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番外編
第76話 美咲家の休日
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先日勝訴を勝ち取った訴訟の残務整理を終え、事務所の鍵をかけているとバッグの中のスマホが震えた。洋介からの着信。
洋介は昨日から猛と二泊三日の温泉旅行に行っているはず。急用がなければ電話はかかって来るはずのない状況での着信。涼子の表情が険しくなる。
「もしもし?……何かあった?」と、いろいろな状況を瞬時に脳内で想定し、その対応までもシミュレーションしながら涼子が電話に出る。
「あっ、いえ何も問題はありません。つい癖で進捗確認の電話を掛けてしまいました」と慌てた洋介の声が聞こえてきた。
涼子は安堵すると同時に呆れてもいた。
恋人と温泉旅行に出かけているのに進捗確認の電話をかけてくる色気のない洋介のことが心配になったりする。すぐそばにいるであろう猛に同情すら覚える。
「洋介、あんた『休暇』の意味は知ってるの? 仕事のことは忘れて充電することを『休暇』と呼ぶのよ。ワーカホリックもいい加減にしなさい」
「涼子さんにワーカホリックと言われたくないです」
「私はちゃんと休暇してるわよ。今日は今から実家に顔出してのんびりする予定よ」
「実家ですか、いいですね。ご両親によろしくお伝えください」
「伝えておくわ。もしのんびりする方法が分からないようならあんたの隣にいる男の真似をしていなさい。あいつは『のんびり』のプロだから」
「分かりました、そうします」
「じゃ、月曜日にね」
「はい、では月曜日に」
電話を切った涼子は「本当に世話の焼ける」と言いながらスマホをバッグに仕舞う。
「愛子さんの好きな舟和の芋ようかんを買って……そうだ、ヴィッキーにもお土産を買っていこう」
いつもの凛々しい表情から柔らかい微笑みへと変わる。
愛子は涼子の母、そしてヴィッキーは実家で飼っている黒猫の名前である。ヴィッキーのフルネームはクイーン・ヴィクトリア。子猫のころから女王のような振る舞いをしていたので「ヴィクトリア女王」の名前を畏れ多くもいただいてクイーン・ヴィクトリアと涼子の父、美咲誠一郎が名付けた。
芋ようかんとちゅ~るを購入し、実家へと向かう。
仕事に追われしばらく実家に顔を出すことができなかったが、涼子は比較的頻繁に実家に顔を出す。涼子の自宅から実家までは片道三十分程度と近いこともあるが、定期的に顔を出しておかないと涼子の自宅マンションに両親揃って押しかけて来られるからだ。
「ただいま戻りました~」
ドアを開けて玄関に入るなり大きな声で挨拶をする。
そう、この家は広いのである。ある程度大きな声を出さなければ奥のリビングにいる両親は気づかない。来客ならば外門のインターホンで呼び出すので家の中のどの部屋にいても気づくのだが、鍵を使って自分でドアを開けて入ってくる家族は必然的に玄関で大声を出さなければならなくなる。涼子が一人暮らしを始めたときに外門でインターホンを鳴らして実家に入ろうとしたら、お客様じゃないのだからインターホンは止めてとすごい剣幕で母に叱られた。涼子としてはインターホンを使って家人に知らせた方が合理的だと思うのだが、母に逆らう気はないので玄関で「ただいま戻りました」と叫ぶ方法を継続している。
涼子の声を聞いて飼い猫のヴィッキーが柱の陰から顔を覗かせ「ああ、お前か。よく来たな」と言いたげな一瞥をくれ、ふいっと踵を返してリビングへと戻っていった。
涼子が玄関で脱いだ靴を揃えていると、背後から愛子が駆け寄ってくる。
「おかえりなさい、涼子」
満面の笑みで涼子を迎える。
「お母様、ただいま戻りました」ともう一度、今度は普通の声量で挨拶をしてお土産を手渡す。
「お母様の好物の芋ようかんとヴィッキーのちゅ~るです」
「まあ嬉しい! 早速おもたせでいただきましょう。美味しいお茶を淹れるわね」と嬉しそうに紙袋を抱えてキッチンへと小走りで向かう。
リビングに入ると父、誠一郎がソファで新聞を読んでいた。
「ただいま戻りました、お父様」と涼子が帰宅の挨拶をすると、今まで険しい顔で新聞を読んでいた誠一郎の表情が途端に崩れた。
「おかえり~、涼子!」
今にも抱きつきそうな勢いで歓迎する。そんな誠一郎とは対象的に、少し距離を空けてソファの上で丸くなっていたヴィッキーは「何をそんなにはしゃいでおる」と言いたげにチラリと誠一郎を見るとまたすぐに目を閉じてしまった。
キッチンから緑茶の芳しい香りがリビングに流れ込んでくる。
「この香りは……愛子さんはご機嫌みたいだね」
「えっ? お茶の香りで愛子さんの機嫌まで分かるのですか?」
「40年も夫婦をやっていれば分かるよ。足音なんかもっと良く分かるよ」
涼子は父と話をするときは母のことを「愛子さん」と呼ぶ。
まだ言葉をそれほど喋れなかった幼い頃、父が母のことを「愛子さん、愛子さん」と呼んでいるのを真似して母を「あいこしゃん、あいこしゃん」と呼び始めた。言葉をはっきりと話せるようになっても、幼い涼子が「愛子さん」と呼んでいる姿があまりに愛らしく、誠一郎も愛子も「愛子さん」呼びを直すことはしなかった。小学生になって友人たちは自身の母親のことを名前で呼んではいないことを知った涼子が自分で「お母様」呼びに直したのだ。その時は誠一郎も愛子も一抹の寂しさを覚えたものだった。
「愛子さんがご機嫌なのは涼子に会えたからかな、それともあのお菓子のせいかな?」
「もちろんあのお菓子のせいですよ」
涼子に会えたことで愛子の機嫌がいいことは百も承知だがそのことを二人は口にはしない。
「仕事は順調か?」
誠一郎が尋ねる。
「はい、問題ありません」
涼子がそう答えると、誠一郎が少し寂しそうな顔をする。
「手のかからない娘を持つとパパはちょっと寂しいな」
「どうしてですか、お父様」
「パパとしては時々でもいいから頼ってほしいもんだよ」
「困ったときは頼りにさせていただきます。それからお父様、いい加減諦めてください」
「やっぱりダメ? パパとは呼んでくれない?」
「呼びません!」
この会話は二人が会うといつも行われる儀式のようなものだ。そしてその儀式を微笑みながら見守るのが愛子の楽しみでもある。
「誠一郎さん、まだ諦めてないのですか? それに涼子、一度くらいパパと呼んであげればいいじゃないですか。二人とも本当に頑固ですね。似たもの親子」と芋ようかんとお茶を運んできた愛子が微笑みながら言う。
****
「涼子、夕飯食べていくでしょ?」
芋ようかんを食べ終わった皿と茶碗を片付けながら愛子が涼子に尋ねる。
「はい、是非……お手伝いしましょうか?」
「いいえ、結構よ。これは私の楽しみなの、独り占めしたいの」
愛子は楽しそうにキッチンへと向かい、鼻歌を歌いながら冷蔵庫から食材を取り出したり鍋を準備したりする音が聞こえてくる。
「愛子さんは当分キッチンから出て来ないよ。夕飯だけじゃなくお前に持たせる惣菜もたくさん作るつもりだろうからね」
「ありがたいです」
****
「涼子、ちょっと庭に出ないか?」
「はい」
二人が立ち上がると、誠一郎の隣で丸くなっていたヴィッキーが涼子を見て「にゃあ」と鳴いた。まるで「私も行くわよ」と言いたげに。
庭に出る前に涼子はキッチンに行き、コーヒーが注がれたマグカップを二つ手にして戻ってきた。その一つを誠一郎に手渡すと、二人はマグカップを手に庭へと進み出た。
きれいに整えられた芝生が目の前に広がり、その片隅には白い東屋が静かに佇んでいる。
東屋のベンチに誠一郎と涼子が並んで座ると、少し距離をとってヴィッキーが涼子の隣に座る。
「真木くんは元気かい?」
「はい、最近恋人ができて私生活も充実しているみたいですよ」
「ほう、それは楽しそうだね」と誠一郎は自分のことのように嬉しそうに微笑む。
「ええ、私も見ていてとても楽しいです」
「涼子はどうなんだ?」
「恋人ですか?」
「ああ、ときめく相手はいないのか?」
「今はいませんね。お父様はいくつになっても恋の話がお好きですね」
「そうだね。僕はいつも愛子さんに恋をしているから他の人たちのときめきも知りたいんだよ。僕が今でも愛子さんに恋をしているのは異常かな?」
「異常かどうかは分かりませんが、私は少し羨ましいです」
「涼子に再婚しろと言う気はないよ。ただ、パパは涼子が幸せであって欲しいといつも願っているよ」
「幸せですよ」
「そうか、それを聞いて安心したよ」
誠一郎がそう言うと、ヴィッキーがゆっくりと涼子の膝の上に登り、丸くなって寝てしまった。
涼子の手は自然とヴィッキーの体を優しく撫でる。普段はあまり触らせてくれないヴィッキーだが、膝の上で眠っているときだけは何をしても怒らない。きっとヴィッキーも「そうか、幸せならばよい」と言いたかったのだろう。
誠一郎は昔から涼子の進路や選択に口を出したことがない。心配で心配でたまらないのだが、ぐっと我慢して本人の意志を尊重して見守ってきた。それというのも誠一郎の父、すなわち涼子の祖父は何かと誠一郎の人生に干渉してきたからだ。干渉されるたびに自分の意志を貫き、実現するために誠一郎は祖父と戦ってきた。我が子にはそんな苦労は絶対させないと涼子が生まれる前から心に誓っていた。
「真木くんの恋人はもしかして海藤くんかな?」
「さすがですね。どうして分かりました?」
「以前、真木くんと海藤くんをここに連れてきたことがあっただろ」
「はい。確か庭の桜が満開になったので皆で花見をしましたね」
「そう、花見! あのときの海藤くんを観察していれば彼が真木くんに特別な感情を抱いているのは一目瞭然だったからね。そうか、彼の想いは成就したんだね。よかった、よかった。また真木くんと海藤くんを連れておいで」
誠一郎はまるでいたずらっ子が次のいたずらをワクワクしながら企んでいるかのように笑った。
****
夕飯の食卓には涼子の好物がずらりと並べられていた。愛子の料理の腕はプロ並みだが、その才能は涼子には受け継がれなかった。愛子の唯一の子育ての信念は「好きなことを見つけなさい、得意なことを伸ばしなさい」であり、料理が好きでも得意でもない涼子に無理に料理を教えることを愛子はしなかった。
ワインを空け、料理だけでなく愛子手作りのデザートまでも堪能した宝物のような時間。
嫌いなことを無理強いせず、人に迷惑を掛けない範囲でならやりたいことを自由にやらせてくれた両親の愛情と信頼に涼子は改めて感謝した。
帰り際、保存容器に詰められた山ほどの惣菜と、先程食べたデザートとは別のケーキもきれいに包まれて大きな紙袋の中に収まっている。
「帰ったらすぐに冷蔵庫に入れるのよ。すぐに食べないお惣菜は冷凍庫に入れておけばしばらくもつからね」
「分かりました、お母様。ありがとうございます」
涼子は心からの礼の言葉を伝えた。
呼んでおいたタクシーに乗り込むと、涼子は両親に深々と頭を下げた。そんな涼子を両親はにこやかに見送る。
ドアが締まり、車が動き出す。
しばらくして涼子が振り返ると、誠一郎と愛子は涼子が乗ったタクシーをまだ見送っていた。やがて誠一郎が愛子の肩を抱き、愛子の額に軽くキスをするのが見えた。
「相変わらず仲のよいことで」
タクシーの中で涼子はとても優しげに微笑んでいた。
--End--
洋介は昨日から猛と二泊三日の温泉旅行に行っているはず。急用がなければ電話はかかって来るはずのない状況での着信。涼子の表情が険しくなる。
「もしもし?……何かあった?」と、いろいろな状況を瞬時に脳内で想定し、その対応までもシミュレーションしながら涼子が電話に出る。
「あっ、いえ何も問題はありません。つい癖で進捗確認の電話を掛けてしまいました」と慌てた洋介の声が聞こえてきた。
涼子は安堵すると同時に呆れてもいた。
恋人と温泉旅行に出かけているのに進捗確認の電話をかけてくる色気のない洋介のことが心配になったりする。すぐそばにいるであろう猛に同情すら覚える。
「洋介、あんた『休暇』の意味は知ってるの? 仕事のことは忘れて充電することを『休暇』と呼ぶのよ。ワーカホリックもいい加減にしなさい」
「涼子さんにワーカホリックと言われたくないです」
「私はちゃんと休暇してるわよ。今日は今から実家に顔出してのんびりする予定よ」
「実家ですか、いいですね。ご両親によろしくお伝えください」
「伝えておくわ。もしのんびりする方法が分からないようならあんたの隣にいる男の真似をしていなさい。あいつは『のんびり』のプロだから」
「分かりました、そうします」
「じゃ、月曜日にね」
「はい、では月曜日に」
電話を切った涼子は「本当に世話の焼ける」と言いながらスマホをバッグに仕舞う。
「愛子さんの好きな舟和の芋ようかんを買って……そうだ、ヴィッキーにもお土産を買っていこう」
いつもの凛々しい表情から柔らかい微笑みへと変わる。
愛子は涼子の母、そしてヴィッキーは実家で飼っている黒猫の名前である。ヴィッキーのフルネームはクイーン・ヴィクトリア。子猫のころから女王のような振る舞いをしていたので「ヴィクトリア女王」の名前を畏れ多くもいただいてクイーン・ヴィクトリアと涼子の父、美咲誠一郎が名付けた。
芋ようかんとちゅ~るを購入し、実家へと向かう。
仕事に追われしばらく実家に顔を出すことができなかったが、涼子は比較的頻繁に実家に顔を出す。涼子の自宅から実家までは片道三十分程度と近いこともあるが、定期的に顔を出しておかないと涼子の自宅マンションに両親揃って押しかけて来られるからだ。
「ただいま戻りました~」
ドアを開けて玄関に入るなり大きな声で挨拶をする。
そう、この家は広いのである。ある程度大きな声を出さなければ奥のリビングにいる両親は気づかない。来客ならば外門のインターホンで呼び出すので家の中のどの部屋にいても気づくのだが、鍵を使って自分でドアを開けて入ってくる家族は必然的に玄関で大声を出さなければならなくなる。涼子が一人暮らしを始めたときに外門でインターホンを鳴らして実家に入ろうとしたら、お客様じゃないのだからインターホンは止めてとすごい剣幕で母に叱られた。涼子としてはインターホンを使って家人に知らせた方が合理的だと思うのだが、母に逆らう気はないので玄関で「ただいま戻りました」と叫ぶ方法を継続している。
涼子の声を聞いて飼い猫のヴィッキーが柱の陰から顔を覗かせ「ああ、お前か。よく来たな」と言いたげな一瞥をくれ、ふいっと踵を返してリビングへと戻っていった。
涼子が玄関で脱いだ靴を揃えていると、背後から愛子が駆け寄ってくる。
「おかえりなさい、涼子」
満面の笑みで涼子を迎える。
「お母様、ただいま戻りました」ともう一度、今度は普通の声量で挨拶をしてお土産を手渡す。
「お母様の好物の芋ようかんとヴィッキーのちゅ~るです」
「まあ嬉しい! 早速おもたせでいただきましょう。美味しいお茶を淹れるわね」と嬉しそうに紙袋を抱えてキッチンへと小走りで向かう。
リビングに入ると父、誠一郎がソファで新聞を読んでいた。
「ただいま戻りました、お父様」と涼子が帰宅の挨拶をすると、今まで険しい顔で新聞を読んでいた誠一郎の表情が途端に崩れた。
「おかえり~、涼子!」
今にも抱きつきそうな勢いで歓迎する。そんな誠一郎とは対象的に、少し距離を空けてソファの上で丸くなっていたヴィッキーは「何をそんなにはしゃいでおる」と言いたげにチラリと誠一郎を見るとまたすぐに目を閉じてしまった。
キッチンから緑茶の芳しい香りがリビングに流れ込んでくる。
「この香りは……愛子さんはご機嫌みたいだね」
「えっ? お茶の香りで愛子さんの機嫌まで分かるのですか?」
「40年も夫婦をやっていれば分かるよ。足音なんかもっと良く分かるよ」
涼子は父と話をするときは母のことを「愛子さん」と呼ぶ。
まだ言葉をそれほど喋れなかった幼い頃、父が母のことを「愛子さん、愛子さん」と呼んでいるのを真似して母を「あいこしゃん、あいこしゃん」と呼び始めた。言葉をはっきりと話せるようになっても、幼い涼子が「愛子さん」と呼んでいる姿があまりに愛らしく、誠一郎も愛子も「愛子さん」呼びを直すことはしなかった。小学生になって友人たちは自身の母親のことを名前で呼んではいないことを知った涼子が自分で「お母様」呼びに直したのだ。その時は誠一郎も愛子も一抹の寂しさを覚えたものだった。
「愛子さんがご機嫌なのは涼子に会えたからかな、それともあのお菓子のせいかな?」
「もちろんあのお菓子のせいですよ」
涼子に会えたことで愛子の機嫌がいいことは百も承知だがそのことを二人は口にはしない。
「仕事は順調か?」
誠一郎が尋ねる。
「はい、問題ありません」
涼子がそう答えると、誠一郎が少し寂しそうな顔をする。
「手のかからない娘を持つとパパはちょっと寂しいな」
「どうしてですか、お父様」
「パパとしては時々でもいいから頼ってほしいもんだよ」
「困ったときは頼りにさせていただきます。それからお父様、いい加減諦めてください」
「やっぱりダメ? パパとは呼んでくれない?」
「呼びません!」
この会話は二人が会うといつも行われる儀式のようなものだ。そしてその儀式を微笑みながら見守るのが愛子の楽しみでもある。
「誠一郎さん、まだ諦めてないのですか? それに涼子、一度くらいパパと呼んであげればいいじゃないですか。二人とも本当に頑固ですね。似たもの親子」と芋ようかんとお茶を運んできた愛子が微笑みながら言う。
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「涼子、夕飯食べていくでしょ?」
芋ようかんを食べ終わった皿と茶碗を片付けながら愛子が涼子に尋ねる。
「はい、是非……お手伝いしましょうか?」
「いいえ、結構よ。これは私の楽しみなの、独り占めしたいの」
愛子は楽しそうにキッチンへと向かい、鼻歌を歌いながら冷蔵庫から食材を取り出したり鍋を準備したりする音が聞こえてくる。
「愛子さんは当分キッチンから出て来ないよ。夕飯だけじゃなくお前に持たせる惣菜もたくさん作るつもりだろうからね」
「ありがたいです」
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「涼子、ちょっと庭に出ないか?」
「はい」
二人が立ち上がると、誠一郎の隣で丸くなっていたヴィッキーが涼子を見て「にゃあ」と鳴いた。まるで「私も行くわよ」と言いたげに。
庭に出る前に涼子はキッチンに行き、コーヒーが注がれたマグカップを二つ手にして戻ってきた。その一つを誠一郎に手渡すと、二人はマグカップを手に庭へと進み出た。
きれいに整えられた芝生が目の前に広がり、その片隅には白い東屋が静かに佇んでいる。
東屋のベンチに誠一郎と涼子が並んで座ると、少し距離をとってヴィッキーが涼子の隣に座る。
「真木くんは元気かい?」
「はい、最近恋人ができて私生活も充実しているみたいですよ」
「ほう、それは楽しそうだね」と誠一郎は自分のことのように嬉しそうに微笑む。
「ええ、私も見ていてとても楽しいです」
「涼子はどうなんだ?」
「恋人ですか?」
「ああ、ときめく相手はいないのか?」
「今はいませんね。お父様はいくつになっても恋の話がお好きですね」
「そうだね。僕はいつも愛子さんに恋をしているから他の人たちのときめきも知りたいんだよ。僕が今でも愛子さんに恋をしているのは異常かな?」
「異常かどうかは分かりませんが、私は少し羨ましいです」
「涼子に再婚しろと言う気はないよ。ただ、パパは涼子が幸せであって欲しいといつも願っているよ」
「幸せですよ」
「そうか、それを聞いて安心したよ」
誠一郎がそう言うと、ヴィッキーがゆっくりと涼子の膝の上に登り、丸くなって寝てしまった。
涼子の手は自然とヴィッキーの体を優しく撫でる。普段はあまり触らせてくれないヴィッキーだが、膝の上で眠っているときだけは何をしても怒らない。きっとヴィッキーも「そうか、幸せならばよい」と言いたかったのだろう。
誠一郎は昔から涼子の進路や選択に口を出したことがない。心配で心配でたまらないのだが、ぐっと我慢して本人の意志を尊重して見守ってきた。それというのも誠一郎の父、すなわち涼子の祖父は何かと誠一郎の人生に干渉してきたからだ。干渉されるたびに自分の意志を貫き、実現するために誠一郎は祖父と戦ってきた。我が子にはそんな苦労は絶対させないと涼子が生まれる前から心に誓っていた。
「真木くんの恋人はもしかして海藤くんかな?」
「さすがですね。どうして分かりました?」
「以前、真木くんと海藤くんをここに連れてきたことがあっただろ」
「はい。確か庭の桜が満開になったので皆で花見をしましたね」
「そう、花見! あのときの海藤くんを観察していれば彼が真木くんに特別な感情を抱いているのは一目瞭然だったからね。そうか、彼の想いは成就したんだね。よかった、よかった。また真木くんと海藤くんを連れておいで」
誠一郎はまるでいたずらっ子が次のいたずらをワクワクしながら企んでいるかのように笑った。
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夕飯の食卓には涼子の好物がずらりと並べられていた。愛子の料理の腕はプロ並みだが、その才能は涼子には受け継がれなかった。愛子の唯一の子育ての信念は「好きなことを見つけなさい、得意なことを伸ばしなさい」であり、料理が好きでも得意でもない涼子に無理に料理を教えることを愛子はしなかった。
ワインを空け、料理だけでなく愛子手作りのデザートまでも堪能した宝物のような時間。
嫌いなことを無理強いせず、人に迷惑を掛けない範囲でならやりたいことを自由にやらせてくれた両親の愛情と信頼に涼子は改めて感謝した。
帰り際、保存容器に詰められた山ほどの惣菜と、先程食べたデザートとは別のケーキもきれいに包まれて大きな紙袋の中に収まっている。
「帰ったらすぐに冷蔵庫に入れるのよ。すぐに食べないお惣菜は冷凍庫に入れておけばしばらくもつからね」
「分かりました、お母様。ありがとうございます」
涼子は心からの礼の言葉を伝えた。
呼んでおいたタクシーに乗り込むと、涼子は両親に深々と頭を下げた。そんな涼子を両親はにこやかに見送る。
ドアが締まり、車が動き出す。
しばらくして涼子が振り返ると、誠一郎と愛子は涼子が乗ったタクシーをまだ見送っていた。やがて誠一郎が愛子の肩を抱き、愛子の額に軽くキスをするのが見えた。
「相変わらず仲のよいことで」
タクシーの中で涼子はとても優しげに微笑んでいた。
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桐山アリヲ 様
読んでいただけるだけでも嬉しいことなのに感想までいただけて飛び上がって喜んでいます。
私の不手際で感想をいただいていることに気づかず、返信をお送りするのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。このコメントを入力している今の私の心臓はかなりバクバクしていて入力ミスをしてばかりです。自分自身に「落ち着け、落ち着け」と言い聞かせています。
猛と洋介を気に入っていただけて嬉しいです。自分の作品の登場人物たちは自分の子供も同然なので、褒めていただいて親バカ全開で喜んでいます。
猛と洋介のお話を最後まで楽しんでいたでけると嬉しいです。
感想をありがとうございました!