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1.物語のはじまり
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まるで薄汚れた獣のよう。
まだ幼さを残すジゼルの目の前。同じく稚い彼の第一印象は、あまりにも酷いものだった。
かろうじて金髪と呼べなくもない、くすんだ水気のない髪。破れのある汚れた衣服。
細い体にはたくさんの細かな傷があり、痛々しく血が滲んでいる。
だが長い前髪の隙間から覗く双眸は、鮮血を思わせるほどの見事な緋色をしていた。
のどかに響く高い鳥の声。新緑の枝から溢れる柔らかな陽光。
濃い緑と、豊かな土の匂いと、肺を満たす澄んだ冷たい空気。
隣接する二つの国のちょうど境にあるこの森は、とても静かで穏やかな場所だ。
互いの見張りはこの境界地よりもっと自国に近い場所にいる。それは不要な争いを避けるよう、なるべく顔を合わさないためでもあった。
魔族の国イブリスの王女であるジゼルは秘密の抜け道を使い、ペットの小さな魔獣を追いかけここまでやってきた。
基本的にこの森には両国とも人が滅多に訪れない。だからまさか、隣国の者と鉢合わせするなんて思ってもいなかった。
驚き、目を見張る少年の有り様に顔を顰めたジゼルだったが、彼の手の中に白いモフモフした毛玉が収まっていることに気がついた。
「ルゥ!」
思わず名を呼ぶと、毛玉の頭上にある二つの長い耳が上を向く。
くるんと向きを変えたルゥはピンクの目を一度きゅっと閉じ、ぴょんと跳ねながらジゼルの元へ戻ってきた。
「ルゥ、勝手に城を飛び出してはダメよ」
しゃがみ込み、めっ! と眉を釣り上げてみせても、ルゥはぴょんとジゼルの肩に乗り、ふわふわの毛を頬に寄せてくる。
この子と出会ったのは去年の寒い時期。城の裏手に迷い込んだ、まだ幼い魔獣だ。
周りを見渡しても仲間の気配はなかったので、気に入ったジゼルはその場で主従の契約を結び、城へと連れ帰った。それからは毎日一緒に過ごしている。
魔獣といえど全てが危険なものではない。ルゥにはこれと言って、驚異的な能力はないようだ。
擦り寄る無邪気な様子は愛らしく、つい頬が緩む。
しかしすぐさま現状を思い出し、ジゼルは慌てて顔を引き締めた。
それにしても人懐っこく好奇心旺盛ではあるけど、ルゥは賢い子だ。
まさか他国の人間にまで近寄るとは思わなかった。
じっと少年に視線を移せば、彼は呆然とジゼルを見つめている。
彼の瞳は鮮やかな緋色。
赤は魔の象徴で、濃ければ濃いほどイブリスでは持てはやされるのだ。
十歳を迎えたばかりのジゼルは、この国を統べる魔王の娘である。
つりあがり気味の大きな瞳も、艶やかな長い髪も、その立場に相応しく深紅に染め上がっている。
(人間にも赤い色をした者がいるのね。そもそもこいつは本当に人間なのかしら?)
まじまじと観察するジゼルの視線は遠慮がなく、少年は半歩後ろに下がった。
「魔族……」
ぽつりと呟いたその言葉には何も返さなかった。
そんなことは一目瞭然だし、答えてやる義務もない。
ジゼルは探るよう、さらに少年を観察する。
そうすると肩に乗っているルゥも、落ちない程度に身を乗り出す。
彼の醸し出す気配は明らかに魔族のものではない。
それでも、ピリピリと緊張を滲ませる少年から敵意は感じられなかった。
向こうから手を出すものならもちろん応戦する。
魔族の姫である以上、他者に舐められるようなことは許されないからだ。
しかし交戦するにしても、決して殺めてはいけない。
なぜならジゼルは魔の国イブリスの姫で、彼は人の国ユスシアの者。
隣接した地に住む二つの種族は、互いの境界線を越えない決まりになっている。
そして一切の干渉をしない。
もうずいぶん昔、ユスシアの姫とイブリスの騎士が恋に落ちたと言い伝えられている。
夢見がちなジゼルにとってはロマンチックな逸話だが、当時のユスシア王は怒り狂い、それが発端で争いに発展したという。
しかし魔法を操るイブリスとの戦いは長く続かなかった。
元々争いを好まない魔族の王は和解に承諾し、お互い干渉をしないという条約のもとに国交は途絶えた。
そんな世界で隣国の者の命を奪うなど決してあってはならないのである。
まだ幼さを残すジゼルの目の前。同じく稚い彼の第一印象は、あまりにも酷いものだった。
かろうじて金髪と呼べなくもない、くすんだ水気のない髪。破れのある汚れた衣服。
細い体にはたくさんの細かな傷があり、痛々しく血が滲んでいる。
だが長い前髪の隙間から覗く双眸は、鮮血を思わせるほどの見事な緋色をしていた。
のどかに響く高い鳥の声。新緑の枝から溢れる柔らかな陽光。
濃い緑と、豊かな土の匂いと、肺を満たす澄んだ冷たい空気。
隣接する二つの国のちょうど境にあるこの森は、とても静かで穏やかな場所だ。
互いの見張りはこの境界地よりもっと自国に近い場所にいる。それは不要な争いを避けるよう、なるべく顔を合わさないためでもあった。
魔族の国イブリスの王女であるジゼルは秘密の抜け道を使い、ペットの小さな魔獣を追いかけここまでやってきた。
基本的にこの森には両国とも人が滅多に訪れない。だからまさか、隣国の者と鉢合わせするなんて思ってもいなかった。
驚き、目を見張る少年の有り様に顔を顰めたジゼルだったが、彼の手の中に白いモフモフした毛玉が収まっていることに気がついた。
「ルゥ!」
思わず名を呼ぶと、毛玉の頭上にある二つの長い耳が上を向く。
くるんと向きを変えたルゥはピンクの目を一度きゅっと閉じ、ぴょんと跳ねながらジゼルの元へ戻ってきた。
「ルゥ、勝手に城を飛び出してはダメよ」
しゃがみ込み、めっ! と眉を釣り上げてみせても、ルゥはぴょんとジゼルの肩に乗り、ふわふわの毛を頬に寄せてくる。
この子と出会ったのは去年の寒い時期。城の裏手に迷い込んだ、まだ幼い魔獣だ。
周りを見渡しても仲間の気配はなかったので、気に入ったジゼルはその場で主従の契約を結び、城へと連れ帰った。それからは毎日一緒に過ごしている。
魔獣といえど全てが危険なものではない。ルゥにはこれと言って、驚異的な能力はないようだ。
擦り寄る無邪気な様子は愛らしく、つい頬が緩む。
しかしすぐさま現状を思い出し、ジゼルは慌てて顔を引き締めた。
それにしても人懐っこく好奇心旺盛ではあるけど、ルゥは賢い子だ。
まさか他国の人間にまで近寄るとは思わなかった。
じっと少年に視線を移せば、彼は呆然とジゼルを見つめている。
彼の瞳は鮮やかな緋色。
赤は魔の象徴で、濃ければ濃いほどイブリスでは持てはやされるのだ。
十歳を迎えたばかりのジゼルは、この国を統べる魔王の娘である。
つりあがり気味の大きな瞳も、艶やかな長い髪も、その立場に相応しく深紅に染め上がっている。
(人間にも赤い色をした者がいるのね。そもそもこいつは本当に人間なのかしら?)
まじまじと観察するジゼルの視線は遠慮がなく、少年は半歩後ろに下がった。
「魔族……」
ぽつりと呟いたその言葉には何も返さなかった。
そんなことは一目瞭然だし、答えてやる義務もない。
ジゼルは探るよう、さらに少年を観察する。
そうすると肩に乗っているルゥも、落ちない程度に身を乗り出す。
彼の醸し出す気配は明らかに魔族のものではない。
それでも、ピリピリと緊張を滲ませる少年から敵意は感じられなかった。
向こうから手を出すものならもちろん応戦する。
魔族の姫である以上、他者に舐められるようなことは許されないからだ。
しかし交戦するにしても、決して殺めてはいけない。
なぜならジゼルは魔の国イブリスの姫で、彼は人の国ユスシアの者。
隣接した地に住む二つの種族は、互いの境界線を越えない決まりになっている。
そして一切の干渉をしない。
もうずいぶん昔、ユスシアの姫とイブリスの騎士が恋に落ちたと言い伝えられている。
夢見がちなジゼルにとってはロマンチックな逸話だが、当時のユスシア王は怒り狂い、それが発端で争いに発展したという。
しかし魔法を操るイブリスとの戦いは長く続かなかった。
元々争いを好まない魔族の王は和解に承諾し、お互い干渉をしないという条約のもとに国交は途絶えた。
そんな世界で隣国の者の命を奪うなど決してあってはならないのである。
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