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処刑と最後の
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俯いたアリスを空虚な表情で土人形は見つめていた。
「誰かを否定したい気持ちを認めたくなかった。それを認めたら俺はもっと悪いものになる気がした」
「誰だって他人を否定したくなる時はある。当たり前だ。そうじゃなかったらお前を否定する奴は何だ?お前だけが許されない事なんておかしいだろ。嫌な思いをして、それを嫌だと思うのは当然だ!悪い訳がない」
アリスは胸の上で必死に縋る黒いネズミの目元が瞬くたびに光る事に気がついた。幻想の太陽光を反射して輝くそれは、いつか見た木漏れ日を彷彿とさせた。
アリスはゆっくりと目を閉じて、次に目を開けた時、黒いネズミをそっと掌で押し退けて地面に落とした。上体を起こしながら土人形に向かって右手を伸ばす。
「分かったよ」
土人形も無表情のまま手を伸ばす。2人は手を握り合った。
「ありがとう。黒いネズミは優しい騎士だ」
土人形は形を崩し色を喪い粘土状になって崩れていった。土塊が地面に転がって、喪われた色はアリスに吸い込まれるように消えていく。そしてアリスは、弟は、見た事も無い暗い表情でニヤリと笑った。
「ありがとう。最後に良い夢が見れた。でも俺はもう、駄目なんだ」
そう吐き捨てるとアリスは「うっ」と呻いて背を丸めた。黒いネズミが「悠斗!?」と声を上げるのとほぼ同時にその背中がボコリと大きく膨らんだ。更に腕が、足が膨らんで人型が崩れていく。
暗い紫や緑の混ざったスライムを上から何層も積んだ山のような姿に大きな目が1つ開く。加えて小さな目が点々と開いていった。悪夢のようなその姿に絵本か何かで見た百々目鬼という妖怪が頭をよぎる。明らかに人では無い姿に変わったアリスに黒いネズミは動揺を隠せず固まった。
「悠斗……?何だこれは……どういう事だ……」
「ああ……気持ち悪い……気持ち悪い……」
アリスは複数の目のうち、1番大きな瞳から黒いネズミを覗き見た。ネズミの姿だからか表情から感情を窺い辛い。でも強張っている様子は感じ取れる。
ーーー俺はこうなんだ。これが俺なんだ。見てほしい。俺を否定してほしい。弟は死んだ方が良かったって思ってほしい。
ブヨブヨと拍動する体から腕のような物体が伸びて黒いネズミを掴んだ。驚く間も無く黒いネズミはそのまま宙に放り出される。訳も分からず高く宙を舞いながら、黒いネズミはここに来たばかりの時も似たような目に合った事を思い出した。
「うっ!……いて」
ゴロゴロと転がって叢に着地する。
顔を上げるとそこには黒い靄の柱が立っていた。幾つもの燃える人型のような形の黒い靄がどこかを取り囲んで揺れている。黒い靄達が描く円の内側にはトランプ兵達がアリスを囲っている。更にその内側には取り残されたアリスが居る。今の配置に黒いネズミはゾッと背筋を冷たいものが走るのを感じた。
「ゆう、と……」
呼ぼうとした声は離れた場所から響いた咆哮に掻き消された。
「処刑だ!」
「アリスだ!」
「処刑しろ!」
「処刑しろ!」
トランプ兵が謀ったようなタイミングで動き出した。槍を構えて大きな異形に立ち向かう姿は宛らドン・キホーテのようだった。だがアリスは中身の無い風車ではないし、攻撃者は1人ではない。トランプ兵は相手がハリボテで無かったとしても斬りかかるのを止めないだろう。
「悠斗!!!」
黒いネズミは黒い靄の集団を抜けて行こうとした。しかしそれは阻まれる。まるで実体があるかのように擦り抜けることもできず邪魔をされる。それだけではなく靄に触れると奇妙なボヤけた人の声が頭に響いてきた。
『羨ましい』
『綺麗な一軒家』
『金持ちだ』
黒い靄達から聞こえる声に思わず後退った。靄達は手を振り上げたり下ろしたりしてユラユラと揺れている。
「何だこいつら……」
靄がボソボソと囁くのは聞き取れないが、頭の中に声として反響する。
『悠斗くんのお母さんいつも迎えに来るね』
『羨ましい』
『良い家族だね』
『お兄さん優しい』
『不幸を感じた事無さそう』
『眞白くん可愛い』
『羨ましい』
誰かの声だ。これはきっといつか何処かで紡がれた言葉達だ。
『父親居ないんだって』
『お兄さんが家を出て行ったって』
『どうして黙ってるの』
『迷惑なんだよ』
『平気なのかな』
『変な奴』
断続して響いてくる無数の声が行手を阻む。黒い靄が黒いネズミの小さな体を退けて輪の外へ押し出す。それに抵抗して食らいつくと、また頭の中に声が響いてきた。
『先生』
トランプ兵の喧騒が遠くに聞こえる。義憤に囚われて止まる気の無い傀儡達が闇雲に槍を振り回す姿が脳裏を過ぎる。
そのイメージに割り込むように声が聞こえる。
『俺……もう分からないんです……どうして上手く出来ないのか……どうしたら良いと思いますか』
『根井くん…………。君の言ってる事はよく分からないけど、お母さんだって1人で子供の面倒をみるなんて大変だと思うよ。家事もやってくれて良いお母さんじゃない』
『はい』
『お母さん頑張ってるんでしょ?根井くんが支えてあげなくちゃ』
『そうですよね。そう思います』
『あとクラスの事はね。私じゃなくて担任の先生に相談してね』
『はい』
麻也の頭の中に2人の声が聞こえる。その片方は彼がよく知っていた筈の弟の声だ。
『すみませんでした』
自分が捨て置いた弟の声がした。
「うううううう……!!!」
小さな腕を振り上げてがむしゃらに黒い靄に向かって打ち付ける。行き場の無い衝動に体が爆発しそうだった。
「どけ!!邪魔するな!!俺の、弟だ!!俺はあいつの兄だ!!!失せないとぶっ飛ばすぞ!!!」
感情任せに振り切った拳が黒い靄に当たった。殴打された黒い靄は衝撃に後方へ吹っ飛んでいって霧散した。起きた事に強烈な違和感を覚えて自分の手を見るとそれは人間の拳だった。
「なんだ、これ……急に……」
「やっと人になったか」
「お前……!」
いつの間にか頭上に現れたチェシャ猫が片目を瞑ったしたり顔で宙に浮いていた。
「俺の相手をしている場合か?」
「場合じゃない!」
麻也は黒い人型を掻き分けようと腕で振り払って進んだ。靄達はライブ会場の観客のようにうねりを上げて邪魔をする。靄を押し退けて進む度に頭にまた声が反響する。
『悠斗』
『お前はお母さんが憎いの?』
『どうして、困らせるの?』
「くそ!キリが無い!」
黒い靄は一部の隙も無く処刑台を囲っているように見えた。入る道も出る道も丁寧に潰されている。麻也は必死で黒い壁に取り付いてアリスの元へ向かおうとした。
『お前が悪い』
『世界がお前の居るところからおかしくなる』
『迷惑だなぁ』
『正しい人間に取って代わりたい』
『早く死ね』
『早く死ね』
『早く死ね』
「くそ!くそ!くそ!こんな……!こんな事があるか……!くそ!!」
「落ち着けよ」
靄に囲まれた中で天を仰ぐとチェシャ猫がついてきていた。
「こいつら全員殺してやりたい!」
「血気盛んなのは良いけどな、ここはあいつの夢の中なんだぜ」
「だから何だ!」
「この黒い靄も今は混ざりものだ。現実と虚構。真実の記憶と主自身の意志」
「は?意志?」
「中心に近づくほどアリス本人の意志も混ざり始めている。自分で自分を刺す事を目的とした気持ち悪い舞台装置だぜ」
「自分で自分を……」
不快そうな物言いとは対照的にチェシャ猫はやはり笑みを浮かべていた。確かに奇妙な状況だ。いや、ずっとおかしかった。夢の主を処刑するための世界。それに抗い蹂躙しているように見えて傷つき壊れていくアリス。
「でもそう仕向けたのは誰だ。どうしてあいつを守るものがどこにも居なかったんだ……」
騎士なんて虚構だ。夢の世界の妄想だ。現実には存在しないまやかしだ。目から勝手に溢れそうになるものが邪魔で仕方ない。傷つけた者の中に自分だって居た。責める資格も追い縋る資格も本当は無い。こんなにお前を傷つける敵に囲まれて、どうしてーーー。
麻也は群がる黒い靄を追い払った。黒い靄は邪険にされて轟々と揺れたが麻也に再度近づこうとはしなかった。
「俺は言葉が足りなかった。伝えられてない事ばかりだった。俺は馬鹿で不甲斐ない兄貴だ。でもお前だって馬鹿だ。悠斗。分かってなかったんだな、きっと」
麻也は地面を見つめていた。懇願するような気持ちでそこを睨んだ。
「固まったトランプ兵達を見た時から不思議だった。獲物に食らいつくまで休むことを知らない。敵を見つけたら、だっけ。悠斗ーーー敵っていうのはお前の敵に決まってるだろ。お前のためにあるから『騎士』だったんだ」
どこか遠くで耳鳴りのような音がした。鼓膜を揺らした残響がやがて消えていく。
間も無く大地が揺れた。ボコボコと土がうねった線を描いて盛り上がり、麻也の足の下から地面が割れた。
地中から鎌首を持ち上げたのは悠に幅3mあろうかという大蛇だった。その頭の上に押し上げられてヨタつきつつも麻也は踏み留まった。
周囲の黒い靄は弾き飛ばされて何体かは霧散して消えた。麻也は黒い靄の奥、トランプ兵達が異形を囲って槍を放っているのを視界に入れた。
「行け!!!」
大蛇は口を大きく開き尾を振り上げて威嚇音を発すると真っ直ぐ黒い靄の集団へ突っ込んだ。靄達はどよめいて右往左往しながら、あるものは押し潰され、あるものは尾に打たれ、またあるものは飲み込まれながら、その数を減らしていった。
大蛇の勢いに飛ばされるまま、麻也はトランプ兵の前に転がり出ていた。こちらに見向きもしないトランプ兵を拳で殴打すると持っていた槍を奪い連なるトランプ兵達を串刺しに突き刺した。
身動きの取れないトランプ兵を乗り越えて先へ進もうとすると流石に周囲のトランプ兵が壁になって止めに来る。
「いい加減にしろ!」
麻也が落ちていた槍でまた応戦しようとすると、大蛇の尾がトランプ兵を一気に薙ぎ倒した。開けた道の先には異形となったアリスが大きな瞳でこちらを捉えていた。その体のあちこちに槍が突き刺さり、得体の知れない液体が吹き出している。
「俺を……倒しにきたのか……」
「そう思うのか?」
麻也は槍を投げ捨てて異形に近づいていく。
「分からない……もう……分からない……」
「……そうだな」
麻也は歩みを止めず異形の前まで来ると、そのブヨブヨとした体を抱きしめた。
「わぁ!」
「お前、でかすぎるな。もう少し小さくならないか。あるいは俺が大きくなれないか」
「なに……何考えてるんだ……」
「分かってないのか。馬鹿だな。姿が変わったって俺にとってお前が悠斗である事は変わらないんだよ」
「俺……俺は……このままあんたを殺す事だって出来るんだぞ!」
「あは……良いぞ」
「……は?」
「良いよ……死んでやる」
大きな瞳が瞬いた。アリスは耳を疑った。目の前の男が何を言っているのか分からなかった。
「何の問題も無い。悠斗。お前が死ぬなら一緒に死んでやる」
「……!……」
麻也はこの世界に現れてから初めて心の底から温かな気持ちでニッコリと微笑んだ。
否、あの日。悠斗を置いて家を出た日以来こんな晴れやかな気持ちになった事は無い。
「嫌だ……違う……」
麻也は異形の体を掴んだ。異形はガクリ、と体勢を崩しドロドロと溶け始めた。醜悪な液状の泥が周囲に流れていき大蛇に潰されたトランプ兵の残骸を飲み込む。
異形から泥に塗れた何かが見えてきた。麻也は咄嗟にその汚れた腕を掴むと、泥から引っ張り上げてその体を受け止めた。
「はっ…………はぁ………」
力無く息をつく弟を麻也はしっかりと抱き締めて頭の泥を払ってやる。汚れた泥の下から見慣れた黒い髪が覗いている。
「悠斗……頼む。自分を責めないでくれ。お前を傷つけるだけの言葉に耳を貸さないでくれ。お前が罪人なら、お前を置いて1人にした挙句、全部忘れてた俺は何だ?ひどい重罪人だな。俺は、駄目な兄貴だったな」
悠斗は麻也の腕を押し退けて頭を横に振った。
「……違う……違う……ごめん……」
「ずっと、お前を迎えに行こうと思ってた。それだけ考えてたのに……」
「………………」
コップはもう満杯なのに水が注がれ続けるから溢れて止まらない。壊れそうになって勝手に溢れてくる。
ボヤける視界で悠斗を見ると、黒曜の瞳を溶けるように揺らがせてポタポタと滴が流れ落ちていた。
麻也は弟の涙を拭ってやりたいと反射的に手を伸ばしかけたが、泥で汚れている事に気がついて止めた。2人とも綺麗な所を探す方が難しかった。
悠斗が泣くのを見るのは、そういえば、自分が悠斗を庇って血を流した日以来かもしれない。いつだったか幼い頃、グスグスと泣きながら自分に縋ってくる顔を彷彿とさせる表情だった。
「兄、さん」
悠斗が口を開いて、麻也に向かって手が伸ばされる。
麻也がそれを受け止める時間も、言葉を返す時間も残さずに悠斗は黒い靄となって消えた。
「誰かを否定したい気持ちを認めたくなかった。それを認めたら俺はもっと悪いものになる気がした」
「誰だって他人を否定したくなる時はある。当たり前だ。そうじゃなかったらお前を否定する奴は何だ?お前だけが許されない事なんておかしいだろ。嫌な思いをして、それを嫌だと思うのは当然だ!悪い訳がない」
アリスは胸の上で必死に縋る黒いネズミの目元が瞬くたびに光る事に気がついた。幻想の太陽光を反射して輝くそれは、いつか見た木漏れ日を彷彿とさせた。
アリスはゆっくりと目を閉じて、次に目を開けた時、黒いネズミをそっと掌で押し退けて地面に落とした。上体を起こしながら土人形に向かって右手を伸ばす。
「分かったよ」
土人形も無表情のまま手を伸ばす。2人は手を握り合った。
「ありがとう。黒いネズミは優しい騎士だ」
土人形は形を崩し色を喪い粘土状になって崩れていった。土塊が地面に転がって、喪われた色はアリスに吸い込まれるように消えていく。そしてアリスは、弟は、見た事も無い暗い表情でニヤリと笑った。
「ありがとう。最後に良い夢が見れた。でも俺はもう、駄目なんだ」
そう吐き捨てるとアリスは「うっ」と呻いて背を丸めた。黒いネズミが「悠斗!?」と声を上げるのとほぼ同時にその背中がボコリと大きく膨らんだ。更に腕が、足が膨らんで人型が崩れていく。
暗い紫や緑の混ざったスライムを上から何層も積んだ山のような姿に大きな目が1つ開く。加えて小さな目が点々と開いていった。悪夢のようなその姿に絵本か何かで見た百々目鬼という妖怪が頭をよぎる。明らかに人では無い姿に変わったアリスに黒いネズミは動揺を隠せず固まった。
「悠斗……?何だこれは……どういう事だ……」
「ああ……気持ち悪い……気持ち悪い……」
アリスは複数の目のうち、1番大きな瞳から黒いネズミを覗き見た。ネズミの姿だからか表情から感情を窺い辛い。でも強張っている様子は感じ取れる。
ーーー俺はこうなんだ。これが俺なんだ。見てほしい。俺を否定してほしい。弟は死んだ方が良かったって思ってほしい。
ブヨブヨと拍動する体から腕のような物体が伸びて黒いネズミを掴んだ。驚く間も無く黒いネズミはそのまま宙に放り出される。訳も分からず高く宙を舞いながら、黒いネズミはここに来たばかりの時も似たような目に合った事を思い出した。
「うっ!……いて」
ゴロゴロと転がって叢に着地する。
顔を上げるとそこには黒い靄の柱が立っていた。幾つもの燃える人型のような形の黒い靄がどこかを取り囲んで揺れている。黒い靄達が描く円の内側にはトランプ兵達がアリスを囲っている。更にその内側には取り残されたアリスが居る。今の配置に黒いネズミはゾッと背筋を冷たいものが走るのを感じた。
「ゆう、と……」
呼ぼうとした声は離れた場所から響いた咆哮に掻き消された。
「処刑だ!」
「アリスだ!」
「処刑しろ!」
「処刑しろ!」
トランプ兵が謀ったようなタイミングで動き出した。槍を構えて大きな異形に立ち向かう姿は宛らドン・キホーテのようだった。だがアリスは中身の無い風車ではないし、攻撃者は1人ではない。トランプ兵は相手がハリボテで無かったとしても斬りかかるのを止めないだろう。
「悠斗!!!」
黒いネズミは黒い靄の集団を抜けて行こうとした。しかしそれは阻まれる。まるで実体があるかのように擦り抜けることもできず邪魔をされる。それだけではなく靄に触れると奇妙なボヤけた人の声が頭に響いてきた。
『羨ましい』
『綺麗な一軒家』
『金持ちだ』
黒い靄達から聞こえる声に思わず後退った。靄達は手を振り上げたり下ろしたりしてユラユラと揺れている。
「何だこいつら……」
靄がボソボソと囁くのは聞き取れないが、頭の中に声として反響する。
『悠斗くんのお母さんいつも迎えに来るね』
『羨ましい』
『良い家族だね』
『お兄さん優しい』
『不幸を感じた事無さそう』
『眞白くん可愛い』
『羨ましい』
誰かの声だ。これはきっといつか何処かで紡がれた言葉達だ。
『父親居ないんだって』
『お兄さんが家を出て行ったって』
『どうして黙ってるの』
『迷惑なんだよ』
『平気なのかな』
『変な奴』
断続して響いてくる無数の声が行手を阻む。黒い靄が黒いネズミの小さな体を退けて輪の外へ押し出す。それに抵抗して食らいつくと、また頭の中に声が響いてきた。
『先生』
トランプ兵の喧騒が遠くに聞こえる。義憤に囚われて止まる気の無い傀儡達が闇雲に槍を振り回す姿が脳裏を過ぎる。
そのイメージに割り込むように声が聞こえる。
『俺……もう分からないんです……どうして上手く出来ないのか……どうしたら良いと思いますか』
『根井くん…………。君の言ってる事はよく分からないけど、お母さんだって1人で子供の面倒をみるなんて大変だと思うよ。家事もやってくれて良いお母さんじゃない』
『はい』
『お母さん頑張ってるんでしょ?根井くんが支えてあげなくちゃ』
『そうですよね。そう思います』
『あとクラスの事はね。私じゃなくて担任の先生に相談してね』
『はい』
麻也の頭の中に2人の声が聞こえる。その片方は彼がよく知っていた筈の弟の声だ。
『すみませんでした』
自分が捨て置いた弟の声がした。
「うううううう……!!!」
小さな腕を振り上げてがむしゃらに黒い靄に向かって打ち付ける。行き場の無い衝動に体が爆発しそうだった。
「どけ!!邪魔するな!!俺の、弟だ!!俺はあいつの兄だ!!!失せないとぶっ飛ばすぞ!!!」
感情任せに振り切った拳が黒い靄に当たった。殴打された黒い靄は衝撃に後方へ吹っ飛んでいって霧散した。起きた事に強烈な違和感を覚えて自分の手を見るとそれは人間の拳だった。
「なんだ、これ……急に……」
「やっと人になったか」
「お前……!」
いつの間にか頭上に現れたチェシャ猫が片目を瞑ったしたり顔で宙に浮いていた。
「俺の相手をしている場合か?」
「場合じゃない!」
麻也は黒い人型を掻き分けようと腕で振り払って進んだ。靄達はライブ会場の観客のようにうねりを上げて邪魔をする。靄を押し退けて進む度に頭にまた声が反響する。
『悠斗』
『お前はお母さんが憎いの?』
『どうして、困らせるの?』
「くそ!キリが無い!」
黒い靄は一部の隙も無く処刑台を囲っているように見えた。入る道も出る道も丁寧に潰されている。麻也は必死で黒い壁に取り付いてアリスの元へ向かおうとした。
『お前が悪い』
『世界がお前の居るところからおかしくなる』
『迷惑だなぁ』
『正しい人間に取って代わりたい』
『早く死ね』
『早く死ね』
『早く死ね』
「くそ!くそ!くそ!こんな……!こんな事があるか……!くそ!!」
「落ち着けよ」
靄に囲まれた中で天を仰ぐとチェシャ猫がついてきていた。
「こいつら全員殺してやりたい!」
「血気盛んなのは良いけどな、ここはあいつの夢の中なんだぜ」
「だから何だ!」
「この黒い靄も今は混ざりものだ。現実と虚構。真実の記憶と主自身の意志」
「は?意志?」
「中心に近づくほどアリス本人の意志も混ざり始めている。自分で自分を刺す事を目的とした気持ち悪い舞台装置だぜ」
「自分で自分を……」
不快そうな物言いとは対照的にチェシャ猫はやはり笑みを浮かべていた。確かに奇妙な状況だ。いや、ずっとおかしかった。夢の主を処刑するための世界。それに抗い蹂躙しているように見えて傷つき壊れていくアリス。
「でもそう仕向けたのは誰だ。どうしてあいつを守るものがどこにも居なかったんだ……」
騎士なんて虚構だ。夢の世界の妄想だ。現実には存在しないまやかしだ。目から勝手に溢れそうになるものが邪魔で仕方ない。傷つけた者の中に自分だって居た。責める資格も追い縋る資格も本当は無い。こんなにお前を傷つける敵に囲まれて、どうしてーーー。
麻也は群がる黒い靄を追い払った。黒い靄は邪険にされて轟々と揺れたが麻也に再度近づこうとはしなかった。
「俺は言葉が足りなかった。伝えられてない事ばかりだった。俺は馬鹿で不甲斐ない兄貴だ。でもお前だって馬鹿だ。悠斗。分かってなかったんだな、きっと」
麻也は地面を見つめていた。懇願するような気持ちでそこを睨んだ。
「固まったトランプ兵達を見た時から不思議だった。獲物に食らいつくまで休むことを知らない。敵を見つけたら、だっけ。悠斗ーーー敵っていうのはお前の敵に決まってるだろ。お前のためにあるから『騎士』だったんだ」
どこか遠くで耳鳴りのような音がした。鼓膜を揺らした残響がやがて消えていく。
間も無く大地が揺れた。ボコボコと土がうねった線を描いて盛り上がり、麻也の足の下から地面が割れた。
地中から鎌首を持ち上げたのは悠に幅3mあろうかという大蛇だった。その頭の上に押し上げられてヨタつきつつも麻也は踏み留まった。
周囲の黒い靄は弾き飛ばされて何体かは霧散して消えた。麻也は黒い靄の奥、トランプ兵達が異形を囲って槍を放っているのを視界に入れた。
「行け!!!」
大蛇は口を大きく開き尾を振り上げて威嚇音を発すると真っ直ぐ黒い靄の集団へ突っ込んだ。靄達はどよめいて右往左往しながら、あるものは押し潰され、あるものは尾に打たれ、またあるものは飲み込まれながら、その数を減らしていった。
大蛇の勢いに飛ばされるまま、麻也はトランプ兵の前に転がり出ていた。こちらに見向きもしないトランプ兵を拳で殴打すると持っていた槍を奪い連なるトランプ兵達を串刺しに突き刺した。
身動きの取れないトランプ兵を乗り越えて先へ進もうとすると流石に周囲のトランプ兵が壁になって止めに来る。
「いい加減にしろ!」
麻也が落ちていた槍でまた応戦しようとすると、大蛇の尾がトランプ兵を一気に薙ぎ倒した。開けた道の先には異形となったアリスが大きな瞳でこちらを捉えていた。その体のあちこちに槍が突き刺さり、得体の知れない液体が吹き出している。
「俺を……倒しにきたのか……」
「そう思うのか?」
麻也は槍を投げ捨てて異形に近づいていく。
「分からない……もう……分からない……」
「……そうだな」
麻也は歩みを止めず異形の前まで来ると、そのブヨブヨとした体を抱きしめた。
「わぁ!」
「お前、でかすぎるな。もう少し小さくならないか。あるいは俺が大きくなれないか」
「なに……何考えてるんだ……」
「分かってないのか。馬鹿だな。姿が変わったって俺にとってお前が悠斗である事は変わらないんだよ」
「俺……俺は……このままあんたを殺す事だって出来るんだぞ!」
「あは……良いぞ」
「……は?」
「良いよ……死んでやる」
大きな瞳が瞬いた。アリスは耳を疑った。目の前の男が何を言っているのか分からなかった。
「何の問題も無い。悠斗。お前が死ぬなら一緒に死んでやる」
「……!……」
麻也はこの世界に現れてから初めて心の底から温かな気持ちでニッコリと微笑んだ。
否、あの日。悠斗を置いて家を出た日以来こんな晴れやかな気持ちになった事は無い。
「嫌だ……違う……」
麻也は異形の体を掴んだ。異形はガクリ、と体勢を崩しドロドロと溶け始めた。醜悪な液状の泥が周囲に流れていき大蛇に潰されたトランプ兵の残骸を飲み込む。
異形から泥に塗れた何かが見えてきた。麻也は咄嗟にその汚れた腕を掴むと、泥から引っ張り上げてその体を受け止めた。
「はっ…………はぁ………」
力無く息をつく弟を麻也はしっかりと抱き締めて頭の泥を払ってやる。汚れた泥の下から見慣れた黒い髪が覗いている。
「悠斗……頼む。自分を責めないでくれ。お前を傷つけるだけの言葉に耳を貸さないでくれ。お前が罪人なら、お前を置いて1人にした挙句、全部忘れてた俺は何だ?ひどい重罪人だな。俺は、駄目な兄貴だったな」
悠斗は麻也の腕を押し退けて頭を横に振った。
「……違う……違う……ごめん……」
「ずっと、お前を迎えに行こうと思ってた。それだけ考えてたのに……」
「………………」
コップはもう満杯なのに水が注がれ続けるから溢れて止まらない。壊れそうになって勝手に溢れてくる。
ボヤける視界で悠斗を見ると、黒曜の瞳を溶けるように揺らがせてポタポタと滴が流れ落ちていた。
麻也は弟の涙を拭ってやりたいと反射的に手を伸ばしかけたが、泥で汚れている事に気がついて止めた。2人とも綺麗な所を探す方が難しかった。
悠斗が泣くのを見るのは、そういえば、自分が悠斗を庇って血を流した日以来かもしれない。いつだったか幼い頃、グスグスと泣きながら自分に縋ってくる顔を彷彿とさせる表情だった。
「兄、さん」
悠斗が口を開いて、麻也に向かって手が伸ばされる。
麻也がそれを受け止める時間も、言葉を返す時間も残さずに悠斗は黒い靄となって消えた。
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独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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