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Overcoming phobia
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森の奥、木陰の中。
広がる血溜まりの上横たわる元女性だった死体は酷い有様だった。鼻を摘みたくなるような異臭は鼻を塞いでも指の隙間から縫う様にして鼻孔へ流れ込む。嗚咽と同時に、胃液のようなものが込み上げその場に嘔吐した。
まるで生きていた頃のような胃酸の酸っぱさは感じない。それでも腹の中、胃が痙攣してるような気持ち悪さは嘔吐しても収まらない。
「……ッ」
耐えられなかった。
着ていた上着を脱ぎ、一糸纏わぬ死体に被せる。
その表情を確認することはできなかった。
――本当にただの死体だったのか。本当は殺したのではないか。
何度考えたところで無駄だとわかっていた。藤也の言葉を疑うわけではないが、忘れてはいけない。あいつらに俺の常識は通じない。藤也だって最近こそは優しくしてくれるが、こちらが本性のなのだろう。現に、幸喜の首を掻っ切ることにもまるで躊躇いがなかった。
……目を閉じ、手を合わせる。こんなこと無意味だろう。気休めだとしても、せめてあるかも分からない天国へと逝ってくれていたらいいと思う。幸喜がいう偽善者的思考だと自覚はしていた。
先ほどよりも日が落ち、相変わらず虫の鳴き声が響く林の中。
不意に、後方からがさりと音が聞こえてきた。そして、続いて聞こえてきたのは呻き声。
慌てて立ち上がり、声のする方へと叢を掻き分けて覗き込めば、そこには倒れた男がいた。
地面の上に横たわった男の周りは赤黒い染みが滲んでいた。不自然な方向に折れ曲がった膝下、鼻をつく異臭。
……けれど、生きてる。
あいつ、と思わずこの場にはいない双子の片割れが思い浮かぶ。来客が仲吉ではなかったことに安堵するよりも先に、この人をどうにかしなければという思考が働く。
身なりからして遭難者のようだ、尚更この遺体に近付けたくなかった。
こちらは気付かれていないが、意識はまだ残っているようだ。
地面の上、必死に起き上がろうとする男。折れた足を浮かせ、地面を這いずるように木の根本まで移動し、そのまま幹を手摺代わりにしてゆっくりと立ち上がろうとする。動く度に音もなく滲む血液。
男は苦しそうに呻きながらも、自力で立ち上がろうとするが、限界がきたようだ。そのままずるりと木の根本にもたれかかるように力尽きる。
咄嗟に「大丈夫ですか」と駆け寄るが、俺の声が届くはずもない。まだ死んではいない。呼吸の度に胸が上下してるのを見て安堵するが、この様子では長く保たないだろう。
この場合は、どうしたらいいのだろうか。
怪我を直すことは出来なくても、食料にはなるだろう。でも、どうにか怪我の応急措置だけでもしなければ藤也の言った通り長くはもたないはずだ。
どうしよう、どうすればいい。サバイバル知識なんて欠片もない。肝心なときにこの頭は役に立たないのだ。
先に食料か。でもそれによって動物が誘き寄せられたらどうしよう。
取り敢えず、幸喜たちが食べないように食料を確保して、この人に渡す。
口の中で呟きながら目を閉じた俺は先ほどまでいた自室を思い浮かべた。
その後は……。
そこまで考えて、ふと先ほどまで聞こえていた虫の鳴き声が消えた。
同時に俺は先日訪問者が訪れたとき、率先して元の場所へ帰そうとしていた人間を思い出す。
……花鶏だ。花鶏なら、まともなアドバイスをくれるかもしれない。
どちらにせよ花鶏とは話す必要があるようだ。
ゆっくりと目を開き、視界に現れた先ほどまでと大して変わらない自室内を見渡す。
既に双子の姿はなく、そこには心配していた食料もろもろが放置されたままだった。
南波は相変わらず放置されたままで、双子に嬲り殺しにされていないだろうかと心配していただけに床の上ででろんでろんになっている南波の姿を確認し、ほっと息を吐いた。
南波のことも気掛かりだが、今はあの男だ。
床の上に散らかったお供えものを紙袋に詰め込み、藤也が置きっぱなしにしていた男の荷物を抱える。そして気を集中させ、再び旅行者を見つけた外庭近隣の林に移動すした。
周囲の空気が変わったのを感じたとき、俺は移動する前に比べて自分の腕の中が軽くなっていることに気付いた。先ほど瞬間移動をする直前まで確かに抱えて荷物が無くなっているのだ。
俺は自分の手を見て慌てて自室に戻ることにする。
もしかして、瞬間移動って荷物まではついてこないのか。肝心なところで役に立たないな。
一先ず男がまだ気失ってるのを確認し、俺は再び瞬間移動を使い部屋へと戻った。
そして荷物を抱え直し、俺は足で扉を開いてそのまま一階の玄関へ向かって駆け出した。
瞬間移動を何度も使ったせいだろうか、酷い疲労感が全身を襲う。それに構わずひたすら廊下を走った。
――応接室前。
そのまま玄関ロビーに繋がるY字階段を降りようとしたときだった。ふと目の前の応接室の扉が開く。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
扉の向こう、現れたのは花鶏だった。
なんというタイミングだろうか。不幸中の幸いとはこのことだろうか。
「花鶏さん、相談したいことがあるんですがちょっと良いですか」
「私にですか?」
「まあ……。あの、急ぎなんで取り敢えずついて来てもらっても」
そう尋ねれば花鶏は俺の手元を一瞥し、「構いませんよ」と微笑んだ。
花鶏が話の早い人で助かった。俺は「こっちです」と花鶏を引き連れて樹海へと向かう。
――屋敷外、樹海。
走る俺に対し、花鶏はというとゆったりとした歩調を崩さない。それなのに俺について来ているというのはどういうことなのだろうか。気になったが、今はそんな場合ではない。
そしてやってきたのは先程の遺体傍。確かそう遠くない場所にあの男が気失っていたはずだった。――しかし、見当たらない。
血溜まりが残ったまま、関心の男がいないのだ。
不安になり、引きずったようなその血痕を追いかければ――見つけた。
一歩踏み出そうとして力尽きたようだ。腹這いに倒れてる男を見て血の気が引いた。駆け寄れば、まだ呼吸はしている。それでも無理して動いたからだろう先程よりも、出血量は明らかに増えていた。肌の色も最早真っ青だ。
「……なるほど、幸喜たちの仕業ですか」
「花鶏さん、どうしたらいいでしょう……っ、このままじゃこの人……」
「ええ、長くは保たないでしょう」
「せめて、どうにかして応急措置だけでもしたいんですけど……」
「処置したところで焼け石に水でしょう。この方を助けたければ、外と連絡を取って助けを呼ぶことでしょうね。少なくとも私どもではどうにもできない」
「でも……連絡なんて……」
携帯も使えない。電波も届かない山の中。しかもここは樹海の奥も奥だ。
焦れて「花鶏さん」と呼べば、花鶏はいつもと変わらない笑顔を浮かべるのだ。
「あるではありませんか、……貴方にしかできない方法が」
そう目を細める花鶏の言葉に、思わず息を飲んだ。
「貴方が仲吉さんと連絡を取り、救急車を呼んでもらう」
「……っ、あいつは……」
「貴方がそれを嫌だと言うなら、この山を燃やしてみますか。そうすれば救急隊の一人や二人来てくれるかもしれませんね。その間までにこの方の体が保つかは保証できませんが」
花鶏はあくまでも冷静だった。この山を燃やせば確実にこの男にも被害は出るだろう。
――本当ならば、仲吉には関わらせたくなった。
けれどこうしてる間にも時間は迫っている。
選択肢など意味がない、実質一択のようなものだった。
またあのときのように都合よく以心伝心が発生するとは思わない。一か八か、大きな賭けだ。
目を閉じて、念じる。そのときだった。
「準一さん、一つだけご忠告させていただいてもいいでしょうか」
不意に、花鶏に肩を掴まれる。咄嗟に思考を止め、俺は花鶏を振り返った。
花鶏には先程までの笑みはなかった。
「精神力は体力同様底がないわけではありません。精神力しか持ち合わせていない我々にとってその力が尽きたとき、即ち心身の死を意味します」
何故よりによってこのタイミングになってそんなことを言い出すのだ。
……このタイミングだからなのか。
「準一さん、あなたはここ数日で大分精神力を消耗しているようです」
「それは……」
「なにをするにも消耗は付き物ですが、以心伝心には通常よりも多くの力を使います。これ以上の負担となれば、あなたの身が持つかどうかがわかりません」
体が死んで、心のみになった俺たちの死――心の死。
まさか幽霊になってまで死云々を心配されるとは思わなかった。考えてもなかった。
言われてみれば、瞬間移動を繰り返した後からの疲労感が酷い。恐らくあれが原因だったのかもしれない。
花鶏の言葉を聞いて一瞬躊躇ったが、俺はすかさず「大丈夫です」と答えた。
既に体が死んでいる俺か、まだ両方生きているこの男のどちらが大切かと言われても答えは決まっている。食糧が入った荷物を花鶏に預けた俺は、そのまま目を瞑った。
「……あまり無理はなさらないようお願いします」
暗闇の中、溜め息混ざりの花鶏の声が聞こえる。それは諦めたような――どこか悲しそうな声。それに重なるように蝉の鳴き声が一層煩くなった。
目を閉じ、強く念じる。唯一の友人に会いたいと――そうすれば、会える。
一秒一秒が酷く長く、自然と緊張する。
……変わらない。その事実に内心焦り始めたときだった。先程まで耳元で煩いくらい鳴いていた蝉の鳴き声が遠くなった。
じめじめと湿った周りの空気ががらりと変わる。以心伝心が成功したのだ。
どうやら焦らされれば焦らされる程思いが強くなるということか。
冷や汗を滲ませ、全身の緊張を弛めながら俺は目を開いた。
見覚えのあるワンルーム。
あまり物が多いとはいえないその質素な室内の中、俺は一人佇んでいた。
俺の部屋だ。
一瞬、本当に自分の家に瞬間移動してしまったのだろうかと焦ったがそうではない。恐らくここも仲吉の夢の中なのだろう。
モノクロの室内、俺はここのどこかにいるはずのもう一人を探す。
このまま他の部屋にもいけるのだろうか、なんて考えながら仲吉を探していると、思いの外やつの姿は近くにあった。
テレビの前に置かれた卓袱台、そこに顔を伏せ仲吉は眠っていた。呑気に大口を開け、がーがーといびきを掻きながら。
こいつ、夢の中でまで眠ってやがる。
「おいっ、仲吉、仲吉ってば。起きろ!」
今は一刻を争う事態だ。こいつの夢の中での睡眠に気遣ってる暇はない。
仲吉の肩を揺すり、その耳元で何度も呼びかければ仲吉はうーんと唸る。
以前よりかはちゃんと眠れてるのか、幾分顔色はよくなっているがやはり肩や顔つきからして痩せてるように見える。
仲吉の健康状態も気になったが、それは後からでもいい。
なかなか起きない仲吉に焦れ、もう一度「おい!」と強く肩を揺すったとき――ぱちりと仲吉が目を開く。
「ん……? あれ? ……じゅんいち?」
ようやく目を覚ましたようだ。
寝惚けていた仲吉だったが、段々はっきりしてきたようだ。俺がいるのを見て、驚いたように起き上がった。
「準一? 準一なのか? 本物?」
「そうだよ、それ以外に誰がいるんだよ」
というか偽物なんているのか。
思いつつ、恐る恐るペタペタと体に触れてくる仲吉の手を掴み、体から離す。
「時間がないんだ。取り敢えず用件だけ言うから聞いてくれ」
「時間……? っていうか、あ、そうだ。俺の書いた手紙見てくれた?」
言ったそばからさっそく脱線している。
思い出したように目を輝かせる仲吉に頭が痛くなる。「その件は後で言うからとにかく聞け」と強引に話題の軌道修正を計った。
「なんだよ、そんな怒んなくていいじゃん……」
「怒ってねえよ。これは生まれつきだ。……取り敢えず、仲吉に頼みがあるんだ。俺が死んだ山あったろ? あそこに救急車一台呼んでくれ、怪我してる人がいるんだ」
「は? 俺が?」
「そう、お前にしか頼めないんだ。頼む、目が覚めたらすぐに救急車呼んでくれ」
そう繰り返す。そんな俺の態度から、これがただの夢ではないのだとようやく理解できたようだ。
「……夢じゃないんだよな」
「ああ。……とにかく、頼んだからな。目え覚ましたら、すぐに電話だ。あの山に救急車一台。わかったな?」
しつこいくらい繰り返す。目を覚まして夢だと思われたくなくて、そう仲吉の腕を掴めば仲吉の目が開かれた。
それから、「ああ、わかった」と仲吉は俺の手を掴み返すのだ。
こうして他人の夢に入り込むことでも大分消耗してるのだろう。言葉を口にすればするほど胸の奥にじわりと息苦しさが込み上げてくる。
けれど、それでも仲吉の顔を見ていたらいくらか緩和されるのがわかった。
「……準一、お前顔色が……」
「俺はいいんだよ、もう死んでるから。……じゃあ、頼んだぞ」
「ああ、また後で……会いに行く。絶対会いに行くからな! ちゃんと地図用意しろよ!」
黒くモヤが広がる視界の中、そう声を上げる仲吉に思わず苦笑する。……会いに来るなと言いたかったが、借りをつくってしまった現状なにも言えない。それ以上に。
――決定事項なのかよ。
俺が断ってもやってきそうな仲吉に「わかった」と答えるよりも先に視界は黒く塗り潰される。思い浮かべるのは屋敷の前だ。
なにもなかったはずの空間に音が戻る。それから風、日差し。風に吹かれた葉がぶつかりあう音。虫の声。
ゆっくりと目を覚ませば、夕闇に包まれた森の中に俺はいた。ゆっくりと背後を振り返れば、見慣れた洋館が聳え立っていた。
あれからどれほど経ったのだろうか。
まさか一日は経っていないだろうと思いたかったが、時間感覚がまるで機能しない今自分の勘は宛にならない。
俺は一先ず花鶏を探すことにする。
精神力を使って応接室へと瞬間移動しようとしたが、いつの日かの花鶏の言葉を思い出し、大人しく走って向かうことにした。
場所は変わって屋敷内応接室。
途中道に迷いつつもようやく目的の場所へ辿り着くことができた。すっかりへとへとになりながらも扉を開く。
結論から言えば、花鶏はいた。
花鶏の座る向かい側のソファーには南波らしき人影もある。
南波はリードを持て余したままソファーの上、寝転がって眠っていた。……いや、気絶してるのか?
「如何でしたか、準一さん」
開口一言、こちらを見ずとも俺とわかったようだ。ティーカップに注がれた紅茶に口をつけ、ほうと息を吐いた花鶏はそうゆっくりとこちらへ視線を流す。
「……一応、伝えてきました」
「会えたのですね。……やはり、貴方がたの絆は強いようですね。こうも容易く二度目の以心伝心することに成功するとは」
そう口にする花鶏の言葉は素直に感心してるようだ。
なんだかむず痒いような複雑な気持ちになり、俺は「どうも」とだけ答えた。
そしてちらりと南波を盗み見る。
……そういや、南波の首輪のことすっかり忘れていた。
花鶏と南波が一緒にいるということは間違いなくリードを捨てたことがバレてしまっているが、花鶏がなにも言わないということは多少目を瞑ってくれてるということか。……緊急事態だったし。
「そう言えば、あの人は……?」
そう、それだ。見る限りあの旅行者の姿が見当たらない。
恐る恐る尋ねれば、「ご安心下さい」と花鶏はティーカップをソーサーへと戻す。
「準一さんが仲吉さんに接触している間、気絶されていたあの方を崖の上まで移動させておきました。……まあ、一人では大変でしたので奈都君に手伝っていただいたんですが」
崖の上というのはこの間藤也と一緒にいった場所だろう。
確かにあそこを一人は大変だ。相手が足を怪我している分尚更、寧ろ二人でもキツいかもしれない。
「……その、ありがとうございます」
「いえ。お陰様で貴重な体験できましたので。……ええ。肉体労働係の南波は使い物になりませんし、おまけに双子はずっと部屋に籠ってますし、まさか私が下駄を引きずって殿方を引きずる羽目になるとは」
「お……お疲れ様です。……と、そう言えば奈都は……」
「ああ、奈都君なら上であの方を見張ってもらってますよ。救急車が来たときのため、誰かが様子を見ていた方がいいでしょう……と奈都君が言ってましたのでお任せしてます」
「一人でですか?」
「ええ。私も一緒に様子を見ようと思ったのですが、準一さんが戻ってきたことも考えてここでお留守番させていただきました」
そうにっこりと微笑む花鶏。
花鶏が面倒だったので奈都に押し付けたか否かの真偽は不明だが、その奈都の判断は正しいだろう。奈都がいてくれてよかった、もしそこに居合わせた幸喜だったらこうはいかなかったはずだ。
一先ずは安心していいだろう。
そう思った瞬間、全身にどっと疲れが襲いかかってくる。……いや安堵か、これは。
「じゃあ、俺も奈都のところまで行ってきます」
「あちらは奈都君に任せておいて大丈夫ですよ」
奈都の元へ向かおうとした矢先だった。そう、花鶏に止められる。
「でも、奈都に頼りっぱなしっていうのは……」
流石にちょっと、と言いかけたときだった。
花鶏の方を振り返ったとき、すぐ目の前に迫る花鶏の顔にぎょっとする。
薄く微笑みを携え、花鶏は俺を見据えるのだ。
「少々、貴方にお伺いしたいことがあったのですが」
「俺に?」
「準一さん。あなた、南波になにか良からぬものを呑ませたりされましたか?」
単刀直入。花鶏に尋ねられ、ぎくりと全身が硬直した。
触れられなければこのまま誤魔化し通せるのではないかと思っていたがやはり限界だったようだ。
ソファーの上、気を失ったように眠ったままになっていた南波と目の前の花鶏を交互に目を向ける。
「……すみません。まさか、効果があるなんて思ってなくて」
「おや、自分で試さなかったのですか。我々にも一応味覚はありますよ」
「え……そうなんですか?」
「まあ、味覚というより記憶と言った方が適切かもしれませんね。それを食べて味わうのではなく、食べるという行動によって生前に食べたそれの味を思い出すわけですから」
なるほど、そういうことか。
つまりもし食べたことないものでも、それに近しいものの味の記憶と挿げ替えで味を感じることができるのいうことか。
だからといってたかが甘酒ででろんでろんに酔っぱらった南波はなかなかだと思うが……。
「なんだかお得ですね」
「私たち亡霊には必要ないものですが、やはり好きなものを食べるという行動そのものに意味があるんでしょうね」
「……なるほど」
「準一さんもなにか口にしてみてはいかがでしょうか。少しは元気になりますよ」
哲学的な話は苦手だが、なんとなく言いたいことは分かる。
そんな俺に、花鶏はそう提案してくるのだ。
そもそもこの屋敷に食べ物があるということにも驚いた。ベッドが腐ってるような場所だ、まさか腐った食べ物を出されるのではないだろうな。
そう身構える俺を他所に、花鶏はソファーの物陰から見覚えのある紙袋を取り出した。
「あの、これって……」
この紙袋は仲吉が持ってきた俺宛のお供えものだ。
なんでこんなところにあるんだ。確かあの客人の男の荷物と一緒に渡しておいたはずなのに。
そう花鶏の顔を見れば、にこりと花鶏は微笑んでいた。
「賞味期限がわからなかったので、あの方にお渡しするのはやめておきました」
もしかして俺のことを気遣ってくれたのだろうか、なんて思ったが花鶏の言葉を聞いてまあそうかとそれを受け取る。
そしてそのまま中を覗けば、最後に俺が見たときと変わらない内容物が入ってるようだ。ガサガサと中を漁っていて、ふと違和感に気付いた。
――あるはずのものが、ない。
「あの……花鶏さん」
「はい、なんでしょうか」
「これって、俺が渡したときのままですか?」
「ええ、そうですよ」
ポーカーフェイスの花鶏の真意は分かりづらいが、嘘をついているようにも見えない。
――ということは、どういうことだ。
焦燥感が込み上げてくる。俺はテーブルの上に紙袋の中身を広げた。俺の好物のつまみや落雁やお供え物代表各の乾物等がどさどさと落ちてくる中、それらを掻き分けて探る。
が、やはり目的のものは見つからない。
紙袋からは、仲吉への返事用の茶封筒が丸々消えていた。
広がる血溜まりの上横たわる元女性だった死体は酷い有様だった。鼻を摘みたくなるような異臭は鼻を塞いでも指の隙間から縫う様にして鼻孔へ流れ込む。嗚咽と同時に、胃液のようなものが込み上げその場に嘔吐した。
まるで生きていた頃のような胃酸の酸っぱさは感じない。それでも腹の中、胃が痙攣してるような気持ち悪さは嘔吐しても収まらない。
「……ッ」
耐えられなかった。
着ていた上着を脱ぎ、一糸纏わぬ死体に被せる。
その表情を確認することはできなかった。
――本当にただの死体だったのか。本当は殺したのではないか。
何度考えたところで無駄だとわかっていた。藤也の言葉を疑うわけではないが、忘れてはいけない。あいつらに俺の常識は通じない。藤也だって最近こそは優しくしてくれるが、こちらが本性のなのだろう。現に、幸喜の首を掻っ切ることにもまるで躊躇いがなかった。
……目を閉じ、手を合わせる。こんなこと無意味だろう。気休めだとしても、せめてあるかも分からない天国へと逝ってくれていたらいいと思う。幸喜がいう偽善者的思考だと自覚はしていた。
先ほどよりも日が落ち、相変わらず虫の鳴き声が響く林の中。
不意に、後方からがさりと音が聞こえてきた。そして、続いて聞こえてきたのは呻き声。
慌てて立ち上がり、声のする方へと叢を掻き分けて覗き込めば、そこには倒れた男がいた。
地面の上に横たわった男の周りは赤黒い染みが滲んでいた。不自然な方向に折れ曲がった膝下、鼻をつく異臭。
……けれど、生きてる。
あいつ、と思わずこの場にはいない双子の片割れが思い浮かぶ。来客が仲吉ではなかったことに安堵するよりも先に、この人をどうにかしなければという思考が働く。
身なりからして遭難者のようだ、尚更この遺体に近付けたくなかった。
こちらは気付かれていないが、意識はまだ残っているようだ。
地面の上、必死に起き上がろうとする男。折れた足を浮かせ、地面を這いずるように木の根本まで移動し、そのまま幹を手摺代わりにしてゆっくりと立ち上がろうとする。動く度に音もなく滲む血液。
男は苦しそうに呻きながらも、自力で立ち上がろうとするが、限界がきたようだ。そのままずるりと木の根本にもたれかかるように力尽きる。
咄嗟に「大丈夫ですか」と駆け寄るが、俺の声が届くはずもない。まだ死んではいない。呼吸の度に胸が上下してるのを見て安堵するが、この様子では長く保たないだろう。
この場合は、どうしたらいいのだろうか。
怪我を直すことは出来なくても、食料にはなるだろう。でも、どうにか怪我の応急措置だけでもしなければ藤也の言った通り長くはもたないはずだ。
どうしよう、どうすればいい。サバイバル知識なんて欠片もない。肝心なときにこの頭は役に立たないのだ。
先に食料か。でもそれによって動物が誘き寄せられたらどうしよう。
取り敢えず、幸喜たちが食べないように食料を確保して、この人に渡す。
口の中で呟きながら目を閉じた俺は先ほどまでいた自室を思い浮かべた。
その後は……。
そこまで考えて、ふと先ほどまで聞こえていた虫の鳴き声が消えた。
同時に俺は先日訪問者が訪れたとき、率先して元の場所へ帰そうとしていた人間を思い出す。
……花鶏だ。花鶏なら、まともなアドバイスをくれるかもしれない。
どちらにせよ花鶏とは話す必要があるようだ。
ゆっくりと目を開き、視界に現れた先ほどまでと大して変わらない自室内を見渡す。
既に双子の姿はなく、そこには心配していた食料もろもろが放置されたままだった。
南波は相変わらず放置されたままで、双子に嬲り殺しにされていないだろうかと心配していただけに床の上ででろんでろんになっている南波の姿を確認し、ほっと息を吐いた。
南波のことも気掛かりだが、今はあの男だ。
床の上に散らかったお供えものを紙袋に詰め込み、藤也が置きっぱなしにしていた男の荷物を抱える。そして気を集中させ、再び旅行者を見つけた外庭近隣の林に移動すした。
周囲の空気が変わったのを感じたとき、俺は移動する前に比べて自分の腕の中が軽くなっていることに気付いた。先ほど瞬間移動をする直前まで確かに抱えて荷物が無くなっているのだ。
俺は自分の手を見て慌てて自室に戻ることにする。
もしかして、瞬間移動って荷物まではついてこないのか。肝心なところで役に立たないな。
一先ず男がまだ気失ってるのを確認し、俺は再び瞬間移動を使い部屋へと戻った。
そして荷物を抱え直し、俺は足で扉を開いてそのまま一階の玄関へ向かって駆け出した。
瞬間移動を何度も使ったせいだろうか、酷い疲労感が全身を襲う。それに構わずひたすら廊下を走った。
――応接室前。
そのまま玄関ロビーに繋がるY字階段を降りようとしたときだった。ふと目の前の応接室の扉が開く。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
扉の向こう、現れたのは花鶏だった。
なんというタイミングだろうか。不幸中の幸いとはこのことだろうか。
「花鶏さん、相談したいことがあるんですがちょっと良いですか」
「私にですか?」
「まあ……。あの、急ぎなんで取り敢えずついて来てもらっても」
そう尋ねれば花鶏は俺の手元を一瞥し、「構いませんよ」と微笑んだ。
花鶏が話の早い人で助かった。俺は「こっちです」と花鶏を引き連れて樹海へと向かう。
――屋敷外、樹海。
走る俺に対し、花鶏はというとゆったりとした歩調を崩さない。それなのに俺について来ているというのはどういうことなのだろうか。気になったが、今はそんな場合ではない。
そしてやってきたのは先程の遺体傍。確かそう遠くない場所にあの男が気失っていたはずだった。――しかし、見当たらない。
血溜まりが残ったまま、関心の男がいないのだ。
不安になり、引きずったようなその血痕を追いかければ――見つけた。
一歩踏み出そうとして力尽きたようだ。腹這いに倒れてる男を見て血の気が引いた。駆け寄れば、まだ呼吸はしている。それでも無理して動いたからだろう先程よりも、出血量は明らかに増えていた。肌の色も最早真っ青だ。
「……なるほど、幸喜たちの仕業ですか」
「花鶏さん、どうしたらいいでしょう……っ、このままじゃこの人……」
「ええ、長くは保たないでしょう」
「せめて、どうにかして応急措置だけでもしたいんですけど……」
「処置したところで焼け石に水でしょう。この方を助けたければ、外と連絡を取って助けを呼ぶことでしょうね。少なくとも私どもではどうにもできない」
「でも……連絡なんて……」
携帯も使えない。電波も届かない山の中。しかもここは樹海の奥も奥だ。
焦れて「花鶏さん」と呼べば、花鶏はいつもと変わらない笑顔を浮かべるのだ。
「あるではありませんか、……貴方にしかできない方法が」
そう目を細める花鶏の言葉に、思わず息を飲んだ。
「貴方が仲吉さんと連絡を取り、救急車を呼んでもらう」
「……っ、あいつは……」
「貴方がそれを嫌だと言うなら、この山を燃やしてみますか。そうすれば救急隊の一人や二人来てくれるかもしれませんね。その間までにこの方の体が保つかは保証できませんが」
花鶏はあくまでも冷静だった。この山を燃やせば確実にこの男にも被害は出るだろう。
――本当ならば、仲吉には関わらせたくなった。
けれどこうしてる間にも時間は迫っている。
選択肢など意味がない、実質一択のようなものだった。
またあのときのように都合よく以心伝心が発生するとは思わない。一か八か、大きな賭けだ。
目を閉じて、念じる。そのときだった。
「準一さん、一つだけご忠告させていただいてもいいでしょうか」
不意に、花鶏に肩を掴まれる。咄嗟に思考を止め、俺は花鶏を振り返った。
花鶏には先程までの笑みはなかった。
「精神力は体力同様底がないわけではありません。精神力しか持ち合わせていない我々にとってその力が尽きたとき、即ち心身の死を意味します」
何故よりによってこのタイミングになってそんなことを言い出すのだ。
……このタイミングだからなのか。
「準一さん、あなたはここ数日で大分精神力を消耗しているようです」
「それは……」
「なにをするにも消耗は付き物ですが、以心伝心には通常よりも多くの力を使います。これ以上の負担となれば、あなたの身が持つかどうかがわかりません」
体が死んで、心のみになった俺たちの死――心の死。
まさか幽霊になってまで死云々を心配されるとは思わなかった。考えてもなかった。
言われてみれば、瞬間移動を繰り返した後からの疲労感が酷い。恐らくあれが原因だったのかもしれない。
花鶏の言葉を聞いて一瞬躊躇ったが、俺はすかさず「大丈夫です」と答えた。
既に体が死んでいる俺か、まだ両方生きているこの男のどちらが大切かと言われても答えは決まっている。食糧が入った荷物を花鶏に預けた俺は、そのまま目を瞑った。
「……あまり無理はなさらないようお願いします」
暗闇の中、溜め息混ざりの花鶏の声が聞こえる。それは諦めたような――どこか悲しそうな声。それに重なるように蝉の鳴き声が一層煩くなった。
目を閉じ、強く念じる。唯一の友人に会いたいと――そうすれば、会える。
一秒一秒が酷く長く、自然と緊張する。
……変わらない。その事実に内心焦り始めたときだった。先程まで耳元で煩いくらい鳴いていた蝉の鳴き声が遠くなった。
じめじめと湿った周りの空気ががらりと変わる。以心伝心が成功したのだ。
どうやら焦らされれば焦らされる程思いが強くなるということか。
冷や汗を滲ませ、全身の緊張を弛めながら俺は目を開いた。
見覚えのあるワンルーム。
あまり物が多いとはいえないその質素な室内の中、俺は一人佇んでいた。
俺の部屋だ。
一瞬、本当に自分の家に瞬間移動してしまったのだろうかと焦ったがそうではない。恐らくここも仲吉の夢の中なのだろう。
モノクロの室内、俺はここのどこかにいるはずのもう一人を探す。
このまま他の部屋にもいけるのだろうか、なんて考えながら仲吉を探していると、思いの外やつの姿は近くにあった。
テレビの前に置かれた卓袱台、そこに顔を伏せ仲吉は眠っていた。呑気に大口を開け、がーがーといびきを掻きながら。
こいつ、夢の中でまで眠ってやがる。
「おいっ、仲吉、仲吉ってば。起きろ!」
今は一刻を争う事態だ。こいつの夢の中での睡眠に気遣ってる暇はない。
仲吉の肩を揺すり、その耳元で何度も呼びかければ仲吉はうーんと唸る。
以前よりかはちゃんと眠れてるのか、幾分顔色はよくなっているがやはり肩や顔つきからして痩せてるように見える。
仲吉の健康状態も気になったが、それは後からでもいい。
なかなか起きない仲吉に焦れ、もう一度「おい!」と強く肩を揺すったとき――ぱちりと仲吉が目を開く。
「ん……? あれ? ……じゅんいち?」
ようやく目を覚ましたようだ。
寝惚けていた仲吉だったが、段々はっきりしてきたようだ。俺がいるのを見て、驚いたように起き上がった。
「準一? 準一なのか? 本物?」
「そうだよ、それ以外に誰がいるんだよ」
というか偽物なんているのか。
思いつつ、恐る恐るペタペタと体に触れてくる仲吉の手を掴み、体から離す。
「時間がないんだ。取り敢えず用件だけ言うから聞いてくれ」
「時間……? っていうか、あ、そうだ。俺の書いた手紙見てくれた?」
言ったそばからさっそく脱線している。
思い出したように目を輝かせる仲吉に頭が痛くなる。「その件は後で言うからとにかく聞け」と強引に話題の軌道修正を計った。
「なんだよ、そんな怒んなくていいじゃん……」
「怒ってねえよ。これは生まれつきだ。……取り敢えず、仲吉に頼みがあるんだ。俺が死んだ山あったろ? あそこに救急車一台呼んでくれ、怪我してる人がいるんだ」
「は? 俺が?」
「そう、お前にしか頼めないんだ。頼む、目が覚めたらすぐに救急車呼んでくれ」
そう繰り返す。そんな俺の態度から、これがただの夢ではないのだとようやく理解できたようだ。
「……夢じゃないんだよな」
「ああ。……とにかく、頼んだからな。目え覚ましたら、すぐに電話だ。あの山に救急車一台。わかったな?」
しつこいくらい繰り返す。目を覚まして夢だと思われたくなくて、そう仲吉の腕を掴めば仲吉の目が開かれた。
それから、「ああ、わかった」と仲吉は俺の手を掴み返すのだ。
こうして他人の夢に入り込むことでも大分消耗してるのだろう。言葉を口にすればするほど胸の奥にじわりと息苦しさが込み上げてくる。
けれど、それでも仲吉の顔を見ていたらいくらか緩和されるのがわかった。
「……準一、お前顔色が……」
「俺はいいんだよ、もう死んでるから。……じゃあ、頼んだぞ」
「ああ、また後で……会いに行く。絶対会いに行くからな! ちゃんと地図用意しろよ!」
黒くモヤが広がる視界の中、そう声を上げる仲吉に思わず苦笑する。……会いに来るなと言いたかったが、借りをつくってしまった現状なにも言えない。それ以上に。
――決定事項なのかよ。
俺が断ってもやってきそうな仲吉に「わかった」と答えるよりも先に視界は黒く塗り潰される。思い浮かべるのは屋敷の前だ。
なにもなかったはずの空間に音が戻る。それから風、日差し。風に吹かれた葉がぶつかりあう音。虫の声。
ゆっくりと目を覚ませば、夕闇に包まれた森の中に俺はいた。ゆっくりと背後を振り返れば、見慣れた洋館が聳え立っていた。
あれからどれほど経ったのだろうか。
まさか一日は経っていないだろうと思いたかったが、時間感覚がまるで機能しない今自分の勘は宛にならない。
俺は一先ず花鶏を探すことにする。
精神力を使って応接室へと瞬間移動しようとしたが、いつの日かの花鶏の言葉を思い出し、大人しく走って向かうことにした。
場所は変わって屋敷内応接室。
途中道に迷いつつもようやく目的の場所へ辿り着くことができた。すっかりへとへとになりながらも扉を開く。
結論から言えば、花鶏はいた。
花鶏の座る向かい側のソファーには南波らしき人影もある。
南波はリードを持て余したままソファーの上、寝転がって眠っていた。……いや、気絶してるのか?
「如何でしたか、準一さん」
開口一言、こちらを見ずとも俺とわかったようだ。ティーカップに注がれた紅茶に口をつけ、ほうと息を吐いた花鶏はそうゆっくりとこちらへ視線を流す。
「……一応、伝えてきました」
「会えたのですね。……やはり、貴方がたの絆は強いようですね。こうも容易く二度目の以心伝心することに成功するとは」
そう口にする花鶏の言葉は素直に感心してるようだ。
なんだかむず痒いような複雑な気持ちになり、俺は「どうも」とだけ答えた。
そしてちらりと南波を盗み見る。
……そういや、南波の首輪のことすっかり忘れていた。
花鶏と南波が一緒にいるということは間違いなくリードを捨てたことがバレてしまっているが、花鶏がなにも言わないということは多少目を瞑ってくれてるということか。……緊急事態だったし。
「そう言えば、あの人は……?」
そう、それだ。見る限りあの旅行者の姿が見当たらない。
恐る恐る尋ねれば、「ご安心下さい」と花鶏はティーカップをソーサーへと戻す。
「準一さんが仲吉さんに接触している間、気絶されていたあの方を崖の上まで移動させておきました。……まあ、一人では大変でしたので奈都君に手伝っていただいたんですが」
崖の上というのはこの間藤也と一緒にいった場所だろう。
確かにあそこを一人は大変だ。相手が足を怪我している分尚更、寧ろ二人でもキツいかもしれない。
「……その、ありがとうございます」
「いえ。お陰様で貴重な体験できましたので。……ええ。肉体労働係の南波は使い物になりませんし、おまけに双子はずっと部屋に籠ってますし、まさか私が下駄を引きずって殿方を引きずる羽目になるとは」
「お……お疲れ様です。……と、そう言えば奈都は……」
「ああ、奈都君なら上であの方を見張ってもらってますよ。救急車が来たときのため、誰かが様子を見ていた方がいいでしょう……と奈都君が言ってましたのでお任せしてます」
「一人でですか?」
「ええ。私も一緒に様子を見ようと思ったのですが、準一さんが戻ってきたことも考えてここでお留守番させていただきました」
そうにっこりと微笑む花鶏。
花鶏が面倒だったので奈都に押し付けたか否かの真偽は不明だが、その奈都の判断は正しいだろう。奈都がいてくれてよかった、もしそこに居合わせた幸喜だったらこうはいかなかったはずだ。
一先ずは安心していいだろう。
そう思った瞬間、全身にどっと疲れが襲いかかってくる。……いや安堵か、これは。
「じゃあ、俺も奈都のところまで行ってきます」
「あちらは奈都君に任せておいて大丈夫ですよ」
奈都の元へ向かおうとした矢先だった。そう、花鶏に止められる。
「でも、奈都に頼りっぱなしっていうのは……」
流石にちょっと、と言いかけたときだった。
花鶏の方を振り返ったとき、すぐ目の前に迫る花鶏の顔にぎょっとする。
薄く微笑みを携え、花鶏は俺を見据えるのだ。
「少々、貴方にお伺いしたいことがあったのですが」
「俺に?」
「準一さん。あなた、南波になにか良からぬものを呑ませたりされましたか?」
単刀直入。花鶏に尋ねられ、ぎくりと全身が硬直した。
触れられなければこのまま誤魔化し通せるのではないかと思っていたがやはり限界だったようだ。
ソファーの上、気を失ったように眠ったままになっていた南波と目の前の花鶏を交互に目を向ける。
「……すみません。まさか、効果があるなんて思ってなくて」
「おや、自分で試さなかったのですか。我々にも一応味覚はありますよ」
「え……そうなんですか?」
「まあ、味覚というより記憶と言った方が適切かもしれませんね。それを食べて味わうのではなく、食べるという行動によって生前に食べたそれの味を思い出すわけですから」
なるほど、そういうことか。
つまりもし食べたことないものでも、それに近しいものの味の記憶と挿げ替えで味を感じることができるのいうことか。
だからといってたかが甘酒ででろんでろんに酔っぱらった南波はなかなかだと思うが……。
「なんだかお得ですね」
「私たち亡霊には必要ないものですが、やはり好きなものを食べるという行動そのものに意味があるんでしょうね」
「……なるほど」
「準一さんもなにか口にしてみてはいかがでしょうか。少しは元気になりますよ」
哲学的な話は苦手だが、なんとなく言いたいことは分かる。
そんな俺に、花鶏はそう提案してくるのだ。
そもそもこの屋敷に食べ物があるということにも驚いた。ベッドが腐ってるような場所だ、まさか腐った食べ物を出されるのではないだろうな。
そう身構える俺を他所に、花鶏はソファーの物陰から見覚えのある紙袋を取り出した。
「あの、これって……」
この紙袋は仲吉が持ってきた俺宛のお供えものだ。
なんでこんなところにあるんだ。確かあの客人の男の荷物と一緒に渡しておいたはずなのに。
そう花鶏の顔を見れば、にこりと花鶏は微笑んでいた。
「賞味期限がわからなかったので、あの方にお渡しするのはやめておきました」
もしかして俺のことを気遣ってくれたのだろうか、なんて思ったが花鶏の言葉を聞いてまあそうかとそれを受け取る。
そしてそのまま中を覗けば、最後に俺が見たときと変わらない内容物が入ってるようだ。ガサガサと中を漁っていて、ふと違和感に気付いた。
――あるはずのものが、ない。
「あの……花鶏さん」
「はい、なんでしょうか」
「これって、俺が渡したときのままですか?」
「ええ、そうですよ」
ポーカーフェイスの花鶏の真意は分かりづらいが、嘘をついているようにも見えない。
――ということは、どういうことだ。
焦燥感が込み上げてくる。俺はテーブルの上に紙袋の中身を広げた。俺の好物のつまみや落雁やお供え物代表各の乾物等がどさどさと落ちてくる中、それらを掻き分けて探る。
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紙袋からは、仲吉への返事用の茶封筒が丸々消えていた。
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