上 下
32 / 40
ラシア編 Side 空

7日目 未だハバネロフスク

しおりを挟む
 一体全体、初日の豪雪は例外よ、と言う言葉はなんだったのか……。
 ぼくは、窓の外を見ながら思った。

 水を飲み、ストレッチをして、水を飲み、シャワーを浴び、水を飲みながら、ぼんやりと窓の外を見つめる。
 不意に、ぼくは、日記を書くことにした。

 今日旅立つ予定だったが、この分では断念するしかなさそうだ。

 ぼくは、セラノワさんの下へ向かった。

 今朝のセラノワさんは、シャキッとしていた。

「おはようございます」

 セラノワさんは微笑んだ。「おはよー」

「酷い雪ですね」
「ねー」
「昨晩はああ言ったんですけど、もう一泊させてもらおうかと」

「そう来ると思ったわ」セラノワさんは壁掛け時計を見た。「ちょっと早いけど、朝食食べる?」

「良いんですか?」
 
 セラノワさんは頷いて、レセプションカウンターの分厚いガラスに、【30分後に戻ります :)】という掛け札を下げ、隣のドアから出てきた。「準備するわね」と、レセプションカウンターの隣のドアを閉めた。

「手伝います」
 
 セラノワさんは首を傾げた。「なにを?」

 ぼくは、セラノワさんは何を疑問に思っているんだろう……、と、少し考えて首を傾げた。「朝食の準備?」

「なんで?」

 言われてみれば……。「なんででしょう」

 セラノワさんは、楽しそうに笑いながら、小首を傾げた。

 なんだか、初日から思っていたけれど、セラノワさんは姿勢が良くて、所作にキレがあって、一挙一動がバレエのようで、気品があり、美しかった。

「別に良いわよ。わたしの朝食のついでだから」セラノワさんは、ぼくを食堂へ案内してくれた。セラノワさんは、歩きながら、人差し指の先からテニスボールサイズの光の球を生み出した。橙色の温かく柔らかな光を発するそれは、セラノワさんの指先を離れると、滑るように宙を進み、薄暗い食堂の、窓際の席の上で止まった。ガスランプくらいの明るさのあるその光の球は、あまり広くはない食堂内をぼんやりと照らすには十分だった。「コーヒー? 紅茶?」

「あ、コーヒーを」

 セラノワさんは、にっこりと頷いて、食堂に隣接する厨房へと続くスイングドアを潜っていった。セラノワさんはすぐに戻ってきた。両手には、ソーサーに乗ったカップが二つ。左手のカップからはアールグレイの香りが漂ってきた。右手のカップからは芳醇なコーヒーの香り。セラノワさんは、紅茶を啜りながら、ぼくの向かいに座った。

 アールグレイの香りを嗅いだら、ぼくも飲みたくなってきた。アールグレイの茶葉を混ぜたパウンドケーキも食べたい。

 じゅわぁ~、と、厨房から、油の弾ける音がしてきた。

 セラノワさんは、指を振った。
 彼女の指先から出た魔力の霧が、厨房へと流れていく。

 その、しなやかで美しい指の動きを見ながら過ごすこと、2、3分。

 食堂にある、他のテーブルが、床の上を滑って、ぼくたちのテーブルの横にやってきた。
 テーブルクロスが覆い被さると、そのテーブルは、ぼくたちのテーブルの横にピッタリとくっついた。
 厨房の扉が開き、料理の載ったお皿が、スーッと滑るように宙を進みながら、ぼくたちのテーブルの上に乗った。

 メインのチキンソテーには、様々な野菜が添えられていた。
 木あみのバスケットに入ったバゲットのスライス。
 スープ皿に入っているのは、ハバネロ入りのボルシチではなく、グヤーシュだった。
 木のボウルに盛られたサラダ、小皿に乗ったグレープフルーツ、小さなカップに入ったヨーグルト。
 ヨーグルトの上には、グラノーラが散らされていた。
 三種のケーキが4つずつ乗った、背の低いタワーがテーブルに乗り、コーヒーのポットとお湯の入ったポット、紅茶のパックの入った小皿が乗り、そして、厨房へのドアは閉じた。

 ぼくは両手を合わせ、「いただきます」と呟いてから、瞳を閉じるセラノワさんが、短く祈りを捧げ、十字を切るのを見守った。

「豪華ですね」ぼくは、チキンのソテーを、カトラリーで切り分けた。

「まあね」セラノワさんは、アールグレイを啜った。「朝のビュッフェは必要ないでしょ?」

 ぼくは頷いた。
 そんな質問をされたら頷くしかない。
 けれど、実際、こんな充実した朝食を食べたら、少なくとも午前中はレストラン探しをする必要はなさそうだ。

「午後からは晴れるみたいよ」
「良かった」
「雪かきをするの。一緒にどう? 雪の巨人一体につき、街から30FUが支払われるわ」
「街から?」

「中心街の方に市庁舎がある。そこで申し込みをするのよ」セラノワさんは、グヤーシュのスープをスプーンで掬い上げ、音を立てずに啜った。「ラシアでの宿屋の運営は楽なもんよ。ただ開いてるだけで、毎週食料が支給される。従業員の分と、前の週の来客数分ね。水はタダだし、薪は必要に応じて支給される。従業員一人に対して120FU毎週支給される」

「良いですね」ぼくは、チキンのソテーを口に運んだ。


ーーー


 昼ごろ、雪は止んだ。

 セラノワさんと一緒に通りに出たぼくは、宿屋の入り口で、杖を抜いた。
 通りに積もっている雪が、もこもこと盛り上がり、3m~5mほどの、雪と氷の巨人になる。

 箒に乗って空に浮かぶ魔女は、巨人の頭に寄って、そこからメジャーを垂らした。

 ぼくの前に、メジャーの収納部分が落ちた。

 魔女を見上げると、彼女はメジャーのメモリを確認して、手に持ったボードに万年筆を走らせた。
 箒の上の魔女は、ぼくを見て、頷いた。

 ぼくは、雪と氷の巨人に向かって魔力を送り込んだ。

 巨人はどしん、どしん、と動き出して、街の外へ向かって行った。

 箒に乗った魔女が、ぼくを見下ろして、再び小さく頷き、手に持ったボードに筆を走らせた。

 セラノワさんも、少し離れたところで巨人を生み出していた。

 巨人一体につき、30FUと言っていたが、巨人一体を作り出すだけで、どっと疲れてしまった。
 面倒臭いので、あと、3、4体作ったら、終わりにしよう。
 そう思いながら、ぼくは杖を振るった。
 1時間後、疲れ切ったぼくは、震える手を上げて、箒の上の魔女を呼んだ。

「お疲れ様でした」と、魔女は言った。彼女は、ぼくに240FUを、紙幣で手渡した。

 ぼくは眉をひそめた。
 ぼくが作った雪の巨人は6体。
 これじゃもらいすぎでは?

「大きな巨人だったわね」魔女は、無表情ながらに言った。「一体につき40FUを支払うわ」

「ありがとうございます」

 魔女は、事務的に頷いた。「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

 見れば、セラノワさんは、その端正な顔に汗と疲労の色を浮かべていたが、まだ作業を続けていた。

 ぼくは、セラノワさんに頷きかけて、魔女にお辞儀をして、宿屋に戻った。

 なんだか効率が悪い気がしたというか、監督官気取りで除雪を手伝おうとせずに上から見下ろすばかりの魔女たちに軽くイラッとしたけれど、1時間半の労働で240FUなら、良い仕事のような気がした。

 ぼくは、シャワーを浴びて、昼寝をすることにした。


ーーー


 昼寝から目を覚ましたぼくは、最後に、街を見ていくことにした。

 ジェロームくんを首に巻いて、レセプションの前を通り過ぎた時、セラノワさんは分厚いガラスの向こうで、椅子をベッドのように並べて、その上で眠っていた。

 街を歩いたが、セラノワさんの言う通り、この街にはハバネロ料理以外には、のんびりとした雰囲気くらいしか、見どころがなかった。

 食料品や雑貨を買って周ったぼくは、夕方、夕陽を見つめてしばしの間過ごし、宿に戻った。

 道中、ふと、除雪された足元が、カラフルなオレンジ色のレンガ畳みだということに気がついた。

 雪に輝く街並みも美しいが、次は、夏に来たいな……。
「明日は、雪が降っても行くよ」

『はいよ』と、ジェロームくんは言った。

 宿屋の食堂は、相変わらず閑散としていた。

 ぼくは、ステーキを注文した。
 付け合わせはライスにした。
 当然だけれど、味噌汁はなかった。
 ジェロームくんには、ハバネロルクと玉ねぎなしのハンバーグを注文した。
 食事を楽しんでいると、セラノワさんがやってきた。

「お疲れー」と、セラノワさんは言った。

「お疲れ様です。ちゃんと休めてますか?」

「昼寝すれば大丈夫」セラノワさんは、レジでステーキを注文した。

「タフですね」

「ラシアの女は強いのよ」

「明日は、雪が降っても行こうかと思います」

 セラノワさんは、ステーキを食べながら、頷いた。「明日は雪が降らないみたいよ」

「良かった。雪は綺麗だけれど、こうも豪雪が続くと」

「うんざりするわよね」セラノワさんは、無感情に言った。「寂しくなるわ。あなたが出ていったら、明日からレセプショニストを名乗れなくなる。雪かき屋さんになっちゃう」

「また来ますよ。夏にでも」

「夏は綺麗よ。少し暑いくらい。見どころもあるわ。この街全部が彩りを取り戻して、通りの中央には花壇が並ぶの」

「素敵ですね」

 セラノワさんは、ぼくを見て、小さく笑った。「あなたって、男っぽいけど、やっぱり女の子ね」

「ぼくの心は男ですよ」

「男から目を向けられるのは嫌なんでしょ?」

「誰でもそうでしょう。可愛いって言われるのは好きですけど」

 セラノワさんは頷いた。「旅をしている間は、誰もあなたに何かを押し付けたりはしないわ」

 ぼくは、ステーキを口に運びながら頷いた。

「楽しみなさい」

「楽しんでますよ」

「もっと楽しくなるわ。ラシアは、良いところがたくさんある」

「みんな親切ですものね」

 セラノワさんは、ぼくを見た。
 ぼくは、セラノワさんを、手の平で示した。

 セラノワさんは、温かく微笑んだ。「あなたが良い子だからよ」

「それに可愛いし」

 セラノワさんは、楽しそうな顔で首を傾げた。「わたしの方が可愛い」

「ご冗談でしょう」

「あぁん?」

 ミルクに顔を突っ込んでいたジェロームくんは、跳ねるように顔を上げて、ぼくとセラノワさんを見た。『おぉっと』彼は、口元についたミルクを舐めた。

 ぼくの背筋を、冷たい汗が伝った。「ごめんなさい」ぼくは言った。「でも、セラノワさんは綺麗系です。可愛いはぼくの専門分野です」

 セラノワさんは、考えるように目を動かして、そして、にっこり微笑んだ。「それなら良いわ」

 ぼくは微笑んだ。

『女ってやつは……』と、ジェロームくんが言った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

婚約者が私以外の人と勝手に結婚したので黙って逃げてやりました〜某国の王子と珍獣ミミルキーを愛でます〜

平川
恋愛
侯爵家の莫大な借金を黒字に塗り替え事業を成功させ続ける才女コリーン。 だが愛する婚約者の為にと寝る間を惜しむほど侯爵家を支えてきたのにも関わらず知らぬ間に裏切られた彼女は一人、誰にも何も告げずに屋敷を飛び出した。 流れ流れて辿り着いたのは獣人が治めるバムダ王国。珍獣ミミルキーが生息するマサラヤマン島でこの国の第一王子ウィンダムに偶然出会い、強引に王宮に連れ去られミミルキーの生態調査に参加する事に!? 魔法使いのウィンロードである王子に溺愛され珍獣に癒されたコリーンは少しずつ自分を取り戻していく。 そして追い掛けて来た元婚約者に対して少女であった彼女が最後に出した答えとは…? 完結済全6話

【完結】言いたいことがあるなら言ってみろ、と言われたので遠慮なく言ってみた

杜野秋人
ファンタジー
社交シーズン最後の大晩餐会と舞踏会。そのさなか、第三王子が突然、婚約者である伯爵家令嬢に婚約破棄を突き付けた。 なんでも、伯爵家令嬢が婚約者の地位を笠に着て、第三王子の寵愛する子爵家令嬢を虐めていたというのだ。 婚約者は否定するも、他にも次々と証言や証人が出てきて黙り込み俯いてしまう。 勝ち誇った王子は、最後にこう宣言した。 「そなたにも言い分はあろう。私は寛大だから弁明の機会をくれてやる。言いたいことがあるなら言ってみろ」 その一言が、自らの破滅を呼ぶことになるなど、この時彼はまだ気付いていなかった⸺! ◆例によって設定ナシの即興作品です。なので主人公の伯爵家令嬢以外に固有名詞はありません。頭カラッポにしてゆるっとお楽しみ下さい。 婚約破棄ものですが恋愛はありません。もちろん元サヤもナシです。 ◆全6話、約15000字程度でサラッと読めます。1日1話ずつ更新。 ◆この物語はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。 ◆9/29、HOTランキング入り!お読み頂きありがとうございます! 10/1、HOTランキング最高6位、人気ランキング11位、ファンタジーランキング1位!24h.pt瞬間最大11万4000pt!いずれも自己ベスト!ありがとうございます!

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

処理中です...