25 / 52
曰く付き長屋につき
12
しおりを挟む
英次郎と太一郎が慌ただしく飛び出していったあと、清兵衛と男は説教部屋に戻って向き合って座っていた。
がらんとした部屋が、しんと静まり返る。
そこへ、ぐぅ、と、腹の音が響き、男が赤面して己の腹をおさえた。
「おや。腹が減りましたかな」
「はぁ、実はここ数日、まともに食うておらぬのです」
お待ちを、と清兵衛が素早く立ち上がったかと思うと、身を屈めて敏捷な動きで静かに小屋を出ていく。
この動きを親分や英次郎が見たならおやと思っただろうが、あいにく料理人にはそのような勘働きは備わってはいない。
程なくして戻ってきた清兵衛は、両手に食器や食べ物を抱えていた。
「なにせ、無骨な男の独り住まい、簡単な昼餉しか用意できませんがね……小料理屋で働いていたお人に食べさせるようなものじゃ、ござんせん。ようござんすね?」
切り傷が走った凄みのある顔で言われ、男はがくがくと頷く。もとより男は、食べ物にケチをつける気はない。食べられるだけで、ありがたい身の上なのだから。
「ま、そこへお座りなせぇ」
「へ、へぇ……」
清兵衛が、男の向かい側にきちんと座った。
そして、玄米の握り飯が4つ、二人の間にどんと置かれた。二人分だろうか。無骨な握り方はいかにも男が握ったものである。
次いで、お椀に味噌と葱と湯がまとめて放り込まれ、味噌汁らしきものが出来た。これも、二つ。
「つけものは、この裏にある畑でとれた野菜を適当にぬか漬けにした……」
「大家さんがぬか床の世話を?」
「……ああ。子どもの頃から好物でな。食べるのが待ち遠しくて母上が作っているのを横で見ていた」
それに醤油をかければ、昼餉の完成だ。
「卵や魚といったものはないが、腹は満たされよう」
いただきます、と、二人の声が揃う。
いつの間にか、小屋の外は日常生活を取り戻したらしい。慌ただしく昼を用意する気配が漂う。
が、いつもならそれを気に掛ける清兵衛だが、今日は気にする素振りもない。
「……ちと物を尋ねるが」
「は、はひ!」
「そなた名……は、いや、今は聞くまい」
「はぁ」
「それよりな……長屋の住民が、薄情だとは思わなかったか?」
男の手が止まった。
「大家が人質とられて、助けようとしない店子だ」
「へぇ、それは思いました。俺が言うのもどうかと思いますけど、日頃お世話になってる大家さんでしょう? 危機的状況なのに誰も助けようとしない。いくらなんでも、酷いや!」
そう、そうなのだ……と、清兵衛は眉間に皴を寄せた。
「男、ちと、耳を貸せ」
「は?」
グイっと耳朶を引っ張り、何事かを吹き込む。
「どうだ?」
「ええ……しかし……それを今、実行するのはどうかと……」
なんだと? と、清兵衛に睨まれて、男は必死で頭を回転させた。
「なら、いつがいいと思う」
「だ、あ、せ、せめて……佐々木の英次郎さんが戻ってきてから……。ほ、ほら、襲撃がどうの、長屋の安全がどうの、と言っていたような」
確かにな、と清兵衛が肩を落とす。
と、そこへ、戸を叩く小さな音がした。
「豆蔵かな?」
凄みを綺麗に消した清兵衛が、おっとりと扉を開ける。ざあっと風が吹き込み、桜の花びらが吹き込んできた。
それが過ぎた後、そこには、緊張した面持ちの少女が立っていた。
「おや浮羽ちゃん、どうしたんだい?」
「大家さん、あのね」
「はいはい」
「若芽ってどうやって調理したらいいのかな、ってち、ち、父上が……」
清兵衛が一瞬目を丸くした後、笊に山盛りになった若芽を抱えて困惑している少女の頭を撫でた。
「そうかい。ちょうどいい、このお兄さん、料理が得意だから。手伝ってくれるよ」
え、と男が目をまん丸にして戸口を見る。期待に満ちた少女の目が、きらきらと輝いている。
「わ、ほんとう? よろしくお願いいたします」
ぺこん、と浮羽が頭を下げ、つられて男も頭を下げてしまう。
「ほら、行った。ただし、用が済んだらすぐに戻ってくるように。いいな?」
「は、はいっ」
このとき住人たちは知っていた。この男がほどなく、新しい住人になることを。殺人の濡れ衣を着せられた男など、ここでは特に鼻つまみ者になることもない。
このとき住人たちは、気付きもしなかった。
大家さんが、ささやかな意趣返しを企んでいることを――。
【曰く付き長屋・了】
がらんとした部屋が、しんと静まり返る。
そこへ、ぐぅ、と、腹の音が響き、男が赤面して己の腹をおさえた。
「おや。腹が減りましたかな」
「はぁ、実はここ数日、まともに食うておらぬのです」
お待ちを、と清兵衛が素早く立ち上がったかと思うと、身を屈めて敏捷な動きで静かに小屋を出ていく。
この動きを親分や英次郎が見たならおやと思っただろうが、あいにく料理人にはそのような勘働きは備わってはいない。
程なくして戻ってきた清兵衛は、両手に食器や食べ物を抱えていた。
「なにせ、無骨な男の独り住まい、簡単な昼餉しか用意できませんがね……小料理屋で働いていたお人に食べさせるようなものじゃ、ござんせん。ようござんすね?」
切り傷が走った凄みのある顔で言われ、男はがくがくと頷く。もとより男は、食べ物にケチをつける気はない。食べられるだけで、ありがたい身の上なのだから。
「ま、そこへお座りなせぇ」
「へ、へぇ……」
清兵衛が、男の向かい側にきちんと座った。
そして、玄米の握り飯が4つ、二人の間にどんと置かれた。二人分だろうか。無骨な握り方はいかにも男が握ったものである。
次いで、お椀に味噌と葱と湯がまとめて放り込まれ、味噌汁らしきものが出来た。これも、二つ。
「つけものは、この裏にある畑でとれた野菜を適当にぬか漬けにした……」
「大家さんがぬか床の世話を?」
「……ああ。子どもの頃から好物でな。食べるのが待ち遠しくて母上が作っているのを横で見ていた」
それに醤油をかければ、昼餉の完成だ。
「卵や魚といったものはないが、腹は満たされよう」
いただきます、と、二人の声が揃う。
いつの間にか、小屋の外は日常生活を取り戻したらしい。慌ただしく昼を用意する気配が漂う。
が、いつもならそれを気に掛ける清兵衛だが、今日は気にする素振りもない。
「……ちと物を尋ねるが」
「は、はひ!」
「そなた名……は、いや、今は聞くまい」
「はぁ」
「それよりな……長屋の住民が、薄情だとは思わなかったか?」
男の手が止まった。
「大家が人質とられて、助けようとしない店子だ」
「へぇ、それは思いました。俺が言うのもどうかと思いますけど、日頃お世話になってる大家さんでしょう? 危機的状況なのに誰も助けようとしない。いくらなんでも、酷いや!」
そう、そうなのだ……と、清兵衛は眉間に皴を寄せた。
「男、ちと、耳を貸せ」
「は?」
グイっと耳朶を引っ張り、何事かを吹き込む。
「どうだ?」
「ええ……しかし……それを今、実行するのはどうかと……」
なんだと? と、清兵衛に睨まれて、男は必死で頭を回転させた。
「なら、いつがいいと思う」
「だ、あ、せ、せめて……佐々木の英次郎さんが戻ってきてから……。ほ、ほら、襲撃がどうの、長屋の安全がどうの、と言っていたような」
確かにな、と清兵衛が肩を落とす。
と、そこへ、戸を叩く小さな音がした。
「豆蔵かな?」
凄みを綺麗に消した清兵衛が、おっとりと扉を開ける。ざあっと風が吹き込み、桜の花びらが吹き込んできた。
それが過ぎた後、そこには、緊張した面持ちの少女が立っていた。
「おや浮羽ちゃん、どうしたんだい?」
「大家さん、あのね」
「はいはい」
「若芽ってどうやって調理したらいいのかな、ってち、ち、父上が……」
清兵衛が一瞬目を丸くした後、笊に山盛りになった若芽を抱えて困惑している少女の頭を撫でた。
「そうかい。ちょうどいい、このお兄さん、料理が得意だから。手伝ってくれるよ」
え、と男が目をまん丸にして戸口を見る。期待に満ちた少女の目が、きらきらと輝いている。
「わ、ほんとう? よろしくお願いいたします」
ぺこん、と浮羽が頭を下げ、つられて男も頭を下げてしまう。
「ほら、行った。ただし、用が済んだらすぐに戻ってくるように。いいな?」
「は、はいっ」
このとき住人たちは知っていた。この男がほどなく、新しい住人になることを。殺人の濡れ衣を着せられた男など、ここでは特に鼻つまみ者になることもない。
このとき住人たちは、気付きもしなかった。
大家さんが、ささやかな意趣返しを企んでいることを――。
【曰く付き長屋・了】
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
浅葱色の桜
初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。
近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。
「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。
時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。
小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。

陣借り狙撃やくざ無情譚(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)
牛馬走
歴史・時代
(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)猟師として生きている栄助。ありきたりな日常がいつまでも続くと思っていた。
だが、陣借り無宿というやくざ者たちの出入り――戦に、陣借りする一種の傭兵に従兄弟に誘われる。
その後、栄助は陣借り無宿のひとりとして従兄弟に付き従う。たどりついた宿場で陣借り無宿としての働き、その魔力に栄助は魅入られる。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

金蝶の武者
ポテ吉
歴史・時代
時は天正十八年。
関東に覇を唱えた小田原北条氏は、関白豊臣秀吉により滅亡した。
小田原征伐に参陣していない常陸国府中大掾氏は、領地没収の危機になった。
御家存続のため、選ばれたのは当主大掾清幹の従弟三村春虎である。
「おんつぁま。いくらなんでもそったらこと、むりだっぺよ」
春虎は嘆いた。
金の揚羽の前立ての武者の奮戦記 ──
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる