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第六章

第64話 誘い

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 ミゲルが日本を出国したらしいと報告を受けてから一週間、まずは猛が退院した。
 医者が驚くほどの回復力であっという間に退院許可をもぎ取った。
 猛に遅れること五日、洋介も退院した。
 退院してからの二人は入院していた間の遅れを取り戻すためにがむしゃら働き、仕事を片付けている。
 だが二人の頭の片隅には常にある一つのことが存在を主張していた。
 それは肉体的に繋がりたいという欲求。
 どちらもまだ傷が完治していない状態で、医者からは激しい運動は控えるようにと言われている。
 この医者の忠告もあって二人ともベッドへの誘いを遠慮している。それは自分の身体の心配ではなく、相手の身体を気遣ってのことだった。

 もし怪我をしていなかったらとっくにベッドを共にしていたであろうが、洋介には猛の怪我以外にも気がかりがあった。それはミゲルが自分の身体に残した傷痕だ。
 傷自体は何の問題もなく順調に治ってきている。ただ、痕は深く残った。時間とともに薄くはなるだろうが、完全に消えることはない。特に左下腹部の痕を猛がどう受け止めるかは今後の二人の関係に多少なりとも影響する。
 ミゲルの左下腹部には鮮やかな星型の痣があると聞いた。ミゲルは自分の痣と同じ場所に同じ星型の傷痕を洋介の身体に刻んだ。猛が洋介を抱くときに自分の存在を主張するために。

     ****

「で、猛にお願いしたいのは目撃者探しなの」
 美咲・真木法律事務所には、涼子、洋介、猛の三名が一堂に会していた。
 現在涼子が担当している案件の情報収集が今回の猛の仕事だ。
 洋介がミゲルに拉致され傷つけられた原因の一端が猛にあると分かって以来、涼子は罰として猛をこき使っている。猛も自分の責任を自覚しているので抗うことはせず敢えて涼子の横暴な要求を受け入れている。涼子の怒りがおさまるまでは大人しく従うしか道はない。
 洋介も涼子の振る舞いを黙認しているのだから猛に選択の余地はない。この罰はある種の救済でもある。猛が自責の念で押しつぶされる前に罪の意識を「こき使われる」ことで償い、発散させる救済措置だ。
 傍から見ると涼子が猛をいじめているようにも見えるが、実際には涼子は猛に救いの手を差し伸べている。

「分かった、早速現場で聞き込みをしてみるよ。情報が手に入ったら連絡する」
 依頼の内容を一通り聞き終えると、猛は現場に向かうためソファから立ち上がりドアへと歩きだす。その歩く姿は雄々しく、傷を庇うような様子もなくいつもの猛だ。

「猛」

 ドアのノブに手を掛けた猛を洋介が呼び止めた。
 洋介の方に振り返った猛が「なんだ?」と答える。
「今日の夜空いてるか?」
「ああ」
「じゃあ、夜九時ごろ俺の家へ来てくれるか?」
「分かった、九時に行く」
 そう短く答えた猛はドアを開け、外へと出ていった。
 何のために洋介が自分を家に呼んだのか、その理由を猛はちゃんと理解している。

「やっと決心したのね、あんたたち」
 キーボードの上で軽やかに動く指を止めることなく涼子が洋介に言う。
「ええ、これ以上待つ必要はないと判断しました」
 洋介も書類に書き込む手を止めずに答える。
「しかし、涼子さんはすべてお見通しなんですね。今日なんで俺が猛を家に呼んだかも分かってるんでしょ」
「まあね。そこでおせっかいな私から一つアドバイスいいかしら?」
「ええ、是非お願いします」
「頭で考えないで、自分の身体の反応に従いなさい。猛を信じて」
「分かりました。覚えておきます」

 それから涼子と洋介は黙々と仕事をこなし、片付けなければならない作業をすべて終えた。
 時刻は午後七時半。猛との約束の時間まで一時間半。少しばかり緊張してきた洋介はチラリと涼子の方を見る。涼子は寛ぎながらコーヒーを飲んでいる。
「涼子さん、こちらの作業はすべて終わりました。他に何かありますか?」
「私の方もすべて終わったわ。今週はこれで営業終了! 週末はゆっくりできるわよ」

 神妙な面持ちの洋介の口から出てきた言葉は、「涼子さん、ありがとう」だった。
「それは今週末をオフにしたことに対してのありがとう?」
「いいえ。命の恩人に対しての感謝の言葉です。一生足を向けて寝られないと思っています」
「洋介だって私がピンチのときは助けてくれるでしょ? 使い古された言葉だけど『困ったときはお互い様』ってことよ。それとね、足を向けて寝てもいいからその感謝の気持ちは仕事で返してね」とウインクを投げて寄越した。
 洋介は「そっちの方が怖いですね」と返したが、これは涼子流の気遣いだと分かっている。借りを作ったとか恩人だとか思う必要はないと。だが、仕事で返してというのは紛れもない涼子の本音であることも分かっている。
「しっかり仕事で返すよう努力します」
「お願いね」
 二人の間には家族のような絆が確かにある。今回の事件はその絆を再確認したにすぎない。

「私はそろそろ帰るわ。戸締まりお願いしてもいいかしら?」
 帰り支度を整えながら涼子が尋ねる。
「もちろん」と洋介。
「じゃあ、月曜日に。猛に無茶するなと伝えて」
「はい、伝えておきます」と洋介は苦笑しながら答える。
 涼子は颯爽と事務所を出て、賑わう夜の街へと消えていった。

     ****

 自宅へと戻った洋介は同性とのセックスという初めての体験を前に落ち着かない。
 気持ちを切り替えるためにシャワーを浴びることにしたが、どこか上の空でただただ湯を浴び続けていた。
 気がつけば猛が来る時間、九時が迫っている。
 浴室を出たちょうどその時、インターホンの呼び出し音が鳴った。

 バスローブを羽織り、「はい」と洋介が答えると、インターホンの小さな画面に映っている猛が「俺」と一言だけ言う。猛も少なからず緊張しているのだろう。表情はいつもより硬い。
 洋介の住んでいる低層マンションは閑静な住宅街の中にあり、オートロックが設置されている。
 洋介はエントランスのドアを解錠するボタン押し「どうぞ」と猛を中へと促す。

 ―――ピンポーン

 今度は玄関のドアベルが鳴った。もちろん猛だ。
 髪を乾かしていたバスタオルを首に掛け、バスローブ姿のまま洋介がドアを開ける。
 ドアが開き洋介の姿を見た猛は思わず息を呑む。これからこの男を抱けるという先入観からか今の洋介の姿はあまりに美しく、艶めき、誘われる。

「どうした? 中に入れよ」
 猛の戸惑いなど意に介さない洋介は、入り口で立ち尽くしている猛を訝《いぶか》しげに見ている。
 猛は「ああ」と短く答え、中へと入る。
 何度となく訪れたことのある洋介の部屋だが、今日はすべてが違って見える。

「こんな格好で悪いな。シャワー浴びてたんだ」とバスタオルで髪を乾かしながらキッチンへと向かう洋介の後ろ姿を猛は目で追わずにはいられなかった。
「ビールでいいか?」と洋介は猛に訊いてはいるが返事は期待してはいない。
 洋介はすでに缶ビール二本を冷蔵庫から取り出しリビングへと戻ってきた。
「ほら」
 ビールの一本を猛に手渡す。
「サンキュ」

 ―――プシュ

 二人同時にプルトップを開け、ゴクゴクと半缶分を一気に流し込む。
「うまい」
「うまいな」
 これも二人同時だった。

 猛は手にしていた缶をテーブルの上に置き、ゆっくりと洋介に近づく。
 まるで野生動物に近づくかのように、怯えさせないように、怖がらせないように、危害を加える者ではないと意思表示をしながら洋介の頬に手を伸ばし、顔を近づけ、キスをする。
 唇を離すと今度は洋介を自分の腕の中にしっかりと抱きしめる。

「おい、猛。力を緩めてくれ」
「嫌だね。今夜お前を抱くぞ、いいな。お前もそのつもりで俺をここに呼んだんだろ?」
「それはそうだが……」
「何年待ったと思ってるんだ。多分出会ったあの瞬間から俺はお前が欲しかったんだと思う。もう待つのは終わりだ」
「言っとくが、俺は男とのセックスは初めてだ。勝手が分からん。多少ぎこちなくても萎えるなよ」
 覚悟を決めた洋介は本当に潔い。こんな台詞を照れることなく言えるのだから。
「ああ、それから涼子さんから伝言だ。『無茶はするな』だそうだ」

(涼子のやつ、俺が我を忘れて洋介を抱き潰すとでも思ってるのか? いや、まあ、その可能性がないわけではないが……くそっ、全部見透かされてるみたいで腹が立つ)

 ニヤけたかと思うと怒ったり悔しがったりと一人百面相をしている猛の様子を見ていた洋介が「何だお前、気味悪いな。悪いものでも食ったか?」と本気で心配する。

「何でもないよ。ちょっと涼子の伝言に腹が立っただけだ」

 そう言うと猛は真剣な表情に戻り、再び洋介に熱いキスを浴びせた。

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