天国地獄闇鍋番外編集

田原摩耶

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灘×齋藤

夏祭り【芳川←齋藤前提灘×齋藤】

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 8月下旬。盆も過ぎ、あれほど蒸していた夏の街に涼しい風が吹き始める。
 その日、縁日に行こうと言い出したのは芳川会長だった。せっかくの夏休みだから、思い出にと、会長は俺を誘ってくれていた。
 けれど、当日、芳川会長に急用が入った。「申し訳ない」と、電話口で会長は何度も謝っていた。その度に俺は「気にしないでください」と口にする。本当は、楽しみにしていたけれど、会長の用事だ。仕方ない。その言葉は自分に言い聞かせるものでもあった。

 我が儘は言いたくない。会長を困らせることもしたくない。本当は寂しいけど、本当は、用事が終わったあとでもいいから会いたかったけど、それを口にして会長が困惑するが目に浮かんだから俺はその気持ちを殺す。

 急に空いた一日。時間の潰し方は何十通りも色々ある。けれど、何をしてても虚しくなって、日が沈み始めた頃、窓の外を眺める。空は灰色に濁った雲に覆われていた。
 きっと、今頃本当は会長と並んで縁日の会場へと向かっていたのだろう。
 そんなことばかり考えてしまう自分が嫌になって、気を紛らすため、俺は外出することにした。せっかく外出届を出していたんだ、無駄にするのも悪い気がして。
 それはただの言い訳だが、実際、縁日に興味があった。それに、この日のためにわざわざレンタルしてきた浴衣を無駄にするのも勿体無い。
 会長がいないのは残念だが、せっかくだから覗いてみようと思ったのだ。

 縁日の会場である神社はそう遠くはなかった。学園を出て、街の中心部へと近付くにつれ、浴衣姿の男女が多くなる。
 楽しそうな笑い声。少しだけ覗くだけのつもりだったが、人が多くなるにつれ、アウェー感は強くなる。

 気付けば空は真っ暗だった。
 赤と白の提灯がぶら下がる神社。その鳥居を潜れば、美味しそうな匂いがした。焼けるソースの匂い。祭囃子。無数の足音。甘いチョコの匂い。太鼓の音。
 たくさんの人影。俺は、ぶつからないように気を付けながら闊歩する。一人でいると目立つのではないかと心配していたが、そんなことはなかった。皆が皆、それぞれの家族、友達、或いは恋人と楽しげに歩いていて、俺のことなんか目に入っていない。だからこそ余計、孤独感は強くなる。

 ……やっぱり、くるんじゃなかったな。
 少しは気を紛らせるかもしれない。そんなことを考えていたが、実際はどうだ。余計惨めになっただけだ。

 せめて、何か屋台で買って帰ろうか。
 小腹も空いたし……なんて思いながら、周囲の屋台に目を向けたときだった。頬にぽたりと雫が落ちる。
「え?」と、顔を上げたとき、濃い雲に覆われた空からは無数の雨粒が落ちてきた。
 瞬間、先程まで楽しげだった人たちはざわつき始める。雨粒は次第に激しさを増し、浴衣姿の客だけではなく屋台にいた人々も一斉に動き出した。阿鼻叫喚、というほどではないが、一瞬にして楽しげだった空気は壊れた。

 地面には水が溜まり、足元を濡らす。雨宿りしないと、そう思うがどこもたくさんの人で埋まっていて。
 腕で頭を覆うが、雨避けの意味なんて無いに等しい。
 逃げるように神社を出ようと鳥居前へとやってきたときだった。

 ふいに、頭上から注いでいた雨が止んだ。

「天気予報、見ていなかったんですか」

 雨の代わりに落ちてきたのは、聞き憶えのある声だった。
 暑さとは無縁の涼しい声。そこには、制服姿の灘和真が傘を持って立っていた。

「な、灘君……どうして……」
「先程神社へと向かう貴方を見かけたので、気になって後を着けてました。……やはり、傘は持っていなかったようですね」
「……着けてって……」
「一先ず移動しましょう。……そのままでは風邪を引きます」

 そう、灘は俺の手を取った。自分の手が濡れることも構わず、歩き出した。どうして、待ってくれ、言いたいことはあったが、有無を言わせない灘に俺は結局何一つ言えず、その後を追い掛けた。

 一過性だと思っていた豪雨はまだ止まない。
 一先ず、近場の寂れた公園、その屋根の下のベンチに腰を下ろす。水浸しの俺に、灘はタオルを貸してくれた。何処かで買ってきたのか、新品のそれを使うのは憚れたが灘はそんな俺を無視し、俺の頭にそれを掛ける。
「これで、新品ではなくなりましたよ」と、そんなことを言って。

 雨脚が落ち着いたときを狙って学生寮へと戻りましょう。そう灘は提案した。一つしか傘がない今、遠くはないとは言え、びしょ濡れになってしまうことが分かっていただけに俺は灘に同意する。
 借り物の浴衣をこれ以上台無しにするのもあれだ。
 けれど、なんだか灘まで巻き込んでしまい申し訳がなかった。灘一人が傘を差して帰れば問題ない気もしたが、きっと、それを言ったところで灘は意見を変えないだろう。

「……」
「……」

 静まり返った周囲には、雨の叩きつける音だけが響いた。拭っても拭っても雫が落ちる。早く服を着替えたい気持ちも強かった。けれど、それ以上に、何を話したらいいのか分からなくて、意識は灘に向いてばかりで。

「今日は、会長との予定はなくなったのではなかったのでは?」

 沈黙を破ったのは、灘だった。
 どこか鋭利な刃物のような冷たさを帯びたその声に、少しだけ肩が震える。ベンチの側、立っていた灘と目があった。やはり、会長とのことも知っていたのか。
 そう思うと、諦めきれずに一人で縁日に行った姿を灘に見られ、恥ずかしくなる。

「……そう、だったんだけど……せっかくだからって思って、覗いてみたんだ……」

 それで、雨に降られるなんてつくづく笑い話だ。
「結局何もできなかったけどね」と、つい笑いが洩れた。けれど、灘は笑わない。ただ、冷めた目で俺を見るのだ。

 怒ってる、のだろうか。ただでさえ灘の感情は読めないが、なんとなく、灘の雰囲気が硬い。
 俺に呆れてるのだろうか。それも仕方ないと思うが、だとしたら俺なんか放っておいて帰ったらいいのに。

「灘君は、どうして縁日に来ていたの?制服ってことは、生徒会の仕事とか?」

 とにかく、少しでも灘の空気を和らげようと、せめて話を逸らそうとする。
 基本、夏休み中は授業がない生徒を除いて大半の生徒は私服で過ごす。それなのに、制服ということは。

「それが何に関係あるんですか」
「え、えっと……なんとなく、気になって……」
「……言ったはずですが、貴方を見かけた、と」
「あ、うん……」
「着替える暇がなかっただけです」

 そう言って、灘は俺から目を逸した。
 つまり、それってどういうことなのだろうか。着替える時間もなく俺を追い掛けた?……まさか学園から着いてきていたのか?
 だとしたら、尚更びっくりだ。何しろ、全く灘の気配に気づかなかったし。

「……っ……」

 会長から頼まれていたのか、俺の監視を。
 けれど、灘は答えない。この代わりに、こちらを見るのだ。雨の音が強くなる。張り付いた前髪から雫が落ちる。祭り会場とは違い、薄暗い公園の中、灘の暗い瞳がじっとこちらを見ているのに気付いた。
 どうして、そう聞くだけなのに、言葉が出ない。急に緊張して、俺は、言葉を飲んだ。

「……その浴衣、会長に見せるために用意したんですか」

 水を吸い、濃い色へと変色した俺の浴衣に視線を落とす灘。見られてると思うと、恥ずかしくなる。今気付いたが、走ったせいで着付けもぐちゃぐちゃだ。

「っ、そ、れは……」
「……その色、よく似合ってますよ」

 驚いた。灘に褒められると思わなかったから、余計。会長の好きな色と柄を調べ尽くし、選んだそれだったから尚嬉しくて、「本当?」と俺は灘の顔を覗き込んだ。
 そのときだった。灘の手が、顎に触れる。え、と思ったとき、視界が陰った。

 一瞬、理解に遅れた。唇に、柔らかい感触が触れる。雨の音が遠くなる。驚いて、混乱して、それから何をされてるのか理解して、また混乱する。灘の胸を押し返そうとすれば、手首を取られる。抱き寄せられ、酸素を奪うような濃厚なキスをされた。感情を感じさせない灘からは想像できないほどの熱量に、狼狽する。怖くなって、逃げようとするけど、ベンチの背もたれに押し付けられた上半身は動けなくて。

「っ、な、……だ、く……」

 息が苦しくなって、口を開けばまた塞がれる。どうして、なんで、と困惑する脳味噌はすぐに、キスで塗り替えられる。汗なのか、雨なのかすら分からない。頬を濡らすそれを、灘は指で拭った。

「泣くほど嫌でしたか」

 唇を離した灘は、まるで他人事のように口にする。
 嫌、とかそんな次元の問題ではなかった。放心する俺に、灘は空を見上げる。「雨が小振りになってきたみたいですね」と、なんでもなかったかのように。
 遠くからは中断していた祭りが再開したのか、止んでいた祭囃子が聴こえてきた。

「それでは、そろそろ戻りましょうか」

 立ち上がる灘に、俺は、何も答えられなかった。どうすればいいのかも分からなくて、立ち上がろうとしても、腰に力がはいらなくて、ベンチの上、動けないでいるとこちらを振り返った灘は、目を細める。

「どうしました?」

 伸びてくる手に肩を触れられ、緊張で体が震える。焼けるように熱い内部。それは灘に反応するかのように、一気に疼き始めた。

 逃げないと。早く、立ち上がって、帰らないといけないのに。中途半端に掻き乱された体の中心は収まらず、俺の下腹部に目を向けた灘は「そうですか」と、呟いた。

「……そのままでは戻れそうにありませんね」

 浴衣の隙間から割り込んできた指に太腿を撫でられ、声が漏れそうになる。水を含んだ浴衣は重く、動きにくいだけ余計、動きは鈍くなってしまう。

「着付け直し、お手伝いしましょうか」

 薄い唇がそう動いた。
 その黒い眼に見据えられれば身動きが取れなかった。俺には、それを拒む術がなかった。
 夏の暑さのせいにできれば、よかったのだろう。俺も灘もおかしかったのだと、夏のせいにできれば。

 衣擦れの音が響く。雨の後。水分を含んだ土の匂い。
 涼しい風は全身を冷やすどころか一層熱を煽る。濡れたベンチの上、俺は、遠くから聞こえる喧騒を聞いていた。

 灘の肩越しに見る空は、また一雨来そうなどす黒い雨雲に覆われていた。


 END
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