11 / 40
第一章:環楽園の殺人
2/5「ナグ・ハマディ写本の示唆」
しおりを挟む
2/5
「ところで、考えることはまだあるでしょう? 私がもっぱら関心を寄せているのは、これが密室殺人事件だって点よ」
霧余さんは美味しそうに煙草を吸いながら述べた。
「吹雪の山荘。密室殺人。まさに昨晩、舞游ちゃんと話した〈環楽園の殺人〉ね。こんなことが現実に起こり得るなんて思ってもみなかったわ」
「霧余さん、さっきから気になってるんですけど……なんだか楽しんでないですか?」
僕は耐えきれず、やっとそれを指摘した。
「ええ、もちろん」
あっさりと答えられ、僕は突き離されたかのような気分を味わった。
「だって千載一遇のシチュエーションよ? ミステリ読みには堪らないわ。そうでしょう、舞游ちゃん?」
「……シチュエーションと云うなら、まさにミステリの王道だとは思うよ」
話を振られた舞游は気分の悪そうな顔のまま、どこか諦観の宿った口調で答える。彼女は楽しむどころではなさそうだ。
「でも実際は面白味もなにもない。アンフェアだったりしょぼかったりするトリックは歓迎されないって理由でめっきり使われなくなったけど、密室なんて〈針と糸のトリック〉でつくれるもん」
「針と糸のトリック?」
僕が鸚鵡返しにすると、これには霧余さんが答えた。
「密室と云っても、扉には糸を通すくらいの隙間はあるでしょう? 〈機械的なトリック〉の代表例である〈針と糸のトリック〉は、それを利用して外から施錠してしまう詰まらないトリックよ」
なるほど。客室の扉なので、徹底して密閉する用途のそれではない。だから中のつまみに糸を結び付け、それを扉の下に通し、外から引っ張れば……。
「でも、それじゃあ糸が残ってしまうんじゃないですか?」
「長い糸を中ほどで折って二重にすればいいのよ。それをサムターン錠のつまみに結んで扉の隙間に通し、外から引っ張る。施錠の音を確認した後に二重にしていた糸の片方だけを引っ張ればするすると回収できる」
呆気ないものだった。これで密室の謎は……。
「でも、今回この手は使えないわ」
「え、どうしてですか?」
「つまみは小さいし、それに半円形だからよ。あれに糸を結び付けて引っ張っても、つまみが回る前に糸がすっぽ抜けるわ。実演してみるまでもないわね」
僕は自分が使用している客室で施錠しようとは一度もしなかったのでつまみの形状もうろ憶えだが、云われてみるとそうだった気がする。これには舞游も「あっ」と声を洩らした。
さらに追い打ちをかけるように、有寨さんが口を開く。
「つまみに糸を固定するためにテープやその他の金具を使う方法もあるけれど、これだと中に痕跡が残る。俺は念入りに扉の周りを確認したが、そういったものを発見することはできなかったよ。……だから糸を使って外から巧みに錠をかけたという可能性は除外する他ない」
遠くから雷雲が近づいてくるときのような不安感が、僕を徐々に圧迫していく。
「じゃあその、〈針と糸のトリック〉の他になにか、既存のトリックであれを実現させられないんですか? 密室トリックっていうのは、これまでたくさん開発されてきたんですよね?」
「アンフェアということで禁じ手にされてるトリックは〈機械的なトリック〉の他に〈実は被害者は自殺だった〉と〈秘密の抜け穴〉があるけれど、どちらも駄目ね。他の名だたる名トリックの数々も、いま思い付く限りでは今回に援用はできないわ。だって今回の密室は単純すぎて、かえってトリックの入り込む余地がないんだもの」
では、お手上げということか? 舞游も深く考える素振りは見せるものの、黙り込んでしまっている。霧余さんと有寨さんは態度こそ余裕そうだが、しかし妙案が浮かびはしないらしい。僕がどうかなんて云うまでもない。
これこそ、雷鳴だ。僕は途轍もない恐怖に打ちのめされそうになった。
密室なんて云われても、さして重要な問題ではないと僕は思っていた。いくらでも方法はあるんだろうと、呑気に構えていた。
しかし、そんな楽観は否定されたのだ。
密室は僕らの前に現れた。圧倒的な不可能というかたちで……。
「……合鍵は?」
舞游がぽつりと云った。
「あ、そうじゃないですか!」
僕は思わず大きな声を出してしまった。密室なんて云い方をされたからすっかりその気にさせられていたが、まず思い付くべきはその可能性ではないか。
霧余さんは「貴女、ミステリ好きを自称するくせに、夢のないことばかり云うわね」と溜息を吐いたが、知ったことではない。杏味ちゃんが殺されたというのに冗談めかしたことばかり述べる霧余さんに、僕はそろそろ反感を抱き始めていた。
「玄関の鍵は分からないけれど、マスターキーがひとつしかないのは確かだよ。杏味はどちらもひとつずつ持たされて此処に来たが、マスターキーの方はひとつだけだから失くさないようにと夫人に念を押されているのを俺は聞いていた」
そう説明する有寨さんに「こっそりつくることは可能でしょ?」と舞游が指摘する。
「可能ではある。けれど鍵は屋敷の持ち主である杏味の祖父の家に保管されていたのを、今回杏味が預かったものだ。合鍵をつくれる人間がいるとすれば、相当に巻譲家に関わりが深い人間、あるいは巻譲家の内部の人間ということになる」
「それはあながち間違ってもないんじゃないかしら」
霧余さんはなにかに気付いたようだ。
「殺されたのが杏味ちゃんなんだから、犯人は杏味ちゃんを殺す動機があった人間……杏味ちゃん個人じゃなくても、巻譲家には関わりのある人間に違いないわ。今回杏味ちゃんが実家を離れて私達と遊びに出たものだから、これを好機と襲った……きっと私達に罪を被せようとも企んだのね」
「そうか……此処には僕達しかいないことになってるから、そこで杏味ちゃんが殺されれば、僕達は立派な容疑者にされるんですね……」
厄介なことになってきた。ただでさえ資産家の娘が殺された現場に居合わせてしまっては大変な責任を負わされそうなものなのに、さらに容疑者ときた。特に有寨さんは、彼への信頼があって今回の滞在が実現したという面が大きいため、かなり危うい立場なのではと想像される……が、大して焦っているふうには見えない。
「でもそう考えると、とても無視できない不整合が生まれるんだ」
有寨さんのその言葉に、霧余さんも頷いた。
「なんですか、不整合って」
「密室にする必要がないということだよ。むしろ、下手に密室なんかつくったせいで、こうやって合鍵を持つ人間が別に潜んでいると俺達が主張できるようになったくらいだ」
「そもそも密室とは本来、殺人を自殺に見せかけるためのものよ。だけど杏味ちゃんの死体はどう見ても他殺と分かる。なぜ犯人が密室をつくったのか、その意図が読めないの」
「ああ、そうですね……たしかにそうだ……」
いい加減に僕は頭が混乱してきた。それが期せずして、ある推測を喚起した。
「僕らを混乱させるため、じゃないですか?」
「それにしては無駄が多すぎる。俺達を混乱させたいだけで、俺達に罪を被せるのを自ら阻害する意味も分からない。不可解なのは密室だけじゃないんだよ」
有寨さんは指折り数えるようにしながら続ける。
「なぜ、杏味の死体を縦に切断したのか。これも酷く手間のかかる作業だ。ワイヤーによる絞殺で既に死んだ杏味をわざわざ右半身と左半身に切り分ける意味は……いまのところ見当もつかない。怨恨がゆえとしても、刃物で滅多刺しにするならまだ分かりもするが、あれはちょっと異質だ」
それについては、考えるだけ無駄なんじゃないかと僕は思った。人を殺すような人間だ。まともな感性のはずがない。狂人の発想を僕らで理解するのは、僕らも同じく狂ってしまわない限り無理だろう。
「なぜ、犯人は今朝、ピアノを弾いたのか。杏味が殺されたのが夜のうちだとは、死体の様子を見れば素人の俺達でも分かる。だからいかにも杏味が弾きそうなピアノを自分が弾くことで犯行時刻を誤認させようとしたなんて浅はかな目的じゃないだろう。第一、俺達を相手にそんなことをしたって仕方がない。それから……」
有寨さんは膝の上に置いていた本を手に取って、僕らに示した。
「これだよ」
『ナグ・ハマディ写本』……マスターキーが挟み込まれていた本だ。
「それ、杏味ちゃんが昨日、図書室から持ち出すところを見ましたよ」
「なに、本当かい?」
有寨さんは意外そうな顔をした。
「はい。確かにその本でした。杏味ちゃんに簡単な説明もされたんで、憶えてます。なんとか主義がなんとかって話だったと思うんですけど……」
「全然憶えてないじゃない」
霧余さんに鋭い指摘をされてしまった。
有寨さんは首を傾げながら「犯人が持ち込んだものと思っていたが……」と独り言みたいな調子で呟いてから、改めて僕の方を向いた。
「杏味が云っていたのはグノーシス主義だろう?」
「あ、それです」
「グノーシスとは〈認識〉という意味でね、自分自身の本質に目覚め、認識することを救済の条件とする宗教的思想がグノーシス主義だよ。ただ体系的に説明、理解することが極めて難しくてね……なぜならグノーシス主義にあるのは歴史じゃなくて系譜だからなんだ」
有寨さんは説明するにあたっての方針を模索しながら話しているようで、普段より少しだけぎこちない。
「通常、宗教というものは成立や変化、発展の過程を通時的……縦に見ていけば大枠を掴めるものだが、グノーシス主義にはあまり通用しない。ある時代を定めて横に……共時的に見れば良いのかと云うと、これもそぐわない。グノーシス主義を理解するには、その二つを合わせた、いわば超時的な見方が必要となる。そもそも定義が曖昧なんだよ。哲学者ハンス・ヨナスは『グノーシスと古代末期の精神』という本でグノーシス主義の本質を人間の〈精神的な姿勢〉に還元した。それはある程度は正しいんだが、おかげで際限がなくなってしまったのも確かだ。〈本質〉を見出そうとする姿勢があれば、なんでもグノーシス主義の一派になってしまいかねない」
「そんなに自由なものなんですか……?」
だからこそ実態を掴みづらいという話なのだろうが、それにしても要領を得ない。
「ああ、グノーシス主義というのは〈やどり木〉……もっと云ってしまえば〈寄生虫〉みたいなものなんだよ。キリスト教なり、プラトン哲学なり、特殊な民族宗教なりを〈親木〉あるいは〈母体〉として、そこに寄生する。純粋なグノーシス教なるものが単体で存在していたわけじゃなく、一種の宗教現象と捉えるのが即してるんだ」
その説明で幾分か分かりやすくなった。
「それでも主だった系譜は挙げられるよ。まずグノーシス主義はキリスト教グノーシス主義と非キリスト教グノーシス主義に大別される。……觜也くん、杏味はグノーシス主義についてどんなことを話していたか、細かいところを思い出せないかい? 単語だけでも分かると助かるんだけれど」
「えーっと……」
僕は必死に杏味ちゃんとの会話の記憶を掘り起こす。彼女の話を真面目に聞いていたのは本当なのだが、なにぶん耳慣れない言葉ばかりだったので、正確に記憶していることは限られてしまう……。
「キリスト教に異端扱いされたというのは聞きました……神、いえ、造物神をグノーシス主義は否定したんだとか……。あと上位世界に至るとか……カタカナ言葉でそれをなんとかと呼んでたと思うんですけど……プロ……プロー……」
「プレーローマかい?」
「あ、それです」
有寨さんは得心顔で頷いた。にしても、彼はどれだけ博識なのだろうか。僕が不勉強というのもあるかも知れないが、どんなふうに生きていたらそんなに多方面の知識がつくのか不思議である。
「やっぱりね。非キリスト教グノーシス主義にもマンダ教やヘルメス文書等、グノーシス主義の代表的なところはあるんだが、杏味が興味を示していたのはキリスト教グノーシス主義……それもウァレンティノス派の思想だろう。これは紀元二世紀の半ばから後半が最盛期だったのだけれど、俺もウァレンティノス派こそグノーシス主義の花形だと思うよ。いや、世間的にもグノーシス主義と云えばこれを指す見方が一般的かな」
有寨さんはまた『ナグ・ハマディ写本』を掲げた。
「ところでこの『ナグ・ハマディ写本』とは、後二世紀から四世紀半ばまでの様々なグノーシス主義グループの生み出した文書が横断的に蒐集されたものだ。さっき觜也くんが云ったとおり、グノーシス主義というのは既存の神を否定したためにキリスト教から異端思想と見なされた……そのせいか、文献が極端に少なかったんだ。マンダ教とマニ教を除くグノーシス主義諸教派についてはエイレナイオス、ヒッポリュトス、エピファニオス等の報告……『異端反駁』や『全異端反駁』だね……を通して間接的に知り得るのみだった。だが、一九四五年にグノーシス主義者自身による証言……文書が発見された。それがこの『ナグ・ハマディ写本』なんだよ」
「なら、その資料的価値は計り知れないわね」
霧余さんは紫煙をくゆらせながら有寨さんの話を聞いている。舞游も調子悪そうにしつつも、ちゃんと耳を傾けているのは確からしい。ただ、少なくとも舞游に関しては、グノーシス主義というものをいくらか知ってそうである。いかにも彼女の好みそうな分野の話だ。
「うん、とにかく『ナグ・ハマディ写本』はエジプト……ナイル河畔の町ナグ・ハマディでローマ時代の墓場から発見された、様々なグノーシス主義グループの文書が同居しているばかりでなく、文学的な形式の上でも、救済神話、福音書、語録、説教、書簡、黙示録、讃栄、礼典式文等、多種多様なものが混在している文書群なんだが……」
有寨さんは本をぱらぱらとめくり、あるページを開いて僕らに見せた。
「マスターキーが挟まれていたのがこのページだ。『フィリポ福音書』の文書が掲載されているところで、この『フィリポ福音書』はやはりウァレンティノス派のそれなんだけれど……ここを見てほしい。ある文書の横に傍線を引くように、紙面が傷付けられている……多分マスターキーの先で傷付けたものだ」
「本当、ですね……」
これは犯人がやったのだろうか……おそらくそうだろう。杏味ちゃんがこんなふうに本を傷付けるのはちょっとおかしい。マスターキーを挟んだのも犯人の仕業に違いないのだから(まさか杏味ちゃんがマスターキーを栞代わりにしていたわけもあるまい)、そう考えて間違いはないはずだ。
「――人はまず死に、それから甦るのだ、という人は間違っている。人は、まず生きているうちに復活をとげなければ、死んだときに何も受けないだろう」
有寨さんは、マスターキーで傷付けることによって傍線を引かれた文章を読み上げた。
「……どういう意味ですか?」
「『フィリポ福音書』というのはキリスト教グノーシス主義の華とも云うべきものなんだが、この部分にはグノーシス主義の特徴である〈肉体の蔑視〉がよく表れている。グノーシス主義は物質、そして肉体を悪と見なしているんだよ」
いま思い出したが、杏味ちゃんもそう話していた記憶がある。
「霊魂を肉体から分離し、前者にのみ永続的な価値を認めているんだ。『フィリポ福音書』には別の部分にもこんなことが書かれている……」
有寨さんはページをめくる。
「――われわれがこの世の中にいる限り、われわれにとって益となるのは、われわれ自らに復活を生み出すことである。それはわれわれが肉を脱ぎ去るときに、安息の中に見出されることとなり、中間の中をさまようことにならないためである」
「肉を、脱ぎ去る……」
「そうだ。人間の肉体は霊魂を幽閉する一種の牢獄であるという思想はギリシャにおいては古くからオルフェウスやピタゴラスのものとして伝えられてきた伝統的な宗教思想、哲学思想だよ。『肉体(ソーマ)は魂の墓場(セーマ)である』という有名な文言もある……これはプラトンが紹介したんだが、オルフェウスの教えに帰しているからね」
「でもどうして犯人は、そんな文章を傍線で示したのかしら」
霧余さんが問い掛けると、有寨さんは首を横に振って本を閉じた。
「分からない。そう、これも意図の読めない、犯人にとっては余計としか思えない行動のひとつだ。それでも解釈しようとするなら……こんな推測が立つ」
「なんですか」
「犯人はこのグノーシス主義の名の下に杏味を殺したのだと云いたいんだよ。つまり、肉体を憎悪するグノーシス主義に則って杏味を殺し、それに飽き足らず死体を縦に両断し……肉体を蔑ろにしたのだと、俺達に伝えているんだ」
僕は身体の芯から震え上がった。背中を悪寒が駆け抜けると共に、不快な汗が全身から滲み出た。
肉体を蔑視し、杏味ちゃんの身体をあんな惨たらしい有様に変えたと云うのか……?
グノーシス主義なんていう仰々しいものを持ち出し、自分の殺人をなにか崇高なものとでも示していると、そう云うのか……?
人間のやることじゃない……そんな恐ろしい、恐ろしいことは……。
……クローズド・サークル……密室殺人……グノーシス主義……そして〈肉体の蔑視〉……そんな異様な言葉の数々が、僕の脳内で、あの『大地の歌』の旋律と共にぐるぐると回っていた。
「ところで、考えることはまだあるでしょう? 私がもっぱら関心を寄せているのは、これが密室殺人事件だって点よ」
霧余さんは美味しそうに煙草を吸いながら述べた。
「吹雪の山荘。密室殺人。まさに昨晩、舞游ちゃんと話した〈環楽園の殺人〉ね。こんなことが現実に起こり得るなんて思ってもみなかったわ」
「霧余さん、さっきから気になってるんですけど……なんだか楽しんでないですか?」
僕は耐えきれず、やっとそれを指摘した。
「ええ、もちろん」
あっさりと答えられ、僕は突き離されたかのような気分を味わった。
「だって千載一遇のシチュエーションよ? ミステリ読みには堪らないわ。そうでしょう、舞游ちゃん?」
「……シチュエーションと云うなら、まさにミステリの王道だとは思うよ」
話を振られた舞游は気分の悪そうな顔のまま、どこか諦観の宿った口調で答える。彼女は楽しむどころではなさそうだ。
「でも実際は面白味もなにもない。アンフェアだったりしょぼかったりするトリックは歓迎されないって理由でめっきり使われなくなったけど、密室なんて〈針と糸のトリック〉でつくれるもん」
「針と糸のトリック?」
僕が鸚鵡返しにすると、これには霧余さんが答えた。
「密室と云っても、扉には糸を通すくらいの隙間はあるでしょう? 〈機械的なトリック〉の代表例である〈針と糸のトリック〉は、それを利用して外から施錠してしまう詰まらないトリックよ」
なるほど。客室の扉なので、徹底して密閉する用途のそれではない。だから中のつまみに糸を結び付け、それを扉の下に通し、外から引っ張れば……。
「でも、それじゃあ糸が残ってしまうんじゃないですか?」
「長い糸を中ほどで折って二重にすればいいのよ。それをサムターン錠のつまみに結んで扉の隙間に通し、外から引っ張る。施錠の音を確認した後に二重にしていた糸の片方だけを引っ張ればするすると回収できる」
呆気ないものだった。これで密室の謎は……。
「でも、今回この手は使えないわ」
「え、どうしてですか?」
「つまみは小さいし、それに半円形だからよ。あれに糸を結び付けて引っ張っても、つまみが回る前に糸がすっぽ抜けるわ。実演してみるまでもないわね」
僕は自分が使用している客室で施錠しようとは一度もしなかったのでつまみの形状もうろ憶えだが、云われてみるとそうだった気がする。これには舞游も「あっ」と声を洩らした。
さらに追い打ちをかけるように、有寨さんが口を開く。
「つまみに糸を固定するためにテープやその他の金具を使う方法もあるけれど、これだと中に痕跡が残る。俺は念入りに扉の周りを確認したが、そういったものを発見することはできなかったよ。……だから糸を使って外から巧みに錠をかけたという可能性は除外する他ない」
遠くから雷雲が近づいてくるときのような不安感が、僕を徐々に圧迫していく。
「じゃあその、〈針と糸のトリック〉の他になにか、既存のトリックであれを実現させられないんですか? 密室トリックっていうのは、これまでたくさん開発されてきたんですよね?」
「アンフェアということで禁じ手にされてるトリックは〈機械的なトリック〉の他に〈実は被害者は自殺だった〉と〈秘密の抜け穴〉があるけれど、どちらも駄目ね。他の名だたる名トリックの数々も、いま思い付く限りでは今回に援用はできないわ。だって今回の密室は単純すぎて、かえってトリックの入り込む余地がないんだもの」
では、お手上げということか? 舞游も深く考える素振りは見せるものの、黙り込んでしまっている。霧余さんと有寨さんは態度こそ余裕そうだが、しかし妙案が浮かびはしないらしい。僕がどうかなんて云うまでもない。
これこそ、雷鳴だ。僕は途轍もない恐怖に打ちのめされそうになった。
密室なんて云われても、さして重要な問題ではないと僕は思っていた。いくらでも方法はあるんだろうと、呑気に構えていた。
しかし、そんな楽観は否定されたのだ。
密室は僕らの前に現れた。圧倒的な不可能というかたちで……。
「……合鍵は?」
舞游がぽつりと云った。
「あ、そうじゃないですか!」
僕は思わず大きな声を出してしまった。密室なんて云い方をされたからすっかりその気にさせられていたが、まず思い付くべきはその可能性ではないか。
霧余さんは「貴女、ミステリ好きを自称するくせに、夢のないことばかり云うわね」と溜息を吐いたが、知ったことではない。杏味ちゃんが殺されたというのに冗談めかしたことばかり述べる霧余さんに、僕はそろそろ反感を抱き始めていた。
「玄関の鍵は分からないけれど、マスターキーがひとつしかないのは確かだよ。杏味はどちらもひとつずつ持たされて此処に来たが、マスターキーの方はひとつだけだから失くさないようにと夫人に念を押されているのを俺は聞いていた」
そう説明する有寨さんに「こっそりつくることは可能でしょ?」と舞游が指摘する。
「可能ではある。けれど鍵は屋敷の持ち主である杏味の祖父の家に保管されていたのを、今回杏味が預かったものだ。合鍵をつくれる人間がいるとすれば、相当に巻譲家に関わりが深い人間、あるいは巻譲家の内部の人間ということになる」
「それはあながち間違ってもないんじゃないかしら」
霧余さんはなにかに気付いたようだ。
「殺されたのが杏味ちゃんなんだから、犯人は杏味ちゃんを殺す動機があった人間……杏味ちゃん個人じゃなくても、巻譲家には関わりのある人間に違いないわ。今回杏味ちゃんが実家を離れて私達と遊びに出たものだから、これを好機と襲った……きっと私達に罪を被せようとも企んだのね」
「そうか……此処には僕達しかいないことになってるから、そこで杏味ちゃんが殺されれば、僕達は立派な容疑者にされるんですね……」
厄介なことになってきた。ただでさえ資産家の娘が殺された現場に居合わせてしまっては大変な責任を負わされそうなものなのに、さらに容疑者ときた。特に有寨さんは、彼への信頼があって今回の滞在が実現したという面が大きいため、かなり危うい立場なのではと想像される……が、大して焦っているふうには見えない。
「でもそう考えると、とても無視できない不整合が生まれるんだ」
有寨さんのその言葉に、霧余さんも頷いた。
「なんですか、不整合って」
「密室にする必要がないということだよ。むしろ、下手に密室なんかつくったせいで、こうやって合鍵を持つ人間が別に潜んでいると俺達が主張できるようになったくらいだ」
「そもそも密室とは本来、殺人を自殺に見せかけるためのものよ。だけど杏味ちゃんの死体はどう見ても他殺と分かる。なぜ犯人が密室をつくったのか、その意図が読めないの」
「ああ、そうですね……たしかにそうだ……」
いい加減に僕は頭が混乱してきた。それが期せずして、ある推測を喚起した。
「僕らを混乱させるため、じゃないですか?」
「それにしては無駄が多すぎる。俺達を混乱させたいだけで、俺達に罪を被せるのを自ら阻害する意味も分からない。不可解なのは密室だけじゃないんだよ」
有寨さんは指折り数えるようにしながら続ける。
「なぜ、杏味の死体を縦に切断したのか。これも酷く手間のかかる作業だ。ワイヤーによる絞殺で既に死んだ杏味をわざわざ右半身と左半身に切り分ける意味は……いまのところ見当もつかない。怨恨がゆえとしても、刃物で滅多刺しにするならまだ分かりもするが、あれはちょっと異質だ」
それについては、考えるだけ無駄なんじゃないかと僕は思った。人を殺すような人間だ。まともな感性のはずがない。狂人の発想を僕らで理解するのは、僕らも同じく狂ってしまわない限り無理だろう。
「なぜ、犯人は今朝、ピアノを弾いたのか。杏味が殺されたのが夜のうちだとは、死体の様子を見れば素人の俺達でも分かる。だからいかにも杏味が弾きそうなピアノを自分が弾くことで犯行時刻を誤認させようとしたなんて浅はかな目的じゃないだろう。第一、俺達を相手にそんなことをしたって仕方がない。それから……」
有寨さんは膝の上に置いていた本を手に取って、僕らに示した。
「これだよ」
『ナグ・ハマディ写本』……マスターキーが挟み込まれていた本だ。
「それ、杏味ちゃんが昨日、図書室から持ち出すところを見ましたよ」
「なに、本当かい?」
有寨さんは意外そうな顔をした。
「はい。確かにその本でした。杏味ちゃんに簡単な説明もされたんで、憶えてます。なんとか主義がなんとかって話だったと思うんですけど……」
「全然憶えてないじゃない」
霧余さんに鋭い指摘をされてしまった。
有寨さんは首を傾げながら「犯人が持ち込んだものと思っていたが……」と独り言みたいな調子で呟いてから、改めて僕の方を向いた。
「杏味が云っていたのはグノーシス主義だろう?」
「あ、それです」
「グノーシスとは〈認識〉という意味でね、自分自身の本質に目覚め、認識することを救済の条件とする宗教的思想がグノーシス主義だよ。ただ体系的に説明、理解することが極めて難しくてね……なぜならグノーシス主義にあるのは歴史じゃなくて系譜だからなんだ」
有寨さんは説明するにあたっての方針を模索しながら話しているようで、普段より少しだけぎこちない。
「通常、宗教というものは成立や変化、発展の過程を通時的……縦に見ていけば大枠を掴めるものだが、グノーシス主義にはあまり通用しない。ある時代を定めて横に……共時的に見れば良いのかと云うと、これもそぐわない。グノーシス主義を理解するには、その二つを合わせた、いわば超時的な見方が必要となる。そもそも定義が曖昧なんだよ。哲学者ハンス・ヨナスは『グノーシスと古代末期の精神』という本でグノーシス主義の本質を人間の〈精神的な姿勢〉に還元した。それはある程度は正しいんだが、おかげで際限がなくなってしまったのも確かだ。〈本質〉を見出そうとする姿勢があれば、なんでもグノーシス主義の一派になってしまいかねない」
「そんなに自由なものなんですか……?」
だからこそ実態を掴みづらいという話なのだろうが、それにしても要領を得ない。
「ああ、グノーシス主義というのは〈やどり木〉……もっと云ってしまえば〈寄生虫〉みたいなものなんだよ。キリスト教なり、プラトン哲学なり、特殊な民族宗教なりを〈親木〉あるいは〈母体〉として、そこに寄生する。純粋なグノーシス教なるものが単体で存在していたわけじゃなく、一種の宗教現象と捉えるのが即してるんだ」
その説明で幾分か分かりやすくなった。
「それでも主だった系譜は挙げられるよ。まずグノーシス主義はキリスト教グノーシス主義と非キリスト教グノーシス主義に大別される。……觜也くん、杏味はグノーシス主義についてどんなことを話していたか、細かいところを思い出せないかい? 単語だけでも分かると助かるんだけれど」
「えーっと……」
僕は必死に杏味ちゃんとの会話の記憶を掘り起こす。彼女の話を真面目に聞いていたのは本当なのだが、なにぶん耳慣れない言葉ばかりだったので、正確に記憶していることは限られてしまう……。
「キリスト教に異端扱いされたというのは聞きました……神、いえ、造物神をグノーシス主義は否定したんだとか……。あと上位世界に至るとか……カタカナ言葉でそれをなんとかと呼んでたと思うんですけど……プロ……プロー……」
「プレーローマかい?」
「あ、それです」
有寨さんは得心顔で頷いた。にしても、彼はどれだけ博識なのだろうか。僕が不勉強というのもあるかも知れないが、どんなふうに生きていたらそんなに多方面の知識がつくのか不思議である。
「やっぱりね。非キリスト教グノーシス主義にもマンダ教やヘルメス文書等、グノーシス主義の代表的なところはあるんだが、杏味が興味を示していたのはキリスト教グノーシス主義……それもウァレンティノス派の思想だろう。これは紀元二世紀の半ばから後半が最盛期だったのだけれど、俺もウァレンティノス派こそグノーシス主義の花形だと思うよ。いや、世間的にもグノーシス主義と云えばこれを指す見方が一般的かな」
有寨さんはまた『ナグ・ハマディ写本』を掲げた。
「ところでこの『ナグ・ハマディ写本』とは、後二世紀から四世紀半ばまでの様々なグノーシス主義グループの生み出した文書が横断的に蒐集されたものだ。さっき觜也くんが云ったとおり、グノーシス主義というのは既存の神を否定したためにキリスト教から異端思想と見なされた……そのせいか、文献が極端に少なかったんだ。マンダ教とマニ教を除くグノーシス主義諸教派についてはエイレナイオス、ヒッポリュトス、エピファニオス等の報告……『異端反駁』や『全異端反駁』だね……を通して間接的に知り得るのみだった。だが、一九四五年にグノーシス主義者自身による証言……文書が発見された。それがこの『ナグ・ハマディ写本』なんだよ」
「なら、その資料的価値は計り知れないわね」
霧余さんは紫煙をくゆらせながら有寨さんの話を聞いている。舞游も調子悪そうにしつつも、ちゃんと耳を傾けているのは確からしい。ただ、少なくとも舞游に関しては、グノーシス主義というものをいくらか知ってそうである。いかにも彼女の好みそうな分野の話だ。
「うん、とにかく『ナグ・ハマディ写本』はエジプト……ナイル河畔の町ナグ・ハマディでローマ時代の墓場から発見された、様々なグノーシス主義グループの文書が同居しているばかりでなく、文学的な形式の上でも、救済神話、福音書、語録、説教、書簡、黙示録、讃栄、礼典式文等、多種多様なものが混在している文書群なんだが……」
有寨さんは本をぱらぱらとめくり、あるページを開いて僕らに見せた。
「マスターキーが挟まれていたのがこのページだ。『フィリポ福音書』の文書が掲載されているところで、この『フィリポ福音書』はやはりウァレンティノス派のそれなんだけれど……ここを見てほしい。ある文書の横に傍線を引くように、紙面が傷付けられている……多分マスターキーの先で傷付けたものだ」
「本当、ですね……」
これは犯人がやったのだろうか……おそらくそうだろう。杏味ちゃんがこんなふうに本を傷付けるのはちょっとおかしい。マスターキーを挟んだのも犯人の仕業に違いないのだから(まさか杏味ちゃんがマスターキーを栞代わりにしていたわけもあるまい)、そう考えて間違いはないはずだ。
「――人はまず死に、それから甦るのだ、という人は間違っている。人は、まず生きているうちに復活をとげなければ、死んだときに何も受けないだろう」
有寨さんは、マスターキーで傷付けることによって傍線を引かれた文章を読み上げた。
「……どういう意味ですか?」
「『フィリポ福音書』というのはキリスト教グノーシス主義の華とも云うべきものなんだが、この部分にはグノーシス主義の特徴である〈肉体の蔑視〉がよく表れている。グノーシス主義は物質、そして肉体を悪と見なしているんだよ」
いま思い出したが、杏味ちゃんもそう話していた記憶がある。
「霊魂を肉体から分離し、前者にのみ永続的な価値を認めているんだ。『フィリポ福音書』には別の部分にもこんなことが書かれている……」
有寨さんはページをめくる。
「――われわれがこの世の中にいる限り、われわれにとって益となるのは、われわれ自らに復活を生み出すことである。それはわれわれが肉を脱ぎ去るときに、安息の中に見出されることとなり、中間の中をさまようことにならないためである」
「肉を、脱ぎ去る……」
「そうだ。人間の肉体は霊魂を幽閉する一種の牢獄であるという思想はギリシャにおいては古くからオルフェウスやピタゴラスのものとして伝えられてきた伝統的な宗教思想、哲学思想だよ。『肉体(ソーマ)は魂の墓場(セーマ)である』という有名な文言もある……これはプラトンが紹介したんだが、オルフェウスの教えに帰しているからね」
「でもどうして犯人は、そんな文章を傍線で示したのかしら」
霧余さんが問い掛けると、有寨さんは首を横に振って本を閉じた。
「分からない。そう、これも意図の読めない、犯人にとっては余計としか思えない行動のひとつだ。それでも解釈しようとするなら……こんな推測が立つ」
「なんですか」
「犯人はこのグノーシス主義の名の下に杏味を殺したのだと云いたいんだよ。つまり、肉体を憎悪するグノーシス主義に則って杏味を殺し、それに飽き足らず死体を縦に両断し……肉体を蔑ろにしたのだと、俺達に伝えているんだ」
僕は身体の芯から震え上がった。背中を悪寒が駆け抜けると共に、不快な汗が全身から滲み出た。
肉体を蔑視し、杏味ちゃんの身体をあんな惨たらしい有様に変えたと云うのか……?
グノーシス主義なんていう仰々しいものを持ち出し、自分の殺人をなにか崇高なものとでも示していると、そう云うのか……?
人間のやることじゃない……そんな恐ろしい、恐ろしいことは……。
……クローズド・サークル……密室殺人……グノーシス主義……そして〈肉体の蔑視〉……そんな異様な言葉の数々が、僕の脳内で、あの『大地の歌』の旋律と共にぐるぐると回っていた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
真夏の温泉物語
矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ずっと女の子になりたかった 男の娘の私
ムーワ
BL
幼少期からどことなく男の服装をして学校に通っているのに違和感を感じていた主人公のヒデキ。
ヒデキは同級生の女の子が履いているスカートが自分でも履きたくて仕方がなかったが、母親はいつもズボンばかりでスカートは買ってくれなかった。
そんなヒデキの幼少期から大人になるまでの成長を描いたLGBT(ジェンダーレス作品)です。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる