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道場破り

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 やかましいほどの蝉が鳴いて汗が滝のように流れている。それらは親分が苦手とするもののはずだが、太一郎はそれどころではなかった。
「あああ……英次郎、やめよっ! お絹さまに申し訳がたたぬ……」
 どこをどうされたのか、吹っ飛んできた英次郎を避ける気にはなれず咄嗟に受け止めたが親分の巨体をもってしても勢いは殺せず、ふたりして羽目板に強かにぶつかってしまった。
「う……」
「ああっ、親分! 相済まぬ、どなたか水を……」
 英次郎が頼むより先に、奥から女性が走り出てきて手早く介抱する。
「さ、みなさま、お稽古を続けてくださいな」
「親分、親分……」
「大丈夫ですよ。ここはわたくしにお任せください。さ、立ち合いにお戻りください。剣の鬼がお待ちかねですよ」
「かたじけない」


 牛込にある甲良屋敷。その一角に天然理心流の道場は確かにあった。
「試衛館……ここか」
 そう呟いた英次郎は、瞳を輝かせて門をたたいた。出てきた稽古着姿の男は、英次郎と太一郎の身元を確認することもなく道場へと案内してくれた。
「親分……ずいぶん不用心な道場に思えるが……」
「わしのところへ盗人が入らぬのと同じじゃな、ここへ悪さしに入ろうと思う馬鹿はおるまい……」
「確かに」
 どれが薬売りでどれが正式な門弟でどれが師範なのかさっぱりわからない道場の中には、むさくるしい男、いや、剣術馬鹿がひしめいていた。
「あれはおそらく農民……こちらは職人じゃな」
「親分、いま手前で構えている御仁は神道無念流の道場でお見かけした」
「ほう、身分も流派も問わぬ、か」
 やくざであるのにどこか風流な太一郎など早々に逃げ出したくなる剣呑な雰囲気である。すでに、巨体を精一杯縮めて及び腰である。
 太平の世が長く続き、剣術など形式上のものになり果てていたはずであるが、この道場は昔ながらの「生きた剣術」が行われている。剣術馬鹿と言っても過言ではない英次郎が、すっかり喜んでしまったのも、当然だった。
「これは本物の道場だぞ、親分!」
「そうじゃな」
 だが、得体の知れない、些か時代遅れな連中の中に英次郎を解き放つわけにはいかない。
「わしが、本当に天然理心流の門弟が道場破りを行ったのか探るゆえ、暫し待て」
 道場破りをするような無法者がそのまま道場へしれっと通っているものだろうか、というのが太一郎の懸念だった。そのような者は破門にされていてもおかしくない。
「親分、その……少しだけ、だめか?」
「う……」
「少し、ほんの少し……頼む」
「彼らとやりたいのじゃな?」
「彼らはとても強い」
「ううむ、一刻だけじゃぞ!」
 小躍りして稽古を申し込む英次郎の後姿を見ながら道場の隅に端座した親分のもとへ、稽古着姿の若い男がお茶を運んできた。それにあわせて、親分はふところから油紙に包まれたものを引っ張り出した。
「……あ、もしやそれは! お絹かすていら、では?」
 盆を抱えたまま、色白の青年が目をきらきらさせていた。英次郎と同じ年頃であろう。月代も綺麗に剃られ、稽古着も手入れが行き届いている。どこぞの武家の子息であろうか。
「貴殿、これをご存知か」
「おれ、大好物!」
 太一郎は、う、と詰まった。英次郎とは異なる種類の、まっすぐな瞳がかすていらに向けられている。期待に満ちた子犬とでもいうべきか。
「……一欠けら……差し上げる」
 青年の掌にかすていらを乗せてやれば、青年は鼻を近づけて香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「うわぁ、ありがとう! 貧乏だから滅多に食べられないけど、ほんとに好きなんだ。甘くてふわっとして、幸せな心地になるよね」
「お絹さまに伝えておこう。きっと喜ばれる」
「お知り合いなの? いいなぁ……」
 実に幸せそうにかすていらを食べる青年剣士。太一郎は「お絹さま、世の中知らぬことがおおいものですな」とつぶやいていた。
 お絹かすていらを食した青年は、すっかり元気になり、英次郎と手合わせをした。
 年齢だけでなく、腕前も近かったのだろう。
 次第に二人は闘気が激しく高まり――師範がいったん試合を止めようとした瞬間、英次郎が吹っ飛んだのである。


「親分……お気がつかれましたか」
 親分が目をあけたとき、側には若い女性がいた。道場の下働きか、師範の妻か。
「む……?」
「羽目板に叩きつけられたのです。覚えておいでですか?」
「そうであったな。英次郎は無事か?」
「はい。元気に稽古をなさってますよ」
 無事ならばよかった、と、親分は安堵した。

 その後、英次郎の剣術熱は下がる気配がなく――渋る英次郎を引っ張って帰ることに親分は非常に苦労するのである。
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