4 / 40
序章:福音
3「浮世にさようなら」
しおりを挟む
3
環楽園に到着したのは午後八時であった。途中で休憩を挟んだとはいえ、こんなに時間がかかってしまったのは、山に入ってからの道が険しかったからである。
環楽園があるのは山の奥深くで、そこまでの道はろくに整備もされておらず、電灯もまばらで、鬱蒼とした木々に両端を狭まれ、さらには雪も降っていた。車のヘッドライトが数メートル先までを頼りなく照らすのみという暗闇の中で車を走らすのは、相応に慎重を要したわけである。
昼間ならもっとマシだろうし夏ならさらに問題ないのだろうが、それでもどうしてこんな不便な場所に別荘を構えたのだろうか。それは杏味ちゃんによると、別荘とはいわば隠れ家のようなものなのだから、世俗から隔絶されたような辺鄙な場所こそ相応しいという考えあってのことらしい。大企業のトップともなると安息の場にそういった要素を求めそうとは分からなくもないし、金に飽かせて広い土地を買い取るとなればこういう場所になってしまうというのも頷ける話ではある。
覆い被さるように茂っていた木々がなくなり、暗闇の中ながらも不意に視界が開けたと思ったのが、すなわち到着の時だった。薄く積もった雪の上を車が徐行するにつれて、目の前に聳える屋敷のシルエットが徐々に浮かび上がった。
荘厳とした洋館だった。闇と雪に紛れることなく、いっそう黒々と佇んでいる。その威圧的な雰囲気は恐ろしくもあった。杏味ちゃんの言のとおり、現世とは違った異世界のような場所に迷い込んでしまったのではないかと嫌でも想像させられた。
安心感を得たかったわけでもないが――実際はそうだったのかも知れない――僕は隣で眠りこけていた舞游を揺すり起こした。彼女は寝惚け眼をこすり、見当違いの方向を見て「いまどこらへん?」なんて尋ねてくる。その頭を軽く掴んで正面に向けさせるとさすがに意識が覚醒したのか「おお」と感嘆の声をあげた。
「着いたね。車をガレージに入れるから、もう少し車内にいてくれ」
「雪が酷くなる前に到着できて良かったわ」
霧余さんの言葉はもっともだったが、しかし僕はまだ不安を拭い去れてはいなかった。つい先程までのいつ終わるとも知れぬ闇の中を進み続けていたときとはまた違う、異質な惧れが膨れ上がっていた。嫌な予感、とでも云えばいいのだろうか。やはり模糊として実態を掴みかねる類のそれなのだが……。
車はアーチ状の門をくぐり、左にカーブした。脇にあるガレージの前で車は一旦停まり、有寨さんが降りてガレージの扉を開けてからまた戻り、車を中に入れた。ガレージの中の電灯はオレンジ色のなんだか頼りないものだったが、ずっと薄闇の中にいたためにいくらか心が落ち着いた。
「きゃっ、寒っ」
車から降りた舞游の第一声はそれだった。僕も思わず声をあげそうになった。肌を刺すような外気に、全身の毛穴が一気に引き締まる。これに晒されていたら十分もしないうちに凍り付いてしまうだろう。
僕らはトランクから各自荷物を取り出し、いよいよ屋敷に向かって歩き始める。玄関は屋敷の中央にあった。その上からは半円状の屋根が突き出ていて、二本の柱に支えられていた。
「冬に来たのは初めてですが、風情があって良いですね」
意外にも杏味ちゃんは澄まし顔で、そんな余裕に満ちた感想を洩らしている。
しかしこのある種の不気味さをまとった屋敷の外観を風情があると云って片付けることは、少なくとも僕にはできなかった。
積雪に耐えなければならない立地だからだろう、建物は石造りである。窓の位置を見るに三階建てと分かるが、各階の高さが普通の住宅とは異なるため、それ以上に高さがあるように映る。あるいはもっと別の心理的な理由も作用しているかも知れない……。
杏味ちゃんから鍵を受け取った有寨さんが玄関扉を開けた。両開きの木の扉が、勿体つけるかのように物々しく手前へと開いていく。
有寨さんは僕らに振り返り、芝居がかった口調で告げた。
「環楽園にようこそ」
環楽園に到着したのは午後八時であった。途中で休憩を挟んだとはいえ、こんなに時間がかかってしまったのは、山に入ってからの道が険しかったからである。
環楽園があるのは山の奥深くで、そこまでの道はろくに整備もされておらず、電灯もまばらで、鬱蒼とした木々に両端を狭まれ、さらには雪も降っていた。車のヘッドライトが数メートル先までを頼りなく照らすのみという暗闇の中で車を走らすのは、相応に慎重を要したわけである。
昼間ならもっとマシだろうし夏ならさらに問題ないのだろうが、それでもどうしてこんな不便な場所に別荘を構えたのだろうか。それは杏味ちゃんによると、別荘とはいわば隠れ家のようなものなのだから、世俗から隔絶されたような辺鄙な場所こそ相応しいという考えあってのことらしい。大企業のトップともなると安息の場にそういった要素を求めそうとは分からなくもないし、金に飽かせて広い土地を買い取るとなればこういう場所になってしまうというのも頷ける話ではある。
覆い被さるように茂っていた木々がなくなり、暗闇の中ながらも不意に視界が開けたと思ったのが、すなわち到着の時だった。薄く積もった雪の上を車が徐行するにつれて、目の前に聳える屋敷のシルエットが徐々に浮かび上がった。
荘厳とした洋館だった。闇と雪に紛れることなく、いっそう黒々と佇んでいる。その威圧的な雰囲気は恐ろしくもあった。杏味ちゃんの言のとおり、現世とは違った異世界のような場所に迷い込んでしまったのではないかと嫌でも想像させられた。
安心感を得たかったわけでもないが――実際はそうだったのかも知れない――僕は隣で眠りこけていた舞游を揺すり起こした。彼女は寝惚け眼をこすり、見当違いの方向を見て「いまどこらへん?」なんて尋ねてくる。その頭を軽く掴んで正面に向けさせるとさすがに意識が覚醒したのか「おお」と感嘆の声をあげた。
「着いたね。車をガレージに入れるから、もう少し車内にいてくれ」
「雪が酷くなる前に到着できて良かったわ」
霧余さんの言葉はもっともだったが、しかし僕はまだ不安を拭い去れてはいなかった。つい先程までのいつ終わるとも知れぬ闇の中を進み続けていたときとはまた違う、異質な惧れが膨れ上がっていた。嫌な予感、とでも云えばいいのだろうか。やはり模糊として実態を掴みかねる類のそれなのだが……。
車はアーチ状の門をくぐり、左にカーブした。脇にあるガレージの前で車は一旦停まり、有寨さんが降りてガレージの扉を開けてからまた戻り、車を中に入れた。ガレージの中の電灯はオレンジ色のなんだか頼りないものだったが、ずっと薄闇の中にいたためにいくらか心が落ち着いた。
「きゃっ、寒っ」
車から降りた舞游の第一声はそれだった。僕も思わず声をあげそうになった。肌を刺すような外気に、全身の毛穴が一気に引き締まる。これに晒されていたら十分もしないうちに凍り付いてしまうだろう。
僕らはトランクから各自荷物を取り出し、いよいよ屋敷に向かって歩き始める。玄関は屋敷の中央にあった。その上からは半円状の屋根が突き出ていて、二本の柱に支えられていた。
「冬に来たのは初めてですが、風情があって良いですね」
意外にも杏味ちゃんは澄まし顔で、そんな余裕に満ちた感想を洩らしている。
しかしこのある種の不気味さをまとった屋敷の外観を風情があると云って片付けることは、少なくとも僕にはできなかった。
積雪に耐えなければならない立地だからだろう、建物は石造りである。窓の位置を見るに三階建てと分かるが、各階の高さが普通の住宅とは異なるため、それ以上に高さがあるように映る。あるいはもっと別の心理的な理由も作用しているかも知れない……。
杏味ちゃんから鍵を受け取った有寨さんが玄関扉を開けた。両開きの木の扉が、勿体つけるかのように物々しく手前へと開いていく。
有寨さんは僕らに振り返り、芝居がかった口調で告げた。
「環楽園にようこそ」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
真夏の温泉物語
矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ずっと女の子になりたかった 男の娘の私
ムーワ
BL
幼少期からどことなく男の服装をして学校に通っているのに違和感を感じていた主人公のヒデキ。
ヒデキは同級生の女の子が履いているスカートが自分でも履きたくて仕方がなかったが、母親はいつもズボンばかりでスカートは買ってくれなかった。
そんなヒデキの幼少期から大人になるまでの成長を描いたLGBT(ジェンダーレス作品)です。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる