人は屋敷の外に隠れてるんじゃないですか?」
僕はそう問うてみたが、有寨さんも舞游も首を横に振ったし、僕だって本当にそう思っていたわけじゃない。
「俺はしっかり確かめたが、窓はひとつ残らず内側から施錠されていた。リビングにある北館へ行くための扉も閂が掛かっているし、玄関扉だって錠がかかっている。玄関の鍵は金庫の中に発見されて、いまもここにある……合鍵がつくられていたとしても、外は二メートルの積雪だ。元より玄関扉は開けられない」
「地下室とか……私達の知らない部屋があるって可能性は?」
「俺達はいま、屋敷を隅々まで見て回った。そんなものがあれば気付くよ。俺は下見に来た際にも詳細な説明を受けたが、そのときにもいま探した以外の部屋があるとは聞かなかった」
では本当に、此処には僕らしかいないのか? 最初から、僕らだけしか、いなかったのか? その中で殺人事件が起こったのなら、その犯人だって僕らの中に……。
「で、でも有寨さん、有り得ないでしょう……。だって僕達三人には、霧余さんの死体をあんなふうにする時間なんてなかった。感情論を抜きに客観的に見ても、僕達の中に犯人がいないのは百パーセント確実です。……そうでしょう?」
有寨さんは答えない。
「そうだ、舞游、ミステリではこんなとき、隠し部屋や隠し通路があるってのが定石なんじゃないか? 間取りからしてあるとすれば地下室しか考えられないけど、一階の絨毯を全部めくり返してみないうちには……」
「觜也くん」
有寨さんが僕の言葉を遮った。
「いまはもう、解散にしよう。お互い、考えたいことがあるはずだ。それぞれ、じっくり思考する時間を設けた方が良い。……食べ物は、昨日持ち出したものがまだ残っているだろう?」
僕は言外に籠められた意味を察した。僕が提案したとおりに一階の絨毯の下を全部確認した結果、なにも発見できなかったとしたら……。そこで二階と三階でも同じことをして、やはりなにも発見できなかったとしたら……。屋敷中の床を剥がし、壁を破り、天井に穴を開け、蟻一匹隠れる隙間もないほどに調べ尽くし、その果てに、なにも発見できなかったとしたら……。
僕はそこまで考えて、ゾゾゾゾゾッと、凄まじい悪寒に襲われた。
「霧余の死体は、俺が片付けておくよ。杏味の部屋に置くのが適切だろう。掃除もしておくから、君達は部屋に戻るといい」
有寨さんは僕と舞游に背を向け、去っていってしまう。その後ろ姿は心なしか、以前と比べて小さく、寂しいものに感じられた。
「……舞游、お前はどう思ってるんだ?」
「わけ分かんな過ぎて脳髄が弾け飛びそうだよ」
間髪入れずに舞游は答えた。心の底から同意だった。
3/8
だらだらと時間は過ぎていき、有寨さんと別れてからそろそろ二時間となる。
「こんなのはどうかな」
舞游は昨日僕がそうしていたように窓際に置いたソファーに腰掛けて外を眺めながら、気怠そうに口を開いた。
「一階の窓は雪で塞がれてるから、犯人は二階の窓から出るの。すぐ下まで雪は積もってるんだし。それか三階からダイブしても良いかもね。楽しそうじゃん」
「こんなに積もった雪の上に下りたら、沈んじゃうんじゃないか?」
舞游が冗談で云っているのは明らかだったが、少しでも気が紛れればと思って、僕はあえて真面目な答えを返した。昨日とは逆の位置取りで、いまは僕がベッドに腰掛けている。
「雪の上にでっかい板を置いておくんだよ。体重を広い面に分散して、沈まないようにするの。二枚の板を使って交互に進めていけば、北館との間を往復もできるよ。実は犯人は北館に潜んでいたのでしたー」
「錠はどうするんだ? 南館の窓は二階も三階も全部が内側から施錠されてるんだぞ?」
「うーん……そこは〈針と糸のトリック〉に登場していただく」
「ああ、それって安易な逃げ道なわけだな? ミステリでそのトリックが歓迎されない理由が分かったよ」
しかし残念ながら、客室の扉ならともかく、窓にそのトリックは通じないだろう。冬に猛吹雪に見舞われるこの屋敷の窓は相当に厳重であり、糸を挟んだところで数センチ動かすことすら叶わないはずだ。無理に引っ張れば、糸の方が千切れるに違いない。
「でも北館に潜んでるってのは良いな。扉の向こう側から閂を掛ける方法ってあるか?」
僕が云っているのは、リビングにある扉のことである。
「無理だねー。ロボットでも遠隔操作して代わりにかけ……さ……」
舞游は台詞の途中でぴたりと静止した。と思った矢先、彼女はガンッと音を立てて顔面を窓に張りつけた。
「おいおい、どうしたんだ」
「觜也っ、こっち来てっ」
興奮した様子である。急いでその隣に駆け寄ると、彼女は北館を指差した。
「あそこに扉ない? 廊下館の屋根に出るための扉」
一面に舞い踊る雪で輪郭すら霞んだ北館に目を凝らすと、彼女の云うとおり、二階の中央に扉らしきものが見えなくもない。
「どうして気付かなかったんだろう! うちの高校の校舎だって同じ造りなのに!」
北館と南館を連絡する廊下館……通路は屋内だけではなく、その屋上もまた、通れる仕組みになっていた……?
「でも舞游、こっちにはあんな扉はないだろう?」
「隠し扉だよ、觜也。最初からこんなにも堂々と私達の眼前に存在していた以上、これは隠し部屋でも隠し通路でもないけど、扉だけは一丁前に塞がれていたんだ」
廊下館をこちら側へと辿っていくと、北館からせり出した立方体と合流する。リビングに相当する部分だ。その屋上に柵なんかはないものの、形状的にはテラスのようである。そこに出られる扉があるかどうかは角度的に見られないが、窓を開けて首を出せば……。
しかし舞游はそうせずに、ソファーから立ち上がると「行こう」と云って歩き始めた。
僕にもようやく分かった。リビング部分の屋上へと出るための扉があるべき場所に、なにがあるのか……。
舞游と僕は三階の廊下を早足で進み、階段を下り、二階の踊り場に到着する。
その壁は、一枚の絵画で塞がれている。
『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』。
「作者のポール・ゴーギャンは反キリスト教的な人物だったって、前に話したよね。このタイトルもキリスト教の教理問答からきてるって云われてるんだけど、こういう符号の一致もあからさまに暗示的だった……。もっと早く気付いてて当然だったんだ……」
「この絵を運び込んだのも、犯人だったってことか?」
「たぶんね」
では僕らは杏味ちゃんが殺される以前から、犯人が仕掛けたものを目にしていたのだ。僕らが屋敷に足を踏み入れたそのときを、この絵はここから見下ろしていた。
さらに此処は、霧余さんの死体の〈引きずり回し〉が開始された地点でもある。〈ウロボロスの蛇〉が対応していたのは〈オグドアスを意味する暗証番号〉だった。そして『ナグ・ハマディ写本』が対応していたのは、この『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』だった……。
「觜也、外すの手伝って」
「ああ」
僕は絵の端を掴んで持ち上げながら考える――隠し扉はあったのだ。犯人が隠していたのだ。つまり犯人は、僕と舞游と有寨さんの他に確かに存在していたのだ。そうだ。そうじゃないと第一の事件はともかく、第二の事件は絶対に成立しなくなってしまう。僕らが屋敷中を捜索しても犯人を発見できなかったのは、とっくにこの扉を通って北館に……。
絵が壁から外れ、隠されていた部分が露わとなった。
僕は唖然とするあまり、絵を危うく落としそうになる。
「え、嘘でしょ……」
舞游も当惑の声を洩らす。
そこには扉なんてなく、ただ白い壁があるのみだった。
「犯人を探そう」
杏味ちゃんの部屋から出るなり、有寨さんはそう云った。
「俺達が外部に助けを呼ぶことは完全に封じられた」
ハンマーでも使ったのだろう、携帯電話は修復不可能なまでに徹底的に破壊されていた。暗証番号を犯人が変えたということは、犯人は一度金庫を開けたということであり、ならば携帯電話をそのままにしておくはずもなかったのだ。犯人の目的は馬鹿な謎解きゲームよろしく〈謎を解けば助かる〉みたいな趣向の挑戦を僕らに仕掛けることではなく、あくまで現場に〈永遠〉を象徴するものを残すことだったのだから。
「携帯電話を破壊したということは、犯人は俺達をこの屋敷に……クローズド・サークルに閉じ込めることを意図しているということだ。そんななかで杏味に続いて霧余も殺害した。ならばこの殺人は第三、第四……おそらく俺達が全員死ぬまで続く」
それは僕にも分かっていた。僕自身に誰かから殺されなければならないような心当たりはないけれど、この犯人の企みはそんな事情とは関係がないのだろう。既に殺されてしまった霧余さんだって、昨日そんな内容のことを口にしていた。
「なら俺達は、早くにこれを迎撃するべきだ。三対一で対峙できるうちに、相手が次の殺人の準備を整えてしまわないうちにね。……どうだい?」
「……僕は、そうせざるを得ないと思います」
「私も。三人でずっと固まってどこかの部屋に籠城するのも無理がありそうだし、そんなふうに〈あそび〉のないことをしたら、向こうも極端な手段に出るかも知れないもん」
極端な手段とは、たとえば僕らが立てこもる部屋に火を放つとか、ガスを使用するとか、そういった諸々だろう。
「よし。じゃあ早速、始めよう」
有寨さんによって捜索のやり方が説明された。それは屋敷を隅から隅まで虱潰しにしていき、かつ相手が巧妙に僕らとすれ違ったり、捜索の目をかいくぐったりすることを封じる抜かりのない方法だった。
捜索は屋敷の一階、二階、三階という順に進み、それぞれ西端から東端の方向で進んでいく。ひとつひとつの部屋について、有寨さんは中に這入って隅々まで調べ、僕は部屋の前で廊下を見張り、舞游は中央(つまり吹き抜けとなっているエリアで、ロビー、二階の踊り場、三階の階段上という順)に立って階段を見張る。これによってある部屋の中を検めている間に犯人が廊下を通って僕らが既に検め終えた部屋に移ったり、階段を通って僕らが既に調べ終わった階に移ったりするのを防げるのだ。
僕らは別々の場所にいなければならないわけだが、僕と舞游は常に互いの姿を捉えられるうえに廊下も吹き抜けも見通しがきくので、実はあまり危険ではない。最も危険なのは単身部屋に乗り込んでいく有寨さんだ。もっとも有寨さんが部屋の中で犯人と出くわした場合はすぐに僕も応戦する手筈である。
この微に入り細を穿つかのような綿密な捜索は、まさに完璧だった。だからこそ犯人と出くわすのは必至であり、僕らは常に意識を張り詰めながら、それぞれが持たされた包丁の柄を強く握って、額に汗を浮かべて行動した。
それなのに……。
三階の東端に至り、僕と舞游と有寨さんは絶句した。
捜索はすべて終了した。
僕らは完璧だった。
しかし、僕らの他に何者かが見つかりはしなかった。
この屋敷には、僕らしかいなかったのだ。
「見落としがあったのかも知れない」
有寨さんは苦笑いを浮かべたが、それは少し引きつり気味だった。
見落としなんてなかった。それは部屋の中を調べる役を担っていた有寨さん自身が一番承知しているはずだ。
「……犯人は屋敷の外に隠れてるんじゃないですか?」
僕はそう問うてみたが、有寨さんも舞游も首を横に振ったし、僕だって本当にそう思っていたわけじゃない。
「俺はしっかり確かめたが、窓はひとつ残らず内側から施錠されていた。リビングにある北館へ行くための扉も閂が掛かっているし、玄関扉だって錠がかかっている。玄関の鍵は金庫の中に発見されて、いまもここにある……合鍵がつくられていたとしても、外は二メートルの積雪だ。元より玄関扉は開けられない」
「地下室とか……私達の知らない部屋があるって可能性は?」
「俺達はいま、屋敷を隅々まで見て回った。そんなものがあれば気付くよ。俺は下見に来た際にも詳細な説明を受けたが、そのときにもいま探した以外の部屋があるとは聞かなかった」
では本当に、此処には僕らしかいないのか? 最初から、僕らだけしか、いなかったのか? その中で殺人事件が起こったのなら、その犯人だって僕らの中に……。
「で、でも有寨さん、有り得ないでしょう……。だって僕達三人には、霧余さんの死体をあんなふうにする時間なんてなかった。感情論を抜きに客観的に見ても、僕達の中に犯人がいないのは百パーセント確実です。……そうでしょう?」
有寨さんは答えない。
「そうだ、舞游、ミステリではこんなとき、隠し部屋や隠し通路があるってのが定石なんじゃないか? 間取りからしてあるとすれば地下室しか考えられないけど、一階の絨毯を全部めくり返してみないうちには……」
「觜也くん」
有寨さんが僕の言葉を遮った。
「いまはもう、解散にしよう。お互い、考えたいことがあるはずだ。それぞれ、じっくり思考する時間を設けた方が良い。……食べ物は、昨日持ち出したものがまだ残っているだろう?」
僕は言外に籠められた意味を察した。僕が提案したとおりに一階の絨毯の下を全部確認した結果、なにも発見できなかったとしたら……。そこで二階と三階でも同じことをして、やはりなにも発見できなかったとしたら……。屋敷中の床を剥がし、壁を破り、天井に穴を開け、蟻一匹隠れる隙間もないほどに調べ尽くし、その果てに、なにも発見できなかったとしたら……。
僕はそこまで考えて、ゾゾゾゾゾッと、凄まじい悪寒に襲われた。
「霧余の死体は、俺が片付けておくよ。杏味の部屋に置くのが適切だろう。掃除もしておくから、君達は部屋に戻るといい」
有寨さんは僕と舞游に背を向け、去っていってしまう。その後ろ姿は心なしか、以前と比べて小さく、寂しいものに感じられた。
「……舞游、お前はどう思ってるんだ?」
「わけ分かんな過ぎて脳髄が弾け飛びそうだよ」
間髪入れずに舞游は答えた。心の底から同意だった。
3/8
だらだらと時間は過ぎていき、有寨さんと別れてからそろそろ二時間となる。
「こんなのはどうかな」
舞游は昨日僕がそうしていたように窓際に置いたソファーに腰掛けて外を眺めながら、気怠そうに口を開いた。
「一階の窓は雪で塞がれてるから、犯人は二階の窓から出るの。すぐ下まで雪は積もってるんだし。それか三階からダイブしても良いかもね。楽しそうじゃん」
「こんなに積もった雪の上に下りたら、沈んじゃうんじゃないか?」
舞游が冗談で云っているのは明らかだったが、少しでも気が紛れればと思って、僕はあえて真面目な答えを返した。昨日とは逆の位置取りで、いまは僕がベッドに腰掛けている。
「雪の上にでっかい板を置いておくんだよ。体重を広い面に分散して、沈まないようにするの。二枚の板を使って交互に進めていけば、北館との間を往復もできるよ。実は犯人は北館に潜んでいたのでしたー」
「錠はどうするんだ? 南館の窓は二階も三階も全部が内側から施錠されてるんだぞ?」
「うーん……そこは〈針と糸のトリック〉に登場していただく」
「ああ、それって安易な逃げ道なわけだな? ミステリでそのトリックが歓迎されない理由が分かったよ」
しかし残念ながら、客室の扉ならともかく、窓にそのトリックは通じないだろう。冬に猛吹雪に見舞われるこの屋敷の窓は相当に厳重であり、糸を挟んだところで数センチ動かすことすら叶わないはずだ。無理に引っ張れば、糸の方が千切れるに違いない。
「でも北館に潜んでるってのは良いな。扉の向こう側から閂を掛ける方法ってあるか?」
僕が云っているのは、リビングにある扉のことである。
「無理だねー。ロボットでも遠隔操作して代わりにかけ……さ……」
舞游は台詞の途中でぴたりと静止した。と思った矢先、彼女はガンッと音を立てて顔面を窓に張りつけた。
「おいおい、どうしたんだ」
「觜也っ、こっち来てっ」
興奮した様子である。急いでその隣に駆け寄ると、彼女は北館を指差した。
「あそこに扉ない? 廊下館の屋根に出るための扉」
一面に舞い踊る雪で輪郭すら霞んだ北館に目を凝らすと、彼女の云うとおり、二階の中央に扉らしきものが見えなくもない。
「どうして気付かなかったんだろう! うちの高校の校舎だって同じ造りなのに!」
北館と南館を連絡する廊下館……通路は屋内だけではなく、その屋上もまた、通れる仕組みになっていた……?
「でも舞游、こっちにはあんな扉はないだろう?」
「隠し扉だよ、觜也。最初からこんなにも堂々と私達の眼前に存在していた以上、これは隠し部屋でも隠し通路でもないけど、扉だけは一丁前に塞がれていたんだ」
廊下館をこちら側へと辿っていくと、北館からせり出した立方体と合流する。リビングに相当する部分だ。その屋上に柵なんかはないものの、形状的にはテラスのようである。そこに出られる扉があるかどうかは角度的に見られないが、窓を開けて首を出せば……。
しかし舞游はそうせずに、ソファーから立ち上がると「行こう」と云って歩き始めた。
僕にもようやく分かった。リビング部分の屋上へと出るための扉があるべき場所に、なにがあるのか……。
舞游と僕は三階の廊下を早足で進み、階段を下り、二階の踊り場に到着する。
その壁は、一枚の絵画で塞がれている。
『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』。
「作者のポール・ゴーギャンは反キリスト教的な人物だったって、前に話したよね。このタイトルもキリスト教の教理問答からきてるって云われてるんだけど、こういう符号の一致もあからさまに暗示的だった……。もっと早く気付いてて当然だったんだ……」
「この絵を運び込んだのも、犯人だったってことか?」
「たぶんね」
では僕らは杏味ちゃんが殺される以前から、犯人が仕掛けたものを目にしていたのだ。僕らが屋敷に足を踏み入れたそのときを、この絵はここから見下ろしていた。
さらに此処は、霧余さんの死体の〈引きずり回し〉が開始された地点でもある。〈ウロボロスの蛇〉が対応していたのは〈オグドアスを意味する暗証番号〉だった。そして『ナグ・ハマディ写本』が対応していたのは、この『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』だった……。
「觜也、外すの手伝って」
「ああ」
僕は絵の端を掴んで持ち上げながら考える――隠し扉はあったのだ。犯人が隠していたのだ。つまり犯人は、僕と舞游と有寨さんの他に確かに存在していたのだ。そうだ。そうじゃないと第一の事件はともかく、第二の事件は絶対に成立しなくなってしまう。僕らが屋敷中を捜索しても犯人を発見できなかったのは、とっくにこの扉を通って北館に……。
絵が壁から外れ、隠されていた部分が露わとなった。
僕は唖然とするあまり、絵を危うく落としそうになる。
「え、嘘でしょ……」
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